古代銅鏡は二十四節気の暦カレンダーだった

1アッシー2018/12/13(木) 03:08:18.21
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡には、二十四節気暦が3年分1サイクルとして円周上に配置されている。
古代銅鏡がどのような用途で製作されたものかいろいろ説があるものの、二十四節気の農耕暦が銅鏡に配置されていると言及されたことはこれまでない。
これが事実であれば、古代の祭祀者が行った農耕祭祀とこの二十四節気暦を鋳込んだ銅鏡は、切っても切れない関係にあったことが想定されることになる。
また、祭祀王たちの棺の方位の確定や墓域の設定なども、この二十四節気暦を配置した銅鏡を用いてなされたことが推測される。
こうしたことから、二十四節気暦を配置した銅鏡のひとつ一つの実例を、これからみてみることにしよう。

2日本@名無史さん2018/12/13(木) 06:45:15.61
ばかだな

3日本@名無史さん2018/12/13(木) 08:56:18.32
かばだな

4日本@名無史さん2018/12/15(土) 01:24:19.21
今、準備中だ。
鼻の下長くして、待ってろ。

5日本@名無史さん2018/12/15(土) 07:08:26.64
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

6日本@名無史さん2018/12/15(土) 08:38:30.24
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

7日本@名無史さん2018/12/16(日) 02:56:51.63
       埼玉県の埼玉古墳群中稲荷山古墳第一主体出土品の画文帯環状乳神獣鏡
  及びインターネットサイト・邪馬台国の会第327回記録が掲載する画文帯神獣鏡の一例の平面図について。

8日本@名無史さん2018/12/16(日) 08:24:03.07
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

9日本@名無史さん2018/12/16(日) 18:59:54.08
この埼玉の画文帯環状乳神獣鏡と邪馬台国の会の画文帯神獣鏡の一例平面図は同系の鏡とみられる。
そこで、鏡の置き方がほぼ東西南北軸に合っている邪馬台国の会の平面図を中心に述べて行く。
まず、邪馬台国の会の鏡の中央の紐を吊るすための小突起を中心点とし、この中心点からみて左右の二つの黒く塗られた図像の中心部と中央小突起の中心点の3点を軸線で結ぶ。
そして、この軸線上の左側の黒色の図像を二十四節気の春分点を示すものと設定する。
この春分点を示す黒色の図像から下のやや小さめの色を塗っていない図像の中心部に中央小突起の中心点から軸線を引く。
中央小突起の中心部に分度器の中心部を置き、そこからみて、春分点の東西線に対してこの色を塗っていない図像の中心部はきっちり15度の角度になる。
二十四節気では、この位置にある節気は立春点に当たる。
この線引きの作業を次の下の黒色の図像に対しても同様に行う。
そうすると、この黒色の図像の中心部も中央小突起からみて、きっちり15度の角度の位置にあることがわかる。
この位置の二十四節気は、冬至点に当たる。

このようにして、東西線上の春分点からすぐ上の色を塗っていないやや小さめの図像とその上の黒色の図像に対しても、中央小突起の中心点から軸線を引くと、それぞれの図像が15度ごとの角度の位置にあることが分かる。
この最初のやや小さめの色を塗っていない図像は二十四節気の立夏点、黒色の図像は夏至点に重なることが分かる。
このように、この5個の図像は、きっちりと二十四節気の冬至から立春、春分、立夏、夏至の各節気に重なる位置に鋳込まれており、この一致は偶然とは考えにくい。
また、この等間隔の角度に合う別の規則性を持った何かの事柄が別にあるとは思えない。

本文が長いとエラーメッセージが出るので、このあとは「続く」とする。

10日本@名無史さん2018/12/16(日) 19:53:51.14
踏み返しの画文帯

11日本@名無史さん2018/12/16(日) 21:57:48.65
>>9
このようにして、5個の図像が二十四節気の冬至点から夏至点にちょうど重なることが分かった。
そこで、さらに同じ作業を続けて夏至点の図像から上に進むと、色なし図像と黒色図像がやはり15度の等間隔で並んでいることが分かる。
夏至点の図像の次の図像からを3個目の図像は、ちょうど二十四節気の立冬と重なり、この立冬の期間中までが最初の冬至点からの1年分となる。
こうして、15度ごとの等間隔の図像の位置は、すべて二十四節気の冬至、立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬に重なることが分かったのであるが、
これまでの作業と同じ作業を続けて線引きすると、次の黒色図像が新たな冬至点に重なるので、その後の図像に順次二十四節気の各節気を重ねて行くと、
ぐるっと回ってさらに2年分の二十四節気と鏡の図像がぴったりと重なることが分かる。
図像は全部で等間隔に24個あり、二十四節気の上記の節気がちょうど3年分、その図像にぴったり重なることになった。
これは、おそらく偶然ではないであろう。

なお、文中で用いた角度は現代の角度概念であり、鏡製作当時にこのような角度概念があってそれが用いられたというわけではない。
二十四節気では1節気当たり15日として、1年を360日としていたようだ。
したがって、この画文帯神獣鏡では冬至点から立春点までを45日、春分点まで90日、立夏まで135日、夏至まで180日などと日数で節気の到来を数えた可能性が高い。
角度は、あくまで便宜的に等間隔であることを示すために用いているもの。

次回は、奈良県広陵町新山古墳出土の三角縁三神三獣鏡をみてみることにしたい。

12日本@名無史さん2018/12/16(日) 22:06:06.54
>>10
踏み返し鏡であっても、図像の位置は変わらない。

13日本@名無史さん2018/12/19(水) 07:10:40.81
          奈良県広陵町新山古墳出土三角縁三神三獣鏡について

インターネットサイト・ウィキペディア「三角縁神獣鏡」が掲載している神獣鏡のうち、広陵町新山古墳出土の鏡を見てみる。
まず、この写真をプリントアウトする。
鏡の置き方が南北軸が真横になっているため、印刷した鏡を九〇度左へ回転させる。そうすると、南北軸が正しく上下になる。
さて、鏡の中ほどに、六個の小突起が円形をなしている。
その円形の中央に紐を吊るす小丘があり、その小丘の中心点と上下の小突起の中心点の三点を軸線で結ぶ。
そして、小丘の中心点に分度器を置き、分度器の九〇度の角度の線と南北の軸線がぴったり重なるように合わせ、
分度器の左側の〇度と右側の一八〇度の位置に印を付けておき、分度器をはずして、その両方の印と中央の小丘の中心点を軸線で結ぶ。
この東西線の左側は、二十四節気の春分点と重なる。また東西線の右側は秋分点と重なる。
次に、左側の東西線から下にある小突起の中心点と中央小丘の中心点を軸線で結ぶと、その角度は東西線に対して三〇度となる。
この三〇度の角度は、二十四節気の冬至点と重なる。
そして、この作業と同じ作業を東西線の上の小突起についても行うと、中央小丘の中心点と小突起の中心点を結ぶその軸線の角度は東西線に対して三〇度となる。
この三〇度の角度は二十四節気の夏至点と重なる。
ということは、この上下の二つの小突起は、二十四節気の冬至点から夏至点までの半年分の間隔に重なっていることが分かる。

                            続く

14日本@名無史さん2018/12/19(水) 07:13:42.06
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

15日本@名無史さん2018/12/19(水) 07:43:31.34
                            続き

そして、ここまでの作業と同じ作業を、右側でも行う。
東西線の右側の下の小突起の中心点と中央小突起の中心点を結ぶと、小突起の中心点は東西線に対して角度が三〇度となる。
この角度上にある小突起の中心点は、二十四節気の冬至点と重なる。
また東西線の上の小突起の中心点と中央小丘の中心点を結ぶと、小突起の中心点は東西線に対して角度が三〇度になる。
同じく、この角度上にある小突起は、二十四節気の夏至点と重なる。
つまり、東西線の左側と右側を南北線で折り返せば、両方の小突起がぴったり重なるようになっているもの。
このことから考えると、東西線の左側の小突起の配置は、二十四節気の1年の前半の冬至点から夏至点に至る半年分と重なり、
右側の小突起は、二十四節気の1年の後半の半年分と重なることになり、そのような小突起の構成になっていると考えることが可能になる。
ところで、一方、それぞれの小突起の間は、単に空白にはなっていない。
等間隔に図像が配置されている。
これらの図像の中心点と中央小丘の中心点を軸線で結ぶと、小突起との間の角度がすべて三〇度の角度になるように配置されていることが分かる。
ということは、これらの図像も二十四節気の特定の節気とぴったり重なっており、小突起と図像を合わせて最初の冬至点から数えると、冬至点、春分点、夏至点、秋分点、冬至点、春分点、夏至点と続いて行き、
3年分の二十四節気のこれらの節気がぴったり円周に収まる配置となっていることが分かる。
つまり、この鏡の構成は、1年の半年ごとの二十四節気にも対応し、また3年連続の二十四節気にも対応している可能性を考えることができる。
なお、中央小丘の周りや外縁にも小球や山形が鋳込まれていて、これらが二十四節気と対照しているものかどうか注目されるが、今は保留とする。

