【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net

1岡崎前門主2016/09/22(木) 21:48:13.09
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。

前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/

2日本@名無史さん2016/09/22(木) 22:52:58.33
>>1
スレ立て乙

3日本@名無史さん2016/09/23(金) 14:12:16.70
>>1

一部にはこんな糞スレ立てるなという人もいるだろうが
ポエマーの隔離場所としてこのスレは必要

4日本@名無史さん2016/09/23(金) 16:23:40.28
>>3
たしかに
俺の好きなスレにあんなんが住み着いたらかなわん

5日本@名無史さん2016/09/24(土) 00:51:33.22
後醍醐天皇が吉野に潜伏していたころまで遡ってじっくり論じたい

6日本@名無史さん2016/09/24(土) 15:26:48.78
>>5
まーたニワカか

7日本@名無史さん2016/09/24(土) 15:45:45.46
両統迭立になったところから論じるべきでは?

8日本@名無史さん2016/09/24(土) 19:39:28.46
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

9日本@名無史さん2016/09/27(火) 22:57:20.00
佐藤洋一郎とは誰なのか?

10日本@名無史さん2016/09/28(水) 01:25:43.12
そこに触れるな

11日本@名無史さん2016/10/01(土) 08:01:11.91
佐藤先生の言っていることにも一理ある
あまり過激な言葉で決めつけるのはいけない

12日本@名無史さん2016/10/01(土) 08:28:59.50
>佐藤先生の言っていることにも一理ある


ないない。

あれはただのペテン師。

13日本@名無史さん2016/10/01(土) 09:01:23.01
触れるなと言ってるのに

14日本@名無史さん2016/10/01(土) 10:08:10.26
>>13
そうそう。
スレの話題テーマを無視してあちこちのいろんなスレに同一文面でコピペしまくるやつがマトモなはずないんだから、
相手にしたらアカンよな

15日本@名無史さん2016/10/01(土) 11:50:58.30
↑極悪詐欺師本人の台湾ブタ広鼻

佐藤詐欺は2ch創業来17年間にもわたって何千、何万回と台湾工作ブタに
よって詐欺を働かれた日本国民を陥れる悪辣極まりない巨大詐欺。

決して許すことはできない。

16日本@名無史さん2016/10/01(土) 13:23:13.75
佐藤博士の研究はスケールが大きいがゆえに、細部において十分に論証できて
いないところがあるのではないか。そのため、細部において実証的に研究を
進めてきた研究者たちが、疑問を呈しているのではなかろうか。
スケールの大きな研究をする学者にはありがちなことだ。

17日本@名無史さん2016/10/01(土) 14:06:25.04
佐藤はバカを詐欺る前提でやってるの。

あいつは起承転結すべて計算済みでやってる確信犯詐欺師。
あいつは20年前も同じ詐欺を働いていた。
日本には温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカがあるが、半島には熱帯ジャポニカがない、
だから日本のイネは中国南部から来たという詐欺。
その何年後かに半島から熱帯ジャポニカが出てきてしまい、
「日本から伝わったものかもしれません。」だとよ。

だから最古水田炭化米とそれ以前の朝鮮のイネで比較調査すれば全て済む話なんだが、
それから20年年間もやってくれません。

なぜそんな簡単な事をやらないか分かるよな?

それまでの自分の働いた詐欺が瓦解するからだ。

18日本@名無史さん2016/10/01(土) 17:55:51.82
困った学者さんだなあ

19日本@名無史さん2016/10/01(土) 20:16:49.22
学者を善人だと思っちゃいけないよ。

自身の売名や出世のために故意におかしな調査をして、おかしな狂言を
働く事で世間の目を引く事で有名人になり、自らの欲望を達成せんとする
悪人がかなり居るんだよ。

最初から全て計算済みの犯行なんだよ。

佐藤はその代表格だよ。

20日本@名無史さん2016/10/01(土) 20:29:36.70
ははーん。

要するに俺たちは佐藤劇場にまんまとハメられたって訳だw

21日本@名無史さん2016/10/01(土) 21:00:13.28
スレタイ読めないの?

22日本@名無史さん2016/10/01(土) 21:23:28.42
酷い自演

23日本@名無史さん2016/10/01(土) 22:00:33.07
自演という事にしたいサギサギ台湾ブタ広鼻ボルネオ原人w

24日本@名無史さん2016/10/01(土) 22:15:01.02
佐藤教授の演出にまんまとはめられた人も多い
自分そのひとりだ

25日本@名無史さん2016/10/02(日) 00:06:44.26
奴もそれを目的として時間と手間暇かけて丹精込めて作り上げた計算づくの
詐欺シナリオだもの。

ダマされる方がふつうなんだと思う。

俺は考古やってるから最初から詐欺だと分かったけれども、奴の欺罔トリックを
完全に崩すまでに10年くらいかかってしまった。

一応、俺も京大を出てるんだが、そんなに時間がかかってしまったんだから
馬鹿と変わらんな。

それとも、奴の知能犯のレヴェルがそれくらい高いのか???

26日本@名無史さん2016/10/02(日) 22:58:28.16
それくらい巧妙なトリックだったんだろう
でも、それだけのトリックを考える暇があるなら、真面目な研究をしてほしかった

27日本@名無史さん2016/10/03(月) 01:03:45.00
あの極悪詐欺師だけは絶対に許せん。

逢ったら、あのスットボケたマヌケ顔を思いっきりブン殴ってやりてえな。

あんな詐欺師に教授なんて言葉もったいねえよ。

詐欺師サトーでイイんだよ。

28日本@名無史さん2016/10/03(月) 04:28:10.73
興味深いスレです
自分はまだ大学生で詳しくないのですが後醍醐天皇が好きでもっと深く知りたいです

29日本@名無史さん2016/10/03(月) 23:58:51.61
後醍醐天皇について学びたければ、平泉澄先生が書かれた「建武中興の本義」を
読むといいのではないでしょうか。

30日本@名無史さん2016/10/04(火) 00:13:26.03
バリバリ右派思想の平泉センセか……

少し前に、前スレか関連スレかどっかで洋泉社の新書版の概説書を紹介してなかったか
あとは四六版サイズ、森センセの南北朝全史とか

平泉センセは戦前の学者なんでさすがに研究が古すぎるでしょ。
着眼点とか新しい部分があるにしてもさすがに限界がある。

31日本@名無史さん2016/10/04(火) 10:23:18.42
やっと自演祭りが終わったか

32日本@名無史さん2016/10/05(水) 00:08:33.95
初学者はまず平泉先生の概説書を読んで、南朝を正統とする史観をしっかり
身に着けるのがいいかもしれない。その後、戦後の先生方の本を読んで
視野を広げていけば、後醍醐天皇への理解も深まるだろう。

33日本@名無史さん2016/10/05(水) 13:37:41.29
前スレまだ埋まってねーぞカス

34日本@名無史さん2016/10/05(水) 23:39:56.20
南朝が正統ということも知らない人も多いからな

35日本@名無史さん2016/10/06(木) 23:12:06.38
本当は南朝ではなく、吉野朝と正しく言わないといけない

36日本@名無史さん2016/10/06(木) 23:37:11.35
マジレスするなら、まず佐藤進一さんの中公文庫『日本の歴史9 南北朝の動乱』を読んで、そこから最近の研究者の本を読んでいくのがいい

37日本@名無史さん2016/10/08(土) 08:10:29.90
まず佐藤教授の本を読んで、最近の研究者の本を読んで知識を増やしてから
平泉教授の本を読んで歴史観を確立していくのがいいよな

38日本@名無史さん2016/10/09(日) 17:03:53.09
佐藤教授を批判する書き込みが続いたので驚いた

39日本@名無史さん2016/10/09(日) 19:25:14.81
>>38
それ佐藤ちがい

40日本@名無史さん2016/10/10(月) 15:13:32.64
佐藤教授を批判する書き込みは間違った内容だから気にしないほうがよい

41日本@名無史さん2016/10/15(土) 17:00:41.96
大学生だったら、国史専攻でなくても、国史の講義に出てみたらどうか?
南朝や後南朝の講義に出れば、後醍醐天皇はもちろん、その後の天皇に
ついても詳しく学ぶことができる

42日本@名無史さん2016/10/16(日) 17:27:28.87
後南朝の講義やる大学なんて聞いたことない

43日本@名無史さん2016/10/16(日) 18:16:19.08
富山大学では後南朝の研究書を参考書に指定して、南北朝の講義をした
ことはあるみたいだな

44日本@名無史さん2016/10/16(日) 23:33:18.77
西陣の南帝って、後花園上皇や後土御門天皇に比べて
どれだけの権威があったんだろうか。

西軍が苦し紛れに担ぎ出したようにしか思えない。

45日本@名無史さん2016/10/16(日) 23:42:37.80
後花園天皇は京の民に慕われていたけど、
西陣の南帝に何かそういう話はあったか?

前スレでいろいろ議論してたけど、諱も生没年も分からない人物だよね。

46日本@名無史さん2016/10/17(月) 00:41:33.07
>>44-45
仮にも貴種の出なわけだからして、下級貴族−−昇殿もできないレベルの貴族と同等の権威ぐらいはあったんじゃないか?
守護大名を上回る権威を持ち合わせることすらできそうにない。

47日本@名無史さん2016/10/17(月) 23:16:04.91
西陣南帝の父宮である岡崎前門主に関する資料すらすでに乏しいので、西陣
南帝ご自身に関する資料はさらに乏しい。
ただ、貴族社会に連なる人物として認識されてはいただろう。

48日本@名無史さん2016/10/18(火) 17:55:50.98
>>46
貴種だと思って担いだら紛いもんだったんやで
それで、謀殺されたんや。やから最期どうなったか不明なんや

49日本@名無史さん2016/10/18(火) 23:38:50.81
西陣南帝は一応は南朝皇孫であることは事実だったのだろうか、
それとも徳川天一坊のようにまったくの偽者で、偽者であることが
露見したため、天一坊のように罰せられたのであろうか。

50日本@名無史さん2016/10/19(水) 15:35:52.97
>>49
だからそう書いてるやろ
メクラ

51日本@名無史さん2016/10/20(木) 06:26:34.12
西陣南帝の末路を見ると成りすましの可能性も否定できない。
そもそも小倉宮系というのが怪しい。
小倉宮系は教尊が隠岐に島流しになり、子孫も残せずそこで死んで終了だからな。
教尊に兄弟がいたという話もないのだから、西陣南帝は本当は誰の子孫なんだという話が出て当然。

52日本@名無史さん2016/10/20(木) 20:39:43.87
後南朝は史実から消えた。
それがすべて。

南朝後胤の最後の資料は、東大資料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という網文のもとに、次の四件あります。

A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
  山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送らて、
   越後より越前国北荘へ移った。

B同記三十日の条
  「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。

C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
  「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
  (現山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。

D同記明応八年霜月の記事
  「王」が明応八年霜月に流されて三島(現静岡県三島市)に着き、
  早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。

当時の文献上は、これで終了。

南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。

53日本@名無史さん2016/10/20(木) 20:42:22.20
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)        
                               |                       
                               |(推定)         第104代
                               −岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
                                              |    
                                              −弟宮

小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。

*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
       その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
       関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
       その後の消息は不明。

54日本@名無史さん2016/10/20(木) 20:43:32.36
教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。

55日本@名無史さん2016/10/20(木) 23:06:21.32
>>52
「史料編纂所」の『大日本史料』の「綱文」ですよねと一応突っ込んでおきますが
後南朝かもしれない痕跡が明応まで存在するとは知りませんでした。しかも早雲と接触しているとは驚きです。
勉強になりました。地元に伝承など残ってないんですかねえ

56日本@名無史さん2016/10/21(金) 05:52:16.66
>>55
>「史料編纂所」の『大日本史料』の「綱文」ですよねと一応突っ込んでおきますが
そう書いてあるだろうが。
日本語が読めないのか?

57日本@名無史さん2016/10/21(金) 07:47:45.91
>>56
55は綱文ってのを書き忘れてないかと言いたかったのではないか?

58日本@名無史さん2016/10/21(金) 07:49:41.74
それともうひとつ、資料編纂所じゃなくて史料編纂所だろと言ってるのだと思う

59日本@名無史さん2016/10/22(土) 01:41:12.64
西陣南帝は南朝皇族であるのはおそらく事実だが、「小倉宮」系というのは
詐称という理解で正しいだろうか?

西陣南帝が小倉宮系という自称を信じて、山名持豊が西軍の旗印として
推戴した。→ 「どうも小倉宮系というのは怪しい」という苦情が
西軍の武将の中から出てきた。→ 小倉宮系ではなく、南朝の末端皇族
に過ぎないということがわかってきた。→ 西陣南帝は西軍の旗印として
推戴するほどの尊貴さに乏しいと思われ、推戴するのが馬鹿らしくなった。
→ 「せっかく来てもらったけど、あなたに用はない。もう出て行って
もらえないか?」と、陣営から追い出された。

60日本@名無史さん2016/10/22(土) 13:32:06.64
>>57
元々
> という網文のもとに、次の四件あります。
と書いてあるね。

61日本@名無史さん2016/10/22(土) 14:19:49.80
あみ と つな

62日本@名無史さん2016/10/22(土) 14:35:38.24
これは恥ずかしいwww

63日本@名無史さん2016/10/22(土) 17:38:42.01
>>61
すまん、横レスしようとして読み間違えた

64日本@名無史さん2016/10/22(土) 18:48:32.11
63を訂正する(オレは57-58な)

55は、52が綱文を網文と書き間違えてることと史料編纂所を「資」料編纂所と書き間違えてることについて
「一応突っ込んでおきますが」といってるんだよね

56は
>そう書いてあるだろうが。
といってるけど、元の文には文字違いで書いてありますよね

65日本@名無史さん2016/10/23(日) 13:51:27.23
西陣南帝のほうから山名宗全に「自分は小倉宮の皇子だから、皇位につけて
くれ。そうすれば、西軍を応援する」と売り込んだのか?
それとも、山名宗全のほうから西陣南帝をスカウトして、「西軍の味方に
なって下さい。そうすれば、あなたを皇位につけてあげましょう」と
そそのかしたのか?

66日本@名無史さん2016/10/23(日) 19:49:26.33
日本語が読めない55です。いろいろフォローありがとうございました

67日本@名無史さん2016/10/24(月) 20:26:06.42
さんざん繰り返されているだろうけど、
元々、後醍醐天皇は一代限りの帝だとの父院の遺志を踏みにじって
後醍醐天皇本人とその子孫で皇位を独占しようとした結果の
南朝と後南朝なんだよなあ。

昔は俺も「浪漫」的なものを感じていたが、
吉野の山奥に孤立して最後は消滅したのもやむを得ないと思う。

68日本@名無史さん2016/10/25(火) 01:07:14.63
> 一代限りの帝だとの父院の遺志を踏みにじって
> 後醍醐天皇本人とその子孫で皇位を独占しようとした
これ自体は皇室の歴史の中では全く珍しくない行為だね。
白河院にしても、後三條院から一代限りとされていたのを無視して自分の子孫に継がせたわけだし。

69日本@名無史さん2016/10/25(火) 01:22:05.23
死んだ父院の希望をガン無視して自分の皇統に…なんていうのは、実際に守られた方が珍しいくらいよくあることだからそこは正直問題じゃない
当時の人だってその辺りを本気で問題視してたのは思ってたのは、それこそ梯子を外された後二条流の関係者ぐらいでしょ

70日本@名無史さん2016/10/25(火) 19:38:22.48
>>68-69
それを突き詰めていけば、皇統争いで敗れて歴史から消え去っても単なる不運に過ぎないってことなんだよな。

敗色濃厚なままで「こっちこそ正統」とかやるのが理不尽
(いや、乾坤一擲をかけて勝負に出てるなら妥当だけどさ)


自分が何言ってるのかよく分からなくなってきた

71日本@名無史さん2016/10/26(水) 00:11:29.43
後醍醐天皇がそれまでの皇位争いをした天皇と違うのは、吉野の山奥に
立てこもってまで徹底抗戦し、自分の皇統を守り抜こうとした、
抜群の意思の強さではないか?
よほどの信念がなければ、ここまで戦い抜くことはできない。
そして、その後の南朝・後南朝の天皇と近臣たちにも、その意思の強さを
感じる。

72日本@名無史さん2016/10/26(水) 02:10:46.00
父院の遺志を反故にして皇位の独占を図った南朝が、「両統迭立の約束を守れ」と後小松天皇や足利幕府を責め立てても説得力がない。
それを言いたかった。

73日本@名無史さん2016/10/26(水) 23:57:45.84
南朝の言い分には、あまり説得力がないということだね。
それにもかかわらず、南朝が正統ということになり、南朝はわが国の歴史観に
大きな影響を与えるようになった。

74日本@名無史さん2016/10/27(木) 00:25:20.61
少なくとも、同時代人の大半は南朝と北朝のどちらが正統とも区別してなくて、自分の敵対者との対抗上の都合に基づいて所属先を選ぶ程度の認識しかない

南朝正統論が本格的に成立したのは南朝の子孫が完全に断絶して、復権の可能性が無くなった後のことだよ

75日本@名無史さん2016/10/27(木) 00:30:15.56
つか水戸学のせいだろ

76日本@名無史さん2016/10/27(木) 06:08:16.97
重箱の隅を突いてるバカは満足したか?
肝心の中身を知らなかった無知のくせに感謝の言葉もないのな。
「ありがとうございました」くらい書けないのか。

77日本@名無史さん2016/10/27(木) 11:27:26.75
>>72
それを言うと、自分から幕府に皇位継承に口出しするように持って行って自分の息子に皇位を譲らせた後深草院も相当あれだからなぁ
あれがなければ両統迭立なんてなかったし、なにより皇位継承を外部に委ねるなんて、凄まじく危険な行為だぞだ

78日本@名無史さん2016/10/27(木) 19:20:12.27
そもそも後嵯峨の歿時に後継決めたときから幕府が介入してるのに今更だぞ

後深草たちはおそらく、亀山親政の根拠となった「後嵯峨帝の内意」が捏造で亀山を後継にする意図などなかったと推測されるなんらかの論拠を見つけて
騙されたという思いが募った結果として巻き返しを図ったと思われる

その論拠の信憑性はともかくとして。

79日本@名無史さん2016/10/28(金) 02:28:16.28
後嵯峨院の遺志云々以前の問題として、後嵯峨自身が幕府の介入で即位している。
承久での後鳥羽の失敗が決定的だったということだね。

80日本@名無史さん2016/10/28(金) 13:01:02.11
各地に転戦した南朝・後南朝庶流は、きっといらっしゃるはず。
神秘的ですら有る。

81日本@名無史さん2016/10/28(金) 18:52:59.76
生きてる皇族の主だった面々は長慶か後亀山の元に戻っただろ

長慶に従った皇族は転戦し続けたかもしれんが後亀山に従った皇族は京都周辺の寺に入れられたから転戦しなくなったよ


長慶本人ですら行方知れず、足跡不明になってるぐらいだから、そっちに従った皇族の消息なんて誰にも分からんわな
たとえ子孫が居るとしても、たぶん子孫すら自分の祖先が皇族だと知らんだろってレベルでの消息不明だと思うぞ

82日本@名無史さん2016/10/29(土) 00:13:31.34
>>81
> 長慶本人ですら行方知れず、足跡不明になってる
行方知れずでもなんでもないだろ。
足跡が記録に残っていないにしても、当時は行方知れずでもなんでもない。
大乗院日記目録に崩じたという記録があるくらいだし。

83日本@名無史さん2016/10/29(土) 07:43:05.48
南朝の歴代天皇は単に記録が少ないというだけで、消息不明になったという
ことではあるまい。
後南朝の末期の天皇になると、消息不明ということは考えられる。

84日本@名無史さん2016/10/29(土) 10:05:11.15
来年の大河は井伊

南朝の香りが少しする

85日本@名無史さん2016/10/29(土) 13:04:55.12
ショッカー戦闘員「イイーーッ」

86日本@名無史さん2016/10/29(土) 14:59:27.12
>>65
応仁の乱が始まった頃、紀州で南方兄弟宮という人物が旗揚げして、
一時現地では相当勢いがあった。山名宗全は、これは利用価値がありと考えて
自軍に迎え入れることにした。入京時に、父と弟がいたことが分かっている。
のちに相模に追放されたが、相模の熊澤一族に、南朝皇胤と称するものがいるのが面白い。

87日本@名無史さん2016/10/29(土) 21:11:55.17
大覚寺統の嫡流は後二條流のはずだが、室町後期の混乱の中
消えていったな。

88日本@名無史さん2016/10/30(日) 11:12:24.25
>>87
遠州の木宮さんがその末裔。
現在大学教授とかやってる人もいる。

89日本@名無史さん2016/10/30(日) 19:49:51.46
>>86
有難うございます。勉強になりました。

すると、西陣南帝は山名宗全のほうからスカウトして西軍に迎え入れたが、
「この新帝が南朝皇胤というのは、どうも怪しい。こんなのをかついで
いては、かえって西軍の正統性に傷がつく。陣営から追い払おう」
ということになり、追放した。
だが、追放後も南朝皇胤を自称し続けたということは、本人たちは
あくまで自分たちが南朝皇胤であることを真実と考えていたという
ことだろうか。

90日本@名無史さん2016/10/30(日) 20:32:57.61
ちがう

>「この新帝が南朝皇胤というのは、どうも怪しい。こんなのをかついでいては、かえって西軍の正統性に傷がつく。陣営から追い払おう」
>ということになり、追放した。

ではなくて、南朝皇胤を担ぐという行為自体に反対が出たからだよ
南朝皇胤の価値が下がったところに加えて信憑性まで怪しかったってこと。

もともと西軍は幕府内部の派閥争い程度の小さな争いのつもりで、義政に対抗する将軍候補(つまり義視)を担ごうなんて考えてさえいなかったぐらいだ
(それどころか、もとは将軍が言いだした幕府方針を変えてもらいたくて抗議というか武力抵抗するだけのつもりだった模様)

91日本@名無史さん2016/10/31(月) 19:22:21.55
将軍より南帝のほうが高貴

どう考えても高貴

92日本@名無史さん2016/11/01(火) 23:43:32.43
応仁の乱のころになると、すでに南朝の高貴性が薄れていたということだろうか?
南朝皇胤の存在はまだ知られていただろうし、それを擁立しようとする動きもあった。
だが、世の中の大勢はもはや南朝に威信を感じなくなっていたのかも知れない。

93日本@名無史さん2016/11/02(水) 19:07:06.98
二世王(祖父が天皇だが父親は親王または諸王)ぐらいならともかく、四世五世の諸王になれば高貴さは薄れてるぞ
現職に就いてる将軍の方が(役職の分だけ)マシなぐらいに。

