先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5

1取り急ぎ建てたぞ2019/03/20(水) 12:44:09.61
純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。

先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!

1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと

※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る

前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/

2日本@名無史さん2019/03/20(水) 15:45:29.33
庄屋芸人はレス禁止な

3日本@名無史さん2019/03/20(水) 17:25:00.88
ていっても先祖探しするなんて大抵先祖が侍か庄屋ぐらいだろ。

4日本@名無史さん2019/03/20(水) 19:42:22.00
>>3
俺の家は農民だが先祖調べてる
ぜーんぜん楽しくない

5日本@名無史さん2019/03/20(水) 23:17:44.47
>>4農民っても小作人じゃ記録はほとんどないだろうし、自作農なら家系辿っていくと
本家は庄屋だろうしな。庄屋排除はどうなんだろうか?

6日本@名無史さん2019/03/21(木) 05:09:52.36
庄屋基地外はただマウンティングしたいだけだからな
武士を馬鹿にしたり
皆から嫌われて当然だ
百姓の子孫のくせに謙虚さが無い

7日本@名無史さん2019/03/21(木) 07:19:33.04
>>3 から>>6 は庄屋馬鹿の自演?

庄屋馬鹿なんかどうでもいいんだって。とりあげる意味もない。みんなそう思ってる。
だからお前は書き込むな。

8日本@名無史さん2019/03/21(木) 18:05:43.64
江戸時代直前まではわかるが、それよりも前はわからんな。

9日本@名無史さん2019/03/21(木) 18:42:54.73
>>7先祖は武士のみとかに限定したら?農村の頂点たる郷士・名主は農村を調べれば
必然的に登場してしまう

10日本@名無史さん2019/03/21(木) 21:44:08.95
代々伝わる話は幾つかあるけどあまり古い時代の事は判らない

11日本@名無史さん2019/03/22(金) 05:43:38.29
>>9
>農村の頂点たる郷士・名主
ただの農民だよ 

12日本@名無史さん2019/03/22(金) 05:57:11.05

こういうのも自演。だんだんそっちの方へ持って行く、と・・・・w

13日本@名無史さん2019/03/22(金) 06:13:36.20
農家、農民の先祖・・・『神農』?

日本にも伝わっている、渡ってきているの?
話、伝承なども同じでしょ?

凄い上のほうの存在

14日本@名無史さん2019/03/22(金) 06:18:36.31
浦島太郎・・・、
本当は河伯、日本では河童でしょ?

・・・・・・・『神仙界』

15日本@名無史さん2019/03/22(金) 12:15:30.64
今更だか、スレタイに誤植がある。
誤→先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る
正→先祖探しのエピソードを語る但し血族先祖に限る
次からは必ず訂正しておくように。

16日本@名無史さん2019/03/22(金) 12:20:16.39
書き間違い、あるいは誤変換を誤植とは言わないだろ

今更だが>>15 の知能に問題がある。
次からは日本語の分かる人にチェックもらうように

17日本@名無史さん2019/03/22(金) 22:55:38.44
>>15
自分で建てろ!

18日本@名無史さん2019/03/22(金) 23:39:51.12

19日本@名無史さん2019/03/23(土) 01:20:45.31
昔って、子供作りすぎたから貧乏なんて事情ザラにあったのかな?
うちの曾祖父の弟は10人子供がいたんだけど、皆健康に育って幼児死亡がいないの。
結果養えなくて兄である曾祖父が交代で何人かずつ預かって面倒見たらしい。曾祖父は7人子供がいるが半分は早死にした。

20日本@名無史さん2019/03/23(土) 02:40:51.79
>>18
和同開珎あるじゃん
流石に江戸時代に銭として流通してたとも思えんし、ご先祖にコレクターがいたのかな?

21日本@名無史さん2019/03/23(土) 06:39:59.19
偽物だろ?
数百万くらいするんだろ本物は

22日本@名無史さん2019/03/23(土) 09:10:22.75
前スレで書いたが、昔は間引きが当たり前で、産婆が出産直後の子を始末するということが
行われた。しかし明治になると簡単にはできなくなる。
ここに詳しく書かれている。
https://www.nurse.or.jp/nursing/josan/oyakudachi/kanren/sasshi/room/index03.html

「明治時代、近代国家として出発した新政府の富国強兵策や人口・衛生政策によって、
産婆の歴史も大きな転換点を迎えます。
明治元年には、明治政府が太政官布達で産婆規則を布告し、堕胎や売薬の取り扱いを禁止しました。
当時、庶民の暮らしは厳しく、堕胎(だたい)や間引き、捨て子、餓死者は後を絶ちませんでした。
産婆は妊産婦を幇助(ほうじょ)するために、ときに堕胎等を余儀なくされていたのです。
新政府は子どもを”生産力”と捉え、国や家の経済発展のために育児を奨励していくようになります。
明治7年に発布された医政によって、産婆の資格・役割などが規定され、医師と産婆の業務が
法的に区別されていきました。
産婆を教育する方針も示され、西洋医学に基づく本格的な産婆教育が展開されるようになって
いったのも明治時代でした。
明治34年には、産婆の資格が法制上明確にされ、専門職としての土台となる制度が確立されます。」

取上げ婆に金さえ払えば何でも出来たが、国家資格の助産婦さんはそうはいかない。
子堕ろしだの間引きだのが簡単に出来なくなったのは「富国強兵」という国家目的のためだった。
江戸時代末期には三千万人といわれた人口が昭和42年には一億人となる。
100年で三倍に増えたのである。
江戸時代には間引きで無理矢理子どもの数を抑えていたのである。
明治になると子どもの数を抑える手段がなくなり、出来た子は産む他なくなった。
(戦後は優生保護法という抜け道ができたが)。
戦前は子ども五人以上は当たり前、十人の家庭なども珍しくなかった。

23日本@名無史さん2019/03/23(土) 09:17:03.19
代々農家か名門武家、公家以外は江戸以前が辿れないんだから、そもそもこのスレは意味なし。

24日本@名無史さん2019/03/23(土) 09:18:56.97
>>23
お前バカだろ
そんなこと言ったら全てのスレは意味ねえよ

25日本@名無史さん2019/03/23(土) 09:28:07.38
まあ、戦前でも闇で子どもを堕ろしてた医者はいるんだけどね。
医者なら適当な所見で堕胎を正当化できたので。

大原富枝という作家が戦時中の堕胎経験を書いている。
それによると気球法というのが行われたようである。
産道の奥に風船(もちろん普通のより丈夫なやつ)を入れ膨らませる。
何日もかけて少しずつ膨らませていって産道を押し開き、風船を取り出してから
奧の胎児を鉗子で引っ張り出すというもの。

26日本@名無史さん2019/03/23(土) 09:51:49.34
>>24
お前バカだろ
日本史板、「日本」史1400年を辿れそうな見込みもない家系はどうでもいいだろ。
どうやっても江戸以前不明みたいな下賤の家は。

27日本@名無史さん2019/03/23(土) 10:00:04.31
400年程度しか遡れないんじゃ、中世、近世渡来人子孫や強姦なんでら某新井やドナルド・キーンさんが日本史掲示板で私の先祖は?といってるようなもんだしな。

28日本@名無史さん2019/03/23(土) 12:18:18.58
>>25
>何日もかけて少しずつ膨らませていって産道を押し開き、風船を取り出してから

「産道を押し開き」は間違いであった。「子宮口を押し開き」に訂正する。
しかしこれをやっちゃうと子宮口がビロンビロンに伸びて戻らなくなり、本当に子どもが
産みたくなったときに胎児が自然に流れてしまうようになるらしいね。

なお、江戸時代の子堕ろし婆というのは、家に妊婦を引き取って数日かけて堕胎する商売。
もちろん昔は外科的な技術はないから薬を使う。
ホオヅキの煎じ汁などを使ったとか。子宮を強烈に充血させて早産にしてしまうものらしい。
あとは毒草のようなものを煎じて飲ませ、胎児を殺して死産という形で排出させるとか。
とにかく母胎もただでは済まない、悪くすれば死んでしまう危険性がある行為。
だからこういう処置は水商売女が受けさせられるものだった。
さっさと堕ろして商売を続けさせるためで、妊婦の命を何とも思っていなければ出来ないことだった。

江戸時代の人口ピラミッドを作ってみると、性別で明らかに男性の人数が女性の人数を上回っている
時期がほとんどである。
とくに18世紀後半(安永とか天明)には女性は男性の70パーセント程度しかいない。
当時は女性の平均寿命の方が男性より短く(出産の負担のためと思われる)、さらに20歳から30歳の
間に女性の一割は死んでいる(出産時の死亡率の高さによると思われる)。
しかし、それだけでは説明がつかない。
おそらく間引きや子殺しは、多くの場合女児を対象に行われたと思われる。
しかし100年も経った天保の頃になると女子の出生数は男子と同じ程度になる。
明治になると女児は男児に比べて106パーセントほど。
社会生活でも家庭生活でも女性の働きの部分が大きくなったためと思われる。

29日本@名無史さん2019/03/23(土) 12:28:42.05
>>22,25
書かれてたけど、産婆から医者に変わっただけで間引きなんて普通に行なわれていた。
いまでも(?)

30日本@名無史さん2019/03/23(土) 12:38:21.69
>>26
うん、だから真っ先に下級武士と河原者はスレ的には省くべき。

31日本@名無史さん2019/03/23(土) 13:10:35.53
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。

32日本@名無史さん2019/03/23(土) 13:15:22.37
他者を貶めて上から目線じゃないと自尊心を保てないんでしょ。
持てる者は余裕があるから寛容になれる。

33日本@名無史さん2019/03/23(土) 13:41:59.16
>>30
土豪、下層民上がりでも織豊徳川は天下人出してるほどだから、近い流れに限りだったら500年位遡るお手伝いしたらどうか?

34日本@名無史さん2019/03/23(土) 14:46:30.95
>>26
いやいや自分の家系を調べたいだけだろ。意味あるとかないとかアホか

35日本@名無史さん2019/03/23(土) 16:16:30.90
百年前ひい爺さんとか四百年前爺さんとか大差ないだろ。
「日本」人なら1400年前元祖の方が興味あるんじゃないの?

36日本@名無史さん2019/03/23(土) 17:01:29.64
仮に家系が戸籍や系図によって明らかで、代々の先祖が辿れるとしても、だ。

100年前の先祖(家系上の先祖)と自分が血がつながっているかは怪しい。
150年前、明治維新の頃の先祖と血が繋がっているのは非常に稀だろう。
400年前の先祖と血がつながっているなんて絶対無理。

江戸時代、士格や徒格の相続は実子七割、養子三割というのがおおかたの見方。
庶民の場合もほぼ同じだっただろう。
養子の場合、家付き娘や後家に婿を迎えることが多い。
後家というのは死んだ当主の未亡人である。この未亡人に親戚の男などを
娶せるのである。こういう場合、後家が再婚後産んだ子が跡継ぎとなれば、その子は
死んだ当主と血縁関係はほとんどないということになる。
娘に婿をとったが娘が産で死に、その後、婿と親戚の娘を再婚させる場合もある。
この場合も、再婚後に生まれた子は死んだ当主の血筋とは遠い存在である。
娘がおらず、親戚の男の子を養子にして跡継ぎにするというパターンも勿論多い。
名家や家禄の多い家には、男子がいないと主家や上役の家から養子を押しつけられる
ことも多い。この場合は血脈は絶えてしまうわけである。

養子三割となれば、250年を10代で繋いだとして、そのうち三回は養子での承継になる。
明治以降の150年を六代で繋いだとして、そのうち二回は養子での承継である。
400年間に五回も養子での相続をしたら、血縁関係など全く無いか、ほぼ無いに等しいと
いうことになるだろう。

前スレで土佐山内家の相続状況を見たが、側室を何人も持ち、子孫を残すことが仕事のような
大名でも直系では何代も続かない。明治の世を迎えたときは、赤の他人の家のようになって
いるのである。

37日本@名無史さん2019/03/23(土) 22:09:14.51
誰も読まんのに長ーい文章書いて。暇なんだろうなぁ

38日本@名無史さん2019/03/24(日) 06:08:23.29
>>37
誰も読まないと言いながらレスまでつけて・・・・。暇なんだろうなぁ w

39日本@名無史さん2019/03/24(日) 07:00:51.95
蜂須賀家は十一代将軍家斉の息子を養子として押し込まれ、家を乗っ取られた形に
なったのは有名。
しかし、その前から事実上他人の家になっていた。
八代・九代とたてつづけに高松松平家から養子が入る。そのあと佐竹家から養子。
佐竹の血筋が三代続く。徳川家からの養子はその後のこと。

家祖 蜂須賀正勝(小六)

藩祖 家政 ここまでは藩主として数えない。
小六は秀吉が死ぬ12年も前に死んだ。秀吉の四国征伐の後、小六は隠居していたので
長男の家昌が秀吉から阿波18万石をもらった。
家昌は関ヶ原合戦に際し領地を豊臣家に返上して徳川に味方した。
その功により戦後徳川家より新たに阿波25万石を与えられた。
これによって蜂須賀家は晴れて徳川大名になったわけである。
しかし家昌は豊臣家との関係から自分では受けず、息子の至鎮の名で拝領した。
だから蜂須賀家の初代藩主は小六の孫・至鎮とされている。

40つづき2019/03/24(日) 07:01:53.46
1.至鎮

2.忠英

3.光隆

4.綱通× 23歳で死。実子なし。ここで直系断絶。
二代藩主忠英の四男・綱矩を養子にする。綱矩は綱通から見て大叔父にあたる。
→5.綱矩

6.宗員× 28歳で死。次男がいたが幼少のため一族中から宗英を
末期養子に迎え承継。宗英は二代藩主忠英の五男の子。
→7.宗英×  子は娘のみ。隠居して松平大膳家より養子をとる。※

※二代藩主忠英の五男の子。娘しかなく讃岐高松藩一門松平大膳家より養子をとったので、
正勝・家政・至鎮の男系子孫である藩主はこの七代宗英で最後。

−−−−−−−−−−−−−
(隣藩・高松松平家の系統)
8.宗鎮×  隠居して家督を弟(実家の松平家の弟)に譲る。
→9.至央×  藩主となってわずか60日で死。秋田阿竹家より末期養子をとる。

−−−−−−−−−−−−−
(佐竹家の系統)
10.重喜

11.治昭

12.斉昌× 実子なし。十一代将軍家斉の二十二男を養子にする。

41つづき2019/03/24(日) 07:02:33.35
−−−−−−−−−−−−−
(徳川将軍家の系統)
→13.斉裕 ※ 

14.茂韶   明治をむかえる。

※将軍の息子である十三代斉裕は、正室に鷹司政通の娘である鷹司標子を迎えた。
鷹司政通は東山天皇の男系四世の子孫である。その父親の政煕は藤原氏の氏の長者で関白。
徳川将軍家の息子と関白鷹司家の娘の子なのだから十四代茂韶は大名中最高の血筋と
いっても過言でなかった。

現在の当主は昭和17年生まれの女性。19代目にあたるが、結婚しておらず子供もない。
養子をとって継がせる気持ちもないという。蜂須賀家は絶家となることが確定している。
当主である女性が絶家を選択したのは分かるような気がする。
蜂須賀家といっても、当主本人は一滴も血を受け継いでいないのである。
蜂須賀家も宗家でなければ血脈を継いだ子孫はいるのだから、そうした人々が後嗣を絶やさぬ
ようにしていけばよい。
当主の先祖は徳川将軍家斉の二十二男斉裕であり、自分は徳川将軍家の血筋であるが、
徳川将軍家は現在も続いており、御三家もそれぞれ健在である。
徳川家の関係でもとくに自分が系統を伝える必要もないと考えたのだろう。

42日本@名無史さん2019/03/24(日) 10:01:56.23
字数が多い人って暇なの?

43日本@名無史さん2019/03/24(日) 10:24:07.28
君みたいな一本指打法ではないと思ふ

44日本@名無史さん2019/03/24(日) 14:17:29.44
そして蜂須賀家は、出自どおりに任侠により財産奪われる。
家風としての因果応報を地でいった典型的下克上大名

45日本@名無史さん2019/03/24(日) 17:48:56.78
>>41
興味深く読んだ。断絶確定、しそうな名門最近よく聞くけど 徳川慶喜家とかあちこち

46日本@名無史さん2019/03/24(日) 22:58:53.03
藤堂家はかなり前に絶家したそうだね。

十数年前まで、おしろいを真っ白に塗ったお婆さんがいたそうだが、
その人でお終いだったみたい。
傍系の子孫はいるだろうけどさ

47日本@名無史さん2019/03/25(月) 05:02:11.52
某大河ドラマの主人公の分家のほうも断絶みたいなもんだね

48日本@名無史さん2019/03/25(月) 14:14:50.73
>>46
kwsk

49日本@名無史さん2019/03/25(月) 14:26:50.26
http://gos.but.jp/intnd.htm

「墓地に堅牢な塀を巡らして施錠している家は、私が知る限り、家系を粉飾している家が多い印象があります。
・・・
盗んだ墓は偽系図以上に見破るのは簡単ですが、お墓も盗難に遭うことも考えて、墓地も時々写真を撮って
記録しておくことくらいは必要かも知れません。盗まれる墓は江戸初期の無銘の墓ばかりです。
何も彫られていないから、これは我が家のものと転用がし易いのです。情報が伏せられていると書き換えられる
という系図の場合と同じです。」

古い墓って盗まれちゃうことがあるんだね。
盗むというより、この墓は無縁だしちょこっと敷地を使わせてもらおう、とかやってるうちに
いつのまにか自分の家の墓になってしまうんだろうね。
代が代われば、うちの墓に何やら訳のわからない古い墓石が積んである。失礼な話だ。
きちんと始末しないとご先祖様に申し訳ないとか言って捨ててしまうとか。
今の墓地ではなかなか無いだろうが、昔はいくらでもあったんだろう

50日本@名無史さん2019/03/25(月) 16:14:59.89
>>41
現在の徳川家
宗家→次期当主に跡継ぎなし
尾張家→鍋島の血筋の人が養子になったのは良いにしても、跡継ぎがどうなるか
紀州家→半分断絶してるようなもの
水戸家→まだ大丈夫
慶喜家→一昨年断絶

御三卿もほとんどが途絶えそうな状態

51日本@名無史さん2019/03/25(月) 17:29:18.53
馬鹿だよ
お前みたいな犬猫の類が心配することないってw

徳川宗家は当主が健在で息子がまだ50代。これからだって何とかなる。
尾張も紀州も水戸も問題なし。

徳川公爵家(慶喜の家)は徳川家とは関係ない。慶喜は家督を田安家の当主に譲り、
別家を立てたが、その家の宗教は皇室に配慮して神道とした。
墓は家代々の墓でなく公立の墓地を選んだ。
祖先を祀ることは一切していないのだ。
もともとは水戸家だが将軍家に養子に入ったときに関係は絶えた。
だから宗家とも水戸家とも何の関係もない。

52日本@名無史さん2019/03/25(月) 18:25:42.77
>>51
一つ一つ流れと関係ない的外れなこと書いてて笑うw
この方、相当頭が悪いらしい

53日本@名無史さん2019/03/25(月) 19:51:05.91
>>52
犬や猫の類に口なし
覚えておくんだな家畜

54日本@名無史さん2019/03/25(月) 20:30:42.08
>>53
なんかムカつくなコイツ
仏罰当たって死ね!
南無妙法蓮華経

55日本@名無史さん2019/03/25(月) 20:41:37.41
>>51
お前バカなの?
次期当主が50代だからどうにかなるっていのはまずよくわからん。
徳川公爵家(慶喜の家)は徳川家とは関係ない。
ちょっと何を言ってるのかわからない。
尾張も紀州も水戸も問題なし。
紀州家は当代で断絶が確定してるし、
墓は家代々の墓でなく公立の墓地を選んだ。
祖先を祀ることは一切していないのだ。
神道云々は慶喜個人の墓の話で、慶喜家が神道となったわけではないんだか。アホなの?
最後の養子云々の話はもう意味不明。

56日本@名無史さん2019/03/25(月) 21:15:42.86
>>55

お前、詩人か?w
何が書いてあるのか分からない。
ひとりよがりにいい加減なこと書いてちゃ駄目だよ。

少しだけ分かるのは、お前が徳川宗家の断絶が心配で仕方ないらしいこと。
それなら徳川さんの家に行って「お宅は跡継ぎが50歳越えてるらしいが、ダイジョブですか。
そろそろ何とかしなさい。お家が絶えますよ。」と言って来いボケ

57日本@名無史さん2019/03/25(月) 22:30:50.39
>>56
>>ひとりよがりにいい加減なこと書いてちゃ駄目だよ。
自分で自覚があるんなら直せ

まず、事実誤認しまくってるので訂正してるだけなんだか?
何書いてあるのかわからないのはお前が読解力のない馬鹿なだけ
>>55のどこをどう読んで徳川宗家の断絶が心配で仕方がないと読み取ったのか知らんが、こちらは明らかな事実を提示したまで

58日本@名無史さん2019/03/25(月) 22:49:15.84
50代の跡継ぎのおっさんがこれから頑張って子をつくるのか、養子をとるのか、
子をつくらず養子もとらず絶家になるのか、なんて誰にも分からないだろ。

>次期当主が50代だからどうにかなるっていのはまずよくわからん。

どうにかなるかも知れないしならないかも知れない。しかし、そんなこと当事者でもない
他人が議論してたって仕方ないだろ。
お前は50過ぎじゃもう駄目だ、徳川宗家は絶家確実と思ってるのだろうが、お前みたいな犬猫が
他家のことまで心配しなくていいんだよ。勝手に決めるな。てめえの心配してろボケ

>神道云々は慶喜個人の墓の話で、慶喜家が神道となったわけではないんだか。アホなの?