16日本@名無史さん2018/12/19(水) 08:35:35.21
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

17日本@名無史さん2018/12/19(水) 12:23:35.00
>>16
そうでもないだろう。
中国式の土を塗りこめた土壁は、防寒・防風効果も考えた上で作り出されたものだろう。
日本の竪穴式住居が半地下式となっているのは、この土壁と同じ効果を持つ建築方法だろう。
日本は中国ほど寒くなく、湿気があるので通風効果も考えて、その土壁を高くしなかったということだと思う。
こうしたことを考えると、一概にどちらかの優劣を判断するよりも、気候風土に合った建築のあり方があったのだと考えるのが妥当。
したがって、日本にやってきた中国人は、日本の気候風土に合った建築を選んだということが考えられ、中国式の建物がないからといって、中国からの渡来人がなかったとは言いきれない。

18日本@名無史さん2018/12/22(土) 10:43:50.80
>>15
                          続き

    インターネットの「古墳出土の銅鏡・とりネット・鳥取県公式サイト」の鳥取県博物館掲載銅鏡について

この銅鏡は、中央の小丘の周りに12個の小突起を配置している。
中央小丘の中心点と、この中心点の左右にある任意の二つの小突起の中心点を軸線で結び、次にこの作業をその他の小突起に対しても行う。
そうすると、小丘の中心点と左右の小突起を通る6本の軸線を引くことができる。
これらの軸線は、中央小丘の中心点から測ると、すべて等間隔の30度の角度になっている。
ということは、12個の小突起は中央小丘から見てそれぞれ30度の等間隔の位置に配置されているということになる。
そして、この中央小丘を通る6本の軸線の任意の1本を東西線として定めると、この東西線上の左側の小突起が二十四節気の春分点と重なり、
この東西線の下30度の位置の小突起が二十四節気の冬至点と重なる。
また、東西線の上30度の角度の小突起は二十四節気の夏至点に重なる。
このようにして、この銅鏡の12個の小突起は、ぐるり一周で冬至点、春分点、夏至点、秋分点を1年とする二十四節気の3年分の節気にぴったり重なっていることになる。
前回挙げた奈良県広陵町新山古墳出土の銅鏡の小突起と図像の配置と、まったく同じ配置がなされていることが分かる。
これらの銅鏡の小突起や図像が、二十四節気の特定の節気とぴつたり重なる位置に配置されていることは確かなことであるように見える。
そうすると、問題なのは、それらの小突起や図像が二十四節気の特定の節気を表示するためにそこに配置されたのか、
それとも二十四節気の特定の節気を表した単なる模様なのか、あるいはまたまったく二十四節気とは無関係なのかということになってくるが、
今はそれに対する答えは保留しておくことにする。
以上のように、鳥取県博物館サイトの銅鏡も含めて、これらの銅鏡に配置された小突起や図像の位置に、二十四節気の特定の節気がぴったり重なることは間違いないといえそうだ。
次回は、椿井大塚古墳出土三角縁四神四獣鏡の円周の山形図像について見てみることにする。
 

19日本@名無史さん2018/12/22(土) 10:44:17.21
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

20日本@名無史さん2018/12/28(金) 17:40:53.01
          インターネットの「第336回邪馬台国の会 仁徳天皇陵古墳」が掲載している椿井大塚山古墳出土三角縁四神四獣鏡の平面図について

京都府木津川市にある椿井大塚山古墳出土三角縁四神四獣鏡のこの平面図にみえる中央小丘の中心点と小丘の南北に位置する二つの小突起を結ぶ南北軸線を引くと、その軸線は南北小突起のすぐ外側にある円周上の山形図像の頂点も通過する。
(但し、南側の小突起では、軸線は中央点ではなくやや左にずれる)
次に、中央小丘の中心点と小丘の左右に位置する小突起を結ぶ東西軸線を引くと、その軸線は東西小突起のすぐ外側にある円周上の山形図像の頂点も通過するこの南北と東西のそれぞれの軸線によって、鏡面は四つの区画に分けることができる。
この四つの区画には、中央小丘に最も近い円周上の山形図像がそれぞれちょうど一八個配置されている。
ということは、この最も内側の円周上には、山形図像が一八個×四区画=七二個が等間隔で配置されていることになる。
そこで、全周三六〇度を七二個で割ると、一個当たり五度の値が出る。
このことは、一個の山形図像の頂点から次の山形図像の頂点の直前までの空間が五度の角度であることを示していることになる。
ここで、東西線の西側の山形図像から下に六個目の山形図像の位置は中央小丘からみて東西線に対して三〇度の角度となり、この三〇度の角度の位置にある六個目の山形図像は二十四節気の冬至点と重なる。
この東西線から下へ六個目の山形図像を冬至点とし、そこを起点として五度ごとに逆に上へ移動すると、それぞれの山形図像は二十四節気の冬至点、小寒点、大寒点、立春点、雨水点、啓蟄点にぴったり重なる。
そして、次の東西線上の山形図像は春分点と重なるが、そのまま五度ごとに上へ移動すると、それぞれの山形図像は春分点、清明点、穀雨点、立夏点、小満点、芒種点とぴったり重なる。
つまり、東西線から下に三〇度の角度の位置を起点として、ここから上へ五度ごとの山形図像移動して六〇度の位置まで進むと、この間の十二個の山形図像は二十四節気の冬至点から芒種点までの半年分の各節気とまったく完全に重なっているということである。

                                                      続く

21日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:26:38.94
>>20
                     引き続き

そして、地平線上の実際の太陽の場合は、この半年分の六〇度の角度の位置まで移動したあとは、そこから反転して南側へもと来た道を戻って残りの半年分を移動することになる。
しかし、この銅鏡では山形図像はそのまま舞えへ進んでいるので、さらに五度ごとの山形図像を十二個分進むと、その後半の角度は六〇度となり、最初の六〇度と後半の六〇度を合わせると一二〇度となる。
この一二〇度の角度は、実際の太陽が反転せずにそのまま前進した場合の一年分の角度に当たる。
この後半の五度ごとの角度の図像は、二十四節気の夏至点、小暑点、大暑点、立秋点、処暑点、白露点、秋分点、寒露点、霜降点、立冬点、小雪点、大雪点と重なることになる。
この作業をさらに続けて行くと、円周上の山形図像は五度ごとの角度で全七二個の図像でもって全周することになるが、
この七二個の山形図像は三年分の二十四節気の各節気とぴつたり重なることになるもの。
(なお、五度の角度は日数に換算すると一五日に相当し、冬至点から一五日目が小寒点の直前日となる。
したがって、二十四節気一年分の日数は三六〇日となり、全周三年分では一〇八〇日となる)
このように、椿井大塚山古墳出土三角縁四神四獣鏡のこの平面図では、最も内側の円周上の七二個の山形図像は、二十四節気の三年分の各節気にぴったりと重なることが分かる。
これまでにみてきた銅鏡では、図像や小突起が中央小丘からそれぞれ一五度の角度の位置に配置されていたり、三〇度の角度の位置に配置されていたりして、全ての各節気に重なるものではなかったが、
この椿井大塚山古墳出土の銅鏡は、全周三年分の二十四節気のすべての各節気と重なる位置に山形図像が配置されていることが分かる。
五度の角度は二十四節気の各節気の単位角度であり、日数にすると一五日間の幅を示すものである。
この単位角度(日数)が図像によって表されていることは、この銅鏡が二十四節気の基本的な配置を示す極めて重要な鏡であることになる。

                       続く

22日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:46:49.36
>>21
                    引き続き

つまり、この図像が二十四節気の各節気に対応しているものであるならば、一五日ごとの細かい節気を示す図像によって一年の季節の到来をあらかじめ確実に予定することができる暦カレンダーが為政者の手元にあったということなのである。
中国の季節と日本の季節は一致しないが、基本的な季節の順繰りは同じであるので、多少の調整が行われるだけだったと思われる。
また、大雑把に冬至点、立春点、春分点、立夏点、夏至点だけを示す図像を配置した銅鏡であっても、その冬至点と立春点の間を三等分すれば、その間の各節気には対応できるのであるから、
知識のある暦技術者にしてみれば、手元の銅鏡が大雑把な図像配置だけであってもまったく不都合ではないということになる。
いずれにしても、二十四節気の各節気すべてに対応する位置に図像が配置されているこの椿井大塚山古墳出土の三角縁四神四獣鏡の存在の意味は大きいといえる。