94日本@名無史さん2016/11/02(水) 20:42:59.65
平安時代の源経基(2世王)や満仲(3世)に、高貴さを感じた人は少ないだろうが、
室町時代は平安前期に比べて皇胤が激減しているのでそれなりに高貴さを感じていたと思う。
南朝の皇族の首については大道に晒すということもなかったみたいだし、
出自がよくわからない北山宮・河野宮も壮大な三十三回忌が都で営まれている。
木寺宮末孫が遠州の龍雲寺にいたが、8世孫が大宮様とよばれたという。

95日本@名無史さん2016/11/02(水) 20:51:46.82
確かに「天皇の血をひいてる」というだけで敬われるのはせいぜい孫の代までなんだよなぁ
臣籍降下した家は三代上級貴族として持てばいい方だし
清和源氏だって清和天皇のひ孫の代で上級貴族の使いぱっしりになってるわけで

96日本@名無史さん2016/11/02(水) 22:50:46.74
>>94
昇殿もできない下級貴族でさえ相当に尊敬されるような辺境での話だから仕方がない

97日本@名無史さん2016/11/03(木) 09:42:30.47
四世王、五世王くらいになると、臣籍降下して受領くらいの中級貴族に
なってもおかしくない世代だから、室町将軍や摂関のような高級権門
にははるかに劣る。清和源氏や桓武平氏も院や摂関の家司クラスに
落ち着いていった。

だが、>>94にあるように、平安期と室町期では皇胤の価値が違うこと
にも留意しなければなるまい。南朝皇胤を貴顕扱いしたり、政治カード
として利用する動きもあったのは間違いない。

98日本@名無史さん2016/11/04(金) 17:46:36.00
>>97 もう古いNHK大河に「風と雲と虹と」というのがあったが、それはあなたの話の例の宝庫。
桓武天皇の五世の孫 平将門・同貞盛は藤原忠平の家人。興世王は武蔵権守。清和天皇の後裔六孫王源経基は武蔵の介

99日本@名無史さん2016/11/05(土) 12:15:06.67
奈良・平安くらいの時代を見ると、皇族・臣籍降下したばかりの元皇族が
非常に多いのに驚く。
まだ朝廷に力があって、皇族・元皇族に地位をあてがう余力があった時代
なのだろう。
一方、こんなに大勢いると、一種の皇族のインフレで、高貴さを失うのも
早かっただろう。末端の名ばかりの皇族を指す「生孫王」という言葉が
生まれたのもこの時代だ。

100日本@名無史さん2016/11/05(土) 17:23:13.06
>>99 江戸時代の後水尾天皇であるがこれだけの子女をどうしたの?
興子内親王(明正天皇)女二宮 高仁親王 若宮 昭子内親王 賀子内親王 菊宮 紹仁親王(後光明天皇)
守澄法親王 元昌女王 宗澄女王 桂宮 賀茂宮 文智女王 理昌女王 光子内親王 良仁親王(後西天皇) 
性真法親王 摩佐宮 理忠女王 八条宮穏仁親王 道寛法親王 尭恕法親王 常子内親王 眞敬法親王
證法親王 識仁親王(霊元天皇) 永享女王 尊光入道親王 盛胤法親王 文察女王 新宮 性承法親王

101日本@名無史さん2016/11/05(土) 17:41:10.40
殆どの皇子皇女を寺に入れた。

門跡になって相応の暮らしが出来た方もいれば、
一介の僧侶で終わった人もいるだろうな。

102日本@名無史さん2016/11/05(土) 17:45:49.58
俺の母が、江戸時代のある皇女のお墓が
宮内庁管轄なのに、ろくに手入れもされずに荒れ果ててたのを見て
ショックを受けてたな。で、墓なんか虚しいと真剣に考え出してるよ。

俺も京都の二尊院で、江戸時代の内大臣だののお墓が苔生して荒れ果ててるのを見て
本当に人生は無常だと思った。生前はいくら実権力は無いとはいえ
かなりの社会的地位にあった筈の公家たちが数百年経てば忘れ去られてる現実。

103日本@名無史さん2016/11/05(土) 20:22:07.75
まぁ墓というもの自体がそういうものでもあるからなぁ
基本的には生きてる人が故人を偲ぶ為のものである以上、故人を偲ぶ人そのものが死に絶えてしまうと墓が忘れられていくのは道理といえば道理
それでもなお墓が大切にされる為には、生前の権威云々よりもどれだけその人が人々の間で語り継がれるかが重要になってくる

実際、権力を握ていたわけでなくとも『平家物語』なんかの有名な物語に出てくるような人の墓なら、今でも各地域で結構大事にされてたりするし

104日本@名無史さん2016/11/05(土) 21:14:06.41
>>101 でも、寺に入れるのに金いるだろう。

105日本@名無史さん2016/11/05(土) 21:43:14.10
奈良・平安時代の余剰皇族は、
臣籍降下→最初は中央貴族→受領クラスの中級貴族→地方に土着して武士に
→地方で子孫繁栄

江戸時代の余剰貴族は、
出家→門跡・住職→子孫断絶

江戸時代になると、国司として地方に赴任することもできず、地方に土着して
武士になることもできなかった(地方にはすでに大名がいる)。
だから、天皇になれなかった皇族は、運よく宮家を設立できたり、養子に
行けたりした人を除いて、出家して子孫断絶するしかなかった。

106日本@名無史さん2016/11/06(日) 14:21:38.45
臣籍降下しても行く先がなくなってきたことで、皇族の運命が変わってきたよな

107日本@名無史さん2016/11/07(月) 13:11:37.80
>>106 藤原北家でさえ秀郷の親父の村雄は下野掾まで落ちぶれて。

108日本@名無史さん2016/11/12(土) 09:37:51.69
足利将軍家でも、嫡子の弟など将軍になれなかった人は出家して門跡などの
高僧になる人は多かったので、後継者から外れた人が出家するというのは
この時代の慣習だったのだろう。

だが、足利義教・足利義政・足利義視のように、出家したけど還俗して
将軍・将軍候補に返り咲いた例もある。だから、南朝皇胤の場合でも
いったんは出家したけど還俗して皇位をねらうケースがあっても
おかしくはない。

109日本@名無史さん2016/11/12(土) 10:40:36.62
>>108 護良親王。

110日本@名無史さん2016/11/12(土) 21:06:27.00
なんか中国語のwikiの後南朝の項目だと西陣南帝の帝位時期(?)が1458〜1514ってなってるけど
そもそも西陣南帝って1480年代前後辺りには不明になってたのに1514までいたって根拠はなんなの?

西陣南帝過世後,一般都被認為是後南朝完結的標誌,但自稱天皇的人多指西陣南帝以後還有後南朝的延續,更有書(《植月御所之真相》,田中千秋著)研究出後南朝是在元祿十年(1697年)時,幕府將軍コ川綱吉派人殺死後南朝皇太子良懷親王而結束的。
↑なんか1514年まで存在してたって出展らしいけど中国語分からんからどういう意味か分からん

111日本@名無史さん2016/11/12(土) 22:20:29.50
熊沢氏の系図で永正11年(1514年)に没したと伝えているだけ

112日本@名無史さん2016/11/13(日) 05:16:16.40
>>111
あー熊沢のアレか…
って事は中国語のwikiに乗ってる後南朝の皇族の諱も全部熊沢系譜のって事かな
謎が解けた
THX

113日本@名無史さん2016/11/13(日) 12:21:49.87
中国語版の説明だと、西陣南帝の治世は50年を超え、昭和天皇や清朝の
康熙帝クラスの盛世ということになる。
その後も後南朝は元禄年間まで続き、将軍綱吉によって最後の皇太子が
弑逆されるまで続いた壮大な王朝だったということだ。

114日本@名無史さん2016/11/13(日) 13:03:42.78
後南朝に歯向かった魔王綱吉は朝敵だな。

聖地を抱える紀州藩が天下取ったのも頷ける。

115日本@名無史さん2016/11/13(日) 18:46:52.57
良懐ってのは美作後南朝の系譜だな
何でそっちを採用したんだかw

116日本@名無史さん2016/11/13(日) 21:05:25.88
美作後南朝が帝なら、
津山藩が官軍なので
森将軍。

117日本@名無史さん2016/11/13(日) 21:25:03.41
美作後南朝の歴史とかだとか
http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa01.html
http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa02.html
http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa004.html
此れの系譜だと美作後南朝は1443〜1697って事になるんかね

118日本@名無史さん2016/11/19(土) 09:37:38.31
美作後南朝は皇位に就くことなく親王のままの主上が多いのが気になる。
親王のまま政務を執って、称制を行っていたと解釈していいのか?

119日本@名無史さん2016/11/19(土) 18:00:50.80
まあ、美作後南朝は実在しない架空の存在だしな

120日本@名無史さん2016/11/19(土) 18:17:54.14
美作後南朝って元ネタになってる史料とかあるの?

121日本@名無史さん2016/11/19(土) 19:26:56.53
弾圧された闇の歴史だから史料なんか無いとハナから開き直ってる

122日本@名無史さん2016/11/19(土) 23:02:03.10
植月御所(美作後南朝)では100年余りにわたって親王が何代か続いた後、
後水尾天皇から植月御所の高仁天皇に譲位されたことになっている
すなわち、美作後南朝は一種の世襲宮家のようにして続いてきて、史実にある
天皇から譲位されて皇位に就いた、という話になっている
つまり、京都の朝廷からも公認された世襲皇統だったということだ
だが、江戸幕府が突然介入して、高仁天皇は廃位となって、もとの世襲宮家に
戻り、良懐新王のとき、親王号も幕府から奪われて、世襲宮家としての地位も
失って終焉を迎えた、という設定になっている

123日本@名無史さん2016/11/20(日) 00:02:50.87
美作後南朝は、長禄の変も美作での出来事だと主張しているから、
そもそも史実とリンクすらしていない。パラレルワールドのお話。

124日本@名無史さん2016/11/20(日) 09:23:00.58
美作後南朝なんて、このスレに住み着いてるポエマーみたいなのが捏造した話だからな。
信じる方がおかしい。

125日本@名無史さん2016/11/20(日) 11:02:04.02
美作後南朝は史実からかなり乖離していると思うが、そのような話を作り出した
動機のほうに興味を感じる
美作地方の人が郷土愛から、自分たちの地元に朝廷があったらいいだろうな、
地元の朝廷が有名になって、町おこしにつながったらいいなと願いを込めて
作ったのだろうか?

126日本@名無史さん2016/11/20(日) 12:15:06.93
>>125
作桜神社
さくら

鎮座地 岡山県津山市神戸(じんご)432

ご祭神 後醍醐天皇・児島高徳公
http://www.7kamado.net/sakura.html
だもんね。

127日本@名無史さん2016/11/20(日) 14:21:11.56
児島高徳公が後醍醐天皇をお迎えした故事のある土地なんだね
その勤王の赤誠を後世の人たちが受け継いで、美作後南朝の説話を
作り上げたのかも知れぬ

128日本@名無史さん2016/11/20(日) 15:44:11.58
皇室関連の歴史をでっち上げることと勤王精神は別のもんだろ

129日本@名無史さん2016/11/20(日) 17:50:34.21
>>127
その故事も創作誕であって史実じゃないから

創作が好きな土地柄って可能性ならともかく、縁がある土地ってことはない

130日本@名無史さん2016/11/20(日) 18:25:34.54
美作「近衛殿」の南朝伝承がでっちあげられた背景については、『國學院雜誌』106巻9号に
立石盛詞「中谷神社所有『菊花凹面柄鏡』と南朝伝承の形成について」という論考がある。
美作後南朝には特に触れられていないが、鏡の発掘など共通項があって示唆に富んでいる。

131日本@名無史さん2016/11/20(日) 19:17:31.68
美作っつうよりも吉備自体が中央(当時の京都)に対して何かしらの野心が有ったんじゃと思う
その辺りが美作後南朝の一つの発端にもなってるんでは

132日本@名無史さん2016/11/20(日) 19:50:09.27
つかさ、美作後南朝って、熊澤天皇が現れた戦後になって、
何者かが作り上げた妄想だろ?
古い伝承ですらない。

133sage2016/11/20(日) 20:21:09.54

134日本@名無史さん2016/11/21(月) 01:25:32.47
>>130
こういうレスを待ってたよ。
後南朝伝承は大半が胡散臭いが、
どうしてそれが語り継がれるようになったかが
興味あるところだからね
読んでみます、ありがとう。

135日本@名無史さん2016/11/22(火) 17:33:28.92
美作後南朝は備後鞆幕府よりは壮大だが実利で喜連川御所府に負けた感じですな
明治維新まで粘って欲しかった
粘れば最低でも爵位持ち

136日本@名無史さん2016/11/22(火) 18:37:33.13
存在しなかったものが存続するなんて、あり得ないからなあ。

137日本@名無史さん2016/11/23(水) 00:55:44.03
喜連川御所は明治維新後、子爵になって華族に列せられたが、美作後南朝の場合、
明治維新後にどんな処遇になるのか気になる。
改めて世襲宮家として承認して、伏見宮家のような位置づけにするのが穏当だと
思うが、臣籍降下させて公爵くらいにするのも考えられる。
その場合、家格は摂関家・徳川宗家と同列くらいだろう。

138日本@名無史さん2016/11/23(水) 06:01:28.91
>>137 喜連川が子爵で新田宗家や菊池が男爵なのもなー。朝敵の徳川宗家が公爵だしなー。

139日本@名無史さん2016/11/23(水) 13:12:51.58
徳川は政府と敵対せずに日本としての統一を維持する道を選んだ、そのおかげで内乱も早期決着して欧米植民地にならずに済んだ。
最大功労者が重く用いられるのは妥当なことだ。何が不思議なんだよ

140日本@名無史さん2016/11/23(水) 14:07:06.94
>>139 彰義隊も奥羽越列藩同盟も榎本艦隊も甲陽鎮撫隊もすべて止めたんなら価値があるがな。
江戸を焼くのを食い止めたのも勝海舟と山岡鉄舟の功績。

141日本@名無史さん2016/11/23(水) 16:23:39.33
幕臣でもない諸大名を止めるのは無理だが、
四百万石以上の大領が徹底抗戦してたらどうなったかを想像でしないのか。

それに、維新直後の時点で、その功績を足ががりに新政府に少しでも参加してたら、
政府の中で徳川派が拡大して方向性が大きく変わる可能性があるなかで、
あえて政府と距離をとりながらも反対することなく、つまり陰ながら協力する形をとったのも、
明治政府を大きく助けてたはずだぞ
そうじゃなかったら、明治時代の日本は内戦多発のgdgd時代になってた可能性が。

142日本@名無史さん2016/11/23(水) 16:33:04.91
明治新政府にとって、特権を失った旧勢力が不満を抱いて敵対してくるのが
大きな恐怖であったはずだ。
だからこそ、旧勢力には高い爵位を与えて懐柔する必要がある。
華族制度には、この旧勢力の懐柔という一面があったと考えられる。
徳川宗家に最高位の爵位を与えて厚遇することで、幕臣・譜代・親藩などの
勢力を納得させることができたはずだ。

143日本@名無史さん2016/11/23(水) 20:12:53.37
>>142
同意。
でも、新田・菊池のような南朝功臣や後南朝皇胤のほうに手厚く叙爵して
あげてほしいという意見も痛いほどわかる。

144日本@名無史さん2016/11/23(水) 20:43:57.80
といっても、南朝功臣や後南朝皇胤の大多数は真贋すら定かではない怪しい経歴ばかりだから、容易には叙爵できなかったという側面がある
菊池だって偽物疑惑が色濃かったからこそ、それを払拭というか、アレしたくて極端な言説を。

145日本@名無史さん2016/11/23(水) 22:27:22.78
>>143
全く理解できんね。先祖に贈位すれば充分だろ。
後南朝なんて存在しないものには、そもそも手厚くしようがないというのをおいたとしてもな。

146日本@名無史さん2016/11/23(水) 23:43:15.39
高貴な家柄もあるが爵位貰えなかった幕府高家に似てるな

叙爵で冷遇されたのは
神社系のほとんど 後南朝 江戸幕府高家

147日本@名無史さん2016/11/24(木) 00:10:44.83
>>144 でも、岩松新田は徳川よりずっとずっとまともだろう。

148日本@名無史さん2016/11/24(木) 00:18:01.05
南朝の功臣としての新田義貞兄弟の末裔、というくくりには入らんだろ。

149日本@名無史さん2016/11/26(土) 08:52:29.63
南朝功臣の子孫や南朝後裔の叙爵は、血統が必ずしも明確ではない疑惑があり、
そもそもイデオロギー色の濃い処遇であった。
そのため、昭和に入ってから、菊池武夫男爵のような美濃部学説に狂信的な
攻撃をして世論を誤導するアジテーターを生み出してしまった。
南朝正統の歴史観を強調するあまり、このような叙爵をしたのは正しかったのか
疑問が残る。

150日本@名無史さん2016/11/26(土) 17:55:22.84
>>149
本当にそうだよな
新田義貞や名和長年のような南朝功臣には位階を、後南朝の歴代南帝には
諡号を追贈するだけでよかった
子孫に爵位を与える必要はなかった

151日本@名無史さん2016/11/26(土) 23:31:22.31
南朝や後南朝関連は
多くのぽっと出の薩長士族より名門だろうがw

今は御朱印あつめブームだから南朝勢力が西陣南帝神社御朱印とかやればよい街興し

152日本@名無史さん2016/11/27(日) 01:44:37.48
「家」という法人(的な組織)の連続性を欠いた没落家系は本物か偽物かを判定できる証拠が残ってない

偽物かもしれないという点こそ南朝関連の家々の根元的弱点
なんせ、大半は偽物だしな

153日本@名無史さん2016/11/27(日) 13:10:35.04
明治維新の時点で大名や堂上家の身分を持っていなければ叙爵は難しかったということだ
植月御所や北山御所が維新まで存続し、南朝功臣の子孫たちが御所から公卿に列せられたり、
昇殿を許されて弁官や国司クラスの官位を得ていれば、公家華族として認定された可能性は
あるが、残念ながら植月御所も北山御所も維新のはるか以前に消滅してしまった

154日本@名無史さん2016/11/27(日) 15:59:45.64
>>152 >>153 山名義済をもって新田宗家とすることは無理筋なんでしょうね?

155日本@名無史さん2016/11/27(日) 16:42:52.82
だって山名氏は建武政権が健在だった頃から一貫して足利方で、新田氏の配下として活動したことはなかったじゃん

156日本@名無史さん2016/11/28(月) 05:53:52.40
>>155 喜連川を宗家とせずに細川を宗家とした方がましだからな。

157日本@名無史さん2016/11/28(月) 19:22:43.75
最近の学説の中には、鎌倉時代には新田氏も足利氏支流扱いだったというのが出てるんだよな

足利の支流の中からめぼしいのをスカウトして対抗馬に仕立てようとしたが役立たずだったってオチかと
それゆえに、新田医師流の中にいくつも足利方についているヤツがいた(というかそもそも新田方につかなかったヤツがいた)ってことなんだと

山名とかは新田が足利から離れて自立する以前から足利支流として活動してきたんだから、
新田氏支流とみなすのは無理だろうな

158日本@名無史さん2016/11/28(月) 20:03:06.81
>>157 里見が改易されずに維新まで続いていたらってところか?

159日本@名無史さん2016/12/02(金) 12:15:39.47
近衛も喜連川も経験した細川が最強公武合体名門

160日本@名無史さん2016/12/02(金) 13:38:52.19
>>159 細川は足利の一門だが末家の末家。細川幽斎流は細川の末家の末家。

161日本@名無史さん2016/12/03(土) 16:20:52.05
足利氏は鎌倉時代において、源氏御門葉で家格が高く、所領の広さ、一族の
多さにおいてもずば抜けている。もともと武家社会では高い地位を占めている。
一方、新田氏は南朝功臣であるため、南朝イデオロギー上は高い評価となるが、
実際の武家社会での地位は存外低いのではないか?
南朝側の武士は、武家社会では傍流の人物が多いように感じる。

162日本@名無史さん2016/12/11(日) 09:39:17.25
美作後南朝の宗室が皇籍復帰、後南朝傍流が公爵、南朝功臣が男爵
くらいでよかったと思う

163日本@名無史さん2016/12/11(日) 12:04:38.43
信憑性が薄すぎる(=どう見ても偽物にしか見えない氏証拠物件が皆無)から無理だったんだろ

164日本@名無史さん2016/12/13(火) 01:30:50.64
そもそも例え南朝の後裔というのが事実であっても「天皇家の血を引いている」っていうだけじゃダメなんだよね
上の方でも出てるけど、天皇位に権力があった時ですら孫やひ孫の代にはほかの貴族に顎でつかわれる立場に落ちる

そういった中で皇位から遠ざかってもなお格式を保つためにはよっぽどなプラスαが必要になる
けどちらほら出てきた南朝の後裔たちにはそういうプラスαなんてなかったわけで

165日本@名無史さん2016/12/17(土) 14:34:26.75
皇胤が天皇から代が離れていっても高貴さを保つためには、
1.伏見宮家のような世襲宮家になる
2.白川伯王家のように、官位を世襲する
というように、実質的な社会的地位を世襲していないといけないようだ。

その点、南朝皇胤は、単に天皇の血を引いている(それも十分な証拠がない)
だけで、社会的地位を伴わなかったのが、高貴さを失った原因だ。
美作後南朝の当主は、親王の地位にあり、世襲宮家に近い体裁が系図から
見受けられるが、徳川綱吉によって断絶されてしまった。

166日本@名無史さん2016/12/17(土) 17:50:44.82
新田氏の宗家を岩松氏にするより徳川氏にはできんのかな?