当主が神道を選択すればその家は神道だろ。慶喜が初代の家で初代当主の慶喜が神道と
したんだから神道の家だよ。
あと、慶喜の公爵家は徳川一門ではない。
慶喜は自ら徳川との関係を一切絶ち、謹慎状態のまま生涯を終えたのだ。
事実を提示したまでとか嘘言うな。自分の考えを言ってるだけじゃないか。
犬猫の考えなんか聞かされたって困るんだよ、徳川さんもこのスレの住民も。
いい加減にしろ糞が

59日本@名無史さん2019/03/25(月) 23:31:31.66
>>58
最初に言っておくが徳川宗家の相続についてはもちろん関係ないから、
養子を迎えて継がせようが、絶やそうが自分の関知するところではないからそこは別にいい。
>>当主が神道を選択すればその家は神道だろ。慶喜が初代の家で初代当主の慶喜が神道と
したんだから神道の家だよ。
上でも言ったが、あくまで慶喜個人の墓を神道式にしたというだけであって、
家が神道となった訳ではないと何度言えばわかるんだ。
ついでに言っておくが、慶喜は晩年息子の慶久に家督を譲って隠居してるので当主でもない。
>>あと、慶喜の公爵家は徳川一門ではない。
慶喜は自ら徳川との関係を一切絶ち、謹慎状態のまま生涯を終えたのだ。
完全な事実誤認。何を根拠に徳川一門ではないとさっきから喚いているのか。
一生謹慎状態のまま生涯を終えた公爵ですか?凄いですね。理論崩壊してるの気づいてる?
慶喜は娘たちを徳川宗家の家達の元へ預けて養育して東京の学校に通わせていたのに何言ってんの?
慶喜の謹慎自体も明治2年に明治天皇によって解かれ、さらに公爵に授爵されているため、
一生謹慎状態のまま生涯は終えてないし、趣味三昧で遊んで暮らして生涯を終えてる。
>>自分の考えを言ってるだけじゃないか。
自己紹介してるの?

60日本@名無史さん2019/03/25(月) 23:55:01.09
議論が見事に大人と子供だなw
公開処刑なみに論破されててちょっと可哀想

61日本@名無史さん2019/03/26(火) 00:10:57.45
>>58
横からだけと君なんかおかしいよ大丈夫?
周りから思いこみが激しいねって言われない?

62日本@名無史さん2019/03/26(火) 05:44:48.09
徳川家も由緒ある家ではなく、三河の松平郷に流れ着いた坊主が始祖だと言われているからな
成り上がり系の家だから、どうでも良いだろ
豊臣家と同じように新興の家だよ 長い目で見れば

63日本@名無史さん2019/03/26(火) 06:23:24.17
>>59
>養子を迎えて継がせようが、絶やそうが自分の関知するところではないからそこは別にいい。

当たり前だ。現に50代の生きのいい跡継ぎがいるんだから「お家御安泰で祝着至極でございます」と
言ってりゃいいんだよ。
それを、お前みたいな犬猫が存続の危機みたいな生意気なこと言うから噛みつかれる。

>上でも言ったが、あくまで慶喜個人の墓を神道式にしたというだけであって、
>家が神道となった訳ではないと何度言えばわかるんだ。

なんで思いこみでこういう出鱈目言うかな。
谷中の饅頭型の墓地には正室もお妾さんたちも入ってるじゃないか。
同じ敷地内に慶久さんやその家族の墓もある。もちろん饅頭型神道式。
これでなんで「慶喜個人の墓を神道式にしたというだけであって」ということになるの?

>ついでに言っておくが、慶喜は晩年息子の慶久に家督を譲って隠居してるので当主でもない。

形式的には当主でないかも知れないが死ぬ何日か前までぴんぴんしてたんだから実質当主だろ。
隠居したからって口を出せなくなるわけじゃない。慶喜は九男が男爵を受爵した際も宮中に参内しており、
公的にも家の主としての立場は保持していた。
そもそも隠居したのも息子のためだ。後でも触れるが、慶喜は晩年は息子の出世しか頭になかった。
そのために以前に増して皇室に迎合的であった。

64つづき2019/03/26(火) 06:27:40.52
>一生謹慎状態のまま生涯を終えた公爵ですか?凄いですね。理論崩壊してるの気づいてる?

慶喜は謹慎して皇室に対し恭順の態度をとり続けた。一生だ。天皇より謹慎を解かれても公務に携わらず、
静岡に引っ込んだままで、旧幕臣が訪ねてきてもほとんど会わなかった。
そして写真にこったり、銀製の飯盒で自分でご飯を炊いてみたり、屋敷の周りで鉄砲を撃ったりと遊び暮らした
のは有名。これは謹慎の態度以外の何物でもなかろーが。
慶喜は何やら自分が殺されるのではないかという強迫観念を抱いていたらしい。
夜側室たちと寝るときの寝方などにそういう気配が感じられる。(どういう寝方をしたかは自分で調べろ)
明治30年にようやく東京に戻る。翌年皇居(もとの自分の城)で天皇に拝謁するという屈辱的なことも平気で
やっている。東京に戻り、拝謁をやったから爵位が貰えた。東京に戻ったのは息子のためだ。
(もちろん一番の理由はもう帰っても大丈夫と思ったからだろうが)。
要請されるままに貴族院議員もやった。貴族院議員は息子の慶久に引き継がれる。尻尾振りまくりであった。
慶喜にとって公爵という爵位を賜ったのは何よりも嬉しいことだったらしい。爵位は家に与えられるもので、
息子や子々孫々までの安泰が約束されることだったからだ(現在は憲法に規定されているとおり栄典の授与は
一代限り)。爵位授与に感謝し、それにとどまらず、さらに天皇への恭順の意を表するため神道への
宗旨替えを申し出たのだ。徳川慶喜公爵家の創設を許されたが、この公爵家(慶喜家)は天皇家に忠誠を
尽くしまするという証しのためであった。

65つづき2019/03/26(火) 06:28:57.07
家代々の信仰を捨て、一種の天皇教ともいえる神道に宗旨を変えたのはいかにもこの人物らしい思い切りである。
鳥羽伏見の戦いにあたり、大阪城で指揮官の立場にあったにもかかわらずまさかの敵前逃亡。さっさと船で
江戸に帰ってきてしまった、そういう身代わりの早さを感じさせる。
肺炎で死んだのだが、なんで肺炎になったかというと、九男誠の男爵受爵をむやみに喜び、そのお礼を進上する
ため宮中に参内したのが原因。風邪を引いているのに、こちらから申し出た参内を中止することはできないと
無理をして急性肺炎になってしまった。天皇家に対し媚びへつらうこと尋常でなかった。
何だか落ち着きがなく、一生バタバタしてたような人物であった。

>何を根拠に徳川一門ではないとさっきから喚いているのか。

分かってないな〜。慶喜は上野寛永寺で謹慎し隠居した。徳川将軍家の当主の地位は田安家の家達が継いだ。
この徳川宗家は明治17年に公爵を受爵している。
隠居したからといって徳川家との縁が切れるわけではないが、慶喜はさらに大政奉還の功を以て受爵したのだ。
宗家はもう公爵なのだから、慶喜が爵位を受けるにはさらに別家を立てる必要がある。
そのために別家を立て、この家に爵位を頂戴したのだ。
そしてこの家の宗旨を神道とした。もはや祖先の祭祀は行わないとの意思表示でもある。
実質的に先祖との縁を切ったのだ。
普通はここまでやらない。慶喜という転変きわまりない男だからこういうことがやれたのだ。
娘を家達のところから女子学習院に通わせたなどというのは表面的なことだ。
こういう些末なことではなく、物事は構造的に捉えないといけない。
教育を受けていない人が知識を得ると逆に本質が見えなくなる。表面的な知識に固執し頑迷になる。
あなたはその典型。
>>60 >>61 なんか自演丸出しじゃないか。なんだか哀れだな、、

66ていせい2019/03/26(火) 06:49:14.71
>そういう身代わりの早さを感じさせる。 ×

そういう変わり身の早さを感じさせる。 ○

67日本@名無史さん2019/03/26(火) 07:11:31.15

スレタイの読めないバカさっそうと登場

68日本@名無史さん2019/03/26(火) 07:30:03.02
>>65
そんな長文を朝から連投してお前はなんなの?
暇人なの?
必死んなってネットの情報でも漁ってたのかな?
長すぎてマジで読む気が起きないし、もういちいち訂正を突っ込む気も起きないからもういいよ。
長いの連投したって誰も読まないからな。
あと自演するくらい暇じゃないから上のレスやらは当たり前だか無関係。

69日本@名無史さん2019/03/26(火) 07:55:54.91
>>68
自演おつ
バレないとでも思ってんのかね

70日本@名無史さん2019/03/26(火) 08:19:21.77
>>68
俺は議論なんかする気はなかった。
お前が絡んできたんじゃないか。

慶喜は徳川宗家(家達)に養われていた。そりゃそうだろ。家達は慶喜の養子なんだから。
形式的には親子。
静岡での道楽生活は宗家のお陰で成りたっていたのだ。
だが何かの拍子にいつ援助を切られるか分からない。
慶喜の生活は不安定であった。だから慶喜は金銭の出納には几帳面であった。
小さな出費でも帳面につける習慣があった。
だが、こういう金の管理の仕方は自分一人のものでしかない。子だくさんだったので、
子どもが大きくなってくるとその将来が心配になった。
自分亡き後、子どもたちまで宗家が面倒をみてくれるとは限らない。
だから東京へ出てきて天皇に謁見したり、子どもたちの道をつける努力を始めた。
公爵にしてもらえたのは望外の喜びであった。
公爵は華族の中でも最高の地位であり、華族は国家で養われる。潤沢な賄い金が
給付された。華族は豪奢や屋敷に住み、別荘を持つのが普通であった。
華族の子弟は無試験で京都大学に進める等の特権もあった。
これまでは実家である徳川宗家に養われる身分であったのが、宗家と同じ公爵になり、
子々孫々まで豪奢な暮らしが約束されたのである。
慶喜が天皇に感謝すること甚大であった。
 

71つづき2019/03/26(火) 08:20:21.12
たしかに、初老の人間が、これからあなたに年金を差し上げましょう。月に500万円です、
とか言われたら喜ぶだろう。さらに、この年金はあなた一代ではなく、子々孫々に支払われます、
なんて言われたら喜ぶどころの騒ぎではないだろう。
慶喜にはそういうことが起きたのである。
その喜びと感謝の表し方が神道への宗旨替えであった。
一方、宗家への態度は全く変わった。日記に家達のことを書くのでも、以前は「殿様」として
いたのが、「千駄ヶ谷」などと住まいの場所で言うようになった。

九男の誠に男爵が授位されたときもひとかたならぬ喜びようであった。
だから何としてもお礼に参上したく、無理をして肺炎になったのである。

慶喜に関して言えば、慶喜の心の動きまで分からないと、真に歴史を理解したとはいえない。
浅はかな知識で突っ込みをやり、やばくなると自演したり、相手を暇だと罵倒したり。
それじゃ悲しすぎるだろ。相手をしてもらえたんだから感謝しなくちゃ。
慶喜みたいな変節漢になってしまうよ。

72日本@名無史さん2019/03/26(火) 10:27:19.84
庄屋基地外の次は、徳川基地外か
どうしようもないな
マウンティングとりたいだけの基地外は

73つづき2019/03/26(火) 10:50:26.83
↑ アスペルガーチョン  低学歴バレバレ(^。^)y-.。o○
お前は半島の歴史でもやってれ

74日本@名無史さん2019/03/26(火) 11:25:36.59
徳川家って確実なのは松平信光から?

75日本@名無史さん2019/03/26(火) 11:30:49.40
>>71
空気を読めない馬鹿丸出しのクソ長い講釈は終わった?
まだ他にもなんか言いたいことある?
長文連投されると読む気が起きないから質問なら手短にかつ理論的にお願いね。

76日本@名無史さん2019/03/26(火) 11:49:15.27
このクソ長い文章の連続は何なんだ!読む奴いるのか?

77日本@名無史さん2019/03/26(火) 18:13:51.76
神武陵を参拝=退位を報告 

天皇一族の家祖・神武天皇陵に参る天皇陛下
http://or2.mobi/data/img/231729.jpg

78日本@名無史さん2019/03/26(火) 23:19:09.86
慶喜の父の斉昭が廃仏毀釈に積極的で、神道への親和性が高い人だったから、慶喜もそうしたのかなと思う。
そもそも水戸徳川家の墓所は神道色が強め。

79日本@名無史さん2019/03/26(火) 23:42:05.53
神道色っつーか儒教色だろ

80日本@名無史さん2019/03/27(水) 01:45:59.72
> 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。

81源藏人2019/03/27(水) 06:47:34.88
先祖を知ってると言っても、一から百まで先祖の名前を知ってる子孫もいれば、戦国時代の戦火などの理由で消失して戦国時代からの先祖の名前しか分からない子孫もいる。
先祖は辿れば扇状に広がるが、日本人の中で、先祖の名前を一から百まで知ってる人は、そうそういないだろう。
ましてや男系の血筋に限った場合、先祖の名前を一から百まで知ってる子孫はどれ程いるのだろうか?

82源藏人2019/03/27(水) 07:28:02.03
幸いにもワイの場合は、男系の血筋に限る先祖の名前を一から百まで知ってる。
今数えてみたらワイは清和天皇から37世だった。男系の血筋で先祖を数えた場合だ。
清和天皇から神武天皇まで、男系の血筋で辿ると、何世あるんだろう?
また、神武天皇から国常立尊(天之御中主神)までは、何世あるんだろう?

83源藏人2019/03/27(水) 07:38:05.57
清和天皇から神武天皇までの男系の辿り方は皇統譜見ればすぐに分かるからいいとして、
問題は神武天皇から国常立尊までの男系の辿り方なんだよな。
神武天皇、ウガヤフキアエズ、山幸彦、ニニギ、アメノオシホミミ、と続いて、
アメノオシホミミの父親はどっち?という議論があると思う
俺は、アメノオシホミミの父親はスサノオだと思う
本朝皇胤紹運録には、アメノオシホミミの父はスサノオとある
スサノオの父親がイザナギ
神武天皇からイザナギまでは分かった
次にイザナギから国常立尊までの男系を辿ろう!

84源藏人2019/03/27(水) 07:46:33.81
その前に、藤原氏と天皇家の繋がりを説明しよう。
天皇家と藤原氏は男系の先祖を辿ると天之御中主神で繋がっている。
尊卑分脈の藤原氏系図では、藤原氏の先祖を辿ると、最終的には天之御中主神まで辿れる。
尊卑分脈の藤原氏系図の天之御中主神の所に、国常立尊の別名と但し書きが書いてある。
本朝皇胤紹運録の天皇家の系図では、天皇家は国常立尊まで辿れる。
これによって、天皇家と藤原氏は国常立尊(天御中主神)で先祖が繋がる。

85源藏人2019/03/27(水) 08:11:47.85
これまでは、尊卑分脈や本朝皇胤紹運録を根拠に説明した。

では、イザナギから国常立尊までの男系の辿り方はどうすればいいのだろう?

本朝皇胤紹運録の天皇家の系図には、イザナギから国常立尊まで、2系統の系譜を記載しているのはご存知だろうか?

国常立尊、国狭槌尊、豊雲野神、埿土煮尊、大戸之道尊、面足尊、伊奘諾尊、
という系図の他に、
国常立尊、天鏡尊、天萬尊、沫蕩尊、伊奘諾尊、とある。

実は、国常立尊から伊奘諾尊までの父子関係を記してるのは、日本書紀に書かれてある、

国常立尊

天鏡尊(あまのかがみのみこと)
国常立尊の子。

天万尊(あめよろずのみこと)
天鏡尊の子。

沫蕩尊(あわなぎのみこと)
天万尊の子。

伊弉諾尊
沫蕩尊の子。

の部分くらいしか無いのだ!

国常立尊、国狭槌尊、豊雲野神、埿土煮尊、大戸之道尊、面足尊、伊奘諾尊、の系図は、実は父子関係、親子関係を述べているところを探しても見つからない。

唯一、国常立尊、天鏡尊、天萬尊、沫蕩尊、伊奘諾尊、の親子関係、父子関係しか見当たらなかった。

86源藏人2019/03/27(水) 08:20:51.71
国常立尊─天鏡尊─天萬尊─沫蕩尊─伊弉諾尊─素戔男尊─正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊─瓊瓊杵尊─彦火火出見尊─彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊─神武天皇

つまり、これが国常立尊から神武天皇までの男系の血筋の系図である。

87源藏人2019/03/27(水) 08:36:39.34
もう一つ、おさえておきたいのが、実は
今と神代の時代の昔って夫婦制度が同じだったんだよな。って事に気づくはず。
神代の時代も、今の時代も、一夫多妻ではなくら一夫一妻だったんだよな。

88源藏人2019/03/27(水) 08:42:57.71
古事記には神世七代は性別を記してないが、正史の方である日本書紀では神世七代は性別が
記してあって一夫一妻だ。
ちなみに日本書紀は陰陽で説明してるから、俺は陰陽も勉強した。

89日本@名無史さん2019/03/27(水) 10:54:22.57
>>75
アスペルガーってのは長文が嫌いらしい。
パッと見て分からないと不安感に襲われるらしい。
アスペルガーの人は映画も好き嫌いが激しい。
登場人物が善人だか悪人だか分からないミステリーみたいのはすごく嫌う。
登場人物が好き同士なのに悪口を言い合うみたいなラブロマンスも受け付けない。
女は男のことを嫌いだと言ったのに何故キスをしているのか理解できない。

それと、気持ちが不安定なので常に自演する。

ここにはアスペルガーの典型的症例の人がいるようだ。

>>78
水戸家の墓は儒教一色だ。葬儀も儒式。
「神道色が強め」なんてどこから出てくる?

90日本@名無史さん2019/03/27(水) 16:10:46.30
なんの動きもないところ見ると長文連投馬鹿は逃亡したのか?