さて、このようにして、三年を1サイクルとする三年分の二十四節気暦が銅鏡の円周に配置されている可能性が極めて高い実例を示すことができた。
次から、この五度の角度を単位とする二十四節気暦を配置した銅鏡が祭祀に用いられた可能性が極めて高い実例をみて行くことにしよう。
第一番目は、纏向遺跡の大型建物群である。

23日本@名無史さん2018/12/28(金) 20:26:07.34
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

24日本@名無史さん2019/01/02(水) 15:41:20.90
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡には、二十四節気暦の三年分のカレンダーが円周上に配置されている可能性が極めて高いことをみてきた。
その銅鏡の暦カレンダーが日本で実際に祭祀に用いられていた可能性は高く、その実例をこれから見て行くことにしたい。

まず、奈良県桜井市にある纏向遺跡の大型建物群と大規模墓域について。

大型建物群の平面図は、http://www.eonet.ne.jp/〜yamataikoku/4910.html の画面の上から2番目、「纏向遺跡の大型建物(箸墓の幾何学)デジタル邪馬台国」を参照してください。

この平面図にある通り、大型建物D、棟持柱建物C、建物B、建物Aの中心を結ぶと、その軸線は一直線に通っていて、建物をこの軸線の方向に向けて並べて建築したことが分かる。
しかし、この軸線の方向が何を意味しているものか、研究者の間でも意見がさまざまで、定説を得るには至っていないようだ。
これまでに分かっていることは、この軸線は真東と真西を結ぶ東西線に対して南に約5度傾いていることだ。(桜井市教育委員会は、その傾きについて、4度〜5度の約5度の角度だと明らかにしている)。
大型建物Dは、多人数が集まって何かを行う施設とみられ、建物Cは棟持柱が両端にあることから物を収納する用途の建物とみられている。
建物Bは楼型の見晴らし場のような建物とされる。

25日本@名無史さん2019/01/02(水) 16:20:49.98
>>24
操作ミス。
続いて、

建物Aは井戸に屋根掛けした建物とみられている。
これらからすると、建物Bに登って軸線の方向の何かを確認し、そして建物Cに収納された何かを大型建物Dから眺めながら何事かを行った、ということが想定される。
したがって、この建物の軸線が向っている方位は西方であり、大型建物Dの中心点を通る東西線に対して南に約5度の角度の方位だということになる。
この約5度の角度が何を意味するものか、これまで定説がないわけである。
しかし、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡の図像などの配置が二十四節気の特定の節気の配置と重なることや、椿井大塚山古墳出土の三角縁四神四獣鏡では5度の角度の等間隔で山形図像が円周上に配置されていて、
これが三年分の二十四節気暦の各節気の配置にぴったり重なることをみてきたことからすると、
この大型建物群は大型建物Dの中心点を通る東西線に対して南へ5度の角度の方位に向けて建てられているので、
その方位が二十四節気の東西線上の真西に当たる春分点から南へ5度の角度の位置にくる啓蟄点の位置とぴったり重なることになるものであることは、容易に理解できる。
つまり、この建物群は大勢が集まる建物Dの中心点からみて、二十四節気の啓蟄点の方角に向けて建てられているとみなすことが可能だと言えるのだ。
この想定に従うと、二十四節気の冬至点から76日目の啓蟄の日の初日の日没の太陽に向けて何事かの祭事を行ったのが、この5度の角度の意味するところだと言うことができる。
では、その祭事とはどのようなことが推測できるのか。
引き続きみて行くことにしたい。

26日本@名無史さん2019/01/02(水) 16:27:57.72
魏志倭人伝を読んでも、倭人は方角に大雑把だったことがわかる。
南を東に読み替えて平気な畿内説がわずか5度にこだわるのは笑止千万だ。

27日本@名無史さん2019/01/02(水) 16:28:29.13
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

28日本@名無史さん2019/01/03(木) 00:30:05.73
>>26
この5度(15日)は、古代中国人がこだわった季節の間隔。
倭人は、中国製銅鏡に配置されたその季節暦を中国人がそうしたように農耕技術として祭祀に用いただけ。
北部九州の卑弥呼は、その銅鏡をかざしてみせたかも知れない。
大雑把な倭人の末裔である考古学者は、その銅鏡に二十四節気暦の図像が鋳込まれていることにまったく気がついていない。
実に、倭人らしいといえる。

29日本@名無史さん2019/01/03(木) 11:18:06.10
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

30日本@名無史さん2019/01/03(木) 12:18:06.81
>>28
まだ、はっきりしないが、同じ中国製銅鏡でも前漢鏡にはこの二十四節気暦の図像は配置されていないような印象だ。
とすると、二十四節気暦の図像が銅鏡に鋳込まれて暦カレンダーとして用いられるようになるのは後漢鏡からかも知れない。
いろいろな鏡に当たってみる必要がある。

31日本@名無史さん2019/01/04(金) 14:20:44.19
>>25
纏向遺跡の大型建物群が建物Dの中心点を東西に通る東西線に対して南へ約5度振った方角に向けて建てられており、
この南へ約5度の角度は二十四節気の啓蟄点と重なることはすでに述べた。
では、大型建物群が二十四節気の啓蟄点の方角に向けて建てられていることが確かだとみなした場合、どのようなことが言えるのか。
啓蟄は、大地が暖まり冬眠していた虫が春の訪れを感じ、穴から出てくる頃とされる。
現在の太陽暦では3月6日が啓蟄初日。
そして、農業では、この頃が耕作の準備を始める時期となっている。
これが、二十四節気の啓蟄の意味のようだ。
そうすると、纏向遺跡の大型建物群がこの啓蟄の初日と位置づけられた日の日没の方角に向けて建てられているということは、纏向の連合政権はこの日の日没の太陽を目印として、加盟国全体の農耕の準備始めの祭祀を行ったのだと解釈することができる。
稲作と畑作が国の基幹であったことを考えると、農耕の準備を始めることは極めて重要な事柄であり、
その準備を始める日を定めてつつがなく準備に入ることができることは国家事業の基盤に関わることであるから、安寧に準備が進むことを願って盛大に祀りが行われたということになる。
その祀りが開始される時刻は、おそらく、日没の太陽を確認した時であったのだろう。
太陽が地平線の向こうに沈むと夜の闇が訪れるが、日没の太陽の光を宿すのが建物Dの前に建てられている建物Cの役割であろう。
この建物Cは倉庫の建築構造だとされているので、日没の太陽の光を宿す目的の施設としては、要件を満たす。
建物Cの中では、日没の太陽の光の代替物として灯火が点されたかも知れない。
そして、翌日に太陽が東から昇るまで、静かに祭祀が続けられた可能性が考えられる。
                           
                         続く

32日本@名無史さん2019/01/04(金) 14:29:11.03
>>31
この祭事に際して、二十四節気の図像が鋳込まれた銅鏡が、極めて重要な祭器として扱われたことは、想像に難くない。
以上は、建物群の向きが二十四節気の啓蟄点に向っていると考えた場合の祭事のモデルの一つに過ぎないが、二十四節気の啓蟄と関連した祭事を想定した場合としては、かなりリアルなものではないだろうか。
もちろん、大型建物群では、この啓蟄の祭事が最大の国家的祀りであったと推測することができるが、その他にも節気ごとの重要な農業祭祀が行われたと想定することはごく自然なことである。

次に、纏向の連合政権の墓域の設定について、見てみることにしたい。

33日本@名無史さん2019/01/04(金) 18:31:16.00
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

34日本@名無史さん2019/01/11(金) 16:05:44.10
纏向遺跡の大型建物群は、最も大きい建物Dの中心点を通る東西線に対して、この中心点からみて南へ約5度の角度の軸線上に並べて建てられており、この約5度の角度が二十四節気の啓蟄点にほぼ重なることをこれまでに見た。
纏向の祭祀では、この啓蟄初日の夕日に向って行う祭祀が連合政権の祭祀としては最大のものであった可能性が高い。
農耕の準備を始めるための祭祀であったと考えることができる。
そして、このことは、纏向の祭祀が二十四節気の銅鏡カレンダーに基づいて執り行われていた可能性を指摘することができる。