167日本@名無史さん2016/12/17(土) 18:01:37.06
公爵の徳川氏が新田宗家になれば、新田氏は、子爵の足利氏(喜連川氏)を
抜くことになり、南朝功臣がついに足利氏に勝利したことになる。

168日本@名無史さん2016/12/17(土) 18:03:50.25
>>166
南朝顕彰は明治政府の自己正当化PRの一貫だから、打倒した相手である徳川を顕彰するのはいろいろと難しかったんだろ

169日本@名無史さん2016/12/23(金) 13:34:33.32
後南朝皇胤を世襲宮家として追認し、南朝功臣はその藩屏として位置付ける
しかなかった。そうすれば、新田氏・楠木氏・名和氏などは、諸大夫の家格に
認定して叙爵することができた

170日本@名無史さん2016/12/23(金) 14:09:03.95
邪馬台国が続いていたら首都になったのは?
                       答(    )

171日本@名無史さん2016/12/23(金) 22:40:45.63
>>168 松平春嶽あたりを顕彰すれば良い。

172日本@名無史さん2016/12/24(土) 00:17:27.60
>>170
ヤマト

173日本@名無史さん2016/12/24(土) 07:51:46.12
朝敵の足利氏が鎌倉公方家が幕末明治維新まで存続して子爵に叙せられ、
忠節の烈臣である新田氏は片々たる傍流を宗家とするよりほかないと
いうのが、あまりにも悔しいという心情は、憂国の士なら痛いほどわかる

174日本@名無史さん2016/12/24(土) 08:32:58.16
>>173 でも、岩松が居なければ義貞は挙兵できなかった 。越後新田党だけじゃなく信濃源氏や佐竹に連絡をつけていたのは岩松。

175日本@名無史さん2016/12/24(土) 18:25:14.96
南朝正統論者は憂国の士じゃなくて(深山)幽谷の士

176日本@名無史さん2016/12/25(日) 08:04:14.51
つーか、ただのポエマーだしな

177日本@名無史さん2016/12/25(日) 12:49:22.47
昭和の初期ころまでは、かなり強硬な南朝正統論者がいて、北朝や足利尊氏を
ほめるような発言をすると、政治問題化して、大臣が失脚することさえあった。
今日では南朝正統論者はかなり減少したと思われるが、それでも一定数は存在
するものと思われる。

178日本@名無史さん2016/12/25(日) 13:10:39.26
社会的な影響力が小さくなったとは言え、まだまだしぶとく存在していてG並みに害悪だぞ

179日本@名無史さん2016/12/25(日) 15:01:31.20
>>177
戦前は国が楠木正成を忠君と称えて
道徳の教科書に載せて全国の尋常小学校で教えたり
位階を与えたりしてたからだろ

南朝征討論者とか関係ない

180日本@名無史さん2016/12/25(日) 18:33:07.92
南朝正統論は、近代以前から在野に根強く存在した。根強く存在したから
こそ、近代以後、国論として定着したとも言える。
また、読売新聞などの言論人が強硬な論陣を張って、南朝正統論を煽った
のも影響した。政府は当初は、このようなイデオロギー問題には冷静で
あったように見える。イデオロギーを振りかざす論者が煽ることによって
南朝正統論は拡大していったと考えられる。

181日本@名無史さん2016/12/25(日) 18:52:13.04
違うよ。江戸時代後半に入って突然に現れ増殖したんだ。

討幕運動の支柱の一部分だったこともあって、明治政府を正統化する役割の一部を占めたことから急速に広まった。
江戸時代中期に入るまでは、絶滅種だったんだよ

182日本@名無史さん2016/12/28(水) 15:28:41.25
明治維新政府は、もともと南北朝問題については、中庸な立場で、イデオロギー
より学者の研究を尊重する立場だったように見える。
北朝や足利尊氏についても、公平な見方をする要人が思いのほか多かったのでは
ないか。南朝正統論は、在野の論者や思想的に極端な議員が、政府を吊るし上げる
形で出てきた。
(今で言えば、原子力問題で政府を攻撃する山本太郎議員のような感じ)
跳ね上がった在野勢力によって、政府が次第に中庸さを失い、極端な南朝正統論に
傾いていったように見える。

183日本@名無史さん2016/12/28(水) 16:46:58.25
その背後には八咫烏の陰がある

184日本@名無史さん2017/01/06(金) 21:07:28.35
誰か受講してルポよろしく
ttp://open.gakushuin.ac.jp/course/detail/2016/C/005/

185日本@名無史さん2017/01/06(金) 23:12:46.07
だが、討幕運動と南朝正統論が一体不可分だった以上、中庸を指向したところで偏りは免れなかったんだろ

それが民間に影響し、逆にもどって政府を強硬な南朝派へ変貌されたんじゃないか。

186日本@名無史さん2017/01/07(土) 09:28:53.76
>>185
昭和初期の右翼運動の大半は、おおむねその流れだと思う。
国定イデオロギーは、あくまで民衆を善導するためのもので、政府首脳や
学者の理解は、科学的・実証的・現実的なものが重要視された。
だが、国定イデオロギーを狂信する民間人や一部の学者が、イデオロギーを
振りかざして世論を誤導し、やがて政策や学術をも歪めていった。
極端な南朝正統論は、その嚆矢であったと言える。

187日本@名無史さん2017/01/14(土) 10:16:46.69
以前ほど極端ではないが、今でも南朝・後南朝を尊ぶ精神は生きている
美作後南朝は惜しくも元禄年間に断絶してしまったが、人々の心の中に
しっかりと息づいている

188日本@名無史さん2017/01/14(土) 13:35:02.19
明治維新とは南朝革命であった。

189日本@名無史さん2017/01/21(土) 15:03:41.21
明治天皇は北朝の後裔であるし、公家たちも北朝側についた公家の子孫で
あるのだから、朝廷にしてみれば南朝を正統と考えるメリットは何もなかった。
また、明治維新当時には、もう後南朝の皇族は残っていなかったのだから、
後南朝を復興することもできなかった。それなのに、南朝を正統するという
現実離れなことをしてしまった。

190日本@名無史さん2017/01/21(土) 18:26:10.97
南朝の子孫、皇族だけは後南朝と呼ばれるような残りカスが生き残ったものの、
南朝廷臣の子孫は即座に滅び去った
一部の上級貴族(とでも言いうるような格の高い貴族家)の者が格下の貴族家に養子入りして生き残る例があった以外は、
1代のうちに、ほぼ完全に殲滅された
継ぐべき家も家職も領地もないんだから、残りようがなかった

191日本@名無史さん2017/01/24(火) 20:14:12.00
足利義教様怖すぎ… 流石は魔王

192日本@名無史さん2017/01/28(土) 08:58:13.20
>>189
最後に残っていたとされる美作後南朝も元禄年間には滅亡したからな

193日本@名無史さん2017/01/28(土) 09:57:39.07
美作南朝なんてマジで信じてる人いるの??

194日本@名無史さん2017/01/28(土) 13:01:42.48
後南朝はその藩屏となる公卿たちが早くに没落してしまったのが痛かった。
楠木正理のような大楠公の子孫と考えられる武将もいたが、多くは北山御所
近辺の土豪たちに過ぎない。
仮に美作後南朝が存在していたとしても、その後ろ盾は藩主の森家やその
家臣であり、その朝廷に公卿が参列していたとは到底考えられない。

195日本@名無史さん2017/01/28(土) 20:45:51.66
後南朝の成立より以前の時点で、南朝が降伏した直後には速くも南朝挺身が殲滅されてるんだがな
早くに没落どころか、成立する前から居ない

南朝方貴族のうちで北畠氏だけは、地方大名の形で生き残ってはいるけども。


美作南朝は近現代人による創作で実在していないから、その廷臣もまた実在していない。

196日本@名無史さん2017/01/29(日) 08:47:17.77
後南朝の皇胤や元廷臣の子孫が南朝復興運動をしたのであれば理解できるが、
不思議なのは、後南朝とは何の関わりもない武士たちが、南朝の正統化を
主張し実現したことだ。明治維新当時はもはや擁立すべき後南朝の皇胤は
見当たらないにも関わらずだ。そんなことをすれば、実際に推戴していた
明治天皇の正統性を弱めてしまうからよくないとは考えなかったのだろうか?

197日本@名無史さん2017/01/29(日) 09:50:43.97
いやいや、大正期に武士道がもてはやされたのも同じ
武士として活動した経歴のある現役世代がいなくなったあとで、
空想上の武士道が作り上げられたのと同様で、
復権する可能性がないからこそ賞揚しやすかったんだろ

198日本@名無史さん2017/01/29(日) 17:16:31.89
明治天皇は南朝の末裔ではない、大室家に養子にいったんだからな

199日本@名無史さん2017/02/04(土) 08:02:30.43
もし仮に美作後南朝が明治維新まで続いていたら、政府は「南朝正統」の
立場を取らず、「北朝正統」で通したと思う。
もし「南朝正統」を取れば、「明治天皇ではなく、美作後南朝が正統では
ないか」という主張が生まれ、明治天皇の威信を損なうからだ。
そのかわり、美作後南朝については、世襲宮家のような家格を与え、その
廷臣たちは男爵クラスの華族に叙爵したと思う。

200日本@名無史さん2017/02/05(日) 10:57:53.72
朝拝式age

201日本@名無史さん2017/02/05(日) 12:38:06.97
旧宮家のひとりを皇籍復帰させて小倉宮の名跡を継がせてはどうか?
そして、小倉宮当主の立ち合いのもと、朝拝式を公式行事にすればよい
そうすれば、失意のままこの世を去った聖承や教尊の霊も浮かばれるだろう

202日本@名無史さん2017/02/11(土) 02:09:59.33
このポエマーも何年にも亘って飽きないよなあ

203日本@名無史さん2017/02/11(土) 09:18:25.50
竹田さんなら皇籍復帰させてあげるから、小倉宮になりませんかと言われたら
喜んで引き受けると思うけどなあ
後南朝の権威を背負って意気揚々と朝までテレビに出てくると思う

204日本@名無史さん2017/02/12(日) 07:26:28.51
竹田さんだったらすぐにでも美作後南朝を復活させるだろうな

205日本@名無史さん2017/02/12(日) 08:16:09.15
>>203 オリンピック汚職容疑の一族に頼むな。

206日本@名無史さん2017/02/13(月) 22:23:35.17
竹田恒泰改め小倉宮恒泰親王になるのか

207日本@名無史さん2017/02/16(木) 19:29:46.87
「大日本は神国なり!」by 北畠親房

東北地方の南北朝での主な勢力

【南朝方】
南部師行・工藤氏・伊達氏・北畠氏・大江氏・結城氏・その他多数

【北朝方】
南部政長・曽我氏・浅利氏・安東氏・斯波氏・吉良氏・石塔氏・相馬氏・畠山氏・芦名氏・国魂氏・伊賀氏・その他多数

楠木正成、新田義貞、同様に東北方々にも感謝しようではないか。

敵だった足利尊氏も、南北朝後に足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈り、
建武の新政をめぐる戦乱で没した人々の零を慰めるために全国66ヶ国に曹洞宗系の「安国時」を設立した。

「我が日本は一つ!」

それぞれ南朝びいき、北朝びいきはおりますが、共に手を携えましょう!

                            以上

208日本@名無史さん2017/02/18(土) 08:25:42.93
南朝支持者も北朝支持者も連携して日本を支えていくことが、確かに大切だな

209日本@名無史さん2017/02/18(土) 17:01:29.65
>>206
小倉宮恒泰親王というのは小倉宮恒敦の後継者らしくてふさわしい

210日本@名無史さん2017/02/18(土) 17:31:33.64
でも、そんなことしたら常磐井宮恒明親王の立ち位置に近くなっちゃうな
おや、奇しくもこちらも恒

211日本@名無史さん2017/02/24(金) 03:18:23.94
>>182
南朝正統論って反体制運動なんだよな。
で、体制を安定させるためには反体制運動を取り込むことが必須。

カトリック教会が托鉢修道会を取り込んだり、アメリカンデモクラシーがポピュリズムを取り込んだりしたのと同じように
明治国家は南朝正統論を取り込んで反体制的心情を慰撫する必要があった。

212日本@名無史さん2017/02/24(金) 03:22:35.64
まあ、明治国家は菊池男爵に滅ぼされたようなものだから、反体制的心情を取り込んでも結局はダメだったと言えるのかな?
アメリカンデモクラシーもトランプに滅ぼされてしまうのかな(w?

213日本@名無史さん2017/02/25(土) 07:40:06.84
南朝正統論者・菊池男爵は、いわばポリティカル・コレクトネスを居丈高に
主張して、生産的な議論を圧殺してしまう不毛さがあった。
当時の社会環境で天皇問題で「正論」を言われると、どんなに学問的・実務的に
言い分があっても、それは「政治的に誤り」と決めつけられて、社会的に抹殺されて
しまう。
「足利尊氏にもいい点があったでしょう?」
「天皇は法理論的には国家の機関と解釈できるでしょう?」
といった本来あり得るべき議論を「失言」「妄言」として、一切主張できない
ようにしてしまう、一方的で不毛な空気を形成していった。

今で言うと、「差別反対」「歴史認識」などで、言葉尻をとらえて攻撃し、
本質的な議論を抹殺する、ある種のマスコミ、活動家に傾向が似ている。

214日本@名無史さん2017/02/25(土) 08:45:01.75
そんな事言ったら安徳天皇と後鳥羽天皇どうなるんだ

215日本@名無史さん2017/02/25(土) 18:01:01.95
安徳天皇が都落ちした時点で廃帝

すぐ後鳥羽が即位したが、その時点から後鳥羽が正統

南北朝も同じだよ
後醍醐帝が隠岐に流された時点で一旦は廃帝で光厳が正式に即位してる
隠岐を脱して帰京した後醍醐の立場は、あくまでも重祚であり、
後醍醐自身の主張は単なる自称
で、吉野に去った時点で帝位は完全に失われてる
もっとも、吉野に行く前に廃されてるので京都にいた頃からすでに廃帝ではある

216日本@名無史さん2017/02/25(土) 18:18:51.29
三種の神器を持っていても、都落ちしたら廃帝扱いされてしまうのか?

217日本@名無史さん2017/02/25(土) 18:24:36.91
>>216
ならないよ、現代的に、わかりやすく言うと、引っ越しをしただけ

218日本@名無史さん2017/02/25(土) 18:28:27.20
216氏が引っ越しをしました

家を出て〜〜〜〜〜〜それだけの話、
それでも216氏は216氏でしょ

219日本@名無史さん2017/02/25(土) 18:40:02.91
こういうのも、よくある話でしょ

引っ越し、家を出た後、
どのような生活をしていたのか?

極貧生活。
引っ越した先、現地の人達や誰々某の世話になり、ひっそりと暮らしていた。

220日本@名無史さん2017/02/25(土) 19:04:11.07
>>216
室町時代後半になると天皇の都落ちも何度か起きてたはずだけど、それだけで廃帝とされたわけじゃない

廃帝とすることができる権限を持つ特殊な立場の人間が都に残留してるときだと廃帝になる率が高い
安徳の場合だと後白河。三種の神器(のうち2つ)を持って都落ちしたけどすぐ後白河が廃帝扱いに決めて後鳥羽を即位させた。

221日本@名無史さん2017/02/27(月) 15:09:13.85
南朝と北朝が正統性をめぐって争う時代は終わった。
これからは、南朝支持者も北朝支持者も、協力して国難に当たるべきである。
本当の意味で南北朝の和解を推進し、「平成の一統」を実現しよう。

222日本@名無史さん2017/02/27(月) 19:41:19.41
>>220
将軍や公卿は移動してたようだけど、天皇っていつ都落ちしてたん?

223日本@名無史さん2017/02/27(月) 23:07:04.90
>>216
当時の都の人たちは、後鳥羽天皇が践祚した時点で、三種の神器がどこにあろうが
安徳天皇を先帝扱いしたね。
平家物語でも「先帝御入水」とされてるし。
当時の平家の人たちは、後鳥羽天皇が即位したという知らせを聞いて
もはや天皇の正当性も軍事力次第だと嘆いたという話がある。
逆に言えば、安徳天皇が存在しようがおかまいなしで神器なしで即位を強行した後白河はこの点では適切な判断をしたと言える。
先例に縛られるのが公家だけにこの判断はかなり目立つ。

224日本@名無史さん2017/02/27(月) 23:36:00.35
>>222
勘違いだと思います

225日本@名無史さん2017/03/04(土) 08:33:46.12
安徳天皇のころは、大きな力のある治天の君の後白河法皇がいたので、その
権威によって天皇の交代を実現したのはわかる。
だが、後醍醐天皇のころはどうだろうか?
治天の君の光厳上皇のもとに、後醍醐天皇を廃立して新たに天皇を立てたよう
だが、後白河法皇と同様の実効性があったと考えてよいか?
後醍醐天皇に政権としての正統性はないのか?

226日本@名無史さん2017/03/04(土) 11:22:14.53
安徳天皇の頃だって、もし平家が力を付けて都入りしてたら、んで後白河法皇と後鳥羽天皇の身柄を押さえることができてたら、
後鳥羽天皇を廃してもういちど安徳天皇を返り咲かせることはできてたよ。

後醍醐天皇退位(遠流)のときは鎌倉幕府の要求と朝廷内の主流意見が一致して後醍醐退位に動いたんだから、
2回目の後醍醐退位の頃だって幕府(足利尊氏ら)と朝廷内の相当数の貴族らの意見での後醍醐廃位なんだし、
いちおう実効性の問題はないはずなんだよ。

ただ、後醍醐帝と利害が一致する貴族が意外と多かった(後醍醐廃立によって実家から逐われるような貴族がたくさん居て、
後醍醐復権に賭けて捲土重来を期する動きがあった)後醍醐の正統性の如何に関わらず吉野へ赴くものも多かった。

公家社会での実務、政務を実際に動かす官人たちの大多数は後醍醐帝に追従せず京都残留したことが、
公家社会全体での見解を反映してると考えていい。

家中で後継争いが起きてて、後醍醐派と幕府/光厳光明派とで争ってた貴族とかが、どうせ京都に残っても破滅だし捲土重来を期して吉野に行くかーって程度の貴族しか、
吉野に行ったのは居ない。といっていいほどに、吉野行きの公家たちの大半は京都に残るという選択肢を持たないヤツらだったんだ。

北畠みたいな、一家総出で吉野側についてた貴族は珍しい。
武士も同様で、楠みたいに南朝側で頑張ったヤツは少なくて、同じ領地を巡って争う武士の片方が北朝側についたらもう片方が南朝につく、
みたいな形で南朝についた武士が大半。

南朝こそ正統と信じて南朝についたのは貴族にも武士にも少数しか居ない。

227日本@名無史さん2017/03/04(土) 16:28:11.56
ageポエマーに回答しても意味ないよ

228日本@名無史さん2017/03/05(日) 08:07:07.39
後醍醐天皇に追随した公家たちは、公家社会の中では負け組というか
京都の公家社会では反主流になってしまった人たちという感じだね
後醍醐天皇はそのような反主流になってしまった公家たちの受け皿
になり、その集団が南朝になっていったということか

229日本@名無史さん2017/03/05(日) 22:31:14.11
>>226 菊池は楠木より巨大な勢力だった。少弐 大友 島津 を九州3家というけれど、
少弐はともかく大友とは互角 島津よりは勢力がでかかったんでは。

230日本@名無史さん2017/03/11(土) 06:11:31.04
南北朝正閏論は、当時実際に北朝側・南朝側についた公家や武士たちの
リアルな事情を捨象してしまうから、学問としては不毛だよな
自分は南朝遺臣を顕彰したり、歴代南帝の遺徳を偲ぶことは、国民精神
として大切だと思うが、歴史学は冷静に行ってもらいたいと思う
いくら南朝忠臣の後裔でも、菊池男爵のような態度には叱責を加えたい

231日本@名無史さん2017/03/19(日) 18:29:41.53
美作後南朝や小倉宮の皇胤が維新後まで残っていれば、後南朝当主から
菊池男爵を叱ってもらうこともできたのだが…
後南朝当主から勅勘を被れば、菊池男爵も反省しただろう

232日本@名無史さん2017/03/25(土) 00:02:35.72
は?
菊池(征西府)VS足利幕府なら
菊池氏を応援してこそ大日本は神國!

233日本@名無史さん2017/04/06(木) 19:24:06.34
南朝研究の最前線って本読んだ人いる?

234日本@名無史さん2017/04/06(木) 19:54:56.86
洋泉社のか読んでる途中だよ

235日本@名無史さん2017/04/08(土) 10:17:33.39
南朝の研究がもっと進むことを望む。
大学や研究機関には、まだ後南朝の講座が少な過ぎる。

236日本@名無史さん2017/04/08(土) 12:09:26.39
>>235 そんなマニアックなもん少なくて当然。

237日本@名無史さん2017/04/09(日) 23:40:23.46
津島神社の社家の氷室家が後醍醐天皇の子孫か

238日本@名無史さん2017/04/10(月) 19:46:37.00
自称でしょ? 証拠物件とか残ってるの?

239日本@名無史さん2017/04/11(火) 23:03:59.70
後醍醐天皇の子孫としては後醍醐源氏があるが、その実態はあまり知られていない

240日本@名無史さん2017/04/11(火) 23:51:28.55
賜姓源氏として認定するべき朝廷官僚らから正式認定を受けることができてない時点で偽物

もっとも、真偽を云々する以前にそもそも実在してさえいない

241日本@名無史さん2017/04/14(金) 06:34:42.64
氷室家は例の偽書があるからな・・・・ 

242日本@名無史さん2017/04/20(木) 17:12:50.19
しかし、自称末裔とかロクな奴いねーな
ネット上で「新田義貞の末裔」を名乗っていろいろ書き込みしている奴がいるけど、書き込みから馬鹿さ加減がにじみ出ているわ。まあ、ロクな根拠も無いのに盲信しているところも凄い

243日本@名無史さん2017/04/20(木) 23:51:41.86
突出した才能の持ち主の血筋が実は…なら箔が付くけど、
血筋以外語れる事が無いなら推して知るべしだよね

244日本@名無史さん2017/04/22(土) 17:09:16.16
新田・菊池など、南朝功臣の子孫が明治維新後に叙爵したが、後南朝後胤の
皇籍復帰もしてほしかった。

245日本@名無史さん2017/04/22(土) 19:33:39.15
それはさすがに無理

仮に南朝皇胤が生き残って現存していたとしても(実際には残ってないわけだが)、それだけはさすがに皇族や天皇の受け入れ許容範囲を超えすぎている

246日本@名無史さん2017/04/29(土) 13:41:26.45
足利氏が室町幕府滅亡後も、小弓公方家・平島公方家が残って現代まで存続できたの
だから、後南朝も現代まで存続する道はあったはずだ。
何とか戦国時代を生き延びることができれば、徳川家康が高家のような形で処遇して
くれたのではないか。

247日本@名無史さん2017/04/30(日) 01:45:27.98
北畠顕家の功をオマイらはどう思っていらっしゃるのでしょうか。

248日本@名無史さん2017/04/30(日) 02:04:36.24
大覚寺統が北朝と分かれたのは700年以上前になる。
これだけ遠いと、現存してても伏見宮なんかより遠いことになる。
現実味としては、後二条院系ならまだしも、後醍醐系なんか論外じゃなかろうか?

>>247
今に伝わる最大の功績は中尊寺の記録の筆写
太平記当時は空前の略奪犯

249日本@名無史さん2017/05/02(火) 14:24:05.61
>>247
単なるザコ。
東北の田舎侍を騙せるくらいのブランド力はあったが、根本的に武将としての能力が無かった。
戦で敗れて討ち死にしたのは当然と言える。

250日本@名無史さん2017/05/03(水) 07:27:19.06
確かに、後醍醐系の後南朝皇胤が存続していたとしても、伏見宮以上に遠い存在になって
しまうな。これを克服するためには、
・十津川宮・熊野宮あたりが伏見宮のように世襲宮家としての地位を確立する。
・白川伯王家のように、神官の家職を得て、王号を世襲する。
などができるとよかったが、現実にはそれも難しかった。

251日本@名無史さん2017/05/03(水) 08:31:41.43
白川家は家系としてはすごいの?

