遣隋使や遣唐使が日本、特に京都の歴史に与えた影響

1日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:09:46.27
A氏:この問題で池上氏は、3月29日付東京新聞朝刊の「本音のコラム」での文芸評論家の斎藤美奈子氏の記事を引用しているね。

斎藤氏は次のように鋭く喝破している。



「日本のパンの元祖は、幕末の伊豆韮山の代官で兵学者でもあった江川太郎左衛門が兵糧として焼いたパンだったこと。
明治初期に木村屋が開発したあんパンは発酵に饅頭用の酒種を使ったこと。一方、和菓子は遣唐使が持ち帰った中国の菓子にルーツを持つこと。
和菓子の発展を促した茶の湯も、栄西が大陸から持ち帰った茶からはじまること。つまりどちらも郷土というより国際交流のたまもので、両者の間に差などない」

https://plaza.rakuten.co.jp/ryu32/diary/201703300000/

京料理のルーツも中国にあるんじゃないの?

2日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:27:38.71
ポルトガル

3日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:30:31.50
和菓子が中国の菓子をルーツって言っても
羊羹の元の物と日本の物とを比べると原型がほとんどなさそう

4日本@名無史さん2019/01/11(金) 23:54:07.57
>>1
タイトルと中身が一致してないぞ。

5日本@名無史さん2019/03/03(日) 13:19:00.18

6日本@名無史さん2019/03/21(木) 00:18:01.80
和菓子も茶の湯も京都が本場

7日本@名無史さん2019/03/21(木) 10:14:27.62
技術泥棒チャンコロにすら見下された泥棒王チョンコ

8日本@名無史さん2019/04/02(火) 10:08:33.73
京都は閉鎖された日本の閉じこもり部屋だ
こういう子供部屋はさっさと片づけた方がいいだろう

9日本@名無史さん2019/04/02(火) 21:54:28.60
唐の第一回高句麗侵略(西暦644年)に始まる最初の日本の国難は、律令国家を目指した
大化の改新(西暦646年)を引き起こしたと言われる。その後、百済滅亡(西暦660年)、
白村江の戦い(西暦663年)、半島の新羅による統一(西暦669-675年)と大きな情勢変動を
背景に、親新羅の天武王朝を女系の持統天皇系が支えるという国内新体制への移行が
壬申の乱(西暦672年)で起きる。その後の日本は新羅と唐の二国家の影響下に置かれ、
唐が大きく衰退するまで、事実上、唐の属国であったと思われる。

万葉集の梅花の歌の宴会で序文を書いたとされる山上憶良は、第8回の遣唐使で西暦
702-704年に唐に滞在している。西暦717年の第9回遣唐使では阿倍仲麻呂、吉備真備、
玄ムらが入唐、吉備真備と玄ムは西暦735年に第10回遣唐使で帰国している。
更に第12回遣唐使(西暦752-754)では吉備真備が二度目の入唐を行い、唐の高官と
なっていた阿倍仲麻呂と共に帰国しようとするが、船の難破で阿倍仲麻呂が帰国できず
唐で生涯を終えたことは有名である。

歌が詠まれた天平2年(西暦730年)の時点では、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ムの3人は
共に唐に長期滞在中であった。そして、歌が詠まれたのは太宰府という日本の玄関かつ
対外外交の場であったのだ。

安史の乱での唐弱体化に決定的な役割を果たした楊玉環(楊貴妃、西暦719-756)は、
西暦735年に玄宗皇帝の息子の妃に、740年に玄宗皇帝の妃に、745年には貴妃となり
玄宗皇帝の寵愛を独占するに至る。752年には従兄の楊国忠が唐の大権を握るに至るが、
安禄山との対立が深まり、755年の安史の乱に至るという経緯がある。安史の乱終結後の
763年には吐蕃の軍が唐に侵入して首都長安を占領するなど、唐の弱体化は著しい。