さて、次は、纏向に設定された墓域を見てみることにしよう。
インターネットサイトの「纏向学研究センター」トップページの最下段に掲載されている墓群をまず印刷して、墓群の位置が分かるようにする。
そして、例えばヤフーの検索で「ウェブ地図で緯度・経度を求める」と入力して、この地図によって地図上の地点の緯度・経度を知ることができるようにする。
この地図で、纏向遺跡の大型建物跡の(北緯34度32分46秒、東経135度50分25秒)の位置を定める。
具体的には、この地図上のjr巻向駅の西側にある鳥居のすぐ右側の田んぼのマークのやや右寄りがその祭祀跡である。

この大型建物群の位置を中心点として、ここから東西線を西へ延ばして行くと、その軸線上に纏向石塚古墳と纏向矢塚古墳の後円部が乗ることが分かる。
東西線は二十四節気の春分点と重なるので、石塚古墳と矢塚古墳は二十四節気の春分点の方角に向けて築造されていると想定することが可能である。
この東西線の軸線は二つの古墳の後円部の中心点を通っていないが、後円部上を通っているのは事実である。
そして、この二つの古墳のすぐ北にある纏向勝山古墳では、中心点から北へ10度の角度の軸線が後円部上を通っている。
この10度の角度は二十四節気の穀雨点と重なるので、勝山古墳は穀雨点に向けて築造されていると想定することが可能である。

                          続く

35日本@名無史さん2019/01/11(金) 16:18:12.28
                    引き続き

四つ目の東田大塚古墳は、東西線から南側に少し離れて造られている。
この東田大塚古墳の後円部を通るのは、中心点からみて東西線に対して南へ25度の角度の軸線である。
25度の角度は、二十四節気の小寒点と重なる。
東田大塚古墳は、二十四節気の小寒点に向けて造られているいると想定することが可能である。
これらの四つの古墳の後円部が、大型建物群の中心点からみて、いずれも二十四節気の春分点、穀雨点、小寒点の角度と重なる軸線上に乗っていることが分かる。
偶然とは考えにくい、と言える。
以上の古墳群を第一墓群と仮称することにする。

次は、箸墓古墳とホケノ山古墳をみてみることにする。

36日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:34:58.35
>>35
纏向遺跡に造られた大墳墓の築造位置についてみているが、今回はホケノ山古墳と箸墓古墳の位置を見てみることにしたい。
大型建物群を中心点としてそこからホケノ山古墳をみると、大型建物群の中心点を通る南北線の真南線に対して東へ30度の角度の軸線にホケノ山古墳の後円部が乗っている。
この南北線に対して30度の角度は、銅鏡の最初の二十四節気の冬至点(大型建物群の中心点を通る西側の東西線から南へ30度の角度の位置)からみて、3年目の春分点と重なる。
ということは、ホケノ山古墳は二十四節気の春分点に向けて築造されている、と想定することが可能となる。
次に箸墓古墳をみると、大型建物群の中心点を通る南北線に対して東へ5度の角度の軸線に後円部が乗っている。
この5度の軸線は、ぴったり後円部の中心部を通っている。
そして、5度の角度は、二十四節気の芒種点と重なる。
ということは、箸墓古墳は二十四節気の芒種点に向けて築造されている、と想定することが可能となる。
大墳丘墓の後円部と二十四節気の特定の節気の関係については後に述べることにするが、箸墓を通る軸線の芒種点は6月6日頃に当たり、この芒種は芒(のぎ)のある穀物や稲、麦など穂の出る穀物の種をまく時期とされ、芒種点はその初日である。
箸墓の築造と二十四節気のこの芒種点が重なっていることは、箸墓の被葬者と稲などの種をまく時期を関連付けていると考えることを可能にしている。
このホケノ山古墳と箸墓古墳を第二墓群と仮称することにする。

37日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:04:30.45
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

38日本@名無史さん2019/01/18(金) 00:20:05.46
>>36
大型建物群を中心点として、その中心点からホケノ山古墳と箸墓古墳の後円部を通る軸線の角度が二十四節気の春分点、芒種点と重なることをみてきた。
次に、東側の山並の裾付近に造られた大王級の大古墳をみてみることにする。
大和古墳群では西殿塚古墳、柳本古墳群では行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)をみる。

西殿塚古墳の後円部は、大型建物群の中心点を南北に通る真北線に対して東へ20度の角度の軸線上に乗っている。
真北線は2年目の冬至点であるので、そこから東へ20度の角度のこの軸線は、二十四節気の雨水点と重なる。
行灯山古墳の後円部は、大型建物群の中心点を南北に通る真北線に対して35度の角度の軸線上に乗っている。
この35度の角度は、2年目の二十四節気の清明点と重なる。
そして、渋谷向山古墳の後円部は、大型建物群の中心点を通る真北線に対して60度の角度の軸線上に乗っている。
この60度の角度は、2年目の二十四節気の夏至点と重なる。
これらの大王級の大古墳の後円部が、二十四節気の雨水点、清明点、夏至点の軸線にきっちりと乗っていることが分かる。
この大和、柳本古墳群には多数の中小古墳が造られているが、それらの古墳の後円部が二十四節気の特定の節気点と重なっているものは渋谷向山古墳(景行天皇陵)の前方部の北側にある上の山古墳しかみられない。
上の山古墳の後円部が乗っている軸線の角度は50度で、この角度は二十四節気の小満点と重なる。
以上の大和、柳本古墳群の大王級の大古墳群を第三墓群と仮称することにする。

次は、これら第一墓群、第二墓群、第三墓群に関連して、共通する特異事項についてみてみよう。

39日本@名無史さん2019/01/22(火) 13:33:35.98
>>38
纏向遺跡と大和古墳群、柳本古墳群に造られた大王級の大古墳の後円部が、大型建物群を中心点とする3年分の二十四節気の特定の節気の軸線上にぴったりと乗っていることをみてきた。
これは、偶然とは考えにくい。
大王墓の位置決定が、計画的に行われた可能性があることを示している。
そして、その計画には大枠が設けられていた可能性について、これからみていく。
大枠とは、墓域の意味である。

まず、石塚古墳などの第一墓群を見てみよう。
この第一墓群は、南は東田大塚古墳、北は勝山古墳である。
南の東田大塚古墳は、大型建物群の中心点からみて、東西線に対して南へ25度の位置にあった。
また、勝山古墳は東西線に対して北へ10度の位置にあった。
これらの4基の墳丘墓は、冬至点〜夏至点までの60度の範囲内にあると、一応、枠を設定する。

次に、第二墓群をみてみる。
ホケノ山古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ30度の位置にある。
また箸墓古墳は、大型建物群の中心点からみて、南北線に対して東へ5度の位置にある。
そして、この2基の古墳は、3年目の二十四節気の冬至点から夏至点までの60度の範囲内にあると、枠を設定する。

次に、第三墓群をみてみる。
西殿塚古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ20度の位置にある。
行燈山古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ35度の位置にある。
渋谷向山古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ60度の位置にある。
この三基の古墳は、2年目の二十四節気の冬至点〜夏至点までの60度の範囲にあると、枠を設定する。

                    続く

40日本@名無史さん2019/01/22(火) 14:17:20.71
>>39
                  引き続き

このように、第一墓群から第三墓群までの古墳を、それぞれ二十四節気の冬至点以降〜夏至点の範囲内に位置づけることができた。
この範囲をはみ出す大王級の古墳は、見当たらない。
そして、二十四節気の夏至点以降〜冬至点までの間には、大王級の古墳だけではなく、中小の古墳もほとんど見当たらない。
第三墓群において、5基程度の中小古墳が南北線より西側付近にみられる程度である。
この二十四節気の冬至点以降〜夏至点の範囲に大王級の大古墳が全て納まっており、また中小の古墳もおおむねこの範囲内に造られていて、その範囲をはみ出すものは僅かに5基に過ぎない。
このことから、一応、二十四節気の冬至点以降〜夏至点の範囲に墓域が設けられたと想定することが可能となる。

このようにして、3年分の二十四節気のそれぞれの冬至点以降〜夏至点までの範囲に3つの墓域が設けられたとするのはやや根拠に欠ける点もあるので、もうひとつの墓域の例を挙げてみる。
その墓域は、百舌鳥・古市古墳群である。

百舌鳥・古市古墳群を見てみる。
住吉大社では毎年、祭祀行事のために橿原の畝傍山から埴土を採取している。
住吉大社は応神天皇の政権の守護神を祭る神社であり、この住吉大社の祭礼に関連する畝傍山は政権祭祀のセンターであり、纏向遺跡の大型建物群の祭祀センターと同じ機能を持つ場所であったと想定する。
この畝傍山を中心点とし、畝傍山を東西に通る東西線に対して南北各30度の軸線を引くと、二十四節気の冬至点〜夏至点の計60度となる。
この60度の範囲に、百舌鳥・古市古墳群が位置しているかどうか地図上でみると、百舌鳥・古市古墳群は夏至点寄りにぴったり収まっている。