252日本@名無史さん2017/05/03(水) 10:55:18.98
>>251
特定の家職を世襲する家としての連続性・継続性では、日本国内の現存の家の中では、天皇家の次ぐらいじゃね?
まあ家職の世襲は明治頃に途絶えてるけどさ

253日本@名無史さん2017/05/03(水) 11:45:34.67
顕家で武将としての力量が無かったとか言っちゃったら、
日本史に出てくる殆どの武士に武将としての力量が無かったとなっちゃわないか?

254日本@名無史さん2017/05/03(水) 18:42:51.27
>>252
小野、千家の方が上に思える
王家なのに半家なのは

255日本@名無史さん2017/05/04(木) 11:32:13.28
白川伯王家の特徴は、家祖の花山天皇からかなり代がたっているのに、当主はずっと
王でいられること。貴族としての家格は半家に過ぎないが、ずっと皇族待遇でいられる
というブランドは大きい。
後醍醐系後南朝皇胤は、このポジションがほしかった。
そうすれば、ずっと時代がたった後も後南朝を存続できて、南朝旧臣を糾合する求心力
となり得た。

256日本@名無史さん2017/05/04(木) 13:01:22.20
>>253
そうはならない。
顕家は神輿であって実戦指揮者ではないから。
実際に戦の指揮していた連中とは比べ物にならない。

257日本@名無史さん2017/05/04(木) 15:36:21.85
>>255
祭祀が大事だってことだな

258日本@名無史さん2017/05/05(金) 01:37:21.22
まあ、長く続いてる家として、白川家と同等のところはなくはないかも
成立時期として、家職持ちの家が続々と成立した時代だしね

本家が消えて家系交替とか、摂関家みたいに分裂したとか、
家職そのものが消えてなくなったとか、いろんなリタイヤがあるから
二番手グループのなかで少し古い部類ではあるはず
もっと格の低い官僚の家ならもう少し成立が古いはずだけど

259日本@名無史さん2017/05/05(金) 15:54:23.11
>>229
ちょっ亀スマソ

菊池がそんなに大きな勢力だったかは疑問だなー。楠木より…ウーンそれぐらいなら。
島津はまがりなりにも有力御家人で、日本中に一族がいたし。
武藤(少弐)、大友、島津以外にも、千葉、宇都宮、渋谷などの東国出自の御家人も九州にいたし。

260日本@名無史さん2017/05/05(金) 16:13:18.55
まあその神祇伯白川王家(伯と王って)をちょっと別とすると(まず絶対に天皇にならない家なのだし)

1)持明院統
2)大覚寺統…a)後二条院流、b)後醍醐流

南北朝「決着」(後醍醐が吉野に逃亡した時点で事実上決着だろう)以後の序列(皇位に就ける優先順位)はこうだろう。
還京後の後醍醐流が断絶と決まった後も、後二条流は宮家として存続させるつもりだった…?ようだから、
後醍醐が完全な傍流になった点では、大覚寺嫡流(2-a)の地位が相対的に落ちてしまったが、鎌倉時代に回帰してると見れなくもない。
北朝側としては、大覚寺統の正式な天皇は後醍醐までで、以後は単なる皇族に過ぎなかったろうから、
長慶や後亀山の子孫が天皇になれる可能性はほぼゼロだったと思う。
後醍醐流宮家も1つぐらい残してもらえたろうか…と思わなくもないけど、後二条流も断絶してるようじゃ難しかったかなと。

261日本@名無史さん2017/05/05(金) 17:05:43.43
当時の朝廷側の認識では、後光厳流(後小松やら称光やら)以外は認めない立場、
どうしても断絶したときに崇光流(伏見宮家)、その次に後二条院流って意識だったんだろ

対するに幕府(というか義満)の想定では持明院統と後醍醐流での両統迭立を指向したんじゃないかな
で、北朝との折衝がまとまらなくて失敗したと
その折衝のせいで義満生前には皇太子をたてることすらできない状態が続いたんじゃないかと思うんだが

262日本@名無史さん2017/05/05(金) 20:02:41.49
>>261
崇光・後光厳流に割れていたころだと、1に後光厳、2に崇光だったろうけど、
花園・光明両院の子供もいたわけだから(こういうのは代を下るごとに増える)、
大覚寺統は康仁皇太子が廃立された時点で実質「もう天皇になるのは無理」だったんじゃないかね?
だから、義満はまだしも、北朝廷臣は後醍醐流を天皇にする考えはなかったんじゃ?
まあ足利将軍家の鶴の一声でどうにでもなったかも知れんけど。

ちょっとした興味だと、長慶と後亀山のどっちの子孫が後醍醐嫡流と思われてたかは関心がある。
さすがに後醍醐の他の親王は論外だったろうけど…
懐良親王が九州の後継者に後村上の子を据えたのも、後醍醐嫡流をそっちに求めてたということだろう。
後醍醐はそもそもの正当性からして問題があったわけだから、
護良親王の簒奪を警戒してたとの穿った見方もまんざら見当外れでもないかも知れないね。

263日本@名無史さん2017/05/05(金) 21:19:41.15
義満が朝廷にことわりなく勝手に両統迭立を講話条件にした、
朝廷はそれを受け入れたことはないけど義満は面子にかけて実行するつもりだったんじゃないかな
その綱引きの結果として皇太子を決めることすらできなかった

そもそも朝廷側では南朝諸帝は全員が偽帝とみなしてて、
迭立に戻す可能性とか空想すらしてない

264日本@名無史さん2017/05/05(金) 23:08:14.37
南朝の花山院らの子孫はどうしたの?

265日本@名無史さん2017/05/05(金) 23:18:23.93
>>264
そんな皇族は居ない

後醍醐帝が廃されてから吉野に行くまでの短期間だけ幽閉されてた場所が花山院だろ
南朝諸帝の中で唯一、花山院という場所に関係してる後醍醐帝を差し置いて、だれがその院号を使えるんだよ

南朝の廷臣の中に花山院という苗字の一族が居たけど藤原氏支流であって皇族じゃないし。


つか、南朝の皇胤とかで話題に上がるのってことごとく偽系図、偽伝承なんだよな

266日本@名無史さん2017/05/05(金) 23:48:50.88
>>265
南朝の忠臣の花山院の子孫のことを言いたかった
名和とかと違い、公家の子孫なら残りそうだが
名和は授爵してたような

267日本@名無史さん2017/05/06(土) 01:12:22.07
>>266
「南方近衛息」ってやつだね。
南朝に仕えた近衛家の子孫が合一後に京都に帰って花山院家を継いだという。
花山院持忠がそうじゃないかと。
講談社の日本の歴史シリーズでも触れてる。

>>265
後醍醐が子だくさんだったから、捏造したい連中に便利だったってことだろう(武士も多くは出自が疑わしいのだが)。
南朝は狭義には後醍醐の1336京都脱出に従った男児の男系(女系はさほど問題ではない)だけだから、仏寺にとどまった皇子は対象外で、
合一後に帰京した後胤としては長慶か後亀山の系統が嫡流の扱いだろうから、
尊良親王や懐良親王の末裔がどっかにいたって「はいはい名家なんですねー」で終りで、
皇胤としては清和源氏や桓武平氏レベルでしかなく、幕府の将軍になるならともかく現皇位継承には何の関係もない人でしかなかろう。
↑で話題の花山源氏が示すように、もともとの原則では何代か経れば「王」を称す権利すらなくなるはずなので、文字どおり「単なる皇胤」。

268日本@名無史さん2017/05/06(土) 01:39:54.17
旗本には赤松がいたりする。小造もいたかもしれん。幕臣の岩倉具挙が小造氏だったはず。服部も旗本や桑名藩士として存続した。隠岐の村上家だってある。旗印が消えた。

269日本@名無史さん2017/05/07(日) 06:42:39.50
>>268
江戸時代の旗本の赤松氏は南朝系の赤松じゃないよ。
南朝に味方した赤松は滅んでいる。
北朝に味方した赤松家の分家の有馬家(国持大名)のさらに分家の石野家が江戸幕府の旗本となり、のちに姓を赤松に戻しただけ。

270日本@名無史さん2017/05/07(日) 17:15:35.30
>>269
赤松則村だったような
ややこしいな

271日本@名無史さん2017/05/07(日) 21:28:49.31
>>270
赤松円心の事やな。
初めは南朝の味方だったけど討幕の功績を無視されたから北朝に寝返って、以降は死ぬまで北朝の味方。
だから南朝方では無いよ。
君の勘違いだ。

ただ、円心には息子が何人もいて、その中の1人(氏範)が南朝方で活動していたが北朝方に攻められて子供と一緒に死んで滅亡している。
*元中3年/至徳3年(1386年)9月2日、摂津中島郡(播磨という説もある)、幕命を受けた細川頼元や山名氏らの追討を受け、子息ら一族郎党100余名と共に清水寺にて自害した。享年57。

これで南朝方の赤松氏は滅亡し、北朝方の赤松氏のみとなった。

272日本@名無史さん2017/05/07(日) 21:43:21.01
>>271
それ(前半部)、表現がよくない

南北朝の争いになって以後に南朝方で戦ったことはないんだから、南朝方と呼んじゃいかん
鎌倉幕府を倒す際には早期から後醍醐方として幕府軍と戦ったが倒幕後の恩賞への不満からか南北朝に入ってからは一貫して幕府方

273日本@名無史さん2017/05/07(日) 22:25:31.39
>>272
つまらん奴だな
自分が気に入らないだけだろ

274日本@名無史さん2017/05/10(水) 19:51:19.23
何時の間にかウィキに西陣南帝の項目が有った

275日本@名無史さん2017/05/10(水) 23:12:08.59
「西陣南帝」ってどこの史料に見える呼称なんだよ

276日本@名無史さん2017/05/13(土) 16:40:45.53
西陣南帝のウイキペディア、なかなか充実しているね。
後南朝の研究も着々と進んでいるということだろう。
応仁の乱がブームになっていることだし、西陣南帝は人気が
出るのではないか?

277日本@名無史さん2017/05/13(土) 18:18:16.07
20年前に刊行された本が最新情報なのか……

278日本@名無史さん2017/05/13(土) 21:17:40.17
西陣南帝より聖承と教尊のほうが人気が出ると思う
教尊は女子に人気が出るのでは?

279日本@名無史さん2017/05/17(水) 12:23:04.57
大室と小室って書いてる人はいないかしら?と思って久々に来てみたけど、いないのね。

280日本@名無史さん2017/05/17(水) 21:52:18.02
>>279
小室は婚約者の?
家柄が気になる。
まったくの平民なのか?

281日本@名無史さん2017/05/19(金) 00:58:02.79
できれば後南朝の後裔とご成婚していただきたかった。
そうすれば、ご成婚を理由に、皇配となった後南朝後裔が皇籍復帰、
その皇子が皇位継承順位者となり、久しぶりに南帝即位を見る
ことができたかも知れない。

282日本@名無史さん2017/05/19(金) 18:25:46.02
いないものと結婚するのは無理だからしかたがない

283日本@名無史さん2017/05/20(土) 09:24:29.46
後醍醐源氏がせめて清華家くらいの家格で残っていればね
でも、その場合、皇統復帰は難しくなる

284日本@名無史さん2017/05/20(土) 12:26:45.27
後醍醐の皇子らが誰も臣籍降下されてなくて賜姓源氏になってないからむりだろ
だれか源氏になってたか?

285日本@名無史さん2017/05/27(土) 02:55:36.79
ちょっと南朝関係から話がズレるが、思いついたのでカキコする。

村上源氏の流れで言うと、

「承久の乱」では源通親(土御門通親)が後鳥羽上皇方・・・負け
「南北朝の動乱」では北畠親房・顕家の親子が後醍醐天皇方・・・負け
「戊辰戦争」では岩倉具視が官軍方・・・勝ち

通算では1勝2負だけど、最後はタイムリーヒット打ってお立ち台みたいな。。。
てか、「承久の乱」と「戊辰戦争」で2回も”錦の御旗”を揚げたんだから、ある意味スゴいな?

286日本@名無史さん2017/05/27(土) 14:13:04.43
北畠・岩倉は村上源氏の中でも傍流なので、反主流側で勝負しようとする動機が
あったのではないか?
南朝というのは、公家社会で反主流になってしまった人たちが巻き返しのために
結集したという側面があったように思う。
それが後世になって、朱子学的なイデオロギーから、正統扱いになって脚光を
浴びるようになったのではと思う。

287日本@名無史さん2017/05/28(日) 12:10:00.71
承久の乱の19年前に亡くなってる源通親を負けとするのはどーなのよ。

288日本@名無史さん2017/05/28(日) 12:32:37.51
政争で負けたとは言えるかもしれないが、
乱前に死んでる人間が乱での負け組に加えられるのって、明らかにおかしいな

289日本@名無史さん2017/05/28(日) 15:57:51.38
隕石前に滅んだ恐竜も隕石で滅んだ扱いになってるみたいなものか

290日本@名無史さん2017/05/28(日) 23:13:29.14
源通親が存命だったなら、後鳥羽院を思いとどまらせて、承久の乱の
大敗を防げたかも知れない。
承久の乱がなかったなら、京方についた京都在住の御家人が存続し、
鎌倉幕府の姿も違っていたかも知れない。

291日本@名無史さん2017/05/28(日) 23:35:13.56
歴史でifを言ってたらキリがない

292日本@名無史さん2017/05/29(月) 20:18:41.58
村上源氏は堂上源氏の中では最大の勝ち組で、支流も多くなったから
その中で傍流になった人が勝負を賭けることがあったのかも知れない。
北畠氏は戦国時代を生き抜いたし、よく頑張ったほうではないか?

293日本@名無史さん2017/05/29(月) 21:07:39.19
>>291
それ、恥ずかしいからやめた方がいいよ

294日本@名無史さん2017/05/29(月) 21:55:37.22
北畠顕家の子孫はいないの?
仮にも公卿だった名門

295日本@名無史さん2017/05/29(月) 22:06:26.80
旗本にはいるみたいだけど

296日本@名無史さん2017/05/29(月) 23:28:50.47
>>294-295
あの没年で子どもがいたのかよ、16だろ?

いや、19だっけ? なら問題ないか?

297日本@名無史さん2017/05/30(火) 00:00:49.78
北畠庶流が旗本になった

298日本@名無史さん2017/05/31(水) 20:49:57.87
旗本の滝川氏ですね。
北畠の分家筆頭みたいな木造御所の流れで、滝川一益の娘婿になったときから滝川氏になった。。。と、されてるけど、実際はよくわからないらしい。

299日本@名無史さん2017/05/31(水) 22:17:39.58
>>294
>>296
浪岡と伊勢の北畠家には顕家の末裔という伝承もあったとか。
浪岡は顕信の、伊勢は顕能の子孫だろうけど。
顕家もそんな伝承ができる程度には知名度があったってことか。
長慶天皇は父後村上15歳の時の子だな。
顕家子孫も絶対にあり得ないとは言えないが…

300日本@名無史さん2017/05/31(水) 22:19:55.94
浪岡北畠氏は顕家の子孫ではなかったか?
あのような僻地に公家の村上源氏が土着するとは

301日本@名無史さん2017/05/31(水) 23:02:47.63
>>300
戦国時代より前のことは信憑性の定かではない伝説程度に見えるな

顕家の子孫と称する北畠氏が浪岡にいた、という程度にしか言えそうにない
顕家じゃなく顕家の弟の子孫という説もあるし、ひょっとしたら仮託かもしれない

302日本@名無史さん2017/06/03(土) 07:43:10.86
浪岡北畠氏は仮冒の可能性もあるようだが、「顕」「具」などの文字を通し字にして、
当主が御所号を用いたりしているので、村上源氏・北畠氏の貴種という意識は
かなり強くあったように見えるね。
本家の伊勢北畠氏とは交流はなかったのだろうか?

303日本@名無史さん2017/06/03(土) 10:59:18.64
本物なら密接な交流があっただろうが、今では交流の有無すら調べがたい気がする

斯波氏が京都の武衛家と陸奥大崎家出羽最上家と日常的に交流を続けてたり土佐一条家が何世代にもわたって京都の本家と交流を続けてたり、
というぐあいで遠くても親族とは交流を維持するのが当時の基本だしな

ただ、御所という語句を使ったのはむしろ怪しむべき要因かと
本来は貴族じゃなく天皇の居所を示すのが御所だから、南朝皇胤をかくまっていたのでない限り御所と称したとは思えない
周りが勝手に呼ぶのはありうるけども。

将軍や鎌倉公方、各地に派遣された後醍醐の皇子たち、それに土佐一条氏などの拠点も御所と呼ばれてたとおもう。
それで、浪岡北畠氏の拠点が周囲から御所と呼ばれたというのは可能性はあるが、その北畠氏自身が御所と呼んでいたとしたら、むしろ偽物の疑いが生じると思うわけ

304日本@名無史さん2017/06/07(水) 16:38:55.56
このスレの趣旨に沿えば、浪岡北畠は後南朝としての活動が全く見えないのがすこぶる怪しいね
伊勢の本家は派手に活動してただけに

305日本@名無史さん2017/06/17(土) 10:24:11.11
浪岡北畠氏は後南朝の皇子を擁立したという形跡が見えないから、居館を「御所」と
称したのは、自らの高貴さを周囲に誇るものではなかったか?
東北の辺境においては、中央貴族・村上源氏の後裔というのは、ずば抜けて
高貴な家柄で、周囲の豪族たちもそれを是認したのではないか?

306日本@名無史さん2017/06/17(土) 16:04:01.76
>>305
周囲が北畠の高貴さを尊んで御所と呼ぶならおかしくはない。
だが浪岡が自称したのならおかしい。

307日本@名無史さん2017/07/23(日) 23:39:14.24
age

308日本@名無史さん2017/07/24(月) 00:41:44.81
大河ドラマで後南朝を取り上げてほしい。
一年間放映されて話題になれば、後南朝の知名度も上がって、
ブームになることだろう。

309日本@名無史さん2017/07/24(月) 01:22:34.33
取り上げても大河史上最低の視聴率を大幅更新するだけで終わるけどな

310日本@名無史さん2017/07/24(月) 22:33:20.93
今は応仁の乱がブームだから、西陣南帝が颯爽と西軍の陣中に出御されるシーンは
大いに話題になるだろう
配役はぜひ人気のある実力派俳優を起用してほしい

311subo2017/07/24(月) 23:16:04.57
近所のスーパーで応仁の乱の本があって流し読みしたけど西陣南帝はなかったぞ

西陣南帝がでてこない応仁の乱はコーヒー豆をいれないコーヒーみたいなもんだ

312subo2017/07/24(月) 23:17:44.47
西陣南帝→織田信定→織田信秀→織田信長(異論はないであろう

313日本@名無史さん2017/07/25(火) 00:42:11.52
>>311
応仁の乱関係者の中でも特に小粒な南帝だ、コーヒー豆ほどの存在感があるわけがない

最大限に高く評価するとして胡椒か七味ぐらいだな

314日本@名無史さん2017/07/25(火) 01:09:36.87
足利成氏が西陣南帝を古河城に迎えて、
自分が征夷大将軍になろうとしなかったところは、逆に面白い

315日本@名無史さん2017/07/26(水) 00:06:19.45
後南朝の歴代南帝の中でも、西陣南帝は末路が哀れで、陵墓さえもどこにあったか
わかっていないからな
その後の南帝のほうが歴史に名を遺した人が多い

316subo2017/07/26(水) 00:18:18.07
>>315
312のレス読んだのか?

317日本@名無史さん2017/07/26(水) 00:21:43.65
西陣南帝より後には南帝はいない
創作上の架空南帝と偽系図で飾られた偽後胤だけだ

318日本@名無史さん2017/07/26(水) 01:24:04.34
いくら実権を失ったとはいえ血筋的には極めて価値があるのにも関わらず
歴史から姿を消したというのが実に奇妙に思えるんだが
なぜ血統の強化に利用しようという物が一人もいなかったんだ?

319subo2017/07/26(水) 12:06:43.62
>>318
312のレス読んだのか?