91日本@名無史さん2019/03/27(水) 16:24:38.89
源蔵人くん。ここは先祖探しのエピソードを語るスレだぞ
関係ないことは話さないように。

92日本@名無史さん2019/03/27(水) 16:26:24.28
>>91
源蔵人は、荒らしやぞw
たまに、このスレに現れるw
無視しておくのが、得策w

93日本@名無史さん2019/03/28(木) 09:55:19.85
>>75 >>76
内容的に反論しなきゃ駄目だろ

出来ないなら引っ込んでな 負け犬爺イ (藁 藁 藁

94日本@名無史さん2019/03/29(金) 03:15:43.24
マウンティングしたいだけの基地は去れ

95日本@名無史さん2019/03/29(金) 10:54:38.66
犬猫にマウンティングする奴はいないと思うけどw

96日本@名無史さん2019/03/29(金) 12:26:15.65
江戸時代の通婚圏の研究をした学者がいるんだが、貧しい村は通婚圏が狭く、
豊かな村は通婚圏が広いんだそうだ。
早い話、貧しい村だと嫁さんは隣村とか近場からしか来ない。
豊かな村だと遠いところからも嫁が来る。これは婿取りにしても同じ。

さらに貧しい村だと隣村からすら来ない。自村内での嫁取り・婿取りばかりになる。
こうなるとイトコ・ハトコ婚なんか有りまくり。

欧米ではイトコ婚は認めらず、日本ではイトコ同士でも結婚できるというと驚かれるという。
日本でイトコ婚が認められるのは、貧しい山中の村などでは近親婚にならざるを
得なかったという社会的背景もあるのかも知れない。

自村内で血族結婚に踏み切った村などを除き、普通の村では通婚圏はほぼ三里内という。
三里というと12キロ。朝出て日帰りができる距離である。

近交弱勢といって、血が近くなると様々な悪影響が現れる。乳幼児の死亡率なんかも高く
なるらしい。明治初期の日本人が非常に小さかったのは江戸期に近親婚が多かったせいだ
という人もいる。
その後あちこちの出身者が混じり合って結婚したことが日本人の背が伸びた一因だそうだ。
一種の雑種強勢というか。

97日本@名無史さん2019/03/29(金) 12:32:54.23
>>96
欧米っていうけど、欧州では認められてるし、叔父姪、叔母甥での結婚が認められてる国もある。
むしろ米国が少数派だよ

98日本@名無史さん2019/03/29(金) 12:36:07.57
欧米ではイトコ婚は認められず、、、、なんて書いたからまた突っ込みを入れてくる池沼がいるな。
「一般に欧米では否定的」と訂正しておこう。昔に遡ると、ヨーロッパでは王族の婚姻にイトコ婚なんか
けっこうあったしな。アメリカでは州によって違い、法的に禁止していない州もある。
あー、めんどくさいわ。
ともかく昔の日本ではイトコ同士の結婚は奇異なものでも何でもなかった。

99日本@名無史さん2019/03/29(金) 12:37:11.50
すでに遅かりし。
>>97 みたいな馬鹿は必ず現れる(爆

100日本@名無史さん2019/03/29(金) 12:39:40.55
>>99
ごめんな

101日本@名無史さん2019/03/29(金) 13:12:30.49
え?むしろ本当は許されてるものを許されていないのが多数派見たいに書いてる方が頭おかしいだろ。

102日本@名無史さん2019/03/29(金) 18:41:10.79
ここで嫌がられる庄屋の家系だが・・・成り上がり系の家と婚姻すると、その伝を辿って次から次へと我が親戚と婚姻を重ねようとする傾向があるよ。だから、一度親戚になると次から次へと親戚が増えるが同じ系統の家

103日本@名無史さん2019/03/29(金) 18:41:32.84
ここで嫌がられる庄屋の家系だが・・・成り上がり系の家と婚姻すると、その伝を辿って次から次へと我が親戚と婚姻を重ねようとする傾向があるよ。だから、一度親戚になると次から次へと親戚が増えるが同じ系統の家

104日本@名無史さん2019/03/29(金) 18:49:16.11
>>101
また出た犬猫w

血が近い同士の結婚は望ましくないというのは人類が昔から気づいていたこと。
しかしヨーロッパの王族同士とか古代日本の天皇家とか、血の希少性や純血性の価値が
優先された場合もある。庶民でも子孫を絶やさないため、或いは家の便宜のため容認されて
きた歴史があるということだ。
イトコ同士程度なら弊害が顕著には見られないということも立法の理由にはなる。

しかし、血族結婚は本当は望ましくない、本当はやめた方がいいというのは間違いないことだよ。
これは普遍的な真理だ。

>え?むしろ本当は許されてるものを許されていないのが多数派見たいに書いてる方が頭おかしいだろ。

お前は頭がおかしい。

105日本@名無史さん2019/03/29(金) 20:36:53.50
こわいこわい

106日本@名無史さん2019/03/29(金) 22:10:12.46
>>96
逆、大地主の庄屋あたりが一族外へ財産流出防ぐためイトコ婚。

107日本@名無史さん2019/03/29(金) 22:21:22.26
身分や財力が高い方が近親婚になりがちだよね。

108日本@名無史さん2019/03/30(土) 01:56:25.04
>>102
庄屋=農民なんだから、それで十分だろ
成り上がりがどうのこうのと言える家系じゃ無いよ 庄屋なんて

109日本@名無史さん2019/03/30(土) 07:55:24.06
>>106
嫁取り婿取りすると何で財産流出するんだボケw
そもそも金持ちがイトコ婚なんて沁みったれた事するわけないだろ
世の中にいい女はいくらでもいるのに、何でわざわざ親戚の娘と結婚するんだよ。
そもそも、血族結婚を何代も続けたらどういうことになるんだ?
お前の家みたいに池沼だの片輪続出になってしまうわ。

名主・庄屋階級は、今日でいう社会事業を広く手がけている例が多い。
庄内の本間家の防風林づくりとか有名。
藩にも幾たびも献金してその窮状を救っている。
伊能忠敬は佐倉の商人で名主であったが、五十歳で隠居して基礎的な学問の修得から
始め、全国を測量して日本地図を作り上げた。最初の蝦夷地測量の費用は全額負担。
その後、幕府御用となったがそれでも費用の大部分を負担した。
各地の堤防への松や桜の植栽は地元の名主階級の負担で行われたものが多い。
作家・有吉佐和子の母方の実家は紀州の大庄屋で、先祖は溜め池造りに励んだという。
お前が考えるようなこととはレベルが違うのだ。
財産流出が怖くて血族結婚なんて、どこまでケチな発想してんだ。
少しは恥を知れ鼻糞

110日本@名無史さん2019/03/30(土) 07:56:39.37
>>107
君には近親婚どころか結婚しないで側室たちと遊び暮らした殿様を紹介しよう。
紀州徳川家第六代藩主徳川宗直。
藩主でありながら生涯正室を持たず、側室を11人もかかえて16人の子を作った。
妻なんぞ面倒くさい、いらない、と言って気に入りの女たちに取り巻かれて暮らした。
出来た子どもは享楽の結果に過ぎないが、それを有効に利用した。
息女はみんないいところに嫁いだぞ。
伊達家や細川家、池田家、丹羽家、常陸府中松平家、高松松平家など

身分の高い人たちはだな、みんな少しでも有力な係累を作って勢力を伸ばそうと
努力していたのだ。財産が流出するから嫁取り婿取りは身内でやろうなんて
考えるかよ。馬鹿としか言いようがない。

111日本@名無史さん2019/03/30(土) 08:25:16.10
>110
>少しでも有力な係累を作って勢力を伸ばそう

時代、藩主レベル同士の子息や子女の婚姻はありふれてるけど
係累を作ったとしても勢力というか具体的な成果はないですよ
江戸幕府は将軍家直属の大目附を配置し
幕政維持の最重要事項でもあり全国の藩を監察組織であり
全国の藩主同士の繋がりは監視が非情に厳格だったから
譜代大名や親藩に至るまで係累を作っても何の意味も持たなかったんですけど

112日本@名無史さん2019/03/30(土) 08:28:07.45
>>110
>少しでも有力な係累を作って勢力を伸ばそう

江戸時代、藩主レベル同士の子息や子女の婚姻はありふれてるけど
係累を作ったとしても勢力というか具体的な成果はないですよ
江戸幕府は将軍家直属の大目附を配置し
幕政維持の最重要事項で全国の藩を監察組織であり
全国の藩主同士の繋がりは監視が非情に厳格だったから
譜代大名や親藩に至るまで係累を作っても何の意味も持たなかったんですけど

113日本@名無史さん2019/03/30(土) 08:50:28.71
何でお前は二回ずつ書き込むんだ。スレ資源を無駄にすんなチンカスが

114日本@名無史さん2019/03/30(土) 08:52:22.40
うちの父方の先祖親戚は近親婚ばっかりで家系図がとんでもなくややこしいわw

115日本@名無史さん2019/03/30(土) 11:35:00.15
近親婚の代名詞といえばハプスブルク家。
しかし近親婚の影響で断絶したのはエスパーニャ・アブスブルゴ家で1700年にカルロス2世の崩御によって断絶。
スペイン継承戦争が勃発し、最終的にブルボン家のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世)がスペイン王に即位、幾度かの革命と王政復古を経て今に至る。
一方、オーストリアの近親婚はスペインよりマシだったが、カール6世が男子に恵まれずマリア・テレジアが後継者となり、ハプスブルク家を相続するがオーストリア継承戦争が勃発。
最終的にマリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ・シュテファンの皇帝即位が認められ、彼女の子孫がハプスブルク家として現代まで続いている。

116日本@名無史さん2019/03/30(土) 15:54:27.96
近衛尚嗣-基熙-家熙のラインなんてもろに近親婚だし

117日本@名無史さん2019/03/30(土) 15:58:59.43
池田小学事件 宅間

>>宅間の家系・家族とその環境
宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[8]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた。

118日本@名無史さん2019/03/30(土) 20:50:31.72
>>112
有力な係累を作って勢力を伸ばそうと言ったって、お前が言うような、親戚に
なった大名と組んで勢威を張ろうというようなことではない。
戦国時代じゃないんだから。そんなことしたら返って存立が危うくなるわ。
馬鹿なこと言うんじゃない
創設以来幕府の大名統制は婚姻政策を中心としていた。
外様大名には譜代の大名家から養子や室を入れる。徳川一門からも、そして
将軍家からも入れる。そういう政策が採られている中で、御三家の一員が
16人も子を作り、いくつもの有力大名に押し込むことに成功したとあれば
これは功績だろうが。高得点を取ったということだよ。
それに嫁入りや養子になると気の利いた家臣が付いて行く。
これは行った先の大名家の家臣になるのであり、送り出した側からいうと
リストラにもなり、また勢力拡張でもあるのだ。
送り出された家臣は先方では今までより良い地位に就けるのは間違いない。
他社に自社社員を送り込んで系列下する現代の企業の手法に似ていると
言えなくもない。

>>115
ヨーロッパの王族は人間というより人形のような扱いだった。
結婚して初夜の床には立会人が付き、結合すると大声で告知された。
カーテンで覆われたベッドの周りや次の間では、貴族たちが拍手した。
居間も寝室も召使いや家臣で満ち、プライバシーは全く無かった。
食事の様子も公開されていた。
排泄も人の目に晒される場所であった。トイレというものはなかった。
出産も公開であった。
マリーアントワネットの公開出産の様子
https://blog.goo.ne.jp/asumirio63/e/0ab1d3c4f7832fbd136cda67b6a62d2e

119日本@名無史さん2019/03/30(土) 20:51:08.12
>>116
俺は>>104
「しかしヨーロッパの王族同士とか古代日本の天皇家とか、血の希少性や
純血性の価値が 優先された場合もある」と書いてやっただろ。
天皇家と藤原家は皇族の血を保有しあって伝えてきた。
血族結婚が多くなったのは当然だ。
しかし、貴顕の血と庶民の話を一緒にするな。
エタや非人、サンカなどには血族結婚が多かった。この話は後でするかも。

120日本@名無史さん2019/03/30(土) 21:11:28.57
ブラジルにある日系人コミュニティ弓場(ゆば)農場
日本人・日系人だけで運営されている農園で、ほぼ共同生活。
クリスチャンばかりのように見える。

https://tabicoffret.com/article/34586/index.html

ここから弓場農場のサイトに飛ぶと良い。読む価値あり。
ピアノ、バイオリン等は当たり前にひく。女の子たちはバレエに打ち込む。
取材のカメラの前をバレエのレッスンをしている女の子たちが横切るという
場面も見た。

日本人と日系人以外受け入れない決まりという。
10年ほど前テレビで見たが、20台後半のここの娘が白人の男を連れてきた。
フィアンセだという。連れてきてしまえば何とかなると思ったらしい。
だが白人は駄目だ。日本人みたいにキビキビしていない。
いつも笑顔だがタラタラマイペース。彼女といつもベタベタ。
結局二人で姿を消した。
だが日本人だけでやっていくのは難しいという。
長老たちが、あと10年後に現状のままなら、血族結婚に踏み切らざるを得ないと
語っていた。深刻な表情だった。
中年の夫婦の旦那は、農大生だったときにブラジルの農業見学に来てここに立ち寄り、
そのときに今の婦人から「好きです」と言われ、ここの人になった。
周囲はブラジル人ばかり。そういう出会いしかなかった。

しかし、このあたりを見ると状況は好転しているのではないかと思う。

http://sekaishinbun.net/2017/10/19/201710-spt-yuba-brazil/

これは一種のお見合い大作戦である。ネットのお陰で未来が開けたか。

121日本@名無史さん2019/03/30(土) 21:30:30.00
なんか知らんけど長文連投馬鹿がいる

122日本@名無史さん2019/03/30(土) 21:55:18.70
なんか知らんけど長文長文と騒ぐ馬鹿がいる

123日本@名無史さん2019/04/01(月) 13:15:32.51
「天平2年1月13日、帥(かみ)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(つど)ひて、宴会を申(の)ぶ。」

天平2年1月13日、太宰府の帥老(そちろう。大伴旅人のこと)の邸宅に集まって、
「梅花の宴」を開いた。

「時に初春の令月、気淑く風和(な)ぐ。」

時は、初春のよき月夜(十三夜)で、空気は澄んで風は穏やかである。

「梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後の香を薫らす。」

梅は女性が鏡の前で白粉の蓋を開けたように花開き、梅の香りは、通り過ぎた
女性の匂い袋の残り香のように漂っている。

124日本@名無史さん2019/04/05(金) 00:18:24.22
図書館にある書籍とか全部電子化して、先祖の名前で検索できるようにならないかな

125日本@名無史さん2019/04/05(金) 01:51:22.70
>>124
実現するまで果てしない作業だなw

126日本@名無史さん2019/04/07(日) 16:02:27.76
池田小学事件 宅間

>>宅間の家系・家族とその環境
宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[8]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた

127日本@名無史さん2019/04/07(日) 18:14:44.65
大量殺人犯のハプログループを調べたら武家由来ばかりになりそうだね

128日本@名無史さん2019/04/09(火) 17:13:37.78
>>127
江戸の下級武士は戦国の出自がヤバイからな

129日本@名無史さん2019/04/14(日) 22:01:37.76
ここで嫌がられる旧庄屋の家系だが家系にまつわるその手の話は旧庄屋家にも多い。
八墓村のごとく、あの家の先祖は旧城主だったので多くの人を殺しているので短命の家系だとか。
呪われた家系だとかetc

田舎の噂話だからどこまで本当かは不明だけどね。

130日本@名無史さん2019/04/16(火) 05:41:51.91
庄屋基地外は書き込み禁止
ただの百姓ですから

131日本@名無史さん2019/04/22(月) 18:13:46.76
>>130
庄屋ですらない一般百姓ですが…
発言しちゃいけないのか?

132日本@名無史さん2019/04/22(月) 20:52:53.70
普通に書くのならOK
彼は自分の先祖こそ最高で、他者を否定し武士を馬鹿にするような最低の人格
だから叩かれているんだよ

133日本@名無史さん2019/04/23(火) 15:26:40.55
嫉妬して批判してるだけだろうな。
ちなみにうちは庄屋だよ。
武士は底辺だよ、今で言う肉体労働者みたいなもん。
普通の百姓と同じレベルだと思っていい、血統もカス。
将軍家や大名家なら少しはマシだが、それでも公家と比べるとやはり駄目だね。

134日本@名無史さん2019/04/23(火) 21:09:39.28
うちの曾祖父、最近知ったんだけど1880年代に10歳で養子に入って今の姓になったんだわ。
で、養父が岡山県出身なのに家族も連れず(妻はすでに故人)単身で和歌山県の田舎に転籍してきてるの。年齢は当時35歳くらい。
スゴく不自然で、何があったのかスゴく気になるんだけどこう言った事情に推測つく人いない?

個人的には借金や犯罪なんかで村八分と言うあまり考えたくない事情が思い付くんだが・・・
都市部なら出稼ぎや仕事求めての引っ越しが自然だが、岡山から和歌山、しかも田舎。不自然すぎる。

明治半ばころ、岡山と和歌山に何か繋がりってあった?

135日本@名無史さん2019/04/24(水) 05:53:56.26
庄屋に嫉妬なんてしないよ
百姓の顔役ってだけだし、底辺じゃん

136日本@名無史さん2019/04/24(水) 13:50:49.83
>>135
皇室の次に尊敬されるのが公家と庄屋

137日本@名無史さん2019/04/24(水) 21:33:26.45
>>136
由緒ある血筋と言えばそうなるな。

138日本@名無史さん2019/04/24(水) 22:10:47.76
先祖が山伏だったのは知ってたけど、忍者でもあったっていう話を聞いて調べたら兵法とか剣術なんかをやっていた事が判った
藩校で使われていた教科書の兵法や軍学に関するところに先祖の名前が載っていたんだけど、
よく分からないのは、坊さんなのに名字と名前が書いてあった事
自分の今の名字と一緒
坊さんに名字はないっていう認識だったので。
父方祖母の先祖は名主だったらしいけど
名字が水野でそれなりに由緒があるみたいな話。
本当の事は分からないけど
いつか調べてみたい。
今は半信半疑。盛ってる可能性もあるし

139日本@名無史さん2019/04/24(水) 23:07:07.24
少なくとも >>126 から 上の >>138 まで10以上の書き込み。書いてる奴は一人だよな
必死こいてるよなw

140日本@名無史さん2019/04/25(木) 06:33:14.83
何を書いても庄屋が底辺なのは変わらないよ
高貴な血筋?
笑わせるな どこの馬の骨とも解らないのが庄屋だよ

141日本@名無史さん2019/04/25(木) 10:00:02.72
と、今度は庄屋基地外を叩いてみせる庄屋基地外w

142日本@名無史さん2019/04/27(土) 17:30:58.05
>>140
高貴だよ
少なくとも士族よりは上
武士はただの力だけしか取り柄のない乱暴者だろ
平気で人殺しするし
皇族>華族≧庄屋>>>>>士族>平民>エタヒニン

143日本@名無史さん2019/04/27(土) 17:33:03.34
>>140
もう一つ言うが
俺の家系に人殺しは1人もいない。

144日本@名無史さん2019/04/27(土) 23:27:26.16
>>134
スレタイぴったりの話してるのに見事なスルーで同じような庄屋の話ばかり。大丈夫かこのスレ

145日本@名無史さん2019/04/28(日) 00:44:12.65
>>144
じゃあお前が話し広げろよ
それとも何かエピソードあるなら喋れや

146日本@名無史さん2019/04/28(日) 01:01:25.77
>>145
だから>>134は具体的な話してるがな

147日本@名無史さん2019/04/28(日) 01:54:54.51
>>146
じゃあ134に答えてやれよ
人にばかり頼むな

148日本@名無史さん2019/04/28(日) 05:00:23.47
>>134 元岡山県人から一言コメント

真面目な話、一口に「岡山県」といっても「和歌山県」と同様に結構広いです。古くは備前、備中、美作
の3国に分かれていて、それぞれに郡部があります。

例えば備前国ですと、邑久郡、赤坂郡、上道郡、御津郡、津高郡、児島郡、和気郡、それに磐梨郡が
存在しており、各郡部で多少の言葉や文化が違いますので、それぞれの歴史史料をあたってみなけ
れば分からない事の方が多いです。

…、と書いたら「身も蓋もない」話になりますね。個人的に一番考えやすいというか、ありきたりの話で
すけど、ミカンの収穫時期の一部が岡山県南部の米作農家では農閑期に入りますので、「出稼ぎ」で
縁があった可能性もゼロではありません。

ネットリテラシーというモノがありますので、詳細に書けとまではいいませんが、岡山県のどのエリアか
ら、和歌山県のどのエリアへ御先祖様が移住したかをもう少し詳しくしていただかないと、調べようが
ありません。それを元に国立国会図書館などで該当郡部の郡史をあたってみるのも一つの方法では
ないかと思います。どうぞ御検討下さい。

149日本@名無史さん2019/04/28(日) 18:59:25.83
天領地域だと長男が庄屋で次男が武士として出仕ってこともあるからな。
大坂の陣も大体このパターンだろ。長男に死なれると困るわけだろ

150日本@名無史さん2019/04/28(日) 23:20:23.96
>>148
出稼ぎのまま養子まで取って永住ってのも何か特殊そうですね。

岡山の浅口郡から和歌山の有田市です。共通点は、両住所ともかなり海に近い。頃は1880年代末です。

151日本@名無史さん2019/04/29(月) 00:47:29.08
>>150
真珠の養殖

152日本@名無史さん2019/04/29(月) 01:14:05.89
>>151
そんな産業無いよ?

153日本@名無史さん2019/04/29(月) 07:51:52.20
>>150
>>148 です。とりあえず、有田市図書館に「有田郡誌」が所蔵されています。禁帯出本ですので、市立
図書館へ行って閲覧しなければなりませんが、明治中期頃の様子をうかがう資料になると思います。
図書館では該当するページをコピーさせてもらうこともできますから、時代背景を知るための手元資料
として入手しておくことをお勧めします。

次に、近所の古老の方とか御親戚筋に尋ねてみるなど、明治期における御家の職業変遷に関する
家伝(言い伝え)を再確認してみると参考になると思います。この点では「屋号」がヒントになることも
多いです。例えば、拙宅の屋号は「○○○店」ですので、今はやっていませんが、昔は商店を営んで
いたことが分かります。

また、有田といえばミカンの大産地として有名です。そこで、「紀州有田みかんの起源と発達史」という
論文をネットで検索・参照すれば、1880年代に有田周辺で何が起きていたかを知ることができます。
これも参考文献に値すると思います。

それから、和歌山からだと結構距離があるのでなかなか難しいでしょうが、岡山県浅口市立図書館に、
「浅口郡誌」が所蔵されています。こちらも禁帯出本ですので、岡山県への出張調査になりますけれど、
御先祖様のルーツを調べるために有用な資料になり得ると思います。

あと、有効と考えられる手として「戸籍調査」があります。自分が子孫であることを証明可能な公文書、
つまり有田市役所で交付してくれる戸籍謄本の写しと除籍簿の写しを岡山県浅口市役所へ持参し、
「家系図を作りたいので、御先祖様の除籍簿を閲覧させて欲しい」と頼めば、当時の戸籍情報を入手
することができます。これは、結構強力な資料になると思います。

以上のように、事実関係を一つ一つ積み重ねて確認し、次のステップへと情報収集の範囲を広げて
いけば、有田市と岡山県浅口郡の接点が出てくるかも知れません。時間と労力が必要ですが、根気
よく調査することが大切です。頑張って下さい。

中身の割に長文かつ駄文で申し訳ない。ここまで読んでくれてありがとう。

154日本@名無史さん2019/04/29(月) 10:38:43.12
横レス

「浅口郡誌」でググると、国会図書館に所蔵があるのを見る余地もある
取り扱ってる古本屋で買うって手もあるけど、今ググって出てきたのは16200円、安くはない。
交通費往復分+宿代とどっちが安いか判断しかねる程度の値段とは思うが。

155日本@名無史さん2019/04/29(月) 23:33:22.33
何を一人でやってんだ馬鹿が
庄屋馬鹿ってのは厨房か?