                  続く

41日本@名無史さん2019/01/22(火) 16:06:45.82
>>40
この百舌鳥・古市古墳群を収める墓域の中心点を畝傍山とした場合、畝傍山を通る東西線に対して北に30度の角度は二十四節気の夏至点に当たり、この30度の軸線が墓域の北限と想定されるが、その軸線の直前に帝塚山古墳がある。
この帝塚山古墳を北へ過ぎると古墳はほとんど見られなくなり、大阪茶臼山古墳が天王寺駅付近に1基みられるだけである。
百舌鳥・古市古墳群を収める墓域は、畝傍山を中心点として東西線に対して北へ30度の角度が墓域の北限とみることができる。
そして、古市古墳群の応神天皇陵の後円部は、畝傍山を通る東西線に対して北へ25度の角度の軸線上に乗っている。
百舌鳥古墳群の大仙陵古墳の後円部は、畝傍山を通る東西線に対して北に15度の角度の軸線上に乗っている。
このパターンは、纏向遺跡の大型建物群を中心点として、二十四節気の特定の節気の軸線上に大王級の古墳の後円部がそれぞれぴったり乗っているを通るのとまったく同じである。
これらのことから、河内の百舌鳥・古市古墳群などの古墳は、畝傍山を中心点として設定した墓域にちゃんと収まっていると想定することが可能である。

以上のことから、大和と河内の大王などの墓域は、3年分の二十四節気カレンダーを基にして、その冬至点以降〜夏至点の範囲と定められた可能性がある。

次に、ではなぜ、二十四節気の冬至点以降〜夏至点の範囲を墓域とし、夏至点以降〜冬至点までの範囲には大王級の大古墳が造られていないのかについて、一つのモデルを考えてみることにする。

42日本@名無史さん2019/01/29(火) 17:32:46.03
>>41
畝傍山を中心点とした場合、応神天皇陵の後円部を通る25度の角度の軸線は二十四節気の芒種点と重なり、芒種点は6月6日頃に当たる。
これは、纏向遺跡の箸墓古墳の場合と同じ角度であり、応神天皇陵の後円部も二十四節気の芒種点と重なっているということは、応神天皇陵にも箸墓古墳と同じ意味が設定された可能性が考えられる。
芒種は、禾のある植物の種や稲、麦の種などを撒く時期である。
大仙陵古墳の後円部の場合は中心点からの角度は15度であり、この角度の軸線は立夏点と重なる。
立夏点は5月6日頃に当たり、この頃には各地で田植え神事が行われる。
応神天皇陵と大仙陵古墳については、このような位置づけが二十四節気を基にして行われた可能性が考えられる。
このように、纏向石塚古墳から大仙陵古墳までの大王級の古墳が二十四節気の冬至点以降〜夏至点までの範囲内に造られており、
夏至点以降〜冬至点までの範囲には大王級の墳墓がまったく見られず、中小墳墓もほとんどみられないことは、
冬至点以降〜夏至点までの範囲が政権の墓域として設定された可能性を指し示すものだと考えることができる。
この仮定を基に、冬至点以降〜夏至点までの範囲が当時、どのような意味を持つものであったか推測してみることにしたい。

まず、夏至点がどのような意味を持ったかということを考えると、次のことが推定される。
秋田県の大湯環状列石の二つの立柱を結ぶ軸線は、夏至の夕日に向うことが知られている。
大湯環状列石は縄文後期の墓域遺跡であり、火を焚いた跡が確認されている。
夏至の日没に際して、何らかの祀りが行われたと考えられている。
そこで、北国における夏至の祭りをみてみると、北欧の夏至祭りがよく知られている。
北欧の夏至祭は、どのようなものなのか。

                          続く

43日本@名無史さん2019/01/29(火) 20:32:40.98
>>42
夏至日は、昼の長さと夜の長さが同じになるとされる。
北欧では、長い冬が終わり、夏が到来したということで盛大に祝う。
巨大な焚き火をして踊ったり歌ったりするそうだ。
しかし、一方、徐々に昼の時間が長くなり夜の時間が短くなってきたのが夏至日をはさんで一転し、昼の時間が短くなり夜の時間が長くなり始める。
そして、夜の時間が長くなり始めると、悪霊があたりを歩き回るようになるとされるのだ。
このために、焚き火をして悪霊や悪運を追い払い、また幸運と夏の終わりには豊作がもたらされるように盛大な祭りを行うのだそうだ。
これが夏至祭の意味だという。
つまり、太陽が最も北へ移動して昼の時間が最も長くなる夏至日を境にして、それが過ぎると一転して夜の時間が長くなり、悪霊が徘徊するようになり災いをもたらす時期に入ることを意味している。

この北欧の夏至日に対する考え方を、秋田県鹿角市の墓域である大湯環状列石の夏至点に向けた立柱の軸線と焚き火の跡を重ねあわせると、
夏至日の昼間が過ぎる夕刻からは夜の時間が長くなり、悪霊が徘徊するようになって、先祖たちの魂魄に災いをもたらすようになり、悪霊の影響で霊力を弱らせた先祖たちの魂魄は住民たちに幸をもたらせなくなるとして、
盛大に焚き火をして悪霊を追い払うための儀式を行ったのだと考えることができる。
さて、そこで冬至についてみてみると、夏至日から一転して長くなり始めた夜は、冬至日に至って最も長くなるが、冬至日を過ぎると再び一転して昼が長くなり夜が短くなり始める。
つまり、冬至日を過ぎると、悪霊が徘徊をやめ、災いをもたらさなくなるわけだ。

                                続く

44日本@名無史さん2019/01/29(火) 21:12:44.47
>>43
このようにみると、冬至点以降〜夏至点までは太陽は強勢であり悪霊が活動しない時期、夏至点以降〜冬至点までは太陽は弱勢となり悪霊が活動する時期と考えられた、と想定することができる。
そして、その二十四節気の冬至点以降〜夏至点までの範囲に大王級の墳墓や中小墳墓が造られ、夏至点以降〜冬至点までの範囲には大王級の墳墓や中小墳墓が造られていないのであるから、
大和や河内の墓域は、祭祀施設の中枢部に置いた二十四節気の中心点からみて悪霊が徘徊しないエリアに設けられた、と推定することが可能だ。
こうした考え方は、古代中国では陰陽の観念に発展したものと推定される。
こうしたことからすると、大王級の墳墓が造られた墓域は、縄文以来続く墓域の夏至日の祭祀の考え方に立脚したものであり、
3年分の二十四節気を配した銅鏡によってその墓域が確定された、と考えることが可能だ。
このように考えると、大王級の墳墓の後円部が全て太陽の強勢によって悪霊の影響が封じられた節気の軸線上に乗っている理由が分かる。
また、それらの節気は全て農作物の耕作や成育を促進する要素を持つものであり、その節気の軸線が大王の棺がある後円部を通っていることは、
大王であった被葬者の強い霊力によってその節気の意味する季節要素を一層増幅する効果を期待して、その節気の軸線上に築造されたのだ、と考えることができる。

纏向古墳群や大和、柳本古墳群、百舌鳥・古市古墳群の墓域と二十四節気の暦カレンダーとの関係は、以上のことが想定されるのである。
次に、纏向遺跡の前身かとみなされる近江の伊勢遺跡について、見てみることにする。
                                 
                                        

45日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:37:13.90
滋賀県栗東市にある伊勢遺跡は、弥生後期の遺跡。
この伊勢遺跡内に設けられた祭殿などの建物群の周囲には、楕円形の円周上に建てられたとみられる複数の建物跡がある。
この円周上の建物が向いている中心点は2箇所あり、それぞれの中心点の位置が研究者によって割り出されている。
最初に建設された建物列は東側の円周上に建てられたもので、後にこの建物が解体されて西側の円周上の建物の建材に用いられたとみられている。
その西側の建物列は後から建てられたものであるが、説明の都合上先に取り上げることにする。