320日本@名無史さん2017/07/26(水) 20:00:26.56
もはや利用価値が無かったからだよ

321日本@名無史さん2017/07/26(水) 21:52:32.71
土佐一条氏がけっこう大きな勢力を築き上げたのと対照的だ

官位を斡旋する能力、人脈の方が血縁より優越したんだな

322日本@名無史さん2017/07/26(水) 22:22:06.09
いったんは西軍の旗印に祭り上げられながら、すぐに陣営を放逐されてしまったのが痛かった。
一定期間、西軍の大名たちと転戦して、人脈ができていれば、中央政界復帰もあり得た。

323日本@名無史さん2017/07/27(木) 21:41:35.89
担ぎ上げられる前に、準備段階のうちに中止されてなかったか

324日本@名無史さん2017/07/27(木) 23:38:54.45
ほんのわずかな期間でもいいから西陣南帝が表舞台に出て、天皇として認知されていれば、
その皇子も親王宣下を受けて、南朝が息を吹き返すチャンスだったのに残念だったな

325日本@名無史さん2017/07/28(金) 00:48:44.56
北朝関係者にとっては南朝は朝敵なんだから、
いかなる状態であろうと親王宣下とかするはずがない

326日本@名無史さん2017/07/28(金) 07:43:42.78
南朝の(自称)天皇に子供がいれば、(自称)親王ではあるだろ。
世間が認めるかどうかは別問題だが。

327日本@名無史さん2017/07/30(日) 00:13:21.65
皇子たちは親王ではなく、諸王として扱われていたのではないか?
また、近臣たちもどれくらいの官位に昇っていたかも明らかではない

328日本@名無史さん2017/07/30(日) 00:52:41.71
親王宣下という任命を受けてなかったら天皇の実子でも諸王だよな
任命の書類を書く役人がいない後南朝には諸王しかいないはずだよな

329日本@名無史さん2017/07/30(日) 00:58:09.94
長慶天皇皇子の玉川宮は諸王の扱い(薩戒記永享6年4月2日条)

330日本@名無史さん2017/07/30(日) 07:39:45.44
西陣南帝が北山御所の外記・弁官に命じて親王宣下の宣旨書を作らせ、発給
しなければならなかった。
だが、当時の北山御所には外記・弁官はおろか、南帝の聖旨を伝える内侍も
待機していなかった可能性が高い。

331日本@名無史さん2017/07/30(日) 08:35:42.77
偽帝の指示に従ったりしたら、そいつの家の朝廷内での立場は未来永劫無くなるだろ。
偽帝の指示になど従えるか、って便所紙にでもして終わりだよ。

332subo2017/07/30(日) 09:21:09.78
偽帝とはなんだ、南朝は正統なんだろ

333日本@名無史さん2017/07/30(日) 11:35:03.42
馬鹿発見。
両党合一後の御南朝はただの野良皇族。
そいつらを正統と認めたのは反逆者だけ。

334日本@名無史さん2017/07/30(日) 22:54:06.72
親王宣下はもちろんだが、南帝ご自身も即位の礼や大嘗祭を無事に挙行できて
いたかどうかが疑わしい。資金が不足しており、儀式を挙行するための官人が
まったく足りていなかった。

335日本@名無史さん2017/07/31(月) 07:36:37.79
即位礼も何も、三種の神器を京都に奪還されたのにできるわけがねえだろ

336日本@名無史さん2017/07/31(月) 12:15:34.42
>>334
それもいつものネタと同様、後南朝じゃなく吉野南朝の時代の描写の方が適切なんだよな
後南朝になると、それこそ山賊のような連中しか周囲にはいないだろ

もっとも、鎌倉幕府と戦ってた頃に大塔宮に組織された武士たち、
千早城赤坂城を落とされて脱出した楠氏を匿って支えた大和の武士たち、
そういった倒幕派武士たちの多くも山賊みたいな連中だし、
後醍醐流は早期からその手の山賊のような連中に支えられてたんだろうな

337日本@名無史さん2017/07/31(月) 22:43:57.19
後南朝のころになると、名だたる廷臣は楠木正理くらいで、後は奥吉野の郷士たちだろう
だが、その楠木氏も元を正せば、正統派の武士とは言えない

338日本@名無史さん2017/08/01(火) 23:54:27.94
南朝の朝廷では年号を制定していたので、勧申者を務める博士や選定に当たる公卿が
いたのだろうが、後南朝の朝廷には、もはや勧申者を務める学者は見当たらず、
年号も久しく制定されなかった。西陣南帝が践祚するに至って、ようやく勧申者の宛てが
ついたのか年号を制定するに至っている。

339日本@名無史さん2017/08/02(水) 22:29:16.46
後南朝になってからは、兵力はそこそこいるが、文官が不足しているように感ずる

340日本@名無史さん2017/08/03(木) 23:09:27.85
京育ちの文官は後南朝のある北山御所に出仕するのは骨が折れそうだからな

341日本@名無史さん2017/08/05(土) 12:55:14.77
>>332
外記・弁官を含めて実務を担当する官人たちの圧倒的多数が北朝に仕えていた。南朝に仕えていた官人は極めて少なかった。
んで、北朝側では南朝のことを偽帝とみなしていた。

だから、京都の官人で南帝の依頼を受けるようなことをすれば、>>331 のように見なされることは必然だよ
京都の官界の人々の主観に限って言えば>>331の言ってる内容がすべてだ。

南朝正統論は南北朝時代には非主流派だったんだよ。

342日本@名無史さん2017/08/05(土) 19:11:12.42
現代に生きる我々は、南朝を正統とし、歴代の南帝を崇敬する歴史観を持っている。
この歴史観がバイアスになって、南朝・後南朝の南帝たちが当時の大半の人々から
偽帝と思われていた事実を見落としがちだ。

343日本@名無史さん2017/08/07(月) 15:45:11.06
どう見ても偽物でしょ
神器ないんだから

344日本@名無史さん2017/08/07(月) 21:21:40.48
だからって神器強奪事件はないわー

譲国の儀をもって譲られてない単なる強奪じゃな

345日本@名無史さん2017/08/07(月) 22:02:52.60
後南朝の主上が偽帝と見られたのは、神器を失ったのもさることながら
行宮での仮住まいをしており、内裏や都大路の造営がまったく進んで
いなかったことも原因となったのではないか?
主上の草深い仮御所を見れば、誰もがその正統性を疑ったことだろう

346日本@名無史さん2017/08/07(月) 22:06:24.55
おそらく、
あの泥棒のようなものに入られた話だと思う

▢▢力夫 ▢▢美穂?

盗まれた、入られた家、このような名前?

347日本@名無史さん2017/08/07(月) 22:09:45.40
『力夫 美穂』

検索してみて、上の名前?
おそらく、そうだと思う

348日本@名無史さん2017/08/07(月) 22:30:06.59
『天子神璽』と『聖徳太子』(仮名)の関係とか

349日本@名無史さん2017/08/08(火) 23:19:56.07
府中に住んでいる人は、新田義貞公の銅像を目にするし、神戸に住んでいる人は
大楠公に銅像を見て育つ。湊川神社の前を通るときは、大楠公にお辞儀をして
から通るのが神戸市民だ。そんな中で、現代の我々は知らず知らず南朝尊崇の
心を身に着けているんだよな。その見方がどうしても歴史を見るときに反映して
しまう。

350日本@名無史さん2017/08/09(水) 03:24:12.99
そんな風習はない。
ポエマーはいい加減にしろ。

351日本@名無史さん2017/08/09(水) 17:35:59.25
楠公さんの神職は楠公さん信者でした

352日本@名無史さん2017/08/09(水) 22:43:13.48
市電が湊川神社の前を通るときは、楠公さんに敬意を表して一時停止していたくらいだからな

353日本@名無史さん2017/08/10(木) 03:45:53.30
>>349
府中には足利尊氏が建立した高安寺もあるがなw

354日本@名無史さん2017/08/10(木) 23:18:20.50
神戸だと平敦盛と大楠公の人気があるな。遠足で敦盛塚とか湊川神社に行くし、
地元で最期を迎えた悲劇のヒーローだから、当然人気が出る
平家とか南朝贔屓の人が多いだろう。関東だと喜連川御所が近いから足利方で
北朝贔屓の人が多いのかもな

355日本@名無史さん2017/08/11(金) 13:27:02.42
>>352
小楠公さんの四條畷神社はそこまでせんかったなー。

356日本@名無史さん2017/08/12(土) 08:38:04.84
音楽の授業で「青葉茂れる桜井の」を習って、南朝贔屓になった人は多いでしょう
熱心な生徒は15番まで覚えて、みんなに自慢していた

357日本@名無史さん2017/08/12(土) 09:35:59.77
戦中派の思い出話かよ

358日本@名無史さん2017/08/12(土) 14:59:38.64
大切なのは、学校教育や家庭教育で南帝や南朝遺臣を崇敬する歴史観を
教わってしまって、南朝や後南朝を過大評価しがちなことだ
歴史を見るときは、先入観を取り去って客観的に見る必要がある

359日本@名無史さん2017/08/12(土) 21:25:13.37
水戸学はほんとガンだな

360日本@名無史さん2017/08/13(日) 08:36:52.82
>>359
肛門が楠公を顕彰するからこうなった。義貞の手前味噌よりはいいけど。

361日本@名無史さん2017/08/14(月) 22:25:30.62
南朝を正統とする考え方には、後醍醐天皇の「天皇親政」を尊び、幕府を否定する考え方が
あるのではないか?
江戸幕府を倒して、王政復古を目指す幕末維新の考え方に、後醍醐天皇は親和性があった
ように見える。だから、南朝尊崇に流れていったのではないか?

362日本@名無史さん2017/08/14(月) 22:29:36.48
宋学の大義名分論に黄門様がはまったから

363日本@名無史さん2017/08/15(火) 01:24:41.51
徳川の祖先に擬せられてた得川氏が新田の分家だったことと関係するんじゃないの、もともとは。
それに、南朝皇胤は完全に滅亡してて、いくら称揚しても誰かが台頭することはないと高をくくったとかね

364日本@名無史さん2017/08/15(火) 23:18:43.51
室町時代は、北朝・室町幕府は体制側だから、これを支持する実利があるので、
大半の公家・武士が北朝を支持したのだろう。
だが、江戸時代になると、実利ではなく、イデオロギーの問題になる。
宋学が浸透するに従って、名分論の立場から、南朝支持が優勢になる。
肛門様の影響ももちろん大きい。

365日本@名無史さん2017/08/16(水) 01:25:21.03
>>361
そう思うね
幕府政治を否定する天皇の存在としては、 幕府に迎合した北朝よりも、
幕府と敵対した南朝の方が尊王派には都合がよかった

366日本@名無史さん2017/08/19(土) 11:37:00.06
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す旗印となり、室町幕府に徹底抗戦した「反幕府」的存在だ。
その当時は時代錯誤な面もあり、次第に時代の主流から外れていったが、幕末明治維新に
なってから、その存在は理想視されたのではないか?
それまでは、水戸肛門などが南朝を尊崇したが、理念的なものにとどまっていたと思う。

367日本@名無史さん2017/08/19(土) 20:24:23.28
後醍醐天皇の再評価は全くされてないぞ。
足利3代梟首事件のように足利サゲは行われたが。

368日本@名無史さん2017/08/19(土) 20:32:58.70
つーか、そもそも徳川家の主張する祖であるところの、世良田氏もしくは得川氏は南朝方に付いたために討ち死に、もしくは遠流先で死んだ人
に設定されてるんだから、徳川家自体が理屈の上では南朝旧臣。
にもかかわらず、足利家アゲを江戸時代通じて続けてたんだから、南朝が正統とか、後醍醐天皇が正しいとかいう発想は徳川家には
なかったんだろ。

369日本@名無史さん2017/08/19(土) 21:17:19.35
>>368
今大河ドラマの井伊も南朝の旧臣
でも南朝復権のために江戸時代何もしとらん

370日本@名無史さん2017/08/20(日) 06:03:56.91
当たり前だろ
南朝に味方して衰退したとこばかりなんだから
南朝は疫病神だよ

371日本@名無史さん2017/08/20(日) 06:13:05.02
南朝をかつぎあげるのは反主流派、もともと劣勢な勢力が仕方無しにすることだから
勝てる見込みなんか限りなく低いわな

372日本@名無史さん2017/08/20(日) 15:31:39.14
明治新政府は新田・菊池などの南朝遺臣の叙爵を行っているから、幕末・維新の
ころには南朝尊崇の気風は、すでに公式のものになっていたのだろう
だが、明治時代の学会においては、「南北朝時代」と呼称して、南朝を特別視
してはいなかった。国定教科書でも、「南北朝時代」とされた。
だが、やがて学会のこの態度が、政治的に攻撃されるようになっていき、呼称も
「吉野朝時代」となった。政治家が南朝を軽視したり、北朝・室町幕府を評価
したりする発言は禁忌となっていった。
本格的かつ狂信的な南朝尊崇は、近代になってから強くなったと言える。

373日本@名無史さん2017/08/20(日) 22:27:43.63
南朝遺臣叙爵だけでなく、後南朝皇胤の皇籍復帰もしておかなかったことが
悔やまれる。世襲宮家にしておくべきであった。

374日本@名無史さん2017/08/20(日) 22:30:17.28
本物らしき南朝後胤が見つからなかったから、どうしようもなかったがな

375日本@名無史さん2017/08/20(日) 23:27:30.15
基本、宮扱いは皇孫5代までということを知らんのか

376日本@名無史さん2017/08/21(月) 03:00:48.32
新田(岩松)の叙爵は、井上薫が、元新橋芸者の妻の武子の実父の叙爵を働き掛けたから。

377日本@名無史さん2017/08/21(月) 03:07:07.12
>>375
『皇族 人権 ない』

一般人になった人がいるはず、
今なら確実に人権侵害?

378日本@名無史さん2017/08/21(月) 03:16:51.56
かなり前から一般人として暮らしています、
一般人となったので人権もある

実際は、そういう人もいそうなんだけど、
かなりの人口(人数)

379日本@名無史さん2017/08/21(月) 22:32:18.73
明治維新のころに、西陣南帝や十津川宮の皇胤を皇籍復帰させるのは、
皇籍を離れてからあまりに遠すぎるので無理だろう
せめて元禄年間まで即位したり、親王宣下を受けた実績のある美作後南朝の
皇胤の皇籍復帰を第一候補として検討すべきだ

380日本@名無史さん2017/08/21(月) 23:53:55.28
>>377
美作南朝は実績どころか実在性すら存在しない、完全フィクション

381日本@名無史さん2017/08/23(水) 22:14:43.71
維新当時の皇族で母系で南朝の血を引く方が熊野宮・十津川宮の名跡を継承して
後南朝世襲宮家を復活させるのがよかっただろう
菊池武夫男爵など南朝遺臣の子孫とともに、政界で活躍したのではないか?

382日本@名無史さん2017/08/25(金) 05:57:02.24
維新当時の皇族で母系で南朝の血を引く方なんていないだろ
いい加減にしろよ ポエマー

383日本@名無史さん2017/08/25(金) 23:18:18.13
必ずしも南朝の血を引いている必要はないだろう
皇族であれば何も問題ないのだから、維新当時の皇族の誰かに後南朝宮家を継がせればよかった
還俗させた親王門跡あたりをあてがえばよかったのでは

384日本@名無史さん2017/08/25(金) 23:22:00.44
皇族というのは渡来人、帰化人なの?
それとも先住民(原住民)?

話が、おかしくない?

385日本@名無史さん2017/08/26(土) 00:59:27.16
平治の乱後に義朝を裏切った長田は?

386日本@名無史さん2017/08/26(土) 01:01:53.33
誤爆った
どこかの質問スレに書くはずだったのだが

387日本@名無史さん2017/08/26(土) 01:06:59.83
>>383
根本的な話として、維新当時の皇族も貴族も北朝系で、南朝・後南朝は敵・反逆者と考えてたんだから、わざわざ南朝系の名跡をもらって喜ぶはずがない。
南朝を評価したのは、水戸学の流れを組む思想家だけ。

388日本@名無史さん2017/08/26(土) 02:31:16.89
水戸藩は、
易経を学んで、
頂点は1つだから、
征夷大将軍よりも天皇を立てるべきだと
解っていたと
動画で見たな。

389日本@名無史さん2017/08/26(土) 11:12:15.16
>>387
当初は皇族も公家もそういう意識だったと思う
だが、維新当時は南朝功臣に位階を追贈し、南朝功臣の子孫をわざわざ探し出して
まで爵位を与えるまでになっている
ならば、南朝・後南朝の宮家を襲名できるのは、名誉なことであり、南朝顕彰事業の
最たるものと言えるのではないか?
不遇に甘んじていた傍流の皇族にとって、名誉が得られた上、世襲の俸禄が保証
されるのであれば、むしろうれしい話ではないのだろうか?

390日本@名無史さん2017/08/26(土) 11:17:36.62
騙り、成り済ましだという話は?

系図の偽造

家?名も売ってもらったとか

391日本@名無史さん2017/08/27(日) 16:09:02.85
大楠公、新田義貞公が正一位なのだから、主筋の後南朝宮家はそのさらに上という格式になるよな

392日本@名無史さん2017/08/27(日) 16:11:28.72
何を言っているんだ?皇室とは万世一系。大楠公がお仕えしていたのは皇室であって、後南朝などという野良皇族もどきではない。
皇室が二つあるような不敬な発言は即刻辞めるように。

393日本@名無史さん2017/08/27(日) 16:24:46.79
だが南朝は皇室から追い出されたからな。
後醍醐帝のみ皇室の一員

394日本@名無史さん2017/08/27(日) 19:04:11.31
>>393
ちゃうって。後醍醐天皇から南北朝合一までは南朝が皇室。北朝天皇は僭称。
ただし、直系の祖先として、北朝天皇も皇室からの崇敬を受けている。
合一後は北朝(というか合一された唯一の皇統)のみが皇室。後南朝はただの騙りだから、皇室から無視されている。

395日本@名無史さん2017/08/27(日) 19:47:42.06
>>394
あれ?
現在の皇室が後南朝だって宇野正美のどうがでみたな。
戦時中皇居の楠木正成の像を取り壊して武器に作り替えなかったのも
そういう意味合いらしい。

396日本@名無史さん2017/08/27(日) 20:47:27.39
その手の与太話ホラ話は一定の勢力を残してるがデタラメだよ

397日本@名無史さん2017/08/27(日) 21:36:56.72
>>395
明治時代に南北朝正閏論をやった時に、後南朝の正当性なんて議題にも上がらなかった時点で、
皇室が後南朝になんの興味もないことに気づけ。

398日本@名無史さん2017/08/28(月) 07:33:09.69
>>394
南朝がわの主観ではな

北朝がわ主観では、吉野に去って以後の南朝は一貫して僭称、偽帝。
その主観を明治維新まで言い伝えてきたんだよ

399日本@名無史さん2017/08/28(月) 20:16:46.50
>>398
南朝の主観も北朝の主観もどうでもいい。
合一までの正当な天皇は南朝と明治大帝が定められたのだから、我々は御聖断に従うより他ない

400日本@名無史さん2017/08/28(月) 22:26:49.90
皇室も公家も、幕末ごろまでは北朝を正統と考えてきたのだろう。
だが、御一新を迎えて、南朝を正統と定め、南朝功臣たちに官位を追贈して
南朝功臣の子孫に爵位を叙爵した。
これは、南朝を正統とする「世論」を朝廷が認めざるを得なくなったことを
示すのではないか?

401日本@名無史さん2017/08/29(火) 08:03:12.39
>>400
ないか、っつーか、そのとおりだよ。
南朝正統の方向に世論が傾いて、政治問題化したり、学者が叩かれたりした混乱を収拾するために
政府が南朝正統を認めて、明治大帝もそれを許した。
ぶっちゃけ、皇室の方々の感情とか関係ない。

402日本@名無史さん2017/08/30(水) 16:27:16.83
昔、祖母に聞いた事あるんだが、我が家系は楠木の遠い祖先にあたるらしいんだわ
楠木家自体は滅び去ったのか知らんけど、生き延びた者もいたって事かな...

403日本@名無史さん2017/08/30(水) 18:03:30.27
楠家の出自すら分かってなかった時代にそのようなことを言えたなら、
それなりの根拠があったか、もしくは先祖のホラ話を信じ込んでたか、どちらかだな

404日本@名無史さん2017/08/30(水) 21:27:56.43
そういえば橘氏系であることがほぼ確実な家系って今でもあんのかな?

405日本@名無史さん2017/08/30(水) 22:24:32.15
ちなみに、
前田氏は花橘が家紋だな

406日本@名無史さん2017/08/30(水) 22:37:12.43
楠木氏は大楠公以降も後南朝の廷臣として存続し、南天皇に仕えて北山御所に
出仕していたから、それなりに子孫は栄えたのではないか?
子孫を称する人がいても不思議ではない。
大楠公の名に恥じぬよう、子孫の人は今上陛下に忠義を尽くしてほしい。

407日本@名無史さん2017/08/30(水) 22:54:22.05
>>392
野良扱いしているおまえが一番不敬だよw

408日本@名無史さん2017/08/30(水) 23:05:54.08
後南朝は皇胤ではあるが皇族ではない
だから不敬と見なす方がおかしい

409日本@名無史さん2017/08/30(水) 23:07:43.60
https://image.rakuten.co.jp/auc-wildhearts/cabinet/sonotaconcho/concho2219a.jpg

楠木の姓ととは異なるけど、うちの家紋は上のような菊を崩した感じ。祖母が言うには
この家紋は相当に珍しいらしく、自分も気になったのか家紋に詳しい専門家に依頼して当時
調べたらしいんだわ。そしたら、ほぼ楠木家由来か、その分家だという説明をされたようだ。
先祖代々からの言い伝えは当たってたって事みたいだな…

410日本@名無史さん2017/08/31(木) 00:13:53.08
>>408

いえ皇族です 足利の奸計にかかっただけです
足利の奸計を正しいとみなして、後南朝を貶める行為は不敬です

411日本@名無史さん2017/08/31(木) 00:23:49.79
臣籍降下せず王号を称していたのなら皇族だろうな
後南朝の帝位を認めるかどうかは議論が分かれると思うが、
諸王クラスの礼遇は認められる

412日本@名無史さん2017/08/31(木) 05:26:12.89
>>411
5世孫以下は普通臣下扱い。

413日本@名無史さん2017/08/31(木) 07:48:50.27
当時の朝廷の公式見解が、後醍醐帝以外の南朝諸帝は即位してない(偽帝)というものだから、
後南朝と呼ばれる範囲で諸王はほぼいないな
朝廷が諸王と認めて認可しない限り王未満、臣下あつかいだな

414日本@名無史さん2017/08/31(木) 21:18:08.96
いや、だから北朝の認識でなくて、明治大帝の公式見解に立とうよ。そうでないときりがないから。
後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇までは天皇。
後亀山天皇の5代孫から臣下。
後亀山→小倉宮→小倉宮→西陣南帝 が本当なら、西陣南帝はぎりぎり皇族だな。

415日本@名無史さん2017/08/31(木) 21:50:02.28
× 公式見解
◎ 世論の要求を受忍

416日本@名無史さん2017/09/01(金) 01:49:00.64
>>404
旗本の甲斐庄氏がそうだな
楠木正成の弟:楠木正季の子孫だけど

417日本@名無史さん2017/09/01(金) 01:59:18.92
>>406
南朝系の楠木氏は族滅された
わずかに生き残ったのが北畠氏を頼って伊勢に逃れて、伊勢楠木氏として存在したが
織田信長の伊勢攻略時に抵抗して滅亡している
当主は本願寺に逃げて討ち死にし、嫡男は木下秀吉に嬲殺しにされて終了

楠木正虎は自称:楠木氏の子孫を名乗ったが詐称であると言われている 
本当の家系は備前大饗氏の出で、生国も備前で初名を大饗長左衛門(甚四郎)と言う

418日本@名無史さん2017/09/01(金) 02:01:13.52
>>409
家紋の詐称もあるから当てにならない
いつからその家紋を使っていたのか証明できるものがないと

419日本@名無史さん2017/09/01(金) 23:01:39.65
南北朝時代(吉野朝時代)当時は、
・南朝を支持する公家・大名もいた
・南帝による詔勅が渙発されている
・官位を発給しており、公卿に昇った者もいる
・年号を制定し、南朝年号を使用する者もいた
ことから、南朝は朝廷としての実態があったので、北朝が是認していなかった
としても、南帝・南朝皇族・宮家を是認して差支えあるまい。
だから、長慶天皇を起点として五世までを諸王とみなしてよいのではないか?

420日本@名無史さん2017/09/01(金) 23:14:24.47
>>419
後亀山から5世までは認めていいと思うけど。
その後は平民だけどな。

421日本@名無史さん2017/09/02(土) 02:15:11.42
西陣南帝(熊野宮信雅王)は後亀山天皇の三世王だから、西陣南帝の孫までは
諸王ということになる。したがって、皇子の治廣王の皇子の代までは諸王と
いうことになる。

422日本@名無史さん2017/09/02(土) 10:56:11.75
>>416
甲斐庄氏は爵位を貰わなかったの?