10日本@名無史さん2019/04/02(火) 21:56:29.48
楊玉環(楊貴妃)は、生まれ・育ちでは日本に縁が無いはずだが、北朝系皇室(天武系
も排除されていることが重要)の菩提寺である京都市の泉涌寺には楊貴妃観音が有り、
三種の神器の一つを有する熱田神宮には「楊貴妃の墓石」がある。山口県には楊貴妃
が阿倍仲麻呂と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在し、長門市
油谷町の二尊院というお寺には楊貴妃の墓と伝わる五輪塔があるとされる。

これらの伝承は恐らく、日本の皇室が吉備真備や阿倍仲麻呂を唐に送り込んで
工作を行い、楊貴妃を玄宗帝の後宮に送り込み、内乱を誘発して唐を弱体化させ、
国難を打開したことが背景に有ると推察される。唐の弱体化を確認した764年に天武系
(つまり新羅系)男系最後の淳仁天皇が廃位となり、その後女帝の称徳天皇を経て
天智系(つまり日本系)の光仁天皇(770年即位)に皇統が戻ったのだ。

光仁天皇の即位にも、晩年の吉備真備が深く関与している様だ。更に、奈良県五條市
にある楊貴氏墓誌には、吉備真備が母の楊貴氏を天平11年(739年)8月12日に葬った
墓であることが記載されており、楊貴氏とは楊貴妃に因んだ「八木氏」の好字であると
されるが、楊玉環が「貴妃」の位に就く6年前に墓誌が書かれた点が合わないことが
指摘されている。これは、吉備真備が阿倍仲麻呂と協力して楊玉環を後宮に送り込み
貴妃の位に就けて玄宗帝を骨抜きにして唐を弱体化させるという計画を、在唐期間中
から遂行していたことを示唆しているのではないか。

11日本@名無史さん2019/04/03(水) 12:15:16.13
蕃国百残王族は日本の下級貴族として天皇に土下座して名前も倭麻呂とかつけられてしまいました。

12日本@名無史さん2019/04/07(日) 23:25:46.78
最盛期の遣唐使を支えた詩僧・釈弁正
https://saigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=657&file_id=73&file_no=1
『日本漢詩ノート』E・・玄宗皇帝に愛され,唐土で没した二人の日本人の詩
https://blogs.yahoo.co.jp/kondou141124/29543921.html

釈弁正は囲碁を通じて即位前の若き玄宗皇帝と深く交流したとされており、そこで
玄宗の女性に関する嗜好を深く調べて楊貴妃を後宮に送り込んだのかもしれない。
外国人が政権中枢に深く入り込むというのは一般的な王朝では稀と思われますが、
鮮卑拓跋という騎馬遊牧民族が支配階層である多民族帝国だったからでしょう。

そして随唐、元に続く第三の国難である現代も、第一の国難と同様に多くの日本人が
日本を守る為に敵の本拠地である欧米に渡航して工作を続けているものと考えられる。
小野洋子はその工作員の一人でしょう。ビートルズはベトナム反戦運動に世論の関心が
向かうのを避けるために作り出された、国際金融資本の宣伝機関であったと思われます。
小野洋子はビートルズを消滅させ、その構成員の一人であったジョンレノンを転向させて、
ベトナム反戦戦争側で活動させることに成功しました。遣唐使に匹敵する大きな業績です。

現代で楊貴妃に匹敵するのは、恐らくダイアナ妃でしょう。玄宗はエリザベス女王夫妻と
チャールズ皇太子夫妻に準えられます。ひょっとしたらダイアナ妃も、楊貴妃の日本脱出
伝説のように、殺されずにどこかに脱出して生き延びているかもしれません。

13日本@名無史さん2019/04/09(火) 18:45:41.48
遣唐使ガチャ

14日本@名無史さん2019/06/15(土) 22:27:56.89
楊貴妃は道士だった? 最古級石版に拓本「修行励んだ」・・・
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201906/CK2019061302000269.html

道教は唐の国教だったんだから、楊貴妃が唐王族に取り入るにゃ、それも有効だったってこと。
要するに、一種の「美容整形」だったんだろ。

15日本@名無史さん2019/06/20(木) 20:34:56.69
京都に入ることを上洛といっている。
中国の洛陽を京都に擬したんだろう。

新着レスの表示
レスを投稿する