西側の建物列は、2棟。
この2棟には、SB4、SB5と名称が付けられている。
2棟が向っている中心点を通る東西線に対して、SB4は南に15度の角度の軸線上に乗っている。
この15度の角度は、二十四節気の立春点と重なる。
次のSB5は、中心点を通る東西線に対して南に28度の軸線上に乗っている。
この28度の角度は、二十四節気の冬至点より2度北に進んだ位置になる。
二十四節気の30度の角度の冬至点と重なっていないのであるが、近江の栗東市あたり(大津市)の実際の太陽の日没角度がこの28度の角度になることを考えると、
建物SB5は二十四節気の暦上の冬至点の位置よりも実際の太陽の沈む冬至点に向けて建てられていたと考えることができる。
おそらく、現実に祭祀を行う際に、建物SB5の中央を通る軸線と実際の太陽の日没の方角がずれることを避けたものと思われる。
一方、建物SB4の場合は、二十四節気の立春点と一致する角度に建てられており、この場合は、おそらく実際の立春の太陽の日没位置と二十四節気の立春点の位置がずれていても、
そのずれは目視では認識できないため、二十四節気の立春点の方角に建物を建てても問題とはならかったのだと考えることができる。
このように、伊勢遺跡の西側の楕円円周上の建物の角度は、実際の太陽の冬至点と二十四節気の立春点に対応するものであるとみなすことができる。

                                      続く

46日本@名無史さん2019/02/15(金) 11:08:53.29
>>45
伊勢遺跡の円周上建物の位置の図は、次の順序で見ることができる。
(ただし、このサイトの図から導く円周上建物の向う中心点と、本稿記事における建物の向う中心点の位置は異なるので、注意をお願いします)

円周上の建物の位置図

検索欄に「伊勢遺跡」と入力し、開いた画面の一番上の「伊勢遺跡 トップページ:守山弥生遺跡研究会」を開く。
次に、画面上の「ホームページ」帯の中の「伊勢遺跡」をクリック。
次に、画面左側の「サブメニュー」帯の中の「円周配列の建物」をクリック。
画面の最初に建物の位置図をみることができる。

                     続く 

47日本@名無史さん2019/02/15(金) 11:28:58.51
>>46
半日かかって守山弥生遺跡研究会の紹介文しか書けないとか筆遅すぎて竹生えるケケッ
書き溜めてからにしろよ

48日本@名無史さん2019/02/15(金) 21:02:26.52
>>47
ほかでも忙しいもんで。
ぼちぼちでんがな。

49日本@名無史さん2019/02/15(金) 21:07:49.76
>>48
御託は良いから書き溜まるまで来るな

50日本@名無史さん2019/02/15(金) 22:01:50.59
>>46
伊勢遺跡の楕円の円周上に建てられたとみられる建物のうち西側の2棟について見た。
次に、東側の建物について見てみる。

東側の円周上の建物は、3棟。
これらの東側の建物が向っている中心点から見て、その中心点を通る東西線に対して北に30度の角度の軸線上に乗っているのが建物SB9で、
この角度は2年目の二十四節気の夏至点と重なる。
次に、その建物SB9の30度の角度からさらに北へ10度進んだ40度の角度の軸線上に乗っているのは、建物SB12。
建物が向っている中心点を通る東西線に対して北へ40度の角度の軸線に重なる二十四節気は小満点なので、
建物SB12は2年目の二十四節気の小満点の方角に向けて建てられていると考えることができる。
この建物SB12は、特別にテラス状の張り出しが設けられた建物とされている。
この小満点は1年目の二十四節気から続いてきた2年目の二十四節気の小満点であるが、注目点は、実際の太陽は30度の角度の夏至点まで北上して来ると、
そこから一転して南へ折り返して秋分や冬至方向へ戻ることになるため、40度の角度の小満点には実際の太陽は進まないことになる。
それにもかかわらず、特別仕様の建物を40度の角度の軸線上に建てたということは、
二十四節気の暦上の節気である小満点の日に実際の太陽の位置とは無関係になんらかの行事を行ったと考えることができる。
二十四節気の小満点は5月21日頃で、西日本では走り梅雨が訪れる時期で、田植えの準備が始まる頃。
この小満点と重なる方角に特別仕様の建物を建てたということは、二十四節気の暦にのっとって野洲平野の田植えの準備に関わる祭事が行われたと考えることが可能であるようにみえる。

さて、次に建物SB8であるが、このSB8は伊勢遺跡の円周上の建物のうち最も興味深い建物である。
ゆっくり見ていくことにしよう。

                                  続く

51日本@名無史さん2019/02/19(火) 17:07:13.70
>>50
                                  続く

建物3棟のうちの最後が、建物SB8である。
この建物は、中心点を通る東西線に対して北へ18度の角度の軸線上に乗っている。
これまでみてきたように、これらの円周上の建物の位置が、二十四節気の特定の節気の位置と重なっていることからすると、
SB8は20度の角度の軸線上に乗っていることが想定されるものである。
20度の角度と重なる二十四節気の節気は、大暑点である。大暑は一年で最も熱い時期とされている。
しかし、実際の建物SB8の位置は、その20度の角度から2度南にずれて、18度の角度の軸線上に乗っている。
そこで、この18度の角度の軸線の性質を考えてみる必要が出てくる。何か特別な事柄がみられるだろうか。
研究者が指摘しているように、この軸線をさらに先に延ばすと、その軸線上に御上神社が位置しており、さらにその先の山腹には妙見堂が位置している。
どうも、二つの寺社がこの軸線上に乗っているということは、二つの寺社の配置が意図的に企画されたものであると考えることが可能なようにみえる。
この二つの寺社のうち御上神社は著名な神社であるので、まず、この神社の位置の由来と、その祭神の由来、神祭りのあり方について見てみることにしよう。

                                   続く

52日本@名無史さん2019/02/20(水) 00:44:35.49
>>52
                           続く

御上神社の社殿は、由緒によれば、養老二年(718年)に創建されたとされている。
その社殿の場所は、元々は三上山を遥拝する所だったとされる。
では、三上山の神はどのような神か。
御上神社の主祭神は天之御影命で、三上山の奥宮では天之御影神が祀られている。
由緒によれば、孝霊天皇六年六月十八日(旧暦)に、天之御影神が三上山山頂に降臨した。
天之御影神の字義は、太陽の光の神ということになる。
旧暦6月18日は、新暦では7月20日に当たる。
旧暦6月18日にその山上で神降ろしの祭事が行われ、山上祭と呼ばれている。
そのあと、天之御影神は麓の御上神社に迎えられて祀られるが、これは影向祭と呼ばれている。

円周上の建物が二十四節気の特定の節気と重なる方角に建てられていることをこれまで見てきたが、
天之御影神が降臨した7月20日は二十四節気と関連するだろうか。
二十四節気に関連するとすれば、7月20日前後では、大暑点がみられる。
一年で一番暑い時期が大暑で、7月22日、23日頃が大暑の初日である。
とすれば、7月20日に太陽の光の神が山上に降臨して麓の神社に迎えられ、その後の数日の神祭りの間に暦上の一年で最も暑い時期がスタートすることになる。
気温の上昇と稲の発育は相関関係があるので、7月20日に太陽の光の神が降臨することと、それが二十四節気の大暑の初日の7月22日、23日の直前であることは、
関連があると考えることが可能だ。
しかしながら、御上神社を通る軸線の角度は大暑点を指す20度ではなく、大暑点よりさらに2度進んだ18度の角度なのである。
この2度のずれは、どのように考えるのが良いだろうか。

                             続く

53日本@名無史さん2019/02/20(水) 02:35:46.12
>>52
                            続く

ここで、近畿地方の気温の推移を見てみることにしよう。
近畿地方の梅雨明け平年日は、7月21日である。
そして、梅雨明けして太陽光が直射することに伴い気温が上昇するが、梅雨明けまえの30度から一気に1度上がる31度が記録されるのは7月25日からとなる。
二十四節気の大暑の初日は、この間の7月22日、あるいは23日である。
このことを御上神社の祭礼と重ねてみると、天之御影神が三上山に降臨するのが7月20日で、近畿地方の梅雨明け平年日が7月21日である。
そして、その二日、あるいは三日後の7月22日、23日に二十四節気の一年で最も暑い時期の始まりである大暑の初日を迎えるが、
実際に近畿地方で31度の最も暑い時期が始まるのは、7月25日以降になる。
ここで、御上神社を通る軸線の角度をみると、大暑点の角度である20度より2度南へ進んだ18度であり、この2度の角度は日数では6日に当たり、大暑点の7月22日、あるいは23日から6日後の28日、或いは29日になる。
つまり、御上神社を通る軸線は、実際に野洲平野の気温が一気に上昇して真夏日を迎える頃と重なり、18度のその軸線は二十四節気の暦日ではなく、実際の野洲平野の気温上昇合わせてに設定されたものだと考えることが可能になる。
このように考えれば、この18度の角度の設定は、実際に三上山の神を遥拝して行う祀りのための場所をそこに置くために決められた方位であり、その方位を示すために建物SB8が18度の軸線上に建てられたということが推定されるのである。
これは、西側の円周上の建物SB5が、二十四節気暦の冬至点よりも2度進んだ実際の冬至の日没の方位に合わせて建てられているのと同じであり、一年で最も暑い時期の始まりに行う祭祀と実際の気温の上昇とを合わせた結果であると考えることが可能だ。