423日本@名無史さん2017/09/02(土) 12:15:40.23
>>402
「楠木党」は合一後もちらほら登場するんで(党とされると楠木血族なのか家来なのかも曖昧になるが)
皆殺しにされたなんてことはまず絶対になく、けっこう残ってるんじゃないかと思う。
詩人の野口雨情は楠木正季の末裔を称していたとか。
正成以前の楠木氏は全く謎だが、吾妻鏡の源頼朝時代に現れる「楠木四郎」が同族だったならば、
正成以前に140年は歴史があるから、そこから分かれた同族もそこそこいただろう。
楠木氏の駿河ルーツ説が当たってるなら、広く各地に分布してる可能性もある。
また、楠木は苗字で、本姓は橘だったというし、武士は苗字をコロコロ変えていたんで、全然別の苗字の子孫もおかしくない。
まして室町の世でははばかられる苗字だったろうし、むしろ楠木を名乗る人こそ正成と全然別系統かも。
ちなみに、橘氏は橘諸兄・佐伊に始まるんで、天皇から分かれた氏族。
新撰姓氏録でいう「皇別」。
もちろん、正成が本当に橘氏だったかからして疑わしいのだが。

424日本@名無史さん2017/09/02(土) 12:47:03.27
そもそも「皇族」「王族」「王家」の意味範囲がなあ(皇胤とすれば尊氏も義貞も正成も顕家も含まれるが)。
後醍醐後胤なら、京都に帰った長慶・後亀山系は「宮」と呼ばれた人がいたので、彼らは皇族と見ていいのだろう。
幕府に討たれた自天王も「王」とは呼ばれてる。
「何代まで王」もどこまで貫徹されたか疑問で…親王は宣下を受けないとなれない制度になったが、
さすがに単に呼び捨てははばかられたのだろう。

しかしまあ、世論で動く「万世一系」ってw

425日本@名無史さん2017/09/02(土) 13:42:50.74
>>424
正成だけ違うぞ、一行目。

426日本@名無史さん2017/09/02(土) 14:18:09.02
西陣南帝の後に散発的に表れる後南朝後胤も、「出羽王」、東国に下って北条早雲に
出会った「王」など、「王」を称している。後亀山天皇からかなり時間と代がたった
後も、後南朝後胤はかろうじて皇族であり続けたのではないか?
この時代の皇族は、長く皇籍にとどまる傾向があり、臣籍降下の早かった平安時代
とは事情が異なるように思う。

427日本@名無史さん2017/09/02(土) 15:31:40.63
祖母がうちの家紋と家系図を専門家に依頼した時に説明された経緯も、正成の末裔とは言って
無かったな。あくまで、楠木家の分家説とその可能性を示唆されていた。もしかしたら、
大楠公の血族かもなんて言ってた気がする。因みに、4代前まではそれ以前のご先祖は
千早赤坂で農業をやっていて、河内に移住してからは、魚屋をやっていたそうだw

428日本@名無史さん2017/09/02(土) 17:31:31.45
ちょっとまて、千早赤阪は河内の一部だぞ。なんで千早赤阪から河内に移住するんだよ、まるで千早赤阪が河内じゃないみたいじゃないか

429日本@名無史さん2017/09/02(土) 23:04:37.53
>>426
自称皇族は熊沢天皇と同じでなんの説得力もない。
皇室から切り離された野良皇族になった後南朝の人は、姓を与えられて臣下に降下することさえできなかったわけで、
5代経って皇族でなくなれば、姓さえもたない、ただの庶民。

430日本@名無史さん2017/09/03(日) 00:22:04.26
平安→奈良→飛鳥時代(もうそれ以前は信憑性の問題が)は皇族に賜姓がわりに気前よく行われたんだよな。
ただ、平安時代ともなると、源・平・在原など有力になったのは限られてきてしまう。
というか、奈良以前は分立される氏の名称もいろいろあったのが、源平だらけになるとも。
賜姓=分家した所で頭がもう詰まってきてしまったということだろう(家格の固定化も関係あるだろう)。
ただ、王族たる実態(経済力や官位)を伴わなくなっても、彼らは「庶民」ではないと思う。
偉い人の姓は朝廷の許認可が必要だったはずだが、実際にどこまで貫徹されていたかは不明。
というわけで、南朝末裔が熊沢なり何等かの苗字を名乗っていても、変なことではなかろう。
皇の字が付く皇家・皇族・皇統はさすがにいいかげんに使われた語でもなかろうが、皇胤となると継承権も関係なくなるし、
王なんてどれほど厳密に使われていたことだか。
天皇とまた別に百済王家がいて、続日本紀ではわりときちょうめんに百済王と王を略さず書かれてる(百済が姓でもあるんで、後世は略されることも多い)。
逆に見れば、天皇とは、すごく神秘的なようでいて、実際はけっこう相対的なもんで、
氏族レベルで見たらさほど珍しいもんでもないと認識されていたかも知れない(源・平などのほうが高貴なこともあり得る)。

431日本@名無史さん2017/09/03(日) 00:55:06.43
>>425
楠木が橘氏なら皇胤ではあるんじゃないかね

>>427
×族、×戚も難しいんだなあ。外戚だったら血のつながり全然ないかも知れんし。
「河内楠入道」「楠木四郎」はハッキリしない人物ではあるが、正成親族なら楠木氏は鎌倉時代いっぱいは存在したのだろうし、
途中でけっこう多く分かれてる可能性もある。
橘氏はけっこう吾妻鏡に登場するので、楠木が本当に橘氏だった可能性もゼロではないし、
鎌倉時代はまだ婿養子に行っても旧氏姓は保持されたようなので(畠山氏が前は平姓だったのに、足利から来た当主になって源氏になったような)、
橘氏から婿養子が来て橘氏ってことかも知れないし。
富士川合戦のころの駿河国司か目代は橘だよね。楠木が駿河ルーツならその親戚かも知れない。
もともと新田や北畠と比べて格の低い家だったわけだから、幕府からしても根絶やしにする必要はなかったろうし、一概に自称末裔も否定できない。
江戸時代の初年ぐらいに「帰農しました」って証拠でもあれば、「楠木さんなんですね」で解決だけどね。

432日本@名無史さん2017/09/03(日) 01:24:16.77
平姓畠山と源姓畠山は、全く無関係なわけではないけど、血縁じゃないぞ

平姓畠山が滅ぼされた後に、そほ未亡人をめとって興された家だからな
入り婿と言えなくはないが、畠山氏の娘ではなく未亡人をめとったとこが異質といえる

433日本@名無史さん2017/09/03(日) 05:42:51.26
美作後南朝を実在していた前提で話してる人は一人だけ?

434日本@名無史さん2017/09/03(日) 05:55:03.07
楠木氏は幕府に対してたびたび反乱を起こしているから、討滅対象だよ
最後の方は名前すら良く解らない奴まで討伐されてる
記録でも、楠木兄弟としか記載されてなかったり
族滅に近い状態に陥ったのは間違いない

435日本@名無史さん2017/09/03(日) 05:59:09.99
美作後南朝については書物も少なく、闇の中のまま。

南北朝時代の末期に山陰の大々名の山名氏が南朝の断絶を避けるために
美作国の植月に後南朝の皇子を招いて開設されたのが美作後南朝。
三種の神器も美作後南朝に伝えられ、代々天皇が即位し、地元豪族達に守られて
戦国時代も生き延びたが、第8代高仁天皇が死に、後継者である良懐親王が江戸幕府
により庶民の身分に落されて美作後南朝は滅亡したとされている。

個人的には美作後南朝の存在自体を疑問視しております。
平民に落とされたにしろ子孫は続いた訳で、それらの足跡が余りにないのは不自然ではないかと。
ましてや地元豪族が本当に支持していたなら、その後も支援するだろうし庇護もするでしょう。

突然のようにすべてが消失するなんてありえないと考えています。

436日本@名無史さん2017/09/03(日) 06:46:01.72
後南朝は史実から消えた。
それがすべて。

南朝後胤の最後の資料は、東大史料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という綱文のもとに、次の四件あります。

A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
  山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、
   越後より越前国北荘へ移った。

B同記三十日の条
  「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。

C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
  「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
  (現:山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。

D同記明応八年霜月の記事
  「王」が明応八年霜月に流されて三島(現:静岡県三島市)に着き、
  早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。

当時の文献上は、これで終了。

南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。

437日本@名無史さん2017/09/03(日) 12:07:04.79
>>433
このスレに来てるのは一人だけだと思う
どっかのフィクション本を読んで信じこんじゃった人に違いない

438日本@名無史さん2017/09/03(日) 18:21:40.56
>>429
正統な天皇は南朝だろ?
それを上手くだましたのが北朝と足利だ
何でだました側から姓を賜らなきゃならない?

439日本@名無史さん2017/09/03(日) 19:44:04.24
賜姓がなくても皇籍を離れれば自動的に源氏になる

440subo2017/09/03(日) 21:10:37.50
明治維新は南朝革命だってこと知らん奴がいるのか?
それとも工作員だらけか?

441日本@名無史さん2017/09/03(日) 23:45:00.47
>>440
そう、よかったね。
で、なんで後南朝の自称天皇は皇室から無視されてんの?

442日本@名無史さん2017/09/06(水) 02:16:16.49
>>432
平姓畠山氏は秩父平氏なので、一応は皇胤ではある。信憑性は〜だけど。
だから清和源氏の足利とも遠い親戚にはなる(三浦や千葉と同レベルの)。
畠山は、平姓の家に源姓が養子に入ったことが特徴で、苗字と家を考える上で好例。

443日本@名無史さん2017/09/09(土) 01:47:33.88
当時の史料に出てくる「出羽王」などは、ニセ皇族という指摘もあるが、
皇族、しかも後南朝皇族であるのは本当だったのではないかと思う
吉野や南紀で活動していた後南朝の皇胤が、活動拠点を失って、
各地を放浪した時期だったのではないか?

444日本@名無史さん2017/09/09(土) 06:45:42.76
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)        
                               |                       
                               |(推定)         第104代
                               −岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
                                              |    
                                              −弟宮

小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。

*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
       その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
       関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
       その後の消息は不明。

教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。

445日本@名無史さん2017/09/09(土) 06:47:28.25
6代将軍の義教の時に、南朝皇族は滅亡させる方針に変わった。
小倉宮の子孫はじめ主要な皇族は仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実。

自称傍系の子孫らしいのが細々と吉野や紀伊の山奥で活動してただけ。
活動規模はもはや山賊レベルで驚異にはならなかった。
その傍系も赤松遺臣に討たれ滅亡した。

そこから先は伝承に過ぎず南朝の名前を利用されただけ

446日本@名無史さん2017/09/09(土) 09:05:40.25
>>443
後南朝の蜂起ってのは基本的に、京都周辺の寺に入れられてた南朝皇胤の宮が脱出ないし拉致で地方に行って蜂起するもので、
地方在住のかくれ皇族が蜂起したわけではないよ

447日本@名無史さん2017/09/09(土) 10:39:44.16
みなさん、
なんでそんな後南朝について詳しいの?
受験勉強でもほとんど出てないと思うし、
本もあんまり聞かないなあ。
ネットで調べて、
自分流に解釈したって感じですか?

448日本@名無史さん2017/09/09(土) 11:33:46.27
>>447
後南朝の本はある。
でも1冊の本で現在確実なことは事足りてしまうほど事績に乏しい。
要するにまあ、長い天皇の歴史で見たら、傍系の1つでしかないわけです。
(正統は当然今の彼らとして、今突然南朝末裔が出てきても何の意味もない。公安委員会はマークしてるかも知れないけど。)
いくらか同情してる向きもなきにしもあらずだけど、知的興味が一番の動機じゃないかな。

449日本@名無史さん2017/09/09(土) 14:55:47.86
>>447
今でも南朝尊崇の気持ちを抱く草莽の烈臣が多く残っている。
その人たちは南朝の皇胤や遺臣たちが粘り強く活動し、南朝の皇統を
維持して再び皇位を伺ったその事績を顕彰したいと考えている。
その忠烈無比の精神がこのスレの原動力となっている。

450日本@名無史さん2017/09/09(土) 15:24:17.71
>>447
長州人ですが、あれやこれやの陰謀論があまりにうざくて、叩いてるうちに詳しくなりました。
不敬な会津人は明治時代のうちに全部樺太に追放しとけばよかったのに。

451日本@名無史さん2017/09/09(土) 19:11:02.90
オレはアンチ薩長の関西人だけど南朝びいきの宗教家がうざくて反論用に本を読んだからかな

452日本@名無史さん2017/09/09(土) 20:50:39.44
まあ、
俺が詳しく読んだわけではないけど、
神皇正統記や梅松論を考えると、
南朝正統説は本当だろうな。
これと後南朝との関係は知らんけど。

453日本@名無史さん2017/09/09(土) 21:50:52.76
梅松論は南朝正統説じゃないだろ

神皇正統記は自分とこが正しいとプロパガンダをぶち上げる宣伝書であって客観じゃないから信憑性は話半分だよ

後南朝は単なる反乱軍であって正統性云々は関係ない

454日本@名無史さん2017/09/09(土) 23:22:35.59
>>453
あれ?
梅松論って南朝正統説じゃなかったっけ?
受験の時、神皇正統記と対で覚えたよね。

455日本@名無史さん2017/09/09(土) 23:25:55.71
俺日本史そこまで詳しくないんだけど、
北朝の時に戦国時代になったの?
だとしたら、天の沙汰かなと思うけど・・・

456日本@名無史さん2017/09/09(土) 23:26:49.62
北朝の天皇の時代って意味ね。

457日本@名無史さん2017/09/10(日) 16:45:01.28
戦国時代になったのは応仁の乱ごろだから、北朝の天皇のころと言える。
だが、南北朝対立があってもなくても、戦国時代にはなったと思う。
武士の世の中になった以上、いつかは戦国時代になる運命にあった。

458日本@名無史さん2017/09/10(日) 17:14:26.11
っつっても戦国時代の底流となってるのは南北朝での戦乱だし、室町時代の諸制度のうちでも戦国時代につながるようなものの多くは建武政権下で新設されたものを幕府が引き継いだものなんだよな
後醍醐帝の影響がずっと残ってたことが戦国時代につながったとも言えるわけだ

さすがに戦国時代後半になるとそれらもだいぶんと払拭されていくけどさ

459日本@名無史さん2017/09/13(水) 18:16:49.09
八条女院領はどうなって行ったんだろう

460日本@名無史さん2017/09/16(土) 09:34:15.28
元禄年間まで続いた美作後南朝が、後南朝の末裔としては最も長く続いたが
記録が乏しく詳しいことはわかっていない
天皇が在位したことは伝わるが、本拠地の植月御所で即位礼や大嘗祭が
無事に挙行されたという詳しい記録は伝わっていない

461日本@名無史さん2017/09/16(土) 09:46:26.36
>>460
何言ってんだ。熊沢天皇はじめ、戦後まで複数の天皇が代を重ねてたじゃねえか。

462日本@名無史さん2017/09/16(土) 12:13:14.03
>>460-461
どちらも架空の天皇だぞ

前者は存在自体が架空で後者は存在こそ事実だが天皇であるという自称が嘘であって皇位は架空

463日本@名無史さん2017/09/17(日) 01:36:53.22
美作後南朝自体が創作だからな。
実在しない。

464日本@名無史さん2017/09/17(日) 23:06:43.45
美作後南朝というのは、一種の平行世界。ラノベで言うと異世界のようなものだ。
だから、史学的に史実として認識することはできず、つねに茫洋としている。

465日本@名無史さん2017/09/23(土) 06:47:49.50
美作後南朝は、伏見宮家のような一種の世襲宮家として位置付ける
ことができる
ただ、時々散発的に皇位に就いた当主が出てくるのが気になる

466日本@名無史さん2017/09/23(土) 21:57:42.52
美作後南朝なんて存在しないのに何を言ってるんだ?
ポエマーはどうしようもないな

467日本@名無史さん2017/09/23(土) 22:15:59.37
世襲宮家の意味、理解してる?

468日本@名無史さん2017/09/24(日) 05:19:56.76
むしろ誰がどのような動機で美作後南朝という構想を立てたのかを考えるべき
そこにこの問題を解くカギがある

469日本@名無史さん2017/09/24(日) 10:22:12.00
最近では南朝が正統ということを知らない人が多い
学校の日本史の授業でしっかり教えるべきではないか?

470日本@名無史さん2017/09/24(日) 10:52:03.17
南朝正統説は宗教であって史実ではないから教えないのが正しい

471日本@名無史さん2017/09/24(日) 17:29:20.60
そろそろ北朝が正統であると歴史教育で教えるべきだと思うな
いつまで水戸学の呪縛にとらわれているのか
まずは歴代天皇の代数を正しくカウントするべきだろう
ついでに弘文天皇も歴代から削るべき


非即位 大友皇子

95代 後醍醐天皇
不登極帝 光厳院
96代 光明天皇
吉野朝1代 後村上天皇
97代 後光厳天皇
吉野朝2代 長慶天皇
98代 崇光天皇
99代 後円融天皇
不登極帝 後亀山院
100代 後小松天皇

125代 今上天皇

472日本@名無史さん2017/09/24(日) 17:45:29.43
>>471
弘文天皇や光厳天皇は戦乱で敗れて廃されたのであって不登極ではないぞ

後醍醐は廃された後に戦勝によって重祚したというのが実態であって、
自称したような「ずっと皇位についていた」わけではないぞ

473日本@名無史さん2017/09/24(日) 18:44:19.00
実態はたしかに重祚だが、そのような手続きはとっていない
ということは後醍醐の主張する通りずっと即位したままだったとするか、隠岐に流された後は僭称とするしかない

光厳院は即位の実態はあったが、後醍醐により在位を否定される代わりに上皇待遇を受けている

後亀山院は現在譲位した扱いになっているが、後小松天皇が合一時ゆあらためて践祚した事実はない、そしてやはり在位を否定される代わりに上皇待遇を受けている

弘文天皇はそもそも即位した証拠がなく、即位の前に戦乱で敗れた皇族だ

474日本@名無史さん2017/09/24(日) 19:50:51.23
まあ弘文天皇の時代は「皇太子の立場のまま事実上の天皇として政治を行う」という形が許容されてたんでしょうね、
弘文天皇の父親である天智天皇の先例に基づいて。

正式な即位については証拠がないとは言え、少なくとも「事実上、天皇(同然)として政治を行った」という点には疑いの余地はないですよ
政治の実質という面ではむしろ廃帝として扱わないとおかしくなってしまう。

まあ、名分論の立場の人たちは実質というものを軽視しすぎるから弘文天皇非登極にこだわりたいのでしょうけど。

475日本@名無史さん2017/09/24(日) 20:29:09.30
>正式な即位については証拠がないとは言え、
>少なくとも「事実上、天皇(同然)として政治を行った」という点

史料が記紀しかない古墳時代でこれを強調し過ぎると収拾付かないんだわ。
倭建命や神功皇后は別にしても、菟道稚郎子、木梨軽皇子、市辺押磐皇子、
飯豊女王、春日山田皇女、間人皇女、倭姫王にも即位説が唱えられてるし。

476日本@名無史さん2017/09/24(日) 21:18:25.47
天武天皇の巻のみ「即位前」と「在位期間」に2分割されてるのは「即位前紀」の実質が弘文天皇在位時代の意味で扱われたからじゃないの、独立で巻を建てなくてはならないほどには区切りが必要だったってこと
正式に即位したかしてないかを区別する証拠がないんで肯定も否定もできないってトコだが、事実上の弘文天皇紀とも言える巻が分けられてるところに実は即位していたんじゃないかとの憶測が生じることになる

477日本@名無史さん2017/09/25(月) 00:10:25.45
と学会25周年記念本に後南朝ネタがあるらしい

478日本@名無史さん2017/09/27(水) 19:43:09.22
>>468
いや、近世に捏造した奴がいるだけの話なんだが・・・

479日本@名無史さん2017/09/27(水) 22:20:25.18
捏造した犯人の動機ってことでしょ

480日本@名無史さん2017/09/27(水) 22:50:27.94
素直に考えれば、勤王だった備中松山が賊として討伐された恨みで、あいつらなんか偽朝廷の偽官軍だ、って主張したんじゃねえの?

481日本@名無史さん2017/09/28(木) 06:46:47.90
貴種流離譚の一つとして山の民に利用されただけ
平家の落人と一緒

482日本@名無史さん2017/09/30(土) 08:02:18.58
弘文天皇、淳仁天皇、仲恭天皇に諡号が贈られたのは御一新の後なんだよな
だが、後南朝の歴代南帝には、まだ諡号が贈られていない

483日本@名無史さん2017/09/30(土) 12:21:24.68
その三帝にはいちおう天皇としての活動実態があるけど後南朝は天皇としての活動実態がゼロ、
むしろ山賊か反乱軍としての活動実態しかないから、よほど熱烈な信仰に基づかない限り贈位を行おうとは考えないよ

484日本@名無史さん2017/09/30(土) 20:47:11.07
後南朝の時代になると本当に後醍醐の子孫かどうかも怪しいからな
南朝皇族は仏門に入れられて断絶が基本
「そこから逃れてきた子孫です」って言い張ってるだけだから
血筋が怪しいから、かつて南朝を支えた北畠氏を始めとする勢力も支援しなかったのだろう

485日本@名無史さん2017/09/30(土) 22:15:14.59
>>482
ぶっちゃけ、これが「明治天皇は後南朝の末裔にすり替えられた!」って奴への一番シンプルな反論だよな。
今の天皇家が後南朝系なら、なんで直系の先祖を顕彰しようとしないんだ、って。

486日本@名無史さん2017/10/01(日) 19:43:45.44
後南朝で天皇に擬されたことがあるのは
金蔵主、北山宮、西陣宮だけでしょ

487日本@名無史さん2017/10/07(土) 10:05:25.17
後南朝の天皇の諡号としては、中興天皇・天基天皇・招慶天皇といったものが
知られるが、これらは近臣たちが贈ったものであって、必ずしも公認された
ものではないことに注意が必要だ

488日本@名無史さん2017/10/07(土) 10:30:26.14
必ずしも、って……

公認されたものがひとつでも存在してるかのように勘違いする言い方だな

489日本@名無史さん2017/10/07(土) 16:07:12.95
ポエマーだからね

490日本@名無史さん2017/10/08(日) 08:46:18.05
後南朝は大半が後亀山天皇の子孫だが、大塔宮とか兼良親王の子孫もいる
中には系譜が不確かな人もいる

491日本@名無史さん2017/10/08(日) 12:12:31.09
小倉宮が大半は言い過ぎ。むしろ聖承亡き後は、
護聖院宮と玉川宮(北山宮・河野宮も含む)が
中心になって抵抗運動を牽引していたイメージ。

492日本@名無史さん2017/10/08(日) 16:37:06.71
>>489
ポエットだろ

493日本@名無史さん2017/10/08(日) 17:16:34.34
抵抗運動など存在しない

まれに武装蜂起する反乱軍が必要に応じて京都にいる宮を連れ出して挙兵するだけ
南朝後裔の宮たちはみんな京都にいたんだよ

応仁の時の南方宮が例外的に京都以外にいただけだ

494日本@名無史さん2017/10/08(日) 17:24:16.70
コイツは駄目だな(不適合)という人物が現れた場合、
山奥に連れて行かれたり、幽閉されたり、殺されたりするという伝説は?