とくに
>>154 の「横レス」は余計だったw

156日本@名無史さん2019/04/30(火) 02:10:13.56
ひとりにみえてるのか

かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか

157日本@名無史さん2019/04/30(火) 06:46:12.00
>>154
>>153 です。フォローありがとう。国立国会図書館デジタルコレクションで確認するのを完璧に忘れてたわ。(笑)

158日本@名無史さん2019/04/30(火) 11:13:28.80
私は全くの第三者で横レス失礼します。
国立国会図書館デジタルコレクションを教えていただいてよかったです。
これからも書き込んでいろいろ教えて下さい。
ありがとう。ほんとうにありがとう。

>>155
妄想を治せ。心の汚い馬鹿者め

159日本@名無史さん2019/05/01(水) 06:00:03.94
>>158
御参考になるかどうか分かりませんが、国立国会図書館デジタルコレクション以外では、
下記のデータベースもありますので、日本史を勉強するには便利な世の中になってます。
必要に応じて参照してみて下さい。(URLは2019年5月1日現在のもの)

1.宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
   https://shoryobu.kunaicho.go.jp/

2.国立公文書館デジタルアーカイブ
   https://www.digital.archives.go.jp/

3.谷本玲大のページ・倉庫(大日本地名辞書や大日本年表などを収蔵)
   http://tanimoto.to/lumber/

4.古文自動翻訳研究センター(ソフト開発中・現行バージョンは3.1)
   http://honnyaku.okunohosomichi.net/

5.木簡・くずし字解読システム(奈良文化財研究所・東京大学史料編纂所)
   https://mojizo.nabunken.go.jp/

6.日本図書館協会図書館リンク集
   https://www.jla.or.jp/link/tabid/95/Default.aspx

160日本@名無史さん2019/05/01(水) 11:00:57.84
>>142
庄屋は下層階級
百姓のまとめ役に過ぎない
武士より遙かに下の身分
自覚しろ

161日本@名無史さん2019/05/01(水) 21:10:22.57
>>159
一連の書き込みとは関係の無い全くの第三者である私に対してこのようなご厚意を
頂戴しまして有り難うございます。
ますます貴兄のファンになってしまいそうです。
全く関係の無い、通りすがりの第三者ではありますが、これからも貴兄の書き込みから
学ばせていただきたいと思っております。
ありがとう。本当にありがとうございました。

162日本@名無史さん2019/05/02(木) 08:17:29.38
>>161
>>159 です。たいへん御丁寧なレスをありがとうございます。昔から「袖すりあうも他生の縁」と
言われているとおり、この掲示板では、「先祖探し」という同じ方向を向いて勉強してるお仲間
ですから、彼我関係なくお互いに知識を交換し、助け合うのは当然のことだと考えております。

私も諸般の事情で「先祖探し」を継続進行しておりまして、そのプロセスに関係した物事を紹介
すれば、いつか誰かの役に立つかなと考え、気の向くままに駄文を書き散らしている次第です。
身に余る評価を頂戴し、恐縮に存じます。それでは、またどこかで御一緒させて下さい。

163日本@名無史さん2019/05/02(木) 13:56:55.77
自作自演か?
庄屋をバカにしてる底辺がいるようだが…
庄屋が一番尊敬される立場だぞ

164日本@名無史さん2019/05/03(金) 03:23:36.57
庄屋は底辺
田舎に行くと先祖は庄屋って奴が一杯いるけど誰も尊敬なんてしてないよ
「あの家、昔は庄屋だったんだって」
「ふーん、百姓か」
でお終い

165日本@名無史さん2019/05/03(金) 07:39:52.46
>>163 >>164
客観的証拠や言葉の定義、それに時代設定を含む議論の前提条件もなしに、庄屋と呼ばれる存在の
社会的地位を、現代の価値観で語っても、説得力を含め全然意味が無いのは明々白々なんだが…。

不毛で下らん言い合いをする前に、事実に基づく歴史学的論考をするなど、やるべき事が多々ある
はずだが、そこらあたりの学問的価値観を互いに認めたくないのかな。双方ともに、ただの「構って
ちゃん心理」の持ち主ならば心底呆れるし、幼稚園生なみの喧嘩もどきなら、放置するしかないね。

166日本@名無史さん2019/05/03(金) 08:04:50.18
馬鹿w     どっちも自演だよ



それ以外も、ここんとこずっと自演

167日本@名無史さん2019/05/03(金) 09:45:32.00
>>165
お前が庄屋は尊敬されてるって書いたから、そんな事無いよと示しただけ
庄屋は尊敬なんてされてない
それが事実

168日本@名無史さん2019/05/03(金) 10:55:50.26
庄屋が裕福であったことは全国的に間違いではないだろうね。
地方の庄屋は余り知らないけど。 地方でも神社の氏子代表は庄屋が多いのでは?

庄屋の屋敷は文化財指定されてるのが多いね。 金があったから当然と言えば当然。
金があったのでは、商人、網元なども入るな。

169日本@名無史さん2019/05/03(金) 11:13:51.48
庄屋出身の財閥ってあるの?

170日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:10:47.13
庄屋は名家と言われるが、武士はただの成り上がり者で偉くない

171日本@名無史さん2019/05/03(金) 15:24:45.72
かなり裕福な暮らしをしてた庄屋は多い。 うちの先祖の庄屋は藤原氏を名乗ってた。
庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな

172日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:07:18.27
>>171
>庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな
庄屋の脳内庭園はいつも花盛りで満開だね。さすがに笑ったわ。

173日本@名無史さん2019/05/03(金) 17:18:56.78
庄屋は日本国の中で実質的には最高の地位にあると思う。

道で庄屋に会ったら天皇が土下座したとか聞いたことがある。l

174日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:42:30.12
>>169
普通に今話題の駿河銀行の創業者は庄屋だがな。

175日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:52:08.70
失敬。スルガ銀行の現会長兼創業者、岡野家は名主と書かれてる

176日本@名無史さん2019/05/03(金) 20:57:08.09
今やってるお宝鑑定のテレビ特番も、皆500年以上続く庄屋大地主だらけだよね。
一介の藩士なんて全く出てこない

177日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:08:30.91
神武天皇は奈良橿原の庄屋だったんだよな

178日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:23:02.15
ダイアナ妃の実家のルーツは日本から渡って来た庄屋だったらしい

179日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:26:25.26
そうやって庄屋を蔑む手段しかないのは虚しいからやめたほうがいい

180日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:30:10.86
>>169
ちなみに新一万札の肖像画は、豪農渋沢だよね。
彼は庄屋ではない豪農だが、幕臣旗本にまで上り詰めてる。さらにその後は列記とした財閥。もう桁が違う別格な家柄だが。

181日本@名無史さん2019/05/03(金) 21:59:09.87
江戸時代の先祖は庄屋でも武士でもないけど
どちらか選べと言われたら武士を選ぶな
昔テレビの街頭インタビューで、お宅の先祖はどんな人?って言うのを観てたら
「武士って聞いてるよ」と答えている人が結構いた記憶があるけど、
真偽はともかく、格好いいし他人に自慢できるからだろうね
貶す訳じゃないけど自分の先祖が庄屋だったとしても自慢もしないし
別に何とも思わないと思う

182日本@名無史さん2019/05/03(金) 22:08:54.62
それは仕方がないよね。時代劇がそう印象操作しているんだから。
現実は庄屋は長屋門ある豪邸に住んで、村方支配を行い、
城下の官舎住まいの下士は、内職して凌ぐか、株売って町人の先祖帰り。

こんなリアルな現実は描かれない。
それどころか、いまだに農民ガー農民ガーとひたすら辱しめることでしか表現されない。
そら幻想の世界である時代劇の中の武士がいいのは当たり前ですよ。

183日本@名無史さん2019/05/04(土) 05:03:14.96
>>181 >>182
なに会話調で書いてんだボケ

評論家気取りでベタなこと書きやがって笑えるっw

184日本@名無史さん2019/05/04(土) 10:21:44.70
>>183
文章が下衆だね

185日本@名無史さん2019/05/04(土) 10:26:52.09
エッタのお前にゲスといわれる筋合いはないわ

186日本@名無史さん2019/05/04(土) 10:34:56.60
>>183
人品が文章に出てるんだよな
自分で気付いていないみたいだけど

187日本@名無史さん2019/05/04(土) 10:48:31.20
ここは2/5ちゃんだぞ。
人品が文章に出てるってダイジョブか?

かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか

188日本@名無史さん2019/05/04(土) 11:04:59.47
庄屋には初夜権というのがあって、村娘たちが嫁に行く前に
処女をいただくことができたんだよな。

189日本@名無史さん2019/05/04(土) 19:58:35.41
>>185
やっぱり品性下劣だね
先祖がそう言う身分だったとしても俺はその人をバカにしたり貶したりしないし
5ちゃんだから当たり前だと思っている鈍感さが重症だな

190日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:39:16.03
よーわからんながれだが、
テレビはとにかく農民を見下した説明だよな。

百姓ではあったが、
百姓にもかかわらず
百姓のくせに
百姓ごとき
百姓にも優しくしろ
など

在郷武士は有力開発百姓が平安から武士化していったのに、
なんだこの百姓は人にあらずみたいな口の聞き方は。

いつから江戸の一介の武士ごときが旧村方支配層の有力百姓を名実ともに並べる位置になったよって話だわな

格下の分際が、いつも下級武士どもは態度が糞横柄でよ

庄屋層は武力がないとおもってんだよな

191日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:45:36.40
>>189
穢多非人を擁護するということは……

192日本@名無史さん2019/05/04(土) 20:59:05.68
えたヒニンなんてどーでもいいよ
江戸の武士だって、秀吉みたいなんだらけなんだから。

193日本@名無史さん2019/05/05(日) 06:02:12.80
やっぱり知能低劣だね
評論家気取りで書いた>>181 >>182 を貶されて悔しくてならず
けど言い返せないものだから今度は品性なんてものを持ち出す。
品性とか人品とか、そこいらへんの気取った婆アみたいなことしか
言えない時点でお前は詰んでるんだよ
お前みたいな利口ぶった馬鹿をエッタといわれて当然だ。

お前は5ちゃんに向いてないよ やめとけって馬〜〜〜〜か

194れーわ2019/05/05(日) 09:25:09.63
自分の認識では、ある程度の庄屋なら士分も持っている認識なんだが?士分を持っていない庄屋って、ある程度未満の庄屋という認識だが、違うのかな?

195れーわ2019/05/05(日) 09:28:59.21
自分も渋沢家とは親交があるが、渋沢家は士分持ってるだろ。

196れーわ2019/05/05(日) 09:34:44.83
渋谷家の話題が出たから、自分の渋谷家との親交の話しをしよう。
俺が渋谷んちに遊びに行ったとき、渋谷んちの人たちに挨拶したんだよね、そりゃ挨拶するのは当たり前だが。
俺の苗字を言ったら驚かれたよ。そりゃそうだよな、俺の先祖の苗字のルーツは深谷市だもん。
俺と渋谷が友達になったのも何かの縁なんだろうな。

197れーわ2019/05/05(日) 09:46:53.64
ま、とにもかくにもみんなの先祖に優劣なし!優劣があるとすれば他人の先祖を敬える人と他人の先祖も敬えない人の心に優劣がある!

198日本@名無史さん2019/05/05(日) 13:40:15.37
士分を持ってるのは小藩の庄屋か商業で成功した商人だろう。
由緒ある武家だった家でも苗字帯刀がせいぜい
良けりゃ浪人扱いかもっと良ければ郷士

199日本@名無史さん2019/05/05(日) 13:52:54.11
>>197
穢多非人のことも敬うの?

200日本@名無史さん2019/05/06(月) 01:17:58.94
士分なんて、関東ではほとんどありえないから。

201日本@名無史さん2019/05/06(月) 03:32:28.46
知ってる身内の話だが。
長野の庄屋だった家が、明治になって、献金すれば士族にしてやると言われて断ったって話は聞いたことがある。
茨城の組頭だった家は、幕末に功績が加味されて一代帯刀になり、その後の親族の出世で士族になった。

202日本@名無史さん2019/05/06(月) 13:24:52.86
壬申戸籍(明治五年)の場合、戸籍作成は戸長の職責だった。
戸長というのは、江戸時代の名主に代わる行政官。
基本的に収税官吏でもあり、租税が金納になったため、村人から税金を集める役目だった。
税金が集められなければ職責を果たせない。取り立ては厳しかった。
村人の方からすると鬼みたいな存在だが、戸長としては相手が老人だろうが病気していようが
払わせるしかなかった。

その他、明治になると小学校も作らなければならなかったが、国は金を出さず、
地元の自主的な建設に期待していた。小学校が出来ればそこの教師の給料は出すが、
建物は用意してくれない。
小学校建設も戸長が音頭をとってやらなければならない仕事だった。
ただし、小学校建設といっても、今我々が考えるような木造小学校は試行錯誤を経て
明治の終わりごろから建てられるようになったもので、明治初期は寺に間借りしたり、
民家の一部を改造したりしたものだった。

こうした背景から考えると、戸籍簿を士族としてやる代わりに献金を求めるというのは
大いにあり得ることである。税金が払われないとか、小学校を建てるための寄付が
集まらないとかだったのだろう。戸長もたいへんだったのである。

203日本@名無史さん2019/05/06(月) 17:59:04.38
本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だったわけでしょ?

あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな?

204日本@名無史さん2019/05/06(月) 23:02:57.76
>>202
あの、そもそも戸長が名誉職とする規定になってるの。
戸長に選ばれること自体が名誉とされたわけで、士族なんて関係ない。

205日本@名無史さん2019/05/06(月) 23:44:26.59
>>203
>本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。

おそらくだけど、結構地域差があったと思う。母方の田舎では、武士の子弟が通う「藩校」が、公的には
明治4(1871)年に閉校されてる。明治新政府による学校制度は、明治5(1872)年8月付けで公布
されたものだから、新教育制度への準備がここから始まり、やっと明治8(1875)年に小学校が開設さ
れた。名目で約4年間のブランクがあるね。

元々子弟教育に熱心な藩であったことと、廃城令によって解体された城の廃材を使えたので、経費が
安くて済んだことが新しい学校制度の早期実現に繋がった模様。あと、藩校の先生がこぞって学校の
教員に転じたので、小学校開設当初からかなりハイレベルな教育環境だったと伝えられてる。

藩校で儒学を修め、小学校の校長を務めた人が京都府の某地方に移住した際、人々の教育レベル
と民度の差に驚いたという記事を寄稿してるぐらいだから、基本的な学校教育システムは同じでも、
地域によっては授業の内容も違った可能性があるね。

206日本@名無史さん2019/05/07(火) 05:48:43.58
>>203
本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だった
わけでしょ?

明治五年に学校令が出て、日本国中小学校作りに狂奔することになる。明治六年ごろから
続々と作られ、明治八、九年ごろは津々浦々至る所にという状態になる。
小学校の建物が無ければ、従来の寺子屋をそのまま小学校ということにすればよく、
とにかく建物があって先生がいれば小学校なのだから、学校を作ること自体はさほど困難
ではなかった。ただし、机だの黒板だの教卓だの、中身を備えていくのは大変だった。
一般的に言って、建物まで小学校らしくなるのはもっと後の話である。
なお、小学校が出来るまで学校制度は有名無実だったということはない。子どもの教育は
小学校の有る無しを問わず、子どもがいるかぎり施さないわけにはいかないからだ。

長野県では開智学校が有名。
当初は廃寺を改造して小学校とした(明治六年)。
その後松本市民から寄付を集め西洋建築の壮麗な校舎を作ったのだ。
最初は廃寺を利用したということの時代背景は分かるだろう。
廃仏毀釈で坊主は逃げ出し、寺は廃寺になるところも多かったのだ。
関係ないが、長野県では旧幕時代に国学の徒が多く、廃仏毀釈運動はかなりきつかった。
馬込宿の名主だった島崎藤村の父親も国学の徒で、通過する水戸天狗党の隊列を
尊敬の念を持って見送ったという日記が残っている。

207日本@名無史さん2019/05/07(火) 05:49:44.36
明治になってからの学校建設の動きは、旧幕時代の教育を理解しないと分からない。
江戸時代の教育は寺子屋が担ったというのは誰でも知っているが、寺子屋にも
二種あった。田舎の寺子屋と江戸や京・大坂などの都会の寺子屋である。
田舎では寺子屋は旦那衆の茗荷金(寄付)で営まれていた。寺の隅に小屋などを建て、
師匠は流れ者でも何でも適当な人間を置き、無料で教えていたのである。
(ただし、親が師匠に野菜や米を持っていったりはした。)。
松下村塾の建物などをイメージしたらいいかも知れない。
都会では今の塾と同じように商売として営まれていた。しかも束脩(そくしゅう)や月謝の
取り方が絶妙であった。親の収入により五段階ぐらいにランク分けしたのである。
親としては良い家の子として目に掛けてもらいたいから、無理しても上のランクで払う。
そういう仕組みで一銭でも高くとろうとしたのである。
だから都会では基本的に余裕のある家の子でないと寺子屋には行けなかった。
無学で目に一丁字もない貧民は増えるばかりだったのである。
都会の貧民には、子どもに教育を受けさせるなど夢にも思わない者がいくらもいたのである。
明治になって学校教育を始めたときに、教育レベルや親の熱意には地域によって
大きな差があったと思われる。

208日本@名無史さん2019/05/07(火) 05:50:49.25
>」あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に>登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな?

山本博文という人の本に出てくるよ。
旧幕時代、藩校で儒学を学べるのは上級武士の子弟だけだった。
(藩校にもいろいろあるが、突っ込みはしないこと。)
そこで学ぶ漢字は唐流(唐様)であった。
唐様というのは、楷書を基本とする中国風の書跡のこと。
江戸時代に唐様の文字を書くなどというのは本当に特殊なことだったのである。

http://www.ohtabooks.com/qjkettle/news/2014/01/20095326.html

下級武士が学んだのは「御家流」であった。御家流とは和洋の書跡のこと。
町人や百姓が学んだのも御家流。
藩の公文書や制札、商人の帳簿や多種多様の法令文書など、ありとあらゆる文書は
今でいう楷書できっちり書かれたものではなく、御家流の崩しまくった和風文字であった。

下級武士は藩校に通えなかったが、字を学ばないわけにはいかない。
どこで教育を受けたかというと、学識のある老人のところに通ったようである。
長年帳簿係や書き役などを勤めた隠居老人のところへ行って教わっていたのだろう。
老人の方では教えるのは今でいうボランティアで、謝礼などは取らないものであった。

御家流といっても崩し方には癖というか種類があり、藩ごとに違っていただろう。
逆に言うと、藩ごとに統一されていたのではないか。
昔の崩し文字は本当に複雑なので、統一しておかないと不便だからである。
こういう文字を学んだ下級武士が明治になって下級官吏となり、戸籍簿などを作る。
そうすると皆同じように旧藩時代の御家流を書き、だから奇妙キテレツな文字という
ことになるのだろう。大正の頃までそれが続いたというのは、旧藩の武士たちが使って
いた御家流の書体が、その地方の標準的書体となっていたということだろう。

209ていせい2019/05/07(火) 05:55:03.42
× 御家流とは和洋の書跡のこと。

○ 御家流とは和様の書跡のこと。

和洋ではなく和様

210日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:37:49.85
昔の子どもたちはどんなふうに文字を習ったのか。
女子の場合だが、以下のような資料がある。
山川菊栄の「武家の娘」という本  水戸藩の武士の娘の回想録

水戸では女の子は満六歳になると手習いのお師匠さんに弟子入りした。
武家の娘は当然の教養だったし、町人の娘も、女中奉公などを
目指している場合は読み書きができなければならないからである。
水戸藩では、藩士の娘と同心や町人の娘とでは教室が違った。
(ここはよく分からないが、教わる師匠自体が別だったのだろう。
なお水戸の御城下なので百姓はいない)。
同心の娘は町人の娘と同じ教室というところは面白い。
水戸では同心は武家扱いではなかったということである。

朝、早く行くのが競争のようになっていて、朝ご飯が済むとすぐに家を出る。
夏は朝霧の中を、冬は霜柱を踏んで出かけていった。
お師匠さんは下級武士の妻だった。その人は能筆で知られていて、
頼まれて師匠をしていたのである。
子持ちの主婦なので、いつも教室にいるわけではなく、手本を書いてあてがい、
娘たちは紙が真っ黒になるまで練習し、ときどき清書して出す。
それがよければ次の手本をもらうという具合だった。

習った内容は、最初は「いろは」、次に女大学などの女訓書で、字の練習だけ
ではなく、文章を読む練習にもなったし、修身の勉強的な意味もあった。
「大名づくし」という大名の苗字を並べた手本もあって、娘たちは社会科的な
知識も得たのである。

211日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:38:48.10
男子の場合も同じような指導法であったと思われる。
学習時間は早朝に行って数時間といったところだろう。子どもはそんなに長く
集中できないからである。弁当をもっていくようなこともなかったろう。
午前十時頃には終わったのではないか。
女の子の場合、ひととおりの勉強で済ませたので、稽古に通うのはきわめて
短期間であったようである。

さらに、娘たちは十二、三歳の頃から、お縫子として裁縫の師匠のもとに通った。
こちらの方は武家も町人も関係がなかった。
お縫子は十人ほどで、そのうち三人ほどが町人や同心の娘だった。
師匠は身分の低い貧乏な老藩士の妻で、その家では主人や息子が傘張りの
内職をやっていた。師匠はちょいちょい出かけて居なくなる。
その間、武家の娘ばかりならおとなしく針を運んでいるが、町人の娘がいると
口三味線やら芝居のこわいろ、寄席の物真似を始める。
武家の娘も釣り込まれて一緒に笑うという具合だったという。

212日本@名無史さん2019/05/10(金) 05:49:25.63
>>210 の山川菊栄「武家の娘」は「武家の女性」に訂正。この本って以前は「武士の娘」
という題名だったんだよな。題名が変わったので混乱した。

でわ上記の続き−−−
昔の子ども達は、(藩校で学ぶ上流武士の子弟を除き)はじめから崩された御家流の
漢字を勉強した。習字をやりながら字を覚えていくのだが、今の文字(唐様、楷書)とは
大いに異なるものであった。
覚え方も今とは全然違う。
驚いたことに、九九を覚えるように、歌のような調子を付けて覚えていったのである。
例えば
木はうめよ、
 人はあなどる
 水はうみ
 日はくらす也
 心くやしき
これで、梅、侮、海、晦、悔という文字をいっぺんに覚えてしまう。

213日本@名無史さん2019/05/10(金) 05:50:40.42
笑い話がある。
松平定信が老中首座になったときに目付を勤めた森山孝盛という武士がいた。
この侍が出世前、大阪在番の番士だった頃、同僚が無学だったことを書き残している。
(番士だったのだから徒である。森山自身は旗本で徒頭だった。)
同僚で親友の江馬という武士が無学なので、暇なときに四書の素読を教えてやった。
教えてみて吃驚した。この江馬某は、素読は字を覚えるためのものだと思いこんでいた
というのである。子どものときに調子をつけた歌のようなもので漢字を覚えたので、
四書もその類と思ったらしいのである。
孔孟の哲理も、下級武士にとってはその程度のものであった。
ついでに。森山孝盛のウィキの項目は面白いぞ。

214日本@名無史さん2019/05/10(金) 16:53:05.62
字が読めない旗本は一生無役?