                              続く

54日本@名無史さん2019/02/20(水) 04:53:20.04
>>53
                                続く

このように、円周上の建物SB8が二十四節気の大暑点から2度の角度、日数で6日分南へ進んだ軸線上に建てられていることの理由付けはできたと考えるが、
しかし、御上神社の祭神を祀る山上祭、影向祭が行われる旧暦6月18日(新暦7月20日)が、近畿地方の梅雨明け平年日と重なることを考えると、
祭神天之御影神の降臨の祀りは梅雨明けと伴に姿を現す太陽と二十四節気の暦上の大暑に関連する祭事であると考えることができる。
そうすると、暦上の大暑点から6日後の軸線上に建物SB8を建てて、実際の最も暑い時期の方位を現し、
その象徴的な軸線上で7月20日の梅雨明けを意味する御影神降臨祭やそのあとの2、3日の間の御影神(大暑神)を祀る祭事を執り行ったと考えると、
実際にはその祀りの時期はまだ最も暑い時期にはなっていず、軸線は最も暑い時期を象徴しているだけということになる。
それであれば、軸線は大暑点と重なる20度の角度の軸線上にSB8を建てるのが当然ということになる。
しかし、実際は、SB12やSB8は大暑点から2度南にずれた角度の軸線上に建てられている。
この2度ずれた軸線に主眼を置いた場合、梅雨明けによる御影神の山上への降臨の祀りや、麓での影向祭は軸線とは関係なく7月20日に行い、
実際に最も暑い時期の到来を表す二十四節気の大暑初日の祀りは大暑点の7月22日、あるいは23日から6日後の7月28日、あるいは29日に建物SB8に向かって行ったのかも知れない。
この考えのほうが、合理的だ。
西側のSB5が実際の冬至の日に合わせて、暦の冬至点よりも2度ずれた28度の角度の軸線上に建てられているのと同じである。
しかしながら、現在、御上神社でこの日に行う祭事はない。
元々は最も暑い時期に行う祭事があったが、7月20日の降臨祭のあとに行う御影神の祭祀に集合し、元々の大暑の祭祀は失われたのだとするのが正しいのかも知れない。

                               続く

55日本@名無史さん2019/02/20(水) 05:02:23.34
>>54
訂正

上から13行目の「SB12や」は、削除します。

56日本@名無史さん2019/02/20(水) 05:19:03.02
>>54
                    続く

以上により、伊勢遺跡の円周上の建物が、二十四節気の特定の節気と重なる角度の軸線上に建てられていることを明らかにした。
伊勢遺跡の円周上の建物が、3年分の二十四節気暦に基づいて配置されていると考えることは、十分に可能である。
これは、纏向遺跡の墓域の設定や大王級の墳墓の位置決定が、3年分の二十四節気に基づいて行われたと考えるのと同じ
あり方であると思われる。

さて、二十四節気暦が用いられた祭祀場の例として、いよいよ最後に筑後山門のケースを取り上げることにしよう。
筑後山門は、卑弥呼の宮室のあった所として比定される有力候補地の一つである。

                     続く

57日本@名無史さん2019/02/20(水) 16:21:33.06
>>54
追加

建物SB8の位置が大暑点から2度南にずれていることについては、中心点から20度の角度の軸線と重なる二十四節気の大暑点の祀りを、
実際に気温が上昇する7月28日、29日頃にずらして行ったことを表している、と考えるのが良いようだ。
そして、この時代には、まだ天之御影神は創出されていず、三上山の神は別にいて、
その神の祀りは円周上の建物とは関わりなく行われるものだったのではないか。
やがて、伊勢遺跡が廃絶したのちに、2度ずれた大暑の祀りを基にした最も暑い太陽の光の神が創出され、
三上山の元々の神と習合して、梅雨明けと伴に降臨する大暑の神となり、梅雨明けの7月20日に山上から麓に迎えられ、
その祀り期間中の大暑日にも祭祀が続けられるようになった、ということではないか。
この考えかたのほうが、合理的なように思える。

御上神社の社殿の位置は、建物SB8の軸線を三上山の麓まで延ばしたものととらえるのが妥当だろう。
ということは、建物SB8が解体されたあとも、何らかの標識が残されていた可能性を考えることができる。

58日本@名無史さん2019/03/02(土) 15:52:47.71
>>57
追加2

御上神社の社殿が建てられているその場所が、建物SB8の軸線をそのまま三上山の麓にまで延長した位置であることは、
その方位に向けて一年で最も暑い日の祀りが行われたことについての記憶がこの地域の人々に残っており、
後に創出された大暑の太陽の光の神である天之御影神の由来とリンクする場所が御上神社の社殿が建てられたその場所であったということである。
つまり、一年で最も暑い7月28日、あるいは29日の太陽の光が収納された建物SB8が、そのまま三上山の麓にまで移動したのが御上神社の社殿だということになる。
天之御影神が7月20日に三上山の山上に降臨したあと、麓の御上神社の社殿に迎えられて神祀りが行われるが、
これは建物SB8に降臨して収納された一年で最も暑い日の太陽の光を伊勢遺跡の祭殿前の中心点に移して行ったと考えられる祭祀と同じパターンである。
ただ、祀りの日程が異なっているだけである。
後代には、実際の暑い太陽の時期に合わせる必要がなくなったということであろう。

59日本@名無史さん2019/03/10(日) 10:33:18.40
畿内説スレで、畿内説のアホが喚いてたのがコレか

60日本@名無史さん2019/03/14(木) 11:53:58.87
>>59
わざわざここまで来て、ご苦労なこった。
どうだ、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が3年分1サイクルの二十四節気暦の実在が分かっただろ。
近江や纏向の祭祀者たちは、この銅鏡を基に季節の到来を予測して、祭祀の準備に余念がなかったのだ。
この3年分1サイクルの二十四節気暦が、筑後山門でも用いられていたことを、これから示していく。
卑弥呼の山門は、壮大なスケールの祭祀ワールドだったことが分かるだろう。
わははははは。

61日本@名無史さん2019/03/14(木) 12:18:02.79
>>60
以上にみてきたように、3年分1サイクルの二十四節気暦が弥生後期の近江伊勢遺跡で用いられていて、それに続く弥生終末期の大和の纏向遺跡でもまったく同じ3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
さてでは、九州筑後の山門ではどうか。
筑後山門は魏志倭人伝が伝える倭國女王卑弥呼の祭祀所があったところと比定される候補地の一つである。
近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡は、野洲地方の祭政の中心地であり大和の祭政の中心地であったことが考古学で推定されている。
二十四節気暦がそうした連合勢力の中心地の祭政に用いられたとすれば、倭國の都に比定される筑後山門でもこの二十四節気暦が用いられていた可能性は高い。
そこで、大和纏向遺跡や近江伊勢遺跡で用いた中心点から二十四節気の各節気の方位を設定する方法を筑後山門にも適用すれば、どのような結果となるかみてみたのが以下のデータである。
この山門の場合は、伊勢遺跡や纏向遺跡のように柱穴などの発見はまだないので、遺跡の存在やその年代については不明である。
しかし、3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
山門は壮大なスケールの祭祀ワールドだ、とみなすことが可能である。
以下にそれをみていくことにしよう。

                                          続く

62日本@名無史さん2019/03/14(木) 17:08:18.34
>>61
まず、検索欄に「緯度経度を求める」と入力し、開いた画面の上から3番目の「googleマップで緯度経度を求める」を開いて、地図を拡大して北部九州のみやま市に移動する。
そして、北緯33度8分55秒、東経130度29分20秒の位置に東西南北を示す赤色の十文字印を置く。
さらに微調整し、国道443号と778号が交差する吉井信号から北へ約80mほどの国道443号の東側すぐの場所に十文字印を置く。
ここが中心点となる。卑弥呼の祭祀所があった場所と推定できる地点だ。
この地点が、纏向遺跡の大型建物Dの中心点、また伊勢遺跡の円周上の建物が向っている中心点と同じ役割を持った場所になる。