教育(矯正)しても無駄だという場合、殺す?

廃嫡

495日本@名無史さん2017/10/08(日) 17:38:33.03
良く調べてみて

『宮刑』

このようなものがあったり、日本の話?

496日本@名無史さん2017/10/08(日) 18:01:16.04
冤罪事件というのがあるでしょ、
やってもいない事を、メディアを悪用し、流す手法、悪評とか。

進化した、いまなら、そういうやり方。

497日本@名無史さん2017/10/08(日) 18:04:25.95
『天子神璽』

冤罪事件に関係している人物の名前が出てこない?
似ている名前

498日本@名無史さん2017/10/08(日) 18:14:12.57
悪く言うわけではないけど

某国は核、大量破壊兵器を作ったり、
隠し持ったりいるんじゃないか?

同じような感じがする

兵器の話ではないけど、
実際、そのようなものは、なかったという話もあるでしょ

499日本@名無史さん2017/10/08(日) 18:29:27.49
本当に古典的、下等人間の考えるようなやり方だよ

冤罪で地位や名声、財産・・・生命(死刑?)も奪う

廃嫡にも通じる

500日本@名無史さん2017/10/08(日) 19:28:32.52
>>495
おいおい、それって腐刑のことじゃんよ。日本では行われた記録なんてないんじゃないか?

501日本@名無史さん2017/10/08(日) 23:51:15.63
熊野宮と十津川宮は地元で一定の勢力を築いていた
一方で後南朝本拠地の北山御所では騒乱が相次いだ

502日本@名無史さん2017/10/09(月) 07:03:30.95
熊野も十津川も幕末には北朝朝廷のために滅私奉公してるんだよな。
幕末までに後南朝のかけらさえ消え去ったことは明白

503日本@名無史さん2017/10/09(月) 12:08:51.75
熊野にも十津川にも後南朝勢力はフィクション内以外には存在しない

504日本@名無史さん2017/10/09(月) 14:55:40.35
南朝を正統とする思想を突き詰めていくと、南北朝合一を認めないということになる。
したがって、後南朝皇胤の正統性を主張し、その何人かの皇族を天皇に擬する
ことになった。

505日本@名無史さん2017/10/09(月) 18:35:19.43
https://style.nikkei.com/article/DGXNASHC30015_R00C12A2000000
伝説の後南朝 神器巡る悲劇、今に伝える 朝拝式(奈良県川上村) 

今もこういう儀式が行われているのは面白い

506日本@名無史さん2017/10/09(月) 20:00:13.29
本当に途切れてないのか江戸時代後半に創作された偽物かは区別が難しいな

507日本@名無史さん2017/10/10(火) 14:59:21.17
>>505

あれ?
出席者が口にサカキの葉を加えるのは、
吐息が自天王の遺品にかからないようにするためなのか

赤松残党というよそ者を信じて味方へ引き入れてしまったことへの反省で、
秘密は口外しないぞという意味だと思ってた

508日本@名無史さん2017/10/10(火) 18:45:00.98
赤松がかつて南朝方だったことがある縁から、
それと幕府内で不遇な立場に置かれていることへの不満があるはずと言う点から、
うっかり信じてしまったのは仕方がないとも言えるんだが。

509日本@名無史さん2017/10/10(火) 21:17:13.62
赤松は反鎌倉幕府だったが、建武新政期に干されて以降、ずっと足利派だけど。
いつ南朝方だったの?

510日本@名無史さん2017/10/10(火) 21:23:26.85
赤松円心には子供が複数いて、そのうちの4男だったかがずっと南朝側。
兄貴たちは皆、北朝側で優遇されてるけどね。
この4男は、最後は播磨国で追い詰められて子供含めて全滅している。

511日本@名無史さん2017/10/10(火) 21:25:12.30
赤松氏範 でぐぐれ

512日本@名無史さん2017/10/10(火) 22:07:35.10
>>509
実は観応の擾乱で
一回だけ円心も南朝に寝返って
護良親王の息子を擁立したことがある

ただこれはやらせ説もある
近江の佐々木も同時期に南朝に通じて
謀反を企てたとして尊氏が近江へ、
そんで義詮は赤松を討つと称して播磨へ出陣
対立する直義だけが京都に残る形となったからだ

513日本@名無史さん2017/10/10(火) 23:00:14.46
>>510
後南朝から神器を奪還した赤松旧臣はずっと北朝方だった方の赤松だろ。
南朝方の赤松とは縁がないじゃん。

514日本@名無史さん2017/10/11(水) 05:41:59.61
>>513
馬鹿だろ お前
過去に同族が南朝側だった事があるから信用したという流れなんだが、スレの流れが読めんのか?

515日本@名無史さん2017/10/11(水) 07:07:41.61
>>514
そんなん言ったら、足利家含めてどの武家も全部信用できることになるじゃん。
武家内部の家督争いとかで不利になった方が南朝に(一時的に)つくのがスタンダードだったんだから、
一族内でだれも南朝についたことの無い家なんて、ほとんど無いだろ。
で、残ってるのは南朝方にならなかった方、もしくはいったん南朝に付いたが北朝に帰順した方。赤松も一緒。
赤松だけ特別扱いする理由にならん。

516日本@名無史さん2017/10/11(水) 07:30:31.79
>>507

自天王(もしくは忠義王)の子孫が本当は村にいるけど、
村人や郷士たちが「外の者はもう信用できぬ」ということで、
頑なに箝口令を発して現在に至るまでひた隠しにしていたとしたら面白いな


ミステリー小説の題材になれそうw

517日本@名無史さん2017/10/11(水) 20:37:23.64
>>515
やっぱりスレの流れが読めないんだな 可哀想に
何故、赤松を信用したかの話になってたから補足情報を書き込んだ人がいただけ
それに噛みついて、あげくに「他の武家も同じだー!!」って騒いで、みっともないと思わないのかね

518日本@名無史さん2017/10/11(水) 21:28:59.92
南朝も、後南朝に至ってはもっとそうだが、
自前の兵力だけでは足利を破って北朝を廃して天下を取り返すのは無理だとわかっている
だからかつての敵である北条得宗家の残党でも、
足利尊氏の弟でも息子でも、
南朝に味方したいと申し出る者には、すぐさま迎え入れて味方にせざるを得なかったんだよ
赤松残党を後南朝が信用した背景には、そうした歴史的経緯があったからだと考える必要がある

519日本@名無史さん2017/10/11(水) 23:14:20.46
いや、別に南朝が赤松残党を信じたのは史実なんだから別に異論はないんだが、
その理由を赤松は「南朝だったから」、といわれると、何言ってんの?としか感じないんだが。
南北朝騒乱は敵味方が頻繁に入れ替わる戦乱なのに、赤松に裏切られたから○○の儀式がある、
とか言われても、裏切られるたびに儀式してたら、365日儀式で埋まるんじゃね?としか思えん。

520日本@名無史さん2017/10/11(水) 23:18:04.45
赤松氏がツテを持ってたのは南朝そのものじゃなくて北畠氏だったかも
うろ覚えですまんね

521日本@名無史さん2017/10/12(木) 06:48:04.04
>>519
やっぱり文脈が読めてないじゃん(笑)

522日本@名無史さん2017/10/12(木) 06:51:25.97
>>519
赤松に裏切られたから宮が殺されて、宮を弔うためにあの儀式ができた。
それは事実。
それまで否定するとは頭が残念な人だね。

523日本@名無史さん2017/10/12(木) 07:25:42.08
>>522
違うだろ。
「赤松に裏切られたから宮が殺されて、宮を弔うためにあの儀式ができた。」と主張してるんだろ。
南朝の宮が殺された事件なんてゴロゴロしてるのに、この件だけ儀式を作ってるのはおかしい。
他の起源の儀式を、後世になってこじつけたんじゃないのか?

524日本@名無史さん2017/10/12(木) 14:40:52.74
自天王はただの宮じゃなくて南朝の「天子」だ
意義が異なる

だからこそ三種の神器の一つを持っていたし、
それを奪還した赤松氏のお家再興を幕府が認めたんだよ
ただの南朝の宮を斬っただけでは、将軍を討った大逆の罪は消えないよ

525日本@名無史さん2017/10/12(木) 15:21:55.24
赤松再興を狙う細川が神器奪還と賊の討滅を命じてお家再興を提案約束したんだろ

526日本@名無史さん2017/10/12(木) 18:36:27.50
>>523
全くダメだね 君は。
最近、本当に日本人かと疑わざるを得ないくらい言語能力が低い人がいるけど、そのたぐいだね。
根本的なところで間違ってる。

527日本@名無史さん2017/10/12(木) 21:20:32.04
何か1人だけムキになってるのがおる

528日本@名無史さん2017/10/12(木) 23:12:24.05
将軍を討って「お家取り潰し」になった罪を、
(後南朝とはいえ)天子を討つことで「お家再興」となる

赤松家もすごいというか何というか

>>525
それはそうだが、この時期の細川は明応の政変後の細川とは違って、
将軍家の権威を大きく軽んじたり、他の守護大名らが眉をひそめるような
無謀な政務は出来ない
「後南朝の天子を討ち取る、三種の神器の一つを奪還する」功績ならば、
将軍を討った謀反人の家でも再興できるという「共通理解」が、
将軍家、幕府の重臣、有力守護大名らにもあったということは重要

529日本@名無史さん2017/10/13(金) 00:52:13.59
共通理解とまではいかないだろうが、再興に反対しにくいほどの大きな手柄と思われるレベルではあったんだろうな

そこらの守護一人程度の叛乱よりは危険視されるレベルの重大事件だったんだろうな。


じゃなくてな、派閥人事の一環として、かつて細川閥にいた赤松を再興させたら派閥の面で助かると思ってそそのかしたんじゃないかって言っただけで。
派閥問題溶かなかったら赤松には声かけてないんじゃないかと。

530日本@名無史さん2017/10/14(土) 09:30:01.88
赤松による強襲がなかったら、後南朝の正統はこの後も続いたことだろう。
無事に江戸時代まで存続できたら、5000石くらいで、将軍の客卿のような
地位を得たのではないか?
そして、やがて水戸藩によって、高く顕彰される日が来たことだろう。

531日本@名無史さん2017/10/14(土) 09:54:05.32
本来なら大和国の守護である畠山氏が自天王を捕えて、
隠岐か佐渡へ流すべきだったと思うんだがな


何で守護や幕府の正規軍が自天王確保に動かなかったのか謎である

532日本@名無史さん2017/10/14(土) 12:12:38.37
畠山氏は自分ちのお家騒動に夢中で後南朝ごときに構う余裕などなかったから仕方ないな
嘉吉以来の、このあとも戦国時代初期まで続く長い紛争だ。

533日本@名無史さん2017/10/15(日) 12:19:19.49
守護大名たちは後南朝を討伐する余裕はなかった。
だから、後南朝が追手を逃れて生き延びる余地は十分にあった。
吉野朝廷だけでなく、関東とか九州に親王を派遣して、将軍府を作っておけば
仮に吉野朝廷の自天王が討たれても、誰かが生き残ることができた。

534日本@名無史さん2017/10/15(日) 18:08:32.39
応仁の頃から、後南朝の担ぎ出しを求める人が激減した
後南朝の支持者がいなくなったんだよ

535日本@名無史さん2017/10/20(金) 06:11:48.36
南朝の正統かどうかすら怪しいというのが実態
誰の血統なのかすら不明の山奥に潜む山賊で自称南朝の後胤
それが後南朝

536日本@名無史さん2017/10/20(金) 06:17:40.63
吉野や紀伊である程度の勢力をもった奴らが南朝の後胤を名乗っただけの可能性も大きい
実際良くある例だし

例えば戦国時代に木曽谷を支配していた木曽氏
木曽義仲の末裔と自称しているが最近の調査で元々は藤原氏の子孫を名乗っていたが
木曽谷で勢力を拡大してゆく過程で、木曽が生んだ英雄の木曽義仲の子孫を詐称したのが判明している
その地域を支配するのに都合が良いから詐称した訳だ

537日本@名無史さん2017/10/20(金) 21:37:02.25
>>535
後南朝蜂起で担ぎ上げられた皇族の大半は京都近郊の寺から連れ出されて担ぎ上げられていて、
少なくとも当時の関係者の間では系統不明ではなかったんじゃなかったかな

応仁の乱の時に出てきた南方の宮が京都以外で担ぎ上げられた最初で最後だと思う。たしか紀伊あたりで出てきたんだっけ?

538日本@名無史さん2017/10/20(金) 23:08:51.10
>>537
その寺に入っていた宮がそもそも誰の子どもかよくわかってないだろ。
自称皇胤で世間もそのように扱ってるけど。

539日本@名無史さん2017/10/20(金) 23:51:23.93
当時の関係者は知ってたけど特に記録に残さなかったから分からなくなった、程度だろ

関係が薄い立場の人しか日記に記録を残してくれなかったから誰の子か分からんだけだと思うが

540日本@名無史さん2017/10/21(土) 07:31:36.89
時々このとんでも主張の「後南朝の皇子は京都に住んでていつでも抜け出せた説」を書く奴がいるけどありえないだろ。
寺に入れるのは南朝の皇統を断絶させるためだぜ。
簡単に抜け出せる訳がないし、子供を残す可能性が出るから女との接触すら難しかっただろ。
どう考えたらホイホイと抜け出せるんだよ。
しかもそういう事件があったら当時の人の日記とかに出てくるだろ。
たしか記録に残ってる南朝の皇子が寺から逃げ出して行方不明ってのは1件だけ。
レアケースって事だ。

541日本@名無史さん2017/10/21(土) 07:34:28.31
ポエマーの脳内では京の都に行くと南朝皇子に簡単に会えて、話せて、一緒にどこかに行けるのだろう。
当時の会いに行けるアイドルって感じ?

542日本@名無史さん2017/10/21(土) 08:23:36.26
南朝はまがりなりにも数十年続いたから、地盤や支持者を持っている。
合一後もすべての皇胤が出家したのではなく、支持者のもとに残った
者もいた。そのような者たちが支持者とともに蜂起したり、帝位に
祭り上げられたりしたということだろう。
そのような動きは、少なくとも応仁の乱のころまで続いたということだ。

543日本@名無史さん2017/10/21(土) 08:31:07.45
>>534

享徳の乱で古河公方が後南朝を擁立してたら大変だったなw
足利成氏が、後南朝の天皇から征夷大将軍に任命してもらって幕府を開いてもおかしくなかった
だって成氏は乱が起きてから、幕府と朝廷(北朝)が決めた新年号は使わずに旧年号を使い続けていたので

544日本@名無史さん2017/10/21(土) 08:32:41.18
>>540
牛若丸も鞍馬寺から逃げ出したがな
牢獄ではないので、逃げ出す先に生活できる確かな場所があれば逃げ出せるのでは

545日本@名無史さん2017/10/21(土) 12:09:58.82
>>541
反乱軍が何十人とか百何十人とかの軍勢で押し掛けて宮を拉致してるんじゃないの

546日本@名無史さん2017/10/22(日) 06:53:43.98
>>542
そういう者がいたとしても正当にXXの子とか名乗るだろ?
小倉宮と名乗る時点で怪しさ十分

547日本@名無史さん2017/10/22(日) 06:54:30.91
>>545
それこそ記録に残るだろ

548日本@名無史さん2017/10/22(日) 06:56:45.54
>>544
牛若丸どうこうを言い出す必要はない
当時の南朝皇子が逃げて行方不明になった記録はわずかだがあるのだから

ただ、ポエマーが主張するように「いつでも逃げ出せる」状況とは違うだろ

549名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 07:48:02.92
山名宗全ら西軍の諸侯が南帝の血統自体は疑っていなかったし、
東軍の諸侯も南帝の血統を批判していないので、
血統は当時の上流階級からみれば疑う余地はなかったのだろう

それに禁闕の変は日野有光や楠木正秀も後南朝軍に加わっているから、
ただの山賊とは考えにくい

550名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 07:50:01.59
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ

>>549
その後の西陣南帝の扱い見ればわかるだろ

当時から胡散臭いと思われていた
ただ、使えそうな神輿とも見られていた

実際には大して使えなかったので「使えねーな コイツ」と打ち捨てられた

本当に小倉宮の子孫なら伊勢の北畠家あたりが保護しててもおかしくないが
西陣南帝は、かつての南朝支持者たちからも見捨てられている
やはり出自が怪しいのだろう

553名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 09:26:10.90
出自が本当に怪しいなら見捨てられるのではなく、処刑されるのでは?

554名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 09:28:52.45
(東)幕府に合流するために西陣南帝が邪魔だから見捨てたのだろう
西陣南帝の血統を疑うことを指摘する史料はない

西陣南帝の血統を証明する史料もないけどな

>>549
個人的には自天王までは正しい南朝の血筋だろうとは思う
楠木らが命がけで奪い取った神璽を持ってたんだから

西陣南帝が神器をひとつでも持っていたという説は許容されていない

本当にひとつでも持っていたなな放逐されることなく処断されていたことに疑いの余地がないので、もっていなかったと考えるべき。

持ってたのは自天王だろ

小倉宮教尊の墓は、隠岐島にある。
小倉宮はここで絶えている。

西陣南帝は小倉宮を名乗ったのが致命傷になった。

自天王が元から神器をもっていたという史実はない

ただ、禁闕の変で奪った神器が後南朝に持ち込まれた頃に後南朝の一員として活動していたっぽいだけだろ

561名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 17:56:21.60
禁闕の変を起こしたのは後南朝なのに、
持ち込まれたも何もない

562日本@名無史さん2017/10/22(日) 20:50:20.06
「大日本は神国なり!」by 北畠親房

東北地方の南北朝での主な勢力

【南朝方】
南部師行・工藤氏・伊達氏・北畠氏・大江氏・結城氏・多田氏、小国氏、菊池氏・山家氏・その他多数

【北朝方】
南部政長・曽我氏・浅利氏・安東氏・斯波氏・吉良氏・石塔氏・相馬氏・畠山氏・芦名氏・国魂氏・伊賀氏・その他多数

楠木正成、新田義貞、同様に東北方々にも感謝しようではないか。

敵だった足利尊氏も、南北朝後に足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈り、
建武の新政をめぐる戦乱で没した人々の零を慰めるために全国66ヶ国に曹洞宗系の「安国時」を設立した。

「我が日本は一つ!」

それぞれ南朝びいき、北朝びいきはおりますが、共に手を携えましょう!

                            以上

563日本@名無史さん2017/10/28(土) 10:39:19.25
西陣南帝の血統が疑われたから放逐されたのではなく、旗印としての価値が
あまりなかったから放逐されたということだ。
小倉宮系であるかは確証はないが、後南朝後裔であるのは間違いなかっただろう。

山名持豊がいったんは西陣南帝を推戴しようとした、しかし、間もなく無価値と
見なされて放逐されたということは、応仁の乱当時は、後南朝の価値を認める
人ともう認めない人が混在した時代だったということを意味する。

564日本@名無史さん2017/10/28(土) 21:35:29.74
それ以後には担ぎ出されなくなったことの原因としてなら価値の低下を持ち出すのが正しいけど、
放逐された原因自体について言うなら、価値の低下よりデメリット増大の方が大きいだろ

価値はあるがデメリットも大きいから放逐されたのであって、価値が全くなくなったとは言えないと思うのだが。

565日本@名無史さん2017/10/29(日) 20:52:36.73
価値があると思って担いだが価値は無かったって事。
担げば旧南朝勢力が味方に付くかと思ったがそうでもなく、使えねーなと見なされたのだろう。
価値があるなら放逐された後でも誰がか拾い保護するはず。
それも無いからな。
わずかな記録からも、たらい回しにされたてたのが読み取れるし。

566日本@名無史さん2017/10/29(日) 21:23:57.12
それでも拾うヤツがいるからたらい回しが成立するんじゃないの

足利義昭だってたらい回しの末に将軍になったじゃんか


西陣南帝の場合、宗全以外の西軍幹部たち、足利義視に管領の斯波義廉、次期管領の畠山義就らが利害関係の都合からか揃って反対したのが大きい
価値がなくなったからとは言えない状況が見える

567日本@名無史さん2017/10/30(月) 06:01:51.72
いらないから押し付け合いで、たらい回しになったと思うよ
いるから拾ったんじゃないでしょ

568日本@名無史さん2017/10/30(月) 07:09:39.33
最初はいると思って引き込んだんだろ。
もう南朝の時代じゃないと気がついていなかったんだな

569日本@名無史さん2017/11/02(木) 05:13:27.46
両親が死んで子供だけが残されて、厄介者扱いされて親戚中の家をたらい回しにされる感じ
最後は行方不明

570日本@名無史さん2017/11/03(金) 17:50:21.02
朝廷の管理下にある北朝の皇族より、後南朝皇胤の西陣南帝のほうが担ぎ出し
やすかったのではないか?
だから、山名宗全は西陣南帝を担いだし、担ぐだけの価値はあると、宗全自身は
考えたのだろう。他の諸将が反対したのは、政治的な思惑による。
西陣南帝自体を無価値と考えたわけではない。

571日本@名無史さん2017/11/03(金) 23:34:44.31
足利尊氏ですら北朝の天皇を擁立しておいて、
弟直義を逆賊にするために北朝を廃して南朝方にあっさり転身したほどだ
そして用が済めば北朝を再擁立して南朝から離反

西陣南帝もその延長線上に気楽に考えればいい
東軍が占拠している御所に天皇と上皇がいるから、
西軍も「天皇」に準じる帝を擁立して大義名分を少しでも得ようとしただけだ

ただ西軍は討幕を志向していたわけではなく、
南朝再興、まして公家一統の再興を志向していたわけではない
きっと西軍が勝っても、西陣南帝は追放されていただろう
そもそも西軍が本気で新たな「朝廷」を作ろうとしていた気配はなく、
山名や大内らが好き勝手に官位に任官したり、独自の年号を作った形跡もない

572日本@名無史さん2017/11/22(水) 21:57:57.28
今も南朝の子孫はどこかにいるの?

573日本@名無史さん2017/11/22(水) 22:44:47.59
南朝側にいた武士の子孫は大抵存続してるはず
貴族や皇族は消息不明で、要するに滅亡してる

574日本@名無史さん2017/11/23(木) 10:36:17.68
応仁の乱以後は、室町幕府や守護大名たちの政治闘争が変質し、もはや後南朝皇胤をかつぐ
需要もなくなってしまったということだろうな。
だから、後南朝皇胤が史料に登場することも少なくなり、いつしかどこへ行ったか消息不明
になってしまった。

575日本@名無史さん2017/11/25(土) 09:33:39.18
西軍を追われた後の西陣南帝はどこで、どのように暮らしていたのだろうか?
わずかな廷臣や女官たちと御所を構えて、戦局を見守りながら再起をねらって
いたのだろうか?