215日本@名無史さん2019/05/11(土) 06:04:55.83
庶民に縁のない唐様の文字というのは一種特別のものであった。
上級武士の家には、漢籍の一部を扁額や衝立に書いて飾ってあったりしたが、
唐様の漢字にはそうするだけの価値があったということである。
朝鮮通信使が日本に来ると、物見高い日本人が群衆し、物をせがんだ。
珍奇な物品が目当てだったのだろうが、書をせがむ日本人も多かった。
さすがに日本に派遣されてくるだけあって使者一行の端々まで字が書けたらしい。
書く文字は当然唐様であった。本場の唐様文字ということで、日本人は大いに
有り難がったのである。
唐様の文字を見ると、ふつうは御家流の漢字しか知らない日本人は、「あの
漢字は本当はこういうふうな文字なのか。へー、、、」とマジマジと見入った
はずである。

216日本@名無史さん2019/05/11(土) 06:06:09.61
一方、御家流の文字というのは、日本人が漢字を使いこなすために工夫した
一種の記号であった。漢字をもとに崩しに崩して作られた文字で、平仮名や
片仮名の仲間と考えた方がいいかも知れない。
漢字をマスターするには膨大な時間とエネルギーが必要である。
日本人はそれを省略しようとした。漢字を正面から受け入れることを避け、
縦棒と曲線だけで似ても似つかない文字を作りだした。
略字であり記号であるから、間違いが起こるのは当然覚悟の上である。
そもそもがいい加減で適当で、楽をしたいという気持ちだけで作られた
冗談みたいな文字なのである。
だから、御家流の文字で書かれた文書で、間違いを指摘するような者は
いなかった。
書く方にとってはこんな気楽な文字はない。
どんな漢字を使っても読めればよい。読めない部分は前後から適当に読んで
クダサイというようなもので、判じ物と同じで意味が分からない方が馬鹿と
いうことなのである。

217日本@名無史さん2019/05/11(土) 06:08:13.63
幕末でも日本人の識字率は高く、当時日本に来た西洋人も驚き、世界一の
教育国だったのではないかとまで言われる。
しかし、識字率世界一とされたのには事情もある。
日本人のほとんど誰もが「いろは」程度は書けたのである。
いろはをカタカナで書ければそれだけで最低限の用は足りる。
50字にも充たない仮名を知っていればそれでよいとした場合には確かに
世界一だったかも知れないが、他の国とは比較しようがない。
例えば、欧米ではアルファベット21文字を覚えただけでは何にもならない。
これに対し、日本語は類を見ないほど発音が単純といわれる。
母音と子音の組み合わせが極端に少ないのだ。だから、いろは47文字と
濁音に点々、半濁音に丸を付けるということだけ覚えれば表記できる。
「コンドアソビニイキマス。マテイテクダサイ」で手紙になる。
昔はもっと適当で、濁音や半濁音など意にもかけない人も多かった。
単なる想像だが、当時は「いろは」をカタカタとひらがなで書け、漢字を三百も
覚えていれば、堂々と胸を張って字が書けるといえたのではないか。
昔の人の文書で特徴的なのは漢字の使い方が適当であることだ。
しかしこれもいい加減ということでなく、知っている漢字が少ないので、読みが同じ
自分の知っている漢字を宛てているだけなのではないかと思う。

218日本@名無史さん2019/05/11(土) 06:09:08.00
当時中国では、もちろん簡略化前の複雑な漢字であった。中国では、漢字は
一万字覚えなければ役には立たないと言われていた。
同じような漢字がいくつもあり、こういう場合にはこの文字、と使い方も複雑である。
ちょっとぐらい字を習っても、書けば書くほど無知が目立ち、恥をかくだけである。
最低限で一万字というのは誇張でも何でもなかった。
複雑な文字を一万字覚えるには、最低限6歳から15歳ぐらいまで勉学に集中できる
環境が必要である。誰もがこんな環境で育てられるわけがない。だから中国の
識字率は低かったのである。日本と単純には比較できない。

219日本@名無史さん2019/05/11(土) 20:53:59.37

220日本@名無史さん2019/05/11(土) 22:46:44.66
やたら長い文章を書く人は、本当にそれが読まれるのだと思って書いているのだろうか。

221日本@名無史さん2019/05/11(土) 22:59:52.02
内容が良ければ長い文章でも読みたいけどな。

222日本@名無史さん2019/05/12(日) 06:12:04.72

なるほど、気の毒だな。君のような人もいるんだから
もう一つ低学歴者用のスレを立てるべきだと思う。

文久三年一月、江戸にいた坂本龍馬の手控え(メモ)が残っている。
「正月十八日、勝先生大広間にて、将軍職自退の義、大義論の由、
麟太郎先生より咄承地す・・・・・」

辞退 を自退 議論 を義論 承知 を承地 としている。
他のメモには 弐人不知(弐人扶持) などという宛字もある。
読みが同じなら字は何でもかまわないという感じである。

上の森山孝盛は、松平定信が字が読めたので周囲の役人が困ったという話を
書き残している。役人が文書を読み上げて報告しているときに、読みを間違えて
しまった。そのときに定信が「その文字はこう読むのだ」と文書を読みもしない
ままで教えたのだという。
「御老中様ハ字ヲオ読ミニナラレルノデドウニモナラヌ」と役人は愚痴った。
この話は定信が字が読めたというより、それまでの老中は字がまともに読め
なかったことを示唆している。老中といえば大名で、家柄で上り詰めてきた
人たちだった。子供のときの勉強も形だけだったのだろう。老中になっても
ほとんど字も読めぬまま目暗判を押しているだけだったようである。
松平定信のような学のある殿様は珍しかったのである。

223日本@名無史さん2019/05/12(日) 06:15:08.12
それと、上記唐流と御家流で誤解を生むかも知れない。
上級武士は唐流を習ったが、ふつうは御家流で書いていた。
唐流も書けるので、揮毫を求められたり特別な場合は唐流だったが、それ以外は
将軍でも大名でも御家流で書いていた。
公家には公家の書法があった。天皇の綸旨などは当然唐流と思われがちであるが、
書記(蔵人)の私文書の形式であり、思い切り崩した文字で斜めに書いてある。
戦国大名の手紙のような長いものではなく、一枚の半紙に雑に書き付けてある。
紙はわざと漉き返しの鼠色のものを用いた。
古い手紙や文書を漉き返した紙で、墨が溶けて鼠色なのである。
天皇の言葉は女房が間接的に伝える形をとり、女房奉書という散らし書きでさらさらと
書く書法があったが、明治の初めごろに絶えた。こういう文書を渡すときは、女房が
立ち去りながらわざとポトリと落とすような仕草をして相手に拾わせたのである。

224日本@名無史さん2019/05/13(月) 03:28:34.72
いるよね、聞いてもないことをベラベラ一方的に話す人。相手が白けてても見えていない、感じられない。

225日本@名無史さん2019/05/13(月) 08:05:53.63
>>224
君はこっちの方に行ってなさい。
matsuri.5ch.net/test/read.cgi/bakanews/1557047588/

江戸時代の武士の教育を担った藩校について。
藩校はそんなに古くからあったわけではない。
松平定信による寛政の改革あたりから教育熱が高まり、武士の子弟に漢学を
教える学校の設立が盛んになった。
日本における藩校の最初の成功例が熊本細川家の時習館である。
宝暦4年(1754)の設立。時習館の教育が世に名高くなり、他の藩でも寛政の頃
をピークとして設立するところが多くなった。だいたい1790年前後である。
十九世紀になって設立したところも多い。
水戸の弘道館などは天保12年(1841)になってからである。

会津藩の日新館は享和3年(1803)の設立。
教育内容は最初のうちは漢文の素読をするだけだった。
そのうち徐々に漢文の解釈もするようになり、中国の歴史なども学ぶように
なった。優秀な生徒なら、十五歳ぐらいで戦前の高等師範に相当する学力まで
達したといわれる。
ただし、高水準に至ったのは漢学に限った話だった。他は何もない。
一応算術も課目にあったらしいが、それが教えられたかは不明である。
そもそも武士の間では、算術を軽蔑する風潮があったのだという。
東京帝国大学総長になった科学者・山川健次郎は日新館の生徒だったが、
戊辰戦争で中断される十四歳までは授業を受けていた。
しかし、九九を覚えたのはアメリカ留学直前の十七歳のときだったという。
算術が教えられなかったか、誰も勉強しなかったかのどちらかだろう。

226日本@名無史さん2019/05/13(月) 08:07:34.95
日新館には水練のためのプールもあった。これは体育というより武道としての
鍛錬だった。入学は十歳で、千人ほどの子供が学んでいた。
最初は誰でも受け入れたが、入学希望者が多くなり、結局上士の子だけを
受け入れるようになった。

会津藩では伝統的に子供が六歳になると「什」(じゅう)という地域ごとの子供の
グループに入り、年長者から指導を受けた。薩摩のク中のようなものである。
文字もここで年長の子供から教わった。
規律は厳しく、違反すると円くなった座の中央に座らせ、追求を受けた。
一同の前で「無念でありました」と謝罪すれば済む場合もあれば、全員から打擲
されることもあり、最も重い罰が「派切れ」という村八分であった。
年長者の言うことに背いてはなりませぬ、というのが第一の誓いであった。
会津白虎隊の悲劇は、この什の組織のままに戦った結果である。
大人の武士が率いていたが、途中から行方をくらましてしまった。
その後は、年長者が率いた。
そして年長者が切腹と決めれば全員迷わず死ぬほかなかったのである。

227日本@名無史さん2019/05/13(月) 12:26:04.11
長ッ!よっぽど普段話をきいてくれる人がいないんだな。

228日本@名無史さん2019/05/13(月) 21:35:02.44
>>226
興味深く読みました
先祖の事を調べている最中、日新館で使われていた教科書に父方先祖の名前や人物紹介が書かれていたのを発見したので
漢文でおおよそしか解らなかったけど

229日本@名無史さん2019/05/14(火) 06:27:36.99
>>>222理科系の教授連らと変わらん気もするがな・・・字の間違い指摘したら切れそうなとこもwww

230日本@名無史さん2019/05/15(水) 06:15:45.11
>>227
ふ〜〜ん、これで長いか
短いのが好きだったら俳句スレとか行けば

金玉や ひねもす ブラリブラリかな  とか

>>228
あなたの御先祖は教授とか助教だったのだろうか。それとも句読師とか。
教授や助教の数はわずかで、子供たちを実際に教えていたのは句読師、習書師などと
いう名前の現場の先生だったようだ。

ここは時習館についてかみ砕いて書いてあるブログ
ameblo.jp/psi-distalengine/entry-11999591157.html
このページから
『連』および受け持ちの句読師についての説明はこちら → 『自治組織・連について』
に飛ぶとよい。

18世紀末ごろに作られた藩校は、ほとんどが熊本時習館をモデルにしたものの
ようだ。入学は8歳からで、句読生→習書生→蒙養生(もうようせい) と上に行くごとに
生徒の数は減っている。義務教育じゃないんで、勉強に向いていない子はやめて
いったのだろうか。句読は漢文の白文読み下し方の勉強。昔は自分で返り点などを
打ちながら読み下していったのだ(教科書には直接打たないが)。

231つづき2019/05/15(水) 06:16:42.42
習書とは習字のことだが、白文をそのまま書いていったのだろう。先生が読み下した
漢文をそのまま漢文で書けなければいけなかったんだろうと思う。自分の書いたものに
句読点を打つ練習もしたかも知れない。
ともかく、習書の過程で子弟は唐流を仕込まれたということは分かる。
蒙養というのは江戸時代中期に書かれた子供向けの道徳書みたいなもの。
中井竹山という儒者が書いたもので、ベストセラーであった。
明治になっても出版されていた。よほど普及してたようでネットにも写真がたくさん出てくる。
大きな御家流の文字の本である。習字の手本でもあったようだ。
子供はこれで御家流の文字の読み書きを習ったんだろうな。
「一事を行ふにも、親の心に叶はざるかを能々考うべし。僅(わずか)の事も一分(いちぶ、
自分の心)に任す事、必ず之有るべからず候」。
「老人長者と同道の節、必ず其の跡に従ひ申すべく候。仮初(かりそめ)にも先に立つ
べからず候」。

俺が子供だったらこんな勉強をさせられたら続いたかどうか分からない。
落第制度があり、今の小学校とちがって容赦はなかった。
実際だんだんと生徒が集まらなくなり寂れた藩校が多かったようだ。
天保ぐらいから改革が図られ、軍事教練や撃剣に力が入れられるようになると息を
吹き返し、何倍もの規模で営まれるようになった。

232日本@名無史さん2019/05/15(水) 11:26:32.80
>>230 >>231
まず、これは喧嘩を売りたい訳じゃなくて、もう少し工夫してくれたら嬉しいという意見だと理解して欲しい。
投稿が長文でも、内容が伴えば許容するのはやぶさかではないが、あなたの記事はとにかく読み難い。

当方も、他人に要求するほど優れた文章を書いている訳ではないけれど、どこから始まって、どこまでが
一つのフレーズなのかを明確にすれば、読み手により一層分かって貰えるのかを考えてみて欲しい。

1文の長さを工夫して簡潔に書いてるつもりなんだろうが、それが塊で書いてあるから、読み手側として
どこで話が区切れているのか、一瞬判断に困る人も少なくないだろう。これは知的レベルの話じゃない。

あなたの投稿は、やたらだらだらと文字を書き連ねて、段落分けが大雑把すぎるのが欠点のように見える。
何でも詰め込めば良いってものじゃなくて、読み手に親切な書き方を工夫してくれると、嬉しいんだがね。
ここでは「読み手」の知識や読解レベルじゃなく、「書き手」の技術なり技量が問われてるんだと思うよ。

いずれにせよ、少しでも多くの人に物事を述べ伝えるのが、電子掲示板の存在意義だと思うが如何。

233日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:04:56.82
>>232
よく綺麗にまとめてくれた!
本当に、中身はあるが冗長で読みにくいんだよね。国立大学は入試で記述力を求められるが、私立大学は知識しか求められない。
中途半端に有名な私立大学出身者なのかな。だからプライドはあるが表現力が無い。

234日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:24:18.62

この爺さん自演癖があるんだよな
先祖探しどころじゃないのに。もうすぐ自分が先祖だろw

−−−−
藩校の登下校は「連」という地域グループごとにまとまってしていた。
「連」という言葉は西日本でよく使われる。阿波踊りのグループも連という。
昔の武士たちは身分・職分ごとに住む場所が決まっていたから、地域ごと
に連を作れば親たちはほとんどが同僚同士であった。
同じ階層に属する少年たちが一つの連でまとまっていた。
時習館では、初登校の日は句読師などの先生たちが迎えに来て、連の子供
たちを引率して登校したというのが微笑ましい。
今の小学校の入学式のようなもので、子供達は新調の絣の単衣に袴を着け、
腰に小さな二刀を差し、緊張した面持ちで歩いてゆく。
道端の親や祖父母たちも礼装だったろう。母親はこの日のために留袖をあつらえ
丸髷を結い、化粧をしたはず。
少年たちの後ろを親たちが付いてゆく。藩校の門までは行ったのではないか。
一種のイベントのようになっていたと思われる。

235日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:28:25.86
版籍奉還後の「藩」について一応書いておこう。
そうしないと廃藩置県までの動きが掴めない。

明治2年に版籍奉還。これは日本中の大名(徳川家も静岡の大名になっていた。)が
領地と領民を天皇にお返し申し上げるということだ。
では奉還を受けた天皇が土地や人民を直接統治したかというとそうではなかった。
相変わらず大名に統治させていた。ただし、大名の呼び名が変わった。
「知藩事」という名称になった。(知藩事が正しいらしいが、一般的には藩知事と呼ばれて
いるので以下藩知事と書く。)。一方、武士たちは士族と呼ばれるようになった。
藩知事になるのは旧大名の息子たちが多かった。
江戸時代の大名が、新時代にそのまま藩知事になるのは気が引けたのだろう。
例えば島津久光は隠居し、息子の忠義が藩知事になった。
山内容堂も息子の豊範を藩知事にした。
旧大名家の若殿たちを藩知事にしたメリットは二つあった。
一つは藩知事が例外なく馬鹿殿で、明治政府の言いなりであったこと。
もう一つは、藩知事を藩のトップに置くことによって、士族達の反乱を防げたことである。
もし藩知事を政府の選んだ役人などにやらせたら、たちまちに地元士族に殺されただろう。
旧主家の殿様に刃向かう武士はいないので平穏に済んだのだ。

236日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:29:11.97
明治政府はこの体制で10年ぐらい統治するつもりだった。
政府といっても実体は薩長土肥の寄せ集めで、財政力も軍事力も弱体だった。
藩という旧大名家の権威に乗っかって治めていくしかないと考えていた。
しかし武士たちは疲弊して反乱の気力もないことが分かり、かつ薩長土が兵を差し
出して御親兵という自前の軍事力を持つことができたので、一気に旧体制の始末に
取りかかった。明治四年の廃藩置県である。
日本中の武士が憤激するかも知れない政策であり、ビクビクものであった。
だから東京にいた藩知事全員を皇居に呼び出し、そこで天皇がいきなり詔(みことのり)の
形で宣言したのである。士族たちへは知藩事から言い渡す形を取った。
抜き打ちだったので翌日の政府の閣議は紛糾した。しかし、西郷の「もし各藩にて異議等
起こり候わば、兵を以て撃ち潰すの他ありません。」との一喝で決着した。

237日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:29:57.51
ということで、明治四年までは藩はそのままで、殿様(名称は藩知事)もいたのである。
その一年後の明治五年に散髪脱刀令。これは断髪令という名称で知られているが、
断髪にせよという内容ではない。
「散髪にしてもかまわない」こと、そして「帯刀しなくてもかまいませんよ」という内容
なのである。つまり「髪をきちんと結髪にして刀を差せ」という江戸時代の武士の
身なりに関する規律を緩めるものなのである。
おまけに、礼服を着るときは帯刀しなさいということまで定めている。
(なお、その2年前に「武士でないのに武士の格好をしてはいけない」という政令を
出している。武家風の装束に二本差しで歩き回る百姓町人がいたのである。)。
断髪を命ずるものではなかったから、丁髷を切らないままの武士も多かった。
同年に欧米に出立した岩倉遣欧使節団の中にも丁髷帯刀のままの者が多かった。
岩倉自身も髷を結い帯刀していた。
アメリカに渡ってから人々の好奇の目にさらされ、恥ずかしくなって散髪にしたのである。
このように、明治五、六ぐらいまでは政治も習俗もほぼ江戸時代そのままであった。
明治天皇も散髪にしたのは明治六年である。
それまでは公家風の髷(総髪で内裏雛と同じ髷)に衣冠束帯であった。

238日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:30:51.96
なお、関係ないが、藩という言葉は明治になってから使われた言葉だということは
知っておいた方がいい。(例外的に幕末に勤皇派の浪士などが使ったりはした。)
版籍奉還によって旧大名家が藩となったのである。
明治になってからの行政単位だから、薩摩藩とか長州藩とか昔の国名を使った
古くさい名称はつけない。藩庁のある場所の地名がつけられた。
鹿児島藩、山口藩とかである(萩ではなく山口に藩庁を置いた)。
土佐藩などとは言わず高知藩である。
加賀藩などというものもない。金沢藩である。
大名の苗字に藩をつけて呼ぶようなこともあるが、とんでもない間違い。
伊達藩などあるわけもない。仙台藩である。
会津松平家は斗南に転封されたので斗南藩である。
会津藩などというものが存在したことは一度もなかった。
徳川将軍家は静岡藩である。