この地点から東西線や南北線に対して上下左右の5度の角度を1単位とすることは、纏向遺跡と伊勢遺跡の場合と同じ。
そして、中心点から特定の角度の軸線上に乗る対象物は、神社と山とする。
纏向遺跡の場合は、この対象物は大王級の墳墓であった。
伊勢遺跡の場合は、円周上の建物であった。
伊勢遺跡の東側の円周上の建物SB8が乗る中心点からの軸線をさらに延長すると、その軸線上に御上神社が乗っていて、
この軸線上に御上神社が建てられたことは建物SB8が意味した事象を実現するために建物が建てられたことを意味していると推測できた。
何らかの標識が中心点とSB8の建物跡に残されていて、御上神社が建てられた位置を示すことができたのではないかと考えられる。
その標識は、円周上の建物の場合、心柱と呼ばれる柱ではなかったかと考えることが可能だ。
そして、吉井の中心点からの特定の角度の軸線上に神社が乗っていることについても、同じ方式が用いられたと推測することができる。

さてここで、吉井の国道脇に想定した中心点からの軸線上に乗る対象物の角度と、この角度に重なる二十四節気の各節気を逐一挙げて行くことにする。

                                  続く

63日本@名無史さん2019/03/15(金) 14:09:26.24
>>62
ここに挙げる神社の所在場所は、「googleマップで緯度経度を求める」の地図上の神社マークによる。
また、その神社名は「ヤフー地図」による。
そして、吉井の中心点からみた神社や山岳の方位角度の最初の起点は、日没方向の冬至点とし、この冬至点を0度と設定する。

1 諫早市多良岳(0度=西側東西線に対して南へ28度。この28度の角度は実際の太陽の沈む冬至点であり、暦上の冬至点である30度の角度とは異なる) 冬至
2 若宮神社(0度より北へ15度) 立春
3 不詳神社(0度より北へ30度) 春分
4 日吉神社(0度より北へ35度) 清明
5 日吉宮(0度より北へ45度) 立夏
6 天満宮(0度より北へ55度) 芒種
7 正八幡宮、八坂神社(0度より北へ59度=実際の太陽が沈む夏至点。暦では60度が夏至点となる。神社が2社同じ軸線上に乗っており、また正八幡という正の字が意味深である) 夏至
8 下庄八幡神社(0度より北へ65度) 小暑
9 廣田八幡宮(0度より北へ80度) 暑処
10 八幡宮(0度より北へ90度) 秋分
11 八幡宮(0度より北へ105度) 立冬

ここまでが神社と1年目の二十四節気の各節気が重なる範囲。
そして、2年目の起点となる暦上の最初の冬至点には神社はみられない。
神社と2年目の二十四節気の節気が重なっているのは、次の通り。

                                    続く




12 天満宮(0度より北へ130度)

64日本@名無史さん2019/03/15(金) 15:55:01.28
>>63
12 天満宮(0度より東へ130度) 立春
13 天満宮(0度より東へ140度) 啓蟄
14 天満神社(0度より東へ160度) 立夏
15 古塚山(0度より東へ180度=この古塚山は、0度の冬至点の諫早市多良岳の対極にある山で、
夏至点の角度と重なっているのであるが、多良岳が東西線から南へ28度の角度にあり、
実際の夏至の太陽が沈む日没の角度と重なっているのに対し、古塚山は東側の東西線から北へ30度の角度となり、
ちょうど暦上の夏至点に重なることになって、実際の夏至点の太陽の日の出の角度とは異なるのが注目点となる) 夏至
16 天満宮(0度より東へ190度) 大暑
17 清水山(0度より東へ200度) 暑処
18 諏訪神社(0度より東へ210度=諏訪神社の位置は210度より僅かに北にずれているが、これは立地する地形上の理由によるものだろう) 秋分
19 八満宮(0度より東へ225度) 立冬

ここまでが、神社と2年目の二十四節気の各節気が重なる範囲となる。

                                       続く

65日本@名無史さん2019/03/15(金) 16:18:25.17
>>64
ここからが、神社と3年目の二十四節気の各節気が重なる範囲となる。

20 春日大明神(0度より南へ245度=この240度の角度は暦上の冬至点と重なっており、対極にある7番目の正八幡宮の角度が東西線から北へ29度となっていて、
実際の太陽の夏至の日没角度に重なっているのとは異なっているのが注目される)) 冬至
21 不詳神社(0度より南へ245度) 小寒
22 天満宮(0度より南へ255度) 立春
23 天満宮(0度より南へ260度) 雨水
24 老松宮(0度より南へ265度) 啓蟄
25 老松宮(0度より南へ280度) 穀雨
26 屋須田神社(0度より南へ295度) 芒種
27 森山宮(0度より西へ305度) 小暑
28 阿蘇神社(0度より西へ320度) 暑処
29 天満社(0度より西へ325度) 白露
30 天満神社(0度より西へ330度) 秋分
31 大江天満神社(0度より西へ350度) 小雪

以上で3年分の二十四節気が一巡する。
この二十四節気の各節気に重なる神社数は28社となる。
これに山岳3峰を加えると、総計31山社を数える。
一方、このぐるり一帯に建立されている神社総数は51社を数えるので、二十四節気の節気が重なる28社の割合は55%となり、
山門周辺の神社の2社に1社が吉井を中心点とする二十四節気の各節気と重なっていることになる。
これは驚くべき確率であり、統計的にほぼ間違いなく有意の配置と言える数値である。
つまり、偶然ではないことを示している。

                              続く

66日本@名無史さん2019/03/15(金) 18:49:46.17
>>65
さて、この28社の立地をみると、吉井の中心点から見てぐるり360度内に分散してるが、いずれも全ての神社が集落内の立地となっている。
二十四節気の3年暦が用いられたと考えられる近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡が人の住まない施設としての立地であるのに対し、
この山門のケースは人が暮らす集落と密に関係した立地であるとみられる点が明確な相違点となっている。
この集落内の神社について、吉井の中心点との関わりをどのように見ればよいだろうか。
まず、神社そのものについては、近江の伊勢遺跡の建物SB8の軸線を延長した場所に御上神社が建てられているケースが参考になる。
中心点と建物SB8の跡には何らかの標識が設けられていて、その軸線の延長線上の山の麓が山の神の遥拝所となっていて、その遥拝所の場所に神社が建立されたという経緯が考えられる。
山門の場合も、吉井の中心点と神社のある位置とに何らかの標識が設けられていて、その標識の跡に後代になって神社が建立されたということが考えられる。
その神社も時代によって新たに建て替えられたと推測できる。
というのも、八幡神社の社名は6世紀後半以降に現れ、天満宮の社名は10世紀初頭以降に現れるからである。
したがって、元々はそこに何らかの標識が設けられていて、中心点の標識と関わる場所であると認識されていたたと考えるのが妥当であり、
後代になってその場所に神社が建立されたということが考えられる。

この考えに沿って推論すれば、農耕暦である二十四節気に基づく特定の節気が山門地域のぐるりにわたる集落にそれぞれ配分され、
その節気の内容に基づく農耕祭祀が中心点の祭祀所で行われると伴に、該当集落でも盛大に祀りが行われたというイメージを描くことができる。
また、山門地域の集落の大部分は水田域にあることを考えれば、その祭祀は水田の稲作に関わるものであったことは十分想定できるのである。
そうした祭祀所や集落での祭祀が二十四節気の節気に従って次々と行われて行き、山門地域の集落のまとまりの求心性が高められたことが考えられる。
そして、その集落の祭祀は、3年に一度巡ってきたのだろう。

                                続く

67日本@名無史さん2019/03/15(金) 19:08:57.31
>>66
このように、吉井の中心点からの二十四節気の軸線が山門のぐるり一帯の28集落に向けて放射され、壮大な農耕祭祀のワールドが形成されていたことがイメージされる。
こうした二十四節気の3年暦が画文帯神獣鏡に鋳込まれ、弥生後期後半に各地で活用されたとすれば、吉井の中心点に卑弥呼の祭祀所を設定することは可能であり、倭人伝が記述した卑弥呼の祭祀のリアルな姿を描くことができる。
また、この時期には、大和の纏向でも二十四節気を用いて農耕祭祀が行われ、また大王の墓域の設定やその墳墓の位置の決定が行われていたとすることができる。
つまり、このように、弥生後期後半から終末期にかけては、銅鏡に鋳込まれた二十四節気3年暦を基にした農耕祭祀が、それぞれの拠点地域において活発に行われていたことを推定することができるのである。

68日本@名無史さん2019/03/31(日) 20:36:03.20
>>67

                                (お終い)

新着レスの表示
レスを投稿する