藩校、藩士、藩主、藩領、藩祖、などは皆明治になってから出来た言葉である。
小説などで、武士たちが自分を「○○藩士」などと言ったり、「貴藩は、、」
などと言ったりしているのはすべて間違いである。
武士が名乗るときは、薩摩藩なら「松平三郎家来○○」などと名乗った。
なお、藩庁というのは明治政府の行政機関である藩の庁舎のこと。
江戸時代に藩庁などというものはない。藩の役所は会所と呼ばれた。

239日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:32:24.92
版籍奉還により領土・領民を天皇にお返ししたわけだから、旧大名は徴税権も
失うわけである。それでは旧藩主や士族はどうやって暮らしたのか。
明治三年九月十日、右大臣三条実美が藩政改革を布告。
各藩の実高の十分の一を藩知事の家禄とすること。その残高の十分の一を海
陸軍費用に、さらにその残高を藩庁諸経費と藩士改め士族・卒族の俸給に
充てることとされた。これによって藩知事や士族たちは定収入を得て一息ついた。
ただし、平均すると高禄だった家臣ほど大きく減俸され、不平は大きかった。

版籍奉還の内容を見ると、明治新政府の財政的基盤はまことに脆弱であった。
徳川将軍家の領地(天領)から静岡藩七十万石を引いた残りにすぎない。
さらに、藩は通貨発行権を持ち、藩札を乱発したり、せっせと贋札贋貨造りに
励んでいる。それでも財政に行き詰まり、廃藩を願い出る藩もあった。
高崎藩では、若殿が英学校や藩営の生糸問屋を設立したりと開明的な改革を
目指したが、大赤字を抱え込むことになった。
藩などがあっては中央集権国家は樹立できない。
次の目標が廃藩置県に絞られたのは当然である。
そこからの流れは上述した通りである。
西郷は御親兵設立に際し、薩摩士族四大隊を率いて上京してきていた。
反乱あり次第、自分が連れてきた薩摩兵だけを率いて討伐に向かうつもりで
あった。西郷は反乱を期待していたふしがある。

240日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:33:33.88
廃藩置県により藩知事たちは当然免官となったが、収入はどうなったのか。
明治五年に身分族称を決定。皇族、華族、士族、平民とする。
旧大名たちは免官となる代わりに新たな特権階級たる華族にしてもらった。
華族制度の創設によって、大名に関する限り、反乱の危険性は消滅した
のである。

ともかくも、明治四年七月の廃藩置県によってようやく大名という旧時代の
遺物が姿を消した。県では中央から派遣された県令が政治を司ることになった。
これによって、日本全国に中央政府の威令が届くようになった。
廃藩置県の翌年、明治五年ぐらいから本格的に明治政府が本格的に始動
しはじめたのである。

教育に関していえば、学校令は明治五年の施行である。
その前までは、実質は大名家である藩があり、武士もいたのである。
したがって明治になって数年の間は、教育も寺子屋や私塾や藩校に
よって行われていた。

241日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:34:57.71
明治維新当時、 276藩のうち 215藩が藩校を開設していた。
幕末の争乱の中で制度改革に着手したところもあり、教育内容を変える藩校も
多かったあった。国学(皇学とも言った)を教えるとか、あるいは洋学を教える
ところも出てきた。

藩校は当初8歳ぐらいから15歳ぐらいの子弟を対象にした漢学塾のようなもので
あったが、幕末に近くなると剣術を中心とする教練所の性格を帯びるようになった。
長州藩の藩校明倫館の槍術・剣術道場である有備館は現在も残っている。
pleasure-bit.com/698.html
剣は文久2年から江戸の斉藤弥九郎の神道無念流を藩の公式流派とした。
斉藤道場の高弟たちが萩まで指導に来ていたのである。
他に水戸の弘道館が北辰一刀流であるのは有名である。
年齢も22歳ぐらいまでの者を対象にするようになり、漢学を終えた者に洋学や
西洋兵学などの教育を施した。
例えば山口藩(萩)は藩校明倫館に洋学を取り入れた。下関戦争(1863−64年)で
列強の強さを知ったためである。その後も藩としては尊皇攘夷を唱えながら、
海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化しようとしていた。
福井藩では安政四年(1857)に藩校明道館内に「洋学所」(洋書習学所)を設け、
洋学と西洋兵学を教えていた。松平春嶽が開明的であったためである。

242日本@名無史さん2019/05/15(水) 23:35:53.60
土佐藩などは、もともと教授館(こうじゅかん)という藩校があったが、時代に対応
した子弟教育をするため、文久2年(1862)、到道館という藩校を設立している。
教育内容は剣術の他、砲術や練兵や貝太鼓といった軍事関係のものが多かった。
actland.jp/contents/kobako/11.html
(リンクされないときはhttp://を頭に付ける)。

明治元年、新政府が今後西洋医学を採用する方針を明らかにすると、藩校の中に
西洋医学校を設立する藩が相次いだ。

藩校は廃藩置県でその存立の基礎を失い、ほとんどは消滅したが、医学校等で
県に引き継がれたものもあった。しかし明治5年8月、「学制」発布に伴い、「従来
府県において取り設けそうろう学校」はすべて廃止する旨の布達があった。
これによって藩校由来の学校のほぼすべてが消滅した。
鹿児島では鹿児島医学校として存続させたが西南戦争で廃校となる。
佐賀の好生館病院など、病院という形で残ったものがいくつかあった。
熊本では時習館設立の翌年、再春館という医学校が設立された。
これは時代的に漢方医を養成するための学校で、幕末に各藩で作られた西洋
医学校とは性格を異にする。

243日本@名無史さん2019/05/16(木) 01:07:09.14
よくこんな駄文をダラダラと書き連ねられるもんだ。

244日本@名無史さん2019/05/16(木) 05:06:47.97
>>234
>>232 です。私の意見具申と第3者からの反応を、「自演」呼ばわりで罵り、「黙って俺様の駄文を読め」という態度は、
さぞかし楽しいことでしょう。あなたのことを、もう少し世間一般に存在する、「常識人」だと思った私が悪いのですね。

それはともあれ、「学窮の徒」という存在は、「世に用いられない研究者」のことですが、そのような生き方まで否定は
しません。どうぞ今後ともそのプライドを保ったまま、「孤高の存在」として、「俺様式駄文書き」に専念して下さい。

いずれにせよここは、サイバー空間における「トイレの落書き」なのですから、何を書こうがあなたの自由です。ただ、
ここで人文科学系学術議論をするべき有用な御高説が出てきたとしても、誰にも相手してもらえず、雨ざらしのまま
で放置される可能性があることを鑑みると、あなたがやっているアプローチの仕方を残念に思う次第です。

245日本@名無史さん2019/05/16(木) 23:55:11.69
>長文さん
 時間がある時に読んでるが、興味深いので続けていいよ。
 確かに連続投稿には驚いたけど、どうでもよい短文のやりとりよりはるかに良い。

246日本@名無史さん2019/05/17(金) 00:41:14.92
擁護者は一人。
レスが付かないことからもアンチが多いのを自覚すべき。

247日本@名無史さん2019/05/18(土) 01:19:46.05
父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、昔は一般的だったの?

祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。

248日本@名無史さん2019/05/18(土) 01:48:03.10

249日本@名無史さん2019/05/18(土) 07:41:41.23
>>245 >>246
    
   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    |  また自演が始まったようだな…
   \______________
           _____
      ΛΛ  ll:::::::::::l|
      (   )―ll:::::::::::ll―――
      /   つ二二lニl
    | ̄ ̄|__)―ΛΛ―――   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    `ー┬‐''  (   )       <  もうみんな気付いてるのにね。
      ┴    |  ヽ.        \_____________
           し___)〜

250日本@名無史さん2019/05/18(土) 08:34:19.42
>>249

   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    |  また自演認定妄想が始まったな…
   \______________
           _____
      ΛΛ  ll:::::::::::l|
      (   )―ll:::::::::::ll―――
      /   つ二二lニl
    | ̄ ̄|__)―ΛΛ―――   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    `ー┬‐''  (   )       < もうみんな気付いているのにね。
      ┴    |  ヽ.        \_____________
           し___)〜

251日本@名無史さん2019/05/18(土) 10:26:22.64
>>246
擁護とかアンチとか、実に下らん


嵐初心者だなw

252日本@名無史さん2019/05/18(土) 14:30:01.06
>>251

   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    |  またよくエサに釣られるクマだな…
   \______________
           _____
      ΛΛ  ll:::::::::::l|
      (   )―ll:::::::::::ll―――
      /   つ二二lニl
    | ̄ ̄|__)―ΛΛ―――   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    `ー┬‐''  (   )       <  もうみんな気付いてるのにね。
      ┴    |  ヽ.        \_____________
           し___)〜

253日本@名無史さん2019/05/18(土) 16:49:00.04
上田晋也やウド鈴木のような平たい顔がTHE 百姓顔
本物の武家は彫りが深い

254日本@名無史さん2019/05/18(土) 17:25:42.86
せんせー、どちらかと言えば彫りが浅いように見える坂本龍馬はどちらに分類されますか?

255日本@名無史さん2019/05/18(土) 17:31:50.02
鍋島氏の男系は少弐氏だけど、祖先の武藤資頼の出自が不詳
松平氏の徳阿弥とならんで謎の人物

256日本@名無史さん2019/05/18(土) 17:38:05.34
>>254
郷士は武士じゃないですから

257日本@名無史さん2019/05/18(土) 17:45:20.42
>>256
せんせー再度質問いいですか。郷士と武士の境界はどこにあるのでしょう。
例えば、伊賀者無足人は一応武士扱いされてたように記憶していますが…。

258日本@名無史さん2019/05/18(土) 19:15:05.56
>>230
228ですが先祖は坊さんです
勉強になります。ありがとうございました

259日本@名無史さん2019/05/18(土) 19:56:40.33
>>257
それは貴方の記憶違いです

260日本@名無史さん2019/05/18(土) 20:26:15.24
>>249 〜 >>252
A.A.で自演とはよくやるわ。ふざけすぎだろ。
長文がどうしたとか言う資格ないわな。
子供かよ

−−−−−−
「学制」は明治5年8月に発布された日本で最初の学校制度に関する基本法令である。
この「学制」は百九章よりなる大部な法令であり、「学校の事(小学・中学・大学)」、
「教員の事」「学費の事」などに分けて規定されている。

● 学校は大・中・小の概念で分けられている。
● 尋常小学は下等4年、上等4年に分けられている。
● 尋常小学という名称の由来は何か。尋常とは普通の、という意味。
   「学制」には小学校の種類として、尋常小学校のほか女子小学校や村落小学校、さらに
   貧人小学校なども規定されていた。
   村落小学は僻(へき)遠の村落において教則を少し省略して教えるものとし、多くは
   夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとした。
貧人小学は貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄附金によって授業料もなく、
   文房具等も支給しようというものであった。
   これら特殊の小学校に対して「尋常」と名付けられたのである。

261日本@名無史さん2019/05/18(土) 20:27:06.98
「学制」は、制度面ではフランスの公教育制度をほとんどそのまま導入したものである。
(教育の内容面ではアメリカの影響が強い。)。
18世紀後半の産業革命以降、イギリスやフランスは都市プロレタリアートの貧困化という
問題を抱えていた。街はスラム化し、子供達は教育も受けずに過酷な労働に従事し、犯罪に
走る者も多かった。こうした子供達にも初等教育を受けさせるべく、貧人小学校というものが
創案されたのである。
一方、農村では子供達は10歳程度になると大人と同じような重労働に従事していた。
文盲の多いフランスの農村では、子供を小学校にやろうとしない親も多かった。
村落小学校は、こうした農村の特殊事情に対応すべく考え出されたもので、授業時間数を
減らし農繁期は休みにする等、農村生活との妥協を図ったものであった。
これらは本国でも試験的に導入されただけで終わり、日本に移入されることはなかった。
しかし、こうした特殊な小学校がなければ、日本の小学校が尋常小学校と名付けられる
ことはなかった。「尋常」はフランス語のコモン(Commun)の訳だったわけである。

学制の実施によって全国に多数の小学校がつくられた。
明治8年の小学校数は約2万4千3百。
それから30年経った明治38年でも2万7千4百だから、制度開始3年にして
ほぼ必要数を充たしていたといえる。
ちなみに平成17年の小学校数は2万3千ほどである。

262日本@名無史さん2019/05/18(土) 20:28:05.03
学校設立の費用はどうしたかというと、学制の原案作成の段階で文部省が予算に計上
するつもりでいたが、大蔵省が強い反対を示した。結局費用については審議も何も
なされず、未決定のままで発布された。
予算の裏付けもないまま、学校を作れという法令だけが出されたのである。
学校設立の費用は土地の有力者などから寄付を募って工面するしかなかった。
さらに学校の運営費まで地元負担だった。
しかし住民が教師を勝手に決めることはできなかった。
公教育制度が始まって30年近く、授業料は親が負担した。
(ただし親が授業料を支払えないことを戸長が証明して無償とすることは可能だった。)
授業料が無償となったのは明治33年の小学校令改訂公布からである。
現代の感覚からすると公教育は無償が当たり前だが、そうではなかったのである。

小学校の実態は学制が想定したものとはほど遠かった。
大半は寺子屋を母体にした小規模校だった。
学制は下等小学校4年、上等小学校4年で、学齢を6歳から13歳までと定めていたが、
下等だけの小学校がほとんどであった。
学齢の点では4、5歳から入ってくる子供も多く、さらに20歳ぐらいの者もいて、年齢が
雑多なままに机を並べていた。
東京の市街地では、立派な校舎に正規の教員を集めて高い授業料をとるものが多かった。
設立の寄付をした金持ちたちが、自分の子を貧乏人の子と一緒にするのを嫌がった
ためでもある。貧しい家の子供たちは寺子屋に通った。

263日本@名無史さん2019/05/18(土) 20:28:56.12
明治10年の広重によるといわれる「東京小学校教授双録」。
明治10年以前に東京に設置されていた44の学校を紹介した双六である。
開智小学校のような建物は東京では珍しくなかった。
一番下の右側の「東京師範学校」が振り出しになっている。
http://library.u-gakugei.ac.jp/lbhome/sugoroku/1-03.html

非常に近代的で豪華な建物である。
貧乏人の子供が行けるような小学校ではなかったことが分かるはずである。

東京でも立派な建物ばかりではない。いわんや地方においておやである。
明治8年の時点で、明治以降に新築された小学校は18%、残りの82%は
間借りであった。寺の空き部屋を借りたり、馬小屋を改造したりしたものもあった。
寺子屋を借り、師匠がそのまま先生に、というパターンが一番多かっただろう。

旧城下町などでは小学校設立とともに多数の私塾が開設された。
小学校へ行けば士族も平民も一緒だが、士族と平民の同席をどちらの親も嫌がった
のである。基本的に、士族の子が私塾に、町民の子が寺子屋に通ったのだろう。
ただ、明治維新の頃から、寺子屋と並んで私塾に通う子供が多くなっていた。
商人の子であれば、十歳ぐらいまで習字塾で字を習い、その後そろばん塾に通うという
ような形である。寺子屋なのか私塾なのか明確でないものもあった。
城下町に塾が多かったのは失業した武士たちが塾を開いたという理由ももちろんあった
だろう。

264日本@名無史さん2019/05/18(土) 20:31:19.30
松本の開智学校は、商人たちの寄付によって作られた。もともと松本には材木商が
多かったが、幕末明治にかけて大火が何度も起こり、その度に材木商は巨額の利益を
得ていた。また、大火の経験から、松本の商人たちは漆喰塗り蔵造りの家を建てる
ようになっていた。漆喰塗りの左官たちの技術は絶頂に達していた。
資金と技術とがあったため、疑似洋館造りの学校を作ることができたのである。
商人の資金によって作られたため、ここで学ぶ子弟は商人の子供が多かったと
思われる。おそらく授業料も高かったと思われ、貧窮する一方の士族の子は通うことは
困難だったのではないか。

疑似洋館の小学校に通うなど、ごくごく一部の子供たちだけだった。
相変わらず寺子屋に通う子供も多かったため、文部省も一定の条件を満たした寺子屋を
小学校として認めざるを得なかった。
当時の小学校の中には、江戸時代からの寺子屋そのままで運営されていたものも
相当数あったということである。小学校という名前で寺子屋式の授業をやっているという
のが実態であった。

265日本@名無史さん2019/05/18(土) 20:31:59.28
学制が公布された翌年の明治6年、就学率はどの程度だったかというと、男子が約40%、
女子が約15%。合計すると30%に充たない。学校に来るのは三人に一人以下であった。
江戸時代、寺子屋に通った子供がどの程度いたかというと、男子の場合は期間の長短を
問わなければほぼすべての子供が通っただろうと言われている。
明治になって学制を敷いた結果、就学率はかえって下がってしまったわけである。
その原因は、小学校が授業料を徴集したことである。
江戸時代の寺子屋は(都市の金持ちの子供相手のものを除き)ほぼ無償であった。
しかし、教育は有償というのが当たり前になり、寺子屋を支えていた地元有力者も
小学校を支援するようになる。無償の寺子屋は消えていき、小学校の就学率は
上がっていった。
明治12年で男子の就学率は58%を越え、女子は23%近くになる。
明治23年には男子が65%、女子が30%、その後急速に上昇していき、明治33年の
小学校令改正で授業料が無償になると特に女子の就学率が伸びた。
明治末年ごろには男女とも就学率100%となる。

266日本@名無史さん2019/05/18(土) 20:32:58.08
教員は、講習所や教員伝習所などで短期間の訓練を受けた寺子屋の師匠や士族の青年
たちであった。
明治五年に東京師範学校、翌年に大阪と仙台に、その翌年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
これらは後の府県立師範学校と区別して、官立師範学校と呼ばれるようになる。
その後、東京師範学校ただ一校を残し、それ以外の官立師範学校はすべて廃校になった。
その一方で府県立の師範学校がどんどん作られていった。
東京師範学校を頂点とするヒエラルキーを構築しようとしたためと思われる。
たとえば大阪では明治8年、それまでに有った講習所、教員伝習所をまとめて
大阪府師範学校が設立された。一方で明治11年に官立大阪師範学校は廃校となった。
これが戦後の新学制まで続く教員養成体制の原型である。

267日本@名無史さん2019/05/18(土) 22:17:02.09
>>259
>>257 です。遅レス失礼 風呂→飯→酔 で離席しました、相済みません。

そうですか、私の記憶が間違ってたということで、伊賀市役所に別途問い合わせてみます。お世話様でした。

268日本@名無史さん2019/05/18(土) 23:30:41.09
父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、昔は一般的だったの?

祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。

269日本@名無史さん2019/05/19(日) 01:51:21.05
襲名ってのは古くはよくあった

270日本@名無史さん2019/05/19(日) 07:54:46.92
>>259 先生
>>267 です。よく眠ったので酔いが覚めました。(笑)

とりあえず、「伊賀市史第2巻通史編近世(三重県伊賀市編纂/以下史料1)」と「伊賀国における郷土集落
と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」の二つを入手しました。(ネット社会は便利ですね)

伊賀国の無足人に関する記述はというと、「藤堂藩には、無足人と称される郷士がおり、藩によって帯刀を
許可されていた。(史料1−89ページ)」また、「無足人とは知行地をもたない準士分のことをいう。このよう
な存在のことを多くの藩では郷士と呼称したが、藤堂藩では無足人と呼称した。(史料2−229ページ)」

次に、「無足人同士の養子縁組はよいが、無足人と百姓との養子縁組はいけないという定めになっていた。
(史料1−240ページ)」という記述から、少なくとも無足人は士農工商という身分制度の下で、下級といえ
ども武士扱いされていたことが分かります。

そして、「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)」で、以下のような社会システムが
規定されていたとあります。

加判奉行−郡奉行−郡代官−+−無足人頭−藪廻無足人−御目見無足人−山廻・平無足人
                    |
                    +−大庄屋−庄屋組合頭−庄屋−年寄−組頭−農民

よって、無足人(郷士)は、軽輩といえども武士階級の末端レベルを担っていたと考えるのが合理的だと考えます。

となると、>>256 の御主張「郷士は武士じゃないですから」と、>>253 の御主張「本物の武士は彫りが深い」の論拠
が少し怪しくなると思われます。これらの御主張を成立させるためには、武士にも2種類あり、「知行地を持つ武士
は本物」、「それ以外の侍は士(卒)分を持つ下級の人々」という分類を採用するのが妥当かと考えます。

とりあえず、こういう認識でよろしいでしょうか?

271日本@名無史さん2019/05/19(日) 08:07:09.32
>>270 ミスタイプがありました。すみません。

誤 : 「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)

正 : 「地方統治機構と郷士編成機構との関係図」(史料2−70ページ)

272日本@名無史さん2019/05/19(日) 10:44:05.40
父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、
昔は一般的だったの?

祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の
名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。

2732532019/05/19(日) 13:58:20.95
>>270
彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長

274日本@名無史さん2019/05/20(月) 05:22:27.55

275日本@名無史さん2019/05/20(月) 06:30:01.66
>>260 書き出し … 度量と感性がなさすぎ。これも酷評しないとね。

冬月 : 「(また自演妄想癖が)始まったな。」

    ・・・ (エヴァンゲリオンAA略) ・・・

碇  : 「ああ、すべてはこれからだ。(唯我独尊だとみんな気付いているからね)」

276日本@名無史さん2019/05/20(月) 07:29:21.20


けっこう自演叩きに慣れてるじゃん(藁 藁 藁 藁 藁 藁

277日本@名無史さん2019/05/20(月) 16:50:43.54
郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・


厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・

278日本@名無史さん2019/05/20(月) 20:11:03.40
>>269
長男や長女でもなく、続柄も中途半端な間柄で襲名なんかあるの?

279日本@名無史さん2019/05/20(月) 20:46:06.62
彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長
こういう場合は襲名があるんだな

280日本@名無史さん2019/05/20(月) 22:03:11.80
先祖代々の土地について。
江戸時代は土地って最初はどうやって取得するの?
俺の先祖は江戸後期頃、別の藩から逃げてきて今の土地(俺が住んでる場所)に来たみたいなんだが、山とか田んぼとか大量に土地がある。

281日本@名無史さん2019/05/20(月) 22:28:29.30
郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・


厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・

282266 続き2019/05/21(火) 20:30:34.01
東京師範学校は、他に大阪師範学校などの官立師範学校が出来るまで、単に「師範学校」と
いう名称だった。この「東京の」師範学校にアメリカ人教師を招聘、アメリカの師範学校を
モデルにした教員養成が開始された。
明治政府がモデルにした師範学校や初等教育の内容がアメリカであったのは、当時、初等
教育の最先進国がアメリカと目されていたからだ。
ヨーロッパでは伝統的に教会が子供の教育を担っていた。また、長い貴族制度の伝統から、
上流階級の子弟の教育は家庭教師によってなされる場合が多かった。
さらに、公教育が施されても、その中身はエリート主義であった。
誰にでも公教育を与えようとするアメリカの態度は、「村々に無学の戸なからしめん」とする
日本の方針に合致していた。
アメリカで初等教育の普及が熱心に行われたのは、移民の国であることから、子供にアメリカ人
としての意識を持たせ、きちんとした英語を教える必要があったためである。
オランダやドイツ、スカンジナビア、フランスからの移民など、第一世代は英語を話さない人々も
多かった。(イタリアからの移民は、1880年代からが多い。なお、ドイツ系アメリカ人・有名人
でググってみると驚く。ディカプリオとかジョニー・デップとか。)。
余談だが、アメリカにはペンシルバニア・ドイツ語という、ドイツ系移民の言葉を今でも使って
いる人々が多数いるという。フランス系のケベック語なども同様である。

日本の初等教育に最も影響を与えた「お雇い外国人」は、明治4年から14年という創生期に
活動したマリオン.M..スコットというアメリカ人である。
「日本に最初に教員養成法ならびに近代教授法方法を導入した人物として知られる。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jces1990/1991/17/1991_17_43/_pdf

283続き2019/05/21(火) 20:31:26.25
師範学校は、明治5年8月に入学試験を実施して54人の入学を許可した。
授業は同年9月からはじまった。授業の仕方は以下のようなものであった。
まずスコットの言うとおりの黒板を用意し、そこにスコットが伝えんとするところを書く。それを
通弁官が訳す。「彼の国の事をそっくり取ってやる」と待ちかまえている日本人たち(師範学校
生徒たち)が通弁の訳したところをせっせと筆記するという形であった。
ところで、教授方とは実技である。筆記してそれで終わりではない。
日本には後の小学校教則もまだ確定していなかったから、小学校でどのような授業をする
のか皆目分からなかった。課目も決まっていないのだから、内容をどんな風に教えるのか
分かるはずもない。だからアメリカの授業法をコピーするしかなかったのである。

そのためにまずアメリカの小学校の再現からはじまった。
小学校の教場は、日本のように正座でなく、机と腰掛で授業をするのでなければいけない
らしいというので、わざわざ昌平黌の畳を剥がして、穴だらけの板の間を用いたという。
(師範学校は最初は昌平坂学問所の建物を利用した。)。
生徒の中で学力優秀な者を机に座らせ、スコットがこれを小学児童とみなして小学校の
授業をやってみせた。その後、今度はその生徒役をやった生徒が先生となり、他の生徒を
児童として授業をして見せたのである。この一連の伝習を見学していた師範学校校長
諸葛信澄が明治6年、学級教授法を説明した「小学教師必携」を出版した。

284続き2019/05/21(火) 20:32:12.08
明治6年2月、師範学校に練習小学校を付設した。附属小学校の前身である。
同年6月には学科を本科と予科に分け、本科は修業年限一年の師範科とした。
7年4月には在学期限を二年とした。
8年7月には予科を廃止し、予科生徒の代わりに試験生をおくこととなった。
入学希望者は年齢も経歴も様々、学力も千差万別であった。
いきなり予科生とするより、試験生として学習に耐えられるかを見た方がいいと判断した
らしい。本科生の選別はたいへんだったろうと思われる。

最初の師範学校生徒は一年で卒業すると、ただちに府県各所で行われる講習会の教師と
なり授業法を教授した。「スコットが授業→スコットの授業を真似た授業→スコットの授業を
真似た授業を受けた講習会の受講生が授業」という形で小学校の授業は行われて
いったのえある。ねずみ講のようなやり方であった。
(東京)師範学校に続いて、翌明治6年に大阪と仙台に、7年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
最初の師範学校生徒のうち優秀な者は、一年程度の学習で師範学校教授になったのである。
師範学校が東京だけでは足りなかったのは、教育できる生徒数だけの問題ではない。
当時は新橋−横浜間に鉄道が通った程度であった。交通機関が未発達で、全国の生徒を
集めるのが困難だったのである。明治5年当時は四日市から横浜まで汽船が運航されていた。
大阪の人間なら四日市まで歩いて横浜まで船で行き、そこから汽車で東京へというのが
一番早く着く方法だった。その後、京都−神戸間の鉄道が開通、さらに神戸−長崎間に
汽船が運航されるようになった。けれど東海道線の全面開通までには20年近くかかった
のである。とりあえず大阪と仙台に師範学校をつくり、立て続けに名古屋・広島・・・などに
開校していったのは必要不可欠なことであった。

285日本@名無史さん2019/05/21(火) 21:59:33.86
終わってんなこのスレ。誰も読まない長文垂れ流し、たまに書き込む人がいても長文に埋もれてレスは無し。
どうなってんだよ

286日本@名無史さん2019/05/21(火) 22:55:30.68
武内宿禰の紙幣とかは生で見たことある

287日本@名無史さん2019/05/22(水) 05:35:00.88
>>285
あのですね、このスレッドには何種類かのヒトがいて、歴史の面白さを半減させようと日夜努力しているのです。

1.自称、高学歴で知識はあるが、長文で書き込むしか能が無く、他人の論評は一切受け付けないヒト。
2.何か意味がありそうなやりとりがあると、必ず「自演」と決めつけて、自分の優越感を満足させるヒト。
3.古代から近世に至る事象を、すべて現代の価値観でしか評価できず、反論の存在を認めないヒト。
4.社会階層の話が出ると、ヒエラルキーやファクトの存在を無視して、自説絶対主義に逃げ込むヒト。
5.世間一般常識人の書き込みに対し、知的レベルなり学歴を自分勝手に設定し、相手を見下すヒト。
6.ここに書き込まれる質問や意見を、自分に関係あろうがなかろうが、その価値を絶対認めないヒト。
7.歴史上の事実を一元的解釈することに固執して、ユーモアやウィットという手法で表現できないヒト。

…とまぁ、上記各項の属性を一つあるいは二つ以上持つ人々が、暇潰しでスレッドを無意味に伸ばし、
多くの記事を投稿することで、自分の蘊蓄こそが他者のそれより優れているという自己肯定感の確認
作業をしている訳ですから、御指摘のとおり「終わっている」という風に捉えられても仕方が無いです。

とはいえ、希望の光がまったく差さない訳でもなく、客観的エビデンスに基づいた事実確認や用語の
定義等による会話というものが、時々ですが出現します。故にここで希望を持つことはなかなか難しい
ですが、絶望的になって歴史に対する興味全部を投げ出すには、少々惜しい存在だとも考えます。

で、こういう書き込みをすると、やれ自演だの低能だの低学歴者扱いをする人が、ほぼ必ず現れます
から、それをどう受け流すかが一つのポイントになります。とどのつまり、記事の読み方を自分なりに
工夫する必要がありますので、投稿内容の理非善悪は別として、読み手を選ぶ結構厄介なスレッド
だと考えるべきでしょう。

288日本@名無史さん2019/05/23(木) 06:17:16.46
明治維新後、戸籍を作るときに、身分制度として 皇族・華族・士族・平民 の四身分と
したのだが、その前に一時期、士族の他に卒族という身分を設けていた。
皇族・華族・士族・卒族・平民 の五身分としていたわけだ。
ここで、「卒」とは兵卒の卒。下級の兵士のこと。召使いの意味もある。
卒族として扱う人々としては、足軽や武家の奉公人たちを予定していた。

足軽とは、もともとは槍組や弓組、鉄砲組に属する雑兵と呼ばれる人たちであった。
時代が下がると、様々な末端の雑務に従事するようになった。
「書き足軽」という、行政事務を業務とする人たちもいた。
武家の奉公人とは、主君から見ると「家来の家来」であるから、「陪臣」とか股者(また
もの)と呼ばれていた人たちである。
陪臣でも仕える主人が高禄の武士だと、内部では「家老」と呼ばれていたりした。
ところで、卒族というような身分を認めると、明治の元勲の多くがこれに当て嵌まって
しまう。伊藤博文などは「中間」(ちゅうげん)だった。
中間というのは、主人の雑用係で男の女中さんのようなもの。主人が登城するときに
鋏箱に弁当を入れてお供する家来がいるが、あれが中間である。
(草履取りのような役目をする家来は小者と言った。)。
山県有朋は手明鑓(てあきやり)という、足軽より下の郷士のような身分だった。
最下級の兵士身分である。
伊東も山県も、元をただせば間違いなく卒族に分類される身分だった。

289つづき2019/05/23(木) 06:18:25.24
そういうこともあってか、卒族という身分はなくなり、武家関係はすべて士族という
身分に統一されることになった。
しかし、そうなると今度は本来は卒族に入るべき人の中で、士族に入る人と平民に
入る人をどう区別するかが問題になってくる。

これについては、実務上「代々世襲していた家かどうか」が基準とされていたようである。
世襲される「家」があれば士族、一代限りの勤めであれば平民とされたのである。
当主が死んだときに、跡継ぎによって相続がなされるものは「家」である。
家というものが、藩から認められているものであれば相続が許されるし、認められていな
ければ、跡継ぎがあっても相続はなされない。
重要な点は、藩の認める「家」として成立しているか否かであった。

前スレの816にこう書いた。
磯田道史 近世大名家臣団の社会構造 東京大学出版会 から抜粋した資料。

−−−−−−−−−
大名の家中は、士(侍)、徒(歩行)、足軽に三区分できる。
岡山藩の宝永四年(1707)の人口調査によると

士格の家が758で全体の19.2パーセント 家族を含めた人数 3026人
徒格の家が762で19.3パーセント   家族を含めた人数  2700人
足軽の「家」が2436で61.6パーセント 家族を含めた人数 3130人

290つづき2019/05/23(木) 06:19:04.05
足軽は2500ほどの「家」があるが、家族全体の人数は3000人強
士格の家族全体の数と変わらない。
一世帯あたりの家族数は1.2人程度で、これは単身者がほとんどということである。
足軽以下では一代限りの者がほとんどで、家として相続が認められるのは
一割以下であった。
足軽以下の身分の人たちは、単身で組屋敷に居住するのがほとんど。
近隣の農村に住み、通って来る者もいたようだ。
要するに足軽以下というのは近隣の農村の次男坊とか三男坊で、人別(戸籍)は
村に残し、近ければ歩いて通い、通うのが無理ならお長屋に住んで役を勤めていた
ようである。彼らが城下町において家を形成することはほとんどなかった。
−−−−−−−−−

2436戸(家)の9割以上は一代限り。残り1割に満たない、おそらく200戸程度の
家が相続を認められていた。この200戸程度の家の当主は、身分は低いが家臣団
の一部を形勢していたといえるのである。
そもそも足軽の俸給は五両二人扶持と相場が決まっていた。しかしこれでは一人で
暮らすことはできても家庭は持てない。
「家」と認められるには、まず家庭を持ち子供を育てられるだけの俸給を得ていな
ければならない。
この点、「家」を認められた足軽は、二十俵三人扶持とか、一般の足軽より多く
支給されていたのである。
俸給を多くしてもらうには、まず精勤に精勤を重ねて働きを認められなければならない。
生涯隙間無く働き、功労として俸給を上げて貰うのが先決である。
その一般より高い俸給を跡を継いだ息子も貰えるようになれば(継いだ当初は多少
減らされるのは慣例だが)、とりあえず家として認められたことになるのである。

291つづき2019/05/23(木) 06:19:51.13
生涯仕事一筋の足軽は独身者がほとんどである。だから養子を貰って継がせること
が多いのだが、その養子は誰もが納得する真面目で評判のよい男である必要が
ある。この場合、足軽は足軽で独自の社会を形成していたから、養子は足軽社会に
属する気心の知れた人間が最も良い。結局、同僚の次男とか甥とかが一番妥当と
いうことになる。さらに、養子を身分の高い家から貰えば、相続が認められる確率は
高くなるだろう。足軽でも存外家中の名家と繋がりがあることが多いが、それには
身分の高い家の縁者を養子にしたとか、そんな事情があるのかも知れない。

江戸時代の村では、村内の「家」を家株として把握することが行われた。
村の一員として存続しうる家を家株と言い、村の負担や諸事業は家株に担われたから、
家株の減少は村にとっても死活問題だった。
だから相互に助け合ったのだが、その努力にかかわらず潰れ百姓になる家も出た。
こうした場合、小規模農家が潰れるのを防ぐため分家を認めない村でも、
絶人株(後継者が絶えて空いた家の株)を 継ぐためであれば分家を認めた。
五人組を形成するのでも、まずはしっかりした家株の農家であることが前提であった。
要するに、家があって農業をしていれば「家」と認められるのではなかった。
これまで継続してきており、これからも継続していけるであろう家であってはじめて
家株と認められたのである。
家株であってはじめて村の中で存在も発言権も認められたのである。
実際上は、おおよそ持高三石未満では家の存続は不可能であった。
こうした小規模農家は三代も続かず村から姿を消すことになる。
だから、村の中でははじめから家株として数えられていなかった。

292つづき2019/05/23(木) 06:20:49.97
足軽の「家」も、農村の家株と非常によく似ている。
その足軽の家が「家」と認められていれば、その家の子が家を継いで続いてゆく。
そうでないなら、たまたまその足軽が足軽を稼業として渡世しているだけに過ぎない。
明治になって、戸籍作成の際、「代々世襲していた家かどうか」が基準とされたのは、
藩の認めた家の足軽なのか、そうでないのかを区別するためであった。

明治五年からの戸籍作成にあたり、戸長が苦労したのが、足軽身分の者の取り扱い
であった。相手は士分であると言うが、足軽とは、上記のようにほとんどの者が一代
限りの傭われ者に過ぎない。このため、「代数調べ」ということがなされたようである。
代数調べに関する書類が今でもあちこちに残っている。
単に何代に亘る奉公かということだけでなく、先祖の由緒書きなども添えられている
らしい。こうした書類は、おそらく藩庁で作ってもらったものなのだろう。
明治四年に廃藩置県がなされたといっても、即座に藩庁がなくなったわけではない。
秩禄処分が決定されたのが明治九年であるが、金録公債発行開始が明治十一年
である。藩の残務処理は継続されていたのである。

293つづき2019/05/23(木) 06:21:56.49
ところで、>>281
>厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・
という見解は基本的に正しいが、武士の戸籍(?)である分限帳は、足軽について
は作成されない。分限帳に載っているのは上級武士だけである。たまに徒について
作成されたものもあるが(井伊家など)、足軽について作成されることはない。
足軽の記載は、なされても数だけである。「○○差配、足軽70名」など。
分限帳に載るのは原則として「お目見え以上」と解するのが妥当である。
お目見え以上だから、その武士の名前や先祖がどうしたとか(由緒)が問題となる
のであり、お目見え以下の徒にはその必要はない。
ましてや足軽の名前や先祖など殿様が知る必要は全く無いのである。
ただし相続の認められる足軽は、一般の足軽とは給与の額も形態も違っていた。
藩から直接家禄を頂戴していたので、藩にはそれなりの情報が届けられていたので
ある。だから代数調べも可能だったのである。
(陪臣の場合は、主家に書類を書いてもらったのだろう。)。

代数調べ関しては、次のようなことが問題となる。
足軽の家が藩から「家」と認められていない限り身分の相続はなされないというが、
一代限りといわれる雇いの足軽でも、事実上は子が跡を継ぐことが可能だった。
足軽や徒の息子は、元服前の13歳ぐらいで早くも見習いに出たようである。
今でいえば中学一年程度の子供である。
上級武士とちがって兵隊のようなものであるから、子供でも勤まらないことはない。
こういう子供がウロウロしている間に顔を覚えられ、皆に可愛がられる。
そうしているうちに父親が引退することになり、ではお前が跡をやるかということに
なる。そうやって代替わりをしていくのが普通であった。
そうだとすると、ただの足軽でも何代にも亘って奉公している者がいくらもいるのでは
ないか、これらの者が士族であると主張したらどうなるのか、という疑問がわく。

294つづき2019/05/23(木) 06:22:54.67
版籍奉還の後、知藩事は実収石高の十分の一、藩士の家禄は残り十分の九から
藩の経費を差し引いたものを分かつことになった。
石高の大きい家ほど家禄を大きく削られ、家臣を養っていく余裕は無くなった。
藩も、足軽を傭う余裕はなくなった。廃城令は明治六年だが、城ははやくも放置されて
いた。とうの昔に参勤交代もない。足軽など、そもそも必要がなくなっていた。
だから戸籍作成が始まった明治五年頃には、足軽や陪臣のほとんどが姿を消していた
はずである。残っていたのは家として認められていた足軽とか、主家と分かちがたく
繋がった陪臣だけだっただろう。
明治五年の段階では、まだ武士がいた。大名は廃藩置県で無くなったが、金録公債
が発行された明治十一年までは武士というものがこの世にいたのである。
だから戸籍作成の際は、その人たちを士族とすればそれでよかった。
さらに、陪臣や足軽でも、現に刀を差してそこにいる人を士族とすればいいのだから、
認定にそれほど困難はなかったはずである。ただ、世の激変で、本来士族とすべき
陪臣や足軽でも、引退したり職を変えていたような人たちもいただろう。そういう人たち
が士族とされることを望んだときに、上述の代数調べのような書類が必要だっという
ことなのではなかろうか。実際も士族認定はかなり寛容であったようである。

295つづき2019/05/23(木) 06:23:49.91
具体例を挙げる。(事案は幕府の同心であるが、足軽と同じと考えてよい。)。
樋口一葉の父は武士に憧れ、甲州から江戸へ出て武家奉公をし、妻を貰うと妻も
奉公して二人でコツコツと金を貯めた。その金で八丁堀同心の株を買ったが、
買ったとたんに幕府が倒れた。こうなると悲劇というより喜劇である。
しかし、それでも樋口家は士族となった。一葉は、華族や士族の娘しか入れない
萩の舎という私塾に入って和歌などを学んだ。
父親が同心株を買わなければ士族にはならず、一葉が小説を書くこともなかった
わけである。
ところで、注意すべきは一葉の父親は同心「株」を買っていたから士族になれたと
いうことである。ただ同心になっただけでは士族になれたかどうかは分からない。
「株」すなわち同心の家株を買ったから、代々相続されてきた同心の家の当主という
ことになり、それ故に士族と認定してもらえたのである。
足軽の相続が認められるか否かも、家株が出来ていたかどうかによるわけである。

最後に。足軽が武士であるかどうかなどということは、明治になって「足軽を士族と
認めうるか」という平面で問題になったにすぎない。
江戸時代に足軽が武士か、など論ずる人もいなかったろう。
足軽は足軽なのである。士分でなければ徒でもない。
士分のようなものが武士であるとすれば、足軽は武士ではない。
しかし、大小二本差しとか羽織が着れるとか、似たような部分もある。
共通点をあげていって、結局足軽も士分ではないかと言えば、その通りだと賛成
する人もいるだろう。だがそんなふうに結論づけても特段意味はない。
違うものを違うと言っても、同じようなものだと言っても、結局同じことを別の方向
から言っているに過ぎないのである。
同じ材料を使っても、結論はいずれへも導きうる。
最終的には武士というものをどう定義するかの問題にすぎない。
といっても武士の定義づけにさほどの意味はない。
歴史学は規範科学ではないのである。

296つづき2019/05/23(木) 06:24:40.98
上の、伊賀無足人がどうのこうの、或いは郷士がどうしたのという書き込みは、武士か
どうかという問題設定をしている時点ですでに妥当でない。さらに言うと、資料に市史を
使っているのは噴飯ものである。
市史などというものは、一般に言われているところを概説的にまとめたものにすぎない。
当たり障りのない文章を叙述したものにすぎないのである。
だいたい市史編集なんてものをさせられるのは、いわゆる窓際族のおじさんとか、
主流から外れた人たちであることは誰もが知るところである。
>>270 の人とか、何を有り難がってるのかよく分からない。

また、「伊賀国における郷土集落 と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」
というのをググってみたら、立命館の会報の論文で、修士課程の論文に手を入れたもの
だという。著者も現在研究職にあるわけでもなさそうである。ググっても何も引っかかって
こない。こんな卒両論文に毛の生えたようなものを資料にしてどうするのだろうか。

>>285 >>287 はきわめて無礼である。だから書いたのだが、ついでにもう一つ書いて
おこう。このシッタカ男は >>148 で郡史の利用を勧めているが、正気の沙汰とは思えない。
一介の庶民の出稼ぎ先だの就職先だのを調べるのに何で郡史なのか。
こんなものを調べたって役に立つわけがない。出身地の郡史を調べて、「漁業が盛ん」
ということだったら、漁業関係の出稼ぎ、ということになるのか?

297つづき2019/05/23(木) 06:25:26.34
そもそも岡山での職業が明確に分かったって和歌山での職業特定の役には立たない。
岡山での職業と和歌山での職業が直接関係あるかは不確定なんだし。
農業やってたのが一念発起して和歌山で事業を興したという場合だってある。
どういう職業だったのか等は、移転先の和歌山で調べるのが妥当だし、まずは
移転先の住所を確定して、その住所のある場所がどんなところだったのかを調べるのが
普通だろう。その際に町史などを利用するなら理解できる。
出身地の郡史など迂遠すぎてお話にならないわ。

だいたい普通の人なら、自分のお祖父さんが何の仕事をしていたかぐらいは分かるよな。
親から聞いてる。
だったら、親は曾祖父の職業を知ってるだろ。その親から聞いてるはずだから。
その曾祖父が何故養子に行ったのかとか、養子先はどんな家だったのかなどは
やっぱり親(質問者の親)は聞いてるんじゃないのか?
普通のことじゃないからな。
それが全く分からないというなら、そういう家なんだと諦めるしかない。
そこの家の人間だって分からないものが、他人に分かるわけがない。
よその家のひい爺さんが明治時代に養子に行った先の家のことなんか、
誰が分かるっていうんだ。笑ってしまうよ。

298日本@名無史さん2019/05/23(木) 12:03:40.66
黒田官兵衛の祖父は目薬屋だが極めて教養高い人物だったため元は高い身分の武士の家系だったと
いうのが最近の見解らしいが、それでも「それでも」、家系についての明確な伝承はないし
字が書けるだけの家なのに系図も正確に残っていない。
 こういう家でも家系図のない程度の家ということなのかね?

299日本@名無史さん2019/05/23(木) 14:29:12.27
黒田家の出自も色々な説があるからな

300日本@名無史さん2019/05/23(木) 17:25:40.02
相変わらず長いねー。逆に感心するわら

301日本@名無史さん2019/05/24(金) 06:00:01.15
   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    |  よくもまあエサに釣られるクマだな…
   \________________

      ΛΛ  ll:::::::::::l|
      (   )―ll:::::::::::ll―――
      /   つ二二lニl
    | ̄ ̄|__)―ΛΛ―――   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    `ー┬‐''  (   )       <  もう皆さん嘲笑しているのにね…
      ┴    |  ヽ.        \______________
           し___)〜

302日本@名無史さん2019/05/24(金) 13:07:00.64
ろくでもないこと書いて、笑われると後からネタだよという馬鹿

最近多いよね

303日本@名無史さん2019/05/24(金) 16:58:42.55
うん、百姓と武家で顔が違うの珍説はマジ笑えた

また誰かやらかしてくれないかな

304日本@名無史さん2019/05/25(土) 08:08:17.61
百姓と武家で顔が違うというのは真面目な説だ
私は感動した
珍説とは何だ馬鹿者
ふざけるのもいい加減にしろ

305日本@名無史さん2019/05/25(土) 10:16:12.27
>>298
山岳民系だからだろ

306日本@名無史さん2019/05/25(土) 12:29:22.69
>>304
へー、医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ

くわしくおしえて、馬鹿だからわかんない

307日本@名無史さん2019/05/25(土) 12:36:31.79
なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
ひで

308日本@名無史さん2019/05/25(土) 12:38:30.02
なんだかなあ、、

黒田は教養が高いから名門の可能性
秀吉も元は地侍層かもしれない
蜂須賀は国人だと思われる

もうさ、こんなんだらけで、もうエフランガイジは歴史とか感心持つの辞めろや

309日本@名無史さん2019/05/25(土) 12:43:10.62
なら白山信仰の山伏なんか、薬学、力学、物理学、工学などあらゆる当時の知識の総合デパートだから、
山伏は皆超名門の武家だらけだな。

なら白山信仰こそ究極の戦国以前の武家の信仰だ。

江戸武士は白山信仰の奴も多いが、
もう白山信仰や山伏を非差別なんて二度と言うなよ

エフランは本当にガイジそのものだわ

310日本@名無史さん2019/05/25(土) 13:19:35.49
>>304
池沼だな
医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースだってよ
プッ

311日本@名無史さん2019/05/25(土) 13:34:41.04
顔立ちも、
江戸以降の武士は庶民からでていて、
一介の藩士と庶民層にはほとんど変わらない類似点が多すぎて話にならない。

法医学が言ってる武士は上級武士(高家や旗本、大名)は庶民と違うと言っている。

庶民も堀が深いと言っており、
逆にノッペリは上級支配層に多いと言ってる

この堀の形成の最大のものは、実は遺伝性以上に食べ物とも。

312日本@名無史さん2019/05/25(土) 13:41:54.68
馬鹿だよなっっっwやっぱりな

313日本@名無史さん2019/05/25(土) 13:50:27.73
>>308学会の説ではないの?一部??

314日本@名無史さん2019/05/25(土) 13:50:38.36
>>280
今住んでる場所がどこか分からないので何とも言えないが
江戸時代、栃木や茨城なんかには北陸からたくさんの農民が移住してるよ

315日本@名無史さん2019/05/25(土) 17:36:13.31
>>314
なんで?

316日本@名無史さん2019/05/25(土) 18:37:27.53
>>311
食生活の関係で顎が小さくて現代人に似た顔だったんだろ、環境性の変化だよ

317日本@名無史さん2019/05/25(土) 19:16:45.62
>>316
そう、あと脂肪率
平百姓以下や下級武士の栄養率の問題
かなり栄養不足なため、元はノッペリでも、
目も窪み、筋張る

見た目の目鼻立ちなんてかなり栄養率が関係 してる

318日本@名無史さん2019/05/25(土) 21:49:18.10
モンゴル人は肉を大量に食べてるし乳製品も豊富に摂る。
酒だって馬乳酒とかだった。
それだって顔はノッペリしてる。栄養なんか関係あるかよボケ

319日本@名無史さん2019/05/25(土) 22:26:33.99
源氏も平氏も天皇家の分家なんだからのっぺりしてて当然じゃない?

320日本@名無史さん2019/05/25(土) 22:37:06.82
>>308 >>309

エフランなら大学行ったということだろ。そのレベルですらない。
リアル厨房とか中卒ボケ爺さんレベル

>>267 なんて市役所に問い合わせるなんて言ってるんだぜ
ここまで猛烈に頭悪いと逆に爽快だわ

>>306 なんか
>医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ

とか言ってる。学問的データに日本政府公認て何だよww もう壊滅的に馬鹿

321日本@名無史さん2019/05/26(日) 02:36:34.88
>>319
臣籍降下したらもはや分家ですらないし、
朝廷降下した源氏や平の戸籍管理なんか一切してないから、家系図詐欺が横行できたんだが?

そもそも源氏なんてどこに源氏の総領経基と血統的近似性が保たれている証拠あんだよ?
公然に詐欺してオッケーの家系図すら、
二代目満仲でもはや生年月日から母親まで不の有様なのに、馬鹿じゃね?

322日本@名無史さん2019/05/26(日) 02:38:40.67
訂正

朝廷は、降下した源氏の戸籍管理なんか一切してない

323日本@名無史さん2019/05/26(日) 02:40:06.18
さらに訂正
二代目満仲の時点で生年月日から母親まで詳細が、全く不明という有様

324日本@名無史さん2019/05/26(日) 07:00:10.20
>>314
なんで? ってお前、

幕藩体制中期以降、都市商業の発展と農村荒廃を背景として広範な人口移動が
見られたのは常識レベルの知識だろうが

帰農令とか人返しの法とか学校で教わったろ
寛政の改革とか天保の改革とか 言葉だけでも知らないのか?

「人返し」ってのは都市に流入しちゃった農民を在所に帰すということだけじゃなくて
他領に逃げた農民を取り戻すため、勝手に移住した者を領主間の交渉で
召還することを含むんだよ。
逃散しちゃった農民を追跡して他領に居るのを見つけて、そこの領主に「俺んとこに
返してくれや」と掛け合ったりしたのだ。
そういう交渉もうまくいくばかりではないから、
農村が無人になる前に他領から新しく農民を移入させる。
そういうのに間引きが盛んかどうか(間引きをやらない地域では人が余っている)とか
いろんな理由がからんで、けっこう人口移動が盛んだったのだ
こんなことも知らないのか
義務教育で習うようなことも知らない馬鹿は来るなよ
特別支援学級じゃねえよw

325日本@名無史さん2019/05/26(日) 14:36:57.42
>>324
いや、なぜ北関東だったのか聞いたんだが?
発達の読解力を遺憾なく発揮されてもなあ

まあでも懇切丁寧にありがとう。

326日本@名無史さん2019/05/26(日) 15:31:51.69
コミュニケーション能力にちょっと問題があるようだな
なんで? だけで 「なぜ北関東だったのか」と聞いたことになるのか
発達の文章力を遺憾なく発揮してくれてもなあ・・・

まあ後から考えた言い訳なんだろうけど。一生懸命にご苦労さん。

327日本@名無史さん2019/05/26(日) 16:33:10.86
2chは玉石混淆だからな・・・それなりに妥当性があればチクチクやらなくても

328日本@名無史さん2019/05/27(月) 00:07:34.65
http://hist-geo.jp/img/archive/021_175.pdf

何故北関東かと言われても、最初はコネクションがあったからとか人脈がどうしたとか
しか言いようがない。多少浄土真宗が絡んでいるので、「仏縁」というべきか(笑
しかし、一旦北陸からの移民があった後は、秘密のルートとでもいうべきものが出来て、
長い間にかなりの数の農民が移入してきている。論文は寛政期から明治初期までに
限っているが、移住ということだけなら大正時代まで続くという。
村は現在の栃木や茨城のほぼ全範囲に分布しているといっても過言でない。
福島にも移住しているが、論文は栃木・茨城の延長線上の現象と捉え割愛している。

偶然ともいうべきキッカケで始まったものではあるが、理屈をつければそれなりの理屈が
付く。まず、真岡への移入は、天領であったことが最大の理由だろう。
他国の百姓を受け入れてしまうのだから、悶着が起こるのは当然予想される。
しかし、百姓が逃げ出して来るのは越後高田近在。あちらも天領、こちらも天領。
一番問題が少ないパターンだろう。
一方で、茨城の方面は、当初は笠間であった。笠間は譜代とはいえ大名領である。
そして百姓が逃散してくるのは加賀から。あちらの大名にとっては違法行為である。
大名同士となると話はそう簡単でない。
ただ加賀藩は外様で、最も幕府に気を使っている大名である。
表だって喧嘩はすまいという見込みがある。
とはいいながら、実際も加賀からの百姓の移住には往来手形を偽造するなど、かなり
慎重な配慮もしている。おっかなびっくりだったようで、真岡に比べると数も少ない。

あと、さすがに江戸の近郊で他藩の逃散百姓受け入れなんてことをやったらマズイだろう。
その点、真岡とか笠間などは、当時江戸からみたら北方の山裾で、どうでもいいような田舎
であった。
あと、常陸の宍戸藩なども同じようなことをしているが、こちらは水戸藩の連枝である。
怖いもの無しだったろうと思われる。

329日本@名無史さん2019/05/27(月) 06:58:19.97
>>320
先生、こちらは壊滅的に馬鹿だからマジで分かんないことばっかりです

馬鹿につける薬がないならあきめますが、先生ならいろいろ高度な知識がおありでしょうから
できればおしえていただきたいので、少々ものをお伺いしてもかまいませんか

公に認められる医学的データで、厚労省が認定した臨床データ以外のものがあるんですよね
でも、学会誌にある論文は卒論に毛が生えたようなものだから信用したら駄目という人もいるし
百姓と武家で顔が違うことを証明できる学問的データが、どこから出てくるか全然分かりません

壊滅的な馬鹿でも分かるような解説をしていただけたら嬉しいです どうぞよろしくお願いします

330日本@名無史さん2019/05/27(月) 08:03:42.14
上に示した論文(pdf)の末尾に参考文献はたくさん並んでるけど、
「北陸・関東移民」でググれば資料はいくらでも出てくるよ。
天明の大飢饉が一番大きな打撃だったのだけど、うち続く冷夏長雨で
洪水も頻繁に起こり、低湿地は荒れ地のようになってしまった。
江戸時代は寒冷化がすごい。
関東の人口減少もすごい。
逃散は御法度だし、そこをどうやって逃げだしたのか。
道中をどうやってやって来れたのか。
他国人が村に入って田や畑を手に入れる過程。
やはり移住がうまくいかず、そうかといって戻れば罰せられるだけ。
より山奥や荒蕪地に入っていく農民たち。
スリリングで息をもつがせない事実の連続である。
面白いといったら何だが、少し興味を持っても損はないと思う。

北陸の人間は関東人に比べて根性あるな、と。
それから浄土真宗というのは特別の宗派である。
戦国の石山合戦とか見るまでもなく、何だか不気味なまでに強靱。
あとネットワーク力が半端ではない。
北陸人が村に同化していくところは富山の薬売りを彷彿とさせるところがあるな。
上の論文にも書かれているが、北陸の人というのは全然故郷にこだわりを
持たないな。真宗という宗教の力なのか何なのか分からないが何とも不思議。
北陸というのは陰湿で意地悪で居心地も悪く、どこでもいいから他国へ行きたく
なるような場所だという人もいるなワハハw

三重大学の教授やってる人が若い頃に調べたことを軽く書いてるページ
面白いわ
http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2002apr/tokushu/index.html

331日本@名無史さん2019/05/27(月) 09:15:56.97
なお、加賀藩の農民というから石川県かと思うと大間違い。
今の富山県礪波郡の農民が多いという。

富山は真ん中あたりが富山藩で西も東も加賀藩領だった。
茨城に来た農民たちは越中富山の人たちであった。

332日本@名無史さん2019/05/27(月) 14:37:39.70
>>324教科書的学者脳では自由な移動はできず、した場合は無戸籍へ落ちるじゃないの?

333日本@名無史さん2019/05/28(火) 02:11:22.62
https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/open_imgs/info/0000000093_0000027078.pdf

相馬中村藩への南砺地方農民の移住について

相馬中村藩には現市町村名で 南砺市や砺波・小矢部市などから九千人弱、
最終的には一万人ほどの入植があったようである。
こんな狭い地域で一万人というのだから、茨城県全域だとどれほど入植したか
分からない。

相馬中村藩というのは、現在の南相馬市、相馬市。
津波と原発の被害を受けちゃった地域だな。

334日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:20:24.56
相馬中村藩は、加賀藩農民の移入だけでなく、南部最上地方で女買い入れをしている。
南部藩は天明の大飢饉による人口減少が最も激しかった藩の一つだが、女の方が
飢餓に強いらしく、男に比べて女の方が多く生き残った。
女余り現象が起きていたのである。
女をたくさん連れてきて、嫁のない家に配った。

335日本@名無史さん2019/06/05(水) 21:12:04.22

336日本@名無史さん2019/06/12(水) 06:47:49.34
老中として後に寛政の改革と称される諸政策を実施した松平定信は、田安家の三男で
八代吉宗の孫にあたる。奥州白河の松平家に養子に入り、藩の立て直しに成功した。
この手腕を評価され老中となったのである。

定信が養子となって(婿さんに入ったのだが)、白河にお国入りして一番驚いたのは、
白河には女がいないことであった。もともと当時は女が少なかった。
当時の人口推計によると、女性は男性の70%程度しかいなかったようだ。
間引きの対象となるのは女の赤ん坊が多かったためである。
白河では定信が驚いたぐらいだから、平均的な数値よりはるかに少なかったのだろう。
50%もいなかったのかも知れない。
家々には、歳をとった男たちが独身のままで暮らしているのが目立った。
そこで定信は、越後にある白河藩の飛び地から女を呼び寄せることを企画した。
当時の言葉で「女買い入れ」という。
越後から若い女が続々とやってきたので、片端から農家に嫁入りさせた。
嫁配りをしたのである。

337日本@名無史さん2019/06/12(水) 06:48:27.09
定信は人口減少の原因である間引きをやめさせる方法として、巫女を使った。
領内には「市女」(いちめ。巫女。沖縄のユタや恐山のイタコのようなもの)というものが
いて、死者を憑依させて口寄せをしていた。
この市女にク使を添えて村々を廻り、間引きされた赤ん坊の口寄せをさせて女どもに
聞かせたのである。
死んだ子供の泣き声や恨み言を聞いて、女たちは衝撃を受けた。
越後から女たちを呼び寄せたのも、越後の女たちは間引きの習慣がないという
ことが理由の一つだった。越後女がよい影響を与えるだろうと期待したのである。
その他、僧侶に「受苦図」を持って廻村して地獄で責め苦にあう様を示したりした。
これらの方法で一応はその目的を達したということである。

ほぼ同時期に、米沢藩では有名な上杉鷹山が領民の間引きを禁じ、違反者に対する
処分方法を決め、育児資金を設けて極貧者には給付することとした。
その結果、鷹山の晩年には嬰児虐殺の風習が全くやんだということであり、それを
聞いた他の大名が「こればかりでも名君なり。大功かな。」と賞賛したということである。
どの大名も間引きによる人口減少には悩んでいたということが分かる逸話である。

338日本@名無史さん2019/06/12(水) 06:49:31.34
間引き対策には、天領を預かる幕府の代官たちも心を砕いている。
上に出てきた下野真岡の代官竹垣三右衛門直温はさまざまな功績を残したが、
間引き対策が重要な事蹟となっている。
間引き対策と越後からの農民の移入は、一連の人口対策であったようである。

美作と備中の代官であった早川八郎左右衛門正紀は、任地である美作・久世と
備中・笠岡に赴いたときに、いたるところの川端や堰溝に古い茣蓙(ござ)の苞(つと)
があるのを見た(ツトとは納豆の藁苞など、花の蕾のような形に包んだもの)。
怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだものであった。
男子には扇子、女子には杓子(しゃもじ)を付けてあり、その惨状に目を覆ったという。
扇子は今でも男の子の七五三に付きものであり、末広がりで目出度いということと、
昔は身分の高い人から何かを貰うときは扇子で受けたことから、お金をたくさん貰える
(稼げる)ようにという願いが込められている。
杓子はご飯をよそるものであるところから、生涯食べ物に困らないようにという願いが
こめられたものである。子供のお七夜(生まれて七日目の祝)などに新品の杓子で米を
盛って食べさせる真似をする儀式などがあった。

339日本@名無史さん2019/06/12(水) 06:51:59.53
>>280 は「逃げる百姓 追う大名 江戸の農民獲得合戦」  宮崎 克則 (中公新書) |
という本を読むといいよ

現状に耐えかねて、あるいはより良い生活を求めて、村を捨てて逃げ去る百姓を
「走り百姓」というのだが、江戸時代はこの「走り」による人口移動が想像以上に
盛んだったようである。
もともと藩と藩や天領との境界などは勝手に決められたもので、それより先に
物資流通や通婚など文化的・経済的に一体化した地域圏というものがあった。
そういうものを無視して一つの地域が分断されることも無数にあったわけである。
百姓たちは黙って土地に縛りつけられてはいなかった。嫌だと思えば逃げる。
逃げるといっても無闇に逃げるのではなく、協力者もいれば受け入れ先も
あることが多かった。
年貢や夫役の負担者である百姓が逃げれば困るから、領主は必死になって
その防止策を考える。厳罰による脅しもあれば甘言もあった。
逃げた先の領主は働き手が飛び込んでくるのだから大歓迎である。
逃げられた方はそのままにしておけないから取り戻しをはかる。
相手方領主と喧嘩腰の取り戻し交渉をする場合もある。
それもたいへんだから、走り百姓の親戚に七日以内に連れ戻してこい、
それができなかったらお前ら全員同罪、などと命令したりする。
五人組にみんなで行って連れ戻してこい、連れ戻せなければ打ち首だ、などと脅し、
一方で連れて帰れば銀10枚、などと言ったりする。
どこまでも追いかけろという命令も多い。これは、一度は連れ戻しに出かけるが、
「あいつは逃げた先からまたどこか遠くへ逃げてしまいましたー」と報告して
終わりにしようとする追跡者が多かったためである。
逃げた百姓本人にも厳罰が定められているのに、帰ってこい、帰ってきたら
褒美をやろう、さらに一年間作り取り(年貢なし)にしてやるぞ、などと甘い条件を示す
(親戚とかに言わせるのだが)。
とにかく、江戸時代のイメージがくつがえるぞ。

340日本@名無史さん2019/06/14(金) 11:14:36.41
>>308
 これって最近の有力な説だろ??大学閥かなんかで喧々諤々なの?

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