576日本@名無史さん2017/11/25(土) 09:41:25.92
>>575
南朝の武将として活躍していた伊勢の北畠、肥後の菊地や、
それこそ今の大河ドラマの遠州の井伊が生活の面倒ぐらいみてれば
資料に出てくるのだが残念だ

577日本@名無史さん2017/11/25(土) 11:55:15.22
名和長年の直系のかたにこの間会ったよ

578日本@名無史さん2017/11/25(土) 12:18:03.24
木っ端の公家でも流浪したら面倒見てくれる大名がいたのに、
後南朝の皇胤たちは公家より不人気だったわけだよな
どんだけ不人気になってたのかと。

スポンサーもないなら女官とか採用できるはずもなし

579日本@名無史さん2017/11/25(土) 12:19:39.12
>>577
戦国時代ごろになると熊本らへんに名和の子孫が見えたりするね
南朝の衰退の際に、菊池か誰かを頼っていったのかな?

580日本@名無史さん2017/11/25(土) 13:03:07.70
親戚の家の近くに長慶天皇の墓があるというお寺があるよ
確証はないらしいけどね
その親戚は太平記にも登場する新田一族の末裔

581日本@名無史さん2017/11/25(土) 13:09:06.42
新田の長慶寺か

582日本@名無史さん2017/11/25(土) 13:14:36.58
そうです

583日本@名無史さん2017/11/27(月) 06:31:26.37
先祖の言い伝えなんて、捏造が多いから信用できないけどな

584日本@名無史さん2017/11/29(水) 08:54:36.51
>>579
詳細は聞けなかったけど
今でも南朝系の祭祀を奉っているそうだよ
それ以外は普通に生活されてるね

585日本@名無史さん2017/12/02(土) 12:38:00.76
大内とか今川など学問好きの大名は、京都を追われたり、没落した公家をかくまって
「小京都」を作り、和歌や清談を楽しんでいた。
西陣南帝もそのような大名の食客になっていれば、記録が残って後半生も分かった
のに惜しいことだ。

586日本@名無史さん2017/12/02(土) 13:39:23.37
大内にしろ今川にしろ、それぞれの需要/目的があって公家をかくまっただけだぞ。学問好きという特殊性があったからじゃない。

まあ、学問好きではなかったとも言えないがな


で、その目的には後南朝皇胤は不適合だから、まず歓待しなかっただろうよ

587日本@名無史さん2017/12/02(土) 18:30:12.37
西陣南帝は自称:南朝皇胤にすぎん
小倉宮は断絶してるのに、その後胤と名乗ったのが致命傷になったのだろう

588日本@名無史さん2017/12/02(土) 20:57:28.08
>>585
公家を保護するのは趣味だけでやってることじゃなくて、京都とのコネを維持するのが目的だからな。
南朝後胤なんぞ保護してたら、朝廷からも幕府からも敵視されていいことがなんにもない。

589日本@名無史さん2017/12/05(火) 23:56:30.02
>>592
断絶したと何で言い切れるの?

590日本@名無史さん2017/12/06(水) 08:09:05.59
>>592
はやく答えろよwww

591日本@名無史さん2017/12/06(水) 11:06:51.78
子孫が現存しない以上は、断絶と言われても仕方ない。

592日本@名無史さん2017/12/06(水) 18:41:29.72
断絶って子孫が存在しないことだろ、言われてもしかたないとかじゃなくてイコールじゃん

593日本@名無史さん2017/12/08(金) 05:44:17.73
断絶していないという奴は、子孫を出せ
思い込みの自称子孫ではなく、史学的証拠がある子孫な

5945902017/12/08(金) 07:02:14.60
>>592殿、お美事にございます

595日本@名無史さん2017/12/09(土) 11:10:30.71
西陣南帝の皇子はいた可能性は高いだろう
だが、西陣南帝ご自身が失脚して潜伏したため、皇子も表舞台に出なかった
可能性が高い

596日本@名無史さん2017/12/10(日) 08:46:48.55
単なる思い込みだな

597日本@名無史さん2017/12/16(土) 07:54:46.83
西陣南帝の皇子は寺に入れられたのではないか?
住職をしながら父の西陣南帝のように擁立される機会を伺ったが、かなわなかった

598日本@名無史さん2017/12/16(土) 12:08:28.38
伊勢北畠と浪岡北畠が後南朝皇胤をそれぞれ擁立して、一種の食客のように
かくまっていれば、戦国時代なかばくらいまでは、後南朝が続いた可能性はあった
そこまで続けば、後は信長や秀吉に小さな領地をもらって、存続できたかも知れない

599日本@名無史さん2017/12/17(日) 05:08:58.99
小倉宮は断絶してるのに、その後胤と名乗ったから旧南朝系の北畠なども保護しなかった

600日本@名無史さん2017/12/17(日) 08:53:12.40
断絶したとどこの史料に書いてるの?

601日本@名無史さん2017/12/17(日) 10:19:47.39
浪岡北畠は眉唾だろ

現地の有力武士が北畠後胤を詐称しただけだと思う

602日本@名無史さん2017/12/19(火) 20:56:14.02
断絶してないとどこの史料に書いてるの?

603日本@名無史さん2017/12/19(火) 21:00:30.36
小倉宮は、教尊が禁闕の変の同調者として捕らえられ隠岐島に配流され、その地で没した。
隠岐島には教尊の墓もある。
そこで終了だよ。

604日本@名無史さん2017/12/20(水) 12:26:08.60
>>602
大乗院寺社雑事記に出てくる「小倉宮御末、岡崎前門主御息」の西方新主
これが詐称と証明できない限り、史料上は小倉宮家が存続していたということ

605日本@名無史さん2017/12/21(木) 06:10:58.35
>>604
あれは当時の噂を書いただけで、それが史実かどうかは証明されてないよ
そんな事は常識でしょ

「秀頼を連れて真田が鹿児島に行った」という当時の噂を書いた書物と同じ
あれも史実とされてないでしょ?

606日本@名無史さん2017/12/21(木) 12:14:10.47
伝聞(噂を記した部分)は文末が「と云々」などと、伝聞とわかるように書いてあるんだよな

この部分を削除して紹介するのは文意捏造みたいなもんだ

607日本@名無史さん2017/12/21(木) 16:04:25.17
南朝皇胤をわざわざ詐称するメリットって何?

608日本@名無史さん2017/12/23(土) 07:37:48.02
詐称するなら、北朝の有力な宮家を名乗るだろう。そのほうがメリットが大きい。
わざわざ後南朝皇胤を名乗ったということは、それが事実だったからと考えるのが
合理的だ。当時はまだ後南朝皇胤が残っていてもおかしくはない。

609日本@名無史さん2018/01/02(火) 19:37:55.95
自天皇(出羽王)の子孫はどこへ?

610日本@名無史さん2018/01/02(火) 21:59:14.94
自天王=出羽王なのか?

611subo2018/01/02(火) 22:32:01.71
自天王の子孫は織田信長なんですよ

612日本@名無史さん2018/01/03(水) 20:31:29.75
>>608
逆だろ。北朝後胤なんて一発で嘘だとばれるやん。大名家なら京都と何らかのパイプ持ってるんだから。
南朝後胤です、って嘘はそれが嘘だと証明する人がいないからばれない。

613日本@名無史さん2018/01/03(水) 22:42:48.33
北畠家は清華と書かれてることがあるが
北畠家は初代より権大納言が極官だろ?
そもそも中院家の庶流だし、何をもって清華なのか?
南朝で清華だったの?

614日本@名無史さん2018/01/04(木) 06:08:51.60
南朝、後南朝に仕えて貢献したから家格が上がったのだろう
北朝だったら半家止まりだった公家でも、後南朝に出仕したため
清華家クラスにまで昇った者は多い

615日本@名無史さん2018/01/04(木) 14:55:15.83
つても、南朝に仕えた貴族らの大多数は南北合一に伴って凋落したけどな。
なんせ北朝側に居場所がない、働く役職がないんだから。

南朝側で得ていた格式のすべてを失うのが普通だった。

616日本@名無史さん2018/01/05(金) 21:13:12.86
>>614
南朝における家格ってどんな感じだったんですか?

半家で清華になるとかありがたみないよね
半家と名家って1度地下家に落ちてから成り上がった家だろ
先祖代々堂上であり続けた家は落ちぶれても羽林家だし

617日本@名無史さん2018/01/06(土) 00:34:35.40
>北畠家は清華と書かれてることがあるが
何に書いてあるのか知らんが、南朝では右大臣や近衛大将を
歴任した例があるから、家格で言えば清華家に当たるのかも。

618日本@名無史さん2018/01/07(日) 13:08:13.07
後南朝は天皇親政だったから、摂関は置かなかったんだよな
だから、摂家はなくて、清華家が最高の家格になる

619日本@名無史さん2018/01/07(日) 14:19:23.38
後南朝の時期は北畠も既に幕府側に付いてただろ

620日本@名無史さん2018/01/07(日) 15:09:35.90
北畠満雅なら後南朝の小倉宮を擁立して挙兵したことはある

621日本@名無史さん2018/01/13(土) 09:08:03.74
後南朝が続いていれば、南朝側に着いた公家たちはその家格を守ることができた
そもまま明治維新にまでなだれ込んでいれば、後南朝華族のようなものになって
爵位をもらうこともできていた

622日本@名無史さん2018/01/13(土) 18:39:37.26
それはない

南北合一の時点で南方の公家たちは帰る先がなくて宙ぶらりん、無職のプー太郎になってて収入源すらないから。
後南朝は散発的に蜂起するだけで、そこには旧南方の公家らが帰参する余地もなかったし、「南朝」じゃなく「後南朝」って時点で公家らは終わってるよ

ポエマーさんの話はだいたい後南朝じゃなく南朝でしか通用しなかった話をしてるんだよね。後南朝の時点ではそういうのは終わったあとなんだよ

623日本@名無史さん2018/01/13(土) 19:06:37.68
>>618
南朝にも関白はあった
後村上天皇の時の関白は二条師基
後村上天皇の正后と伝えられる嘉喜門院は二条師基の猶子
また南北朝合一の時にも南朝の関白「近衛殿」が出て来る
もともと北朝の関白だった近衛経忠が南朝へ走り
その子近衛経家も南朝に走ったため経家の子か孫だと言われている

624日本@名無史さん2018/01/17(水) 06:12:50.74
>>608
それは君の思い込みに過ぎない
詐称した理由はさまざまであり、当事者でないと解らない

625日本@名無史さん2018/01/17(水) 06:15:30.99
南朝系の詐称は難易度が低い
何故なら子孫にクレームを付けられることが無いから

実際、家系の詐称はあらゆるところで行われているが滅亡大名の子孫を詐称するのが多い(在日とか)
子孫がいないので文句を付けられないからという理由が多い

626日本@名無史さん2018/01/17(水) 06:19:16.38
南朝系の公家は絶滅
小倉宮ですら伊勢で北畠に担がれて反乱おこし敗れて京に戻った後は、生活に困窮し餓死寸前だった

627日本@名無史さん2018/01/17(水) 19:07:40.94
討伐された○○の宮が京から潜伏場所の××まで逝く道中の逗留時に、宮をもてなした現地豪族の娘と一夜のちぎりを云々、ご落胤が云々

みたいなホラ話をでっち上げて南朝皇胤を自称するのはハードル低かっただろ。信憑性が乏しかっただけで。


地元民ですら信じないレベルの荒唐無稽なホラ話ぐらいしか南朝皇胤の話題がない。それほどにまで信憑性がなかったんだよ

628日本@名無史さん2018/01/20(土) 09:07:16.83
南朝方の公家は、自分の地位を保全するためにも、南朝の皇統を守り抜くべきだった
それにもかかわらず、南朝皇胤の血統すら不明確な状態にしてしまったため、
自分たちも生活に困るようになった

629日本@名無史さん2018/01/20(土) 10:44:37.39
ttps://www.yamatobito.net/tour/0204kawakami/
朝拝式の前日に後南朝史跡ツアーやるってよ

630日本@名無史さん2018/01/20(土) 13:48:45.69
>>628
馬鹿か
生活出来ないから南朝公家は消滅したの
自分たちの生活すら守れない状態では、皇統がどうこうどころではない
それ以前の問題だ

631日本@名無史さん2018/01/21(日) 08:13:34.24
後南朝史跡ツアー、楽しそうだな
ブームになれば、「後南朝女子」とかが出てきて、史跡の写真をインスタに
上げて、友達に自慢するようになるかも知れない

632日本@名無史さん2018/01/21(日) 13:00:22.86
女子の間では、聖承とか教尊が人気が出そうだな

633日本@名無史さん2018/01/22(月) 15:29:24.27
これで吉野の怨念も浄化されるな

634日本@名無史さん2018/01/22(月) 15:34:48.65
>>632
なんか耽美系とかBLとかに向いた良さげな名前だし、
腐った系の女子たちに人気が出る可能性はあるな

635日本@名無史さん2018/01/22(月) 19:55:31.47

636日本@名無史さん2018/01/24(水) 16:03:38.87
>>628
発送の転換、生活の転換が出来ていればねえ

草刈りとか薪取り、薪割り、猪刈り、熊退治そういう事を職能にすれば生活も出来るし、軍事訓練にもなった。
指輪物語に出てくる森のエルフみたいな神秘的で格好良い存在になれたのに

637日本@名無史さん2018/01/24(水) 18:31:14.06
特定の職能、家職を保持する家系は貴族とか公家ではなく官人っていうんだよ。これが南朝方にはほとんどいなかったわけでな

638日本@名無史さん2018/01/25(木) 16:25:38.37
普段から熊と戦い剛力を養い
猪を訓練して騎乗していれば
守護大名の軍勢なんか恐るるに足らんかったろうに

639日本@名無史さん2018/01/27(土) 09:38:26.87
後南朝の朝廷には、実務を司る地下官人がいなかったため、行政機構としての
実態が伴わなかった。小槻氏のような実務官僚も参加していない。
だから、公家たちが煩瑣を厭わず自分でしなければいけなかったのだが、
結局しなかった

640日本@名無史さん2018/01/27(土) 11:19:48.02
南朝は独自に年号を制定しているから、菅原氏のような学者が参加して勘申者を
務めたのは間違いない
後亀山天皇以後は年号を制定していないから、もう学者はいなかったに違いない

641日本@名無史さん2018/01/27(土) 14:28:09.35
>>639
参考になるお話です
ありがとうございます

642日本@名無史さん2018/01/27(土) 15:07:30.33
後南朝どころか南朝の時点で官人がいないんだがな
だから年号制定程度はできるけど暦をつくって頒布する力がない
つかそもそも行政機構自体がない

643日本@名無史さん2018/01/27(土) 17:19:12.56
>>642
暦博士は平将門の王朝にもいなかったらしい。

644日本@名無史さん2018/01/27(土) 17:30:55.54
将門の集めた百官は、軍記ものでは暦博士以外みんな集めたように書いてるけど、
実際は半分ぐらいしかそろえられなかったみたいだね

そんなにレアだった暦の専門家も、戦国時代ごろになると
朝廷以外に属する在野の専門家があらわれたりしたらしい

645日本@名無史さん2018/01/27(土) 17:45:19.44
>>644
戦国時代じゃないから南朝にはいなかったかもな。

646日本@名無史さん2018/01/27(土) 21:37:05.57
南朝には(暦博士も含めて)官人がほとんどいなかった、これは間違いない。
後南朝になると、ほとんどどころか全くいなかった。

647日本@名無史さん2018/01/29(月) 13:33:25.27
後南朝なんて、山賊レベルの勢力だからな。

648日本@名無史さん2018/01/29(月) 20:37:54.16
>>647
熊を退治して
熊の肝を売れば財源には事欠かなかったと思いますよ!

649日本@名無史さん2018/01/30(火) 13:50:10.85
日本史より謎な金儲けできる方法とか
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650日本@名無史さん2018/02/03(土) 07:06:08.76
後南朝は国衙領や荘園からの収入が見込めなかったから、狩猟・採集などに
よって生計を立てるしかなかった
熊退治もその一環と言えるかも知れない

651日本@名無史さん2018/02/03(土) 11:24:05.74
南朝の大覚寺党の荘園は後南朝に引き継がれなかったんだよな
それでは誰もついてこないわな

652日本@名無史さん2018/02/03(土) 14:50:24.66
収入がない状態で、後南朝の南帝の食膳には、どのような大御食を奉ったのだろうか?
近侍の武者やわずかばかりの官人が吉野の山中で仕留めた鳥獣の肉が献上されたのか?

653日本@名無史さん2018/02/03(土) 20:34:51.59
当時の天皇は鳥肉しか食べられなかったのに、
南朝の天皇は四足獣肉を憚らずに食べたため
神慮に違って没落したと『海人藻芥』に書いてある

654日本@名無史さん2018/02/03(土) 23:22:20.36
南朝も後南朝も吉野の影響で修験者みたいな天皇や皇子が多いね(たまたま肖像画がそういう描き方してるだけかもしれないが)
当時の京都の洗練された支配層からは、南朝系の人達は野人の類に見えたのでは無いかと思う。

655日本@名無史さん2018/02/03(土) 23:47:48.76
>>642
でも南朝を摂津の住吉大社が支援していた
行政実務や祭礼で協力を得ていたのでは?

656日本@名無史さん2018/02/04(日) 01:12:21.11
でもそれ官人じゃないし

657日本@名無史さん2018/02/04(日) 08:24:06.07
>>656
五条家みたいな事務官僚のエキスパートがこぞって懷良についていってるしね。

658日本@名無史さん2018/02/06(火) 00:02:10.29
朝拝式見学した人ルポよろ

659日本@名無史さん2018/02/07(水) 06:06:29.05
朝拝式自体が捏造でしょ
何もしてなかったのに途中から始めたんでしょ

660日本@名無史さん2018/02/07(水) 19:44:22.84
>>659
なんだかね
元は狩りで熊とか猪とか
そういう大物が取れた事を
山の神様に感謝する儀式のようだね

661日本@名無史さん2018/02/10(土) 09:55:28.09
古くからあった土俗的な祭事が、後南朝によって宮中の祭祀に取り込まれたり、
南帝が崩御したときの葬礼と結びついたりして、現在の形に変化したのではないか?

662日本@名無史さん2018/02/10(土) 13:51:55.85
>>661
室町時代後半から戦国時代頃は南朝系祭祀を続ける動機がなかった時代だが、江戸時代後半に入ると捏造してでも南朝系祭祀を行う動機があったからなあ
その頃(または明治後期から大正頃)に創作された可能性はかなり高いだろうよ

663日本@名無史さん2018/02/10(土) 19:06:38.14
史料上は18世紀前半まで遡れるんじゃなかったか

664日本@名無史さん2018/02/11(日) 08:41:13.37
後南朝を専門としている研究者は、フィールドワークなども駆使して、朝拝式の
研究をしてほしい。ゼミ生たちを引率して現地に入って、朝拝式に実際に参列して
みるのも効果的ではないか?

665日本@名無史さん2018/02/11(日) 14:49:05.89
18世紀初頭でも創作の可能性は十分に高いぞ

666日本@名無史さん2018/02/12(月) 16:44:26.61
>>663
1700年代って天下が太平になって、儒学が浸透した後だからな。

667日本@名無史さん2018/02/12(月) 18:17:52.16
各地の神社で由緒やら来歴の偽作創作が行われだしたのも、だいたいその辺の時代だよな

668日本@名無史さん2018/02/17(土) 08:17:07.93
後南朝の研究は、歴史的事実の究明も大切だが、なぜそのようなイデオロギーが
成立したのか、どのような経緯で成立したのかという、精神史・思想史の究明
という意味がある

669日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:51:45.02
北条早雲によって相模に送られた西陣南帝の末裔が相模の熊沢家

670日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:53:25.89
ちなみに遠州には、木寺宮の末裔の木宮氏がいて、現地常葉学園の学長などやっている。

671日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:53:15.96
後南朝って地方の修験者が箔をつける為に
京都の門跡の真似をして南朝の没落子孫を
担いだだけじゃないの?

比叡山延暦寺や仁和寺御室のような高貴な
箔を付けたかったという事じゃないのかね。

あの一向宗ですら皇族や公家から門首の嫁を
迎えている時代だから、修験が門跡を求めて
も不思議ではない。

672日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:51:02.27
>>669
いや、それ西陣南帝の後胤かどうかすら解らんのだが
あくまで当時の噂話を書き留めてるだけだし
それも王と書かれてるだけで、どこの誰かは不明なままだし

673日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:54:08.90
>>670
それ自称な
木寺宮の子孫は一次資料では確認できていないよ

674日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:21:04.97
>>671
西陣南帝はその可能性なきにしもあらずだが、
小倉宮や金蔵主、自天王は北畠氏、日野氏、楠氏が擁立していたから
本物の血統だと思われ

675日本@名無史さん2018/02/18(日) 08:02:17.13
名古屋の熊沢家は相模の熊沢家と先祖名が共通しているので、おそらく同族
どちらも数百家と繁栄している。
木宮家は遠州に20家ばかり、宮崎にも同姓の家があるが同族かどうか不明

676日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:51:04.55
>>669
杜氏やってるよな

677日本@名無史さん2018/02/24(土) 10:37:38.72
本人の意識では皇族でも、中央貴族たちと疎遠になり、朝廷から親王宣下や官位を
授かっていなければ、周囲の人から見れば「本当に皇族かどうかわからない」
状態になっただろう。
後南朝の末裔が、「王」と称しているだけの真偽不明の情報になるのは、
そのためではないか?

678日本@名無史さん2018/02/25(日) 07:24:18.28
>>677
いや、そもそも後南朝の末裔かどうかすら不明
そういう記述は当時の文献にはないから

王=異国の王の可能性もあるよ 朝鮮とか琉球とかね

679日本@名無史さん2018/03/03(土) 09:13:00.26
西陣南帝とか出羽王を最後に、後南朝の消息はわからなくなったな
その後は、美作後南朝が出現するまで不明になっている

680日本@名無史さん2018/03/03(土) 09:25:05.02
美作南朝は創作物だってのに

681日本@名無史さん2018/03/03(土) 09:27:55.43
熊野に逃れた信雅王もいるぞ

682日本@名無史さん2018/03/03(土) 10:25:59.66
明応の政変で失脚した前将軍足利義材が、越中や周防で仮の幕府を開いて公方と
名乗っていたが、この時に後南朝の宮を天皇として擁立して、征夷大将軍に任命
してもらって、都にいる将軍足利義澄や細川政元に対抗するという図式がありえた
と思うが、それをしなかった

もはや北朝の天皇に正当性が認められていて、
別の天皇を擁立する余地がない「風潮」だったのだろう

683日本@名無史さん2018/03/03(土) 12:54:27.80
もうその頃には擁立するメリットよりデメリットの方が上回ってたんだろうな

権力こそ無くなったとは言え、幕府に加えて北朝天皇までもセットで敵に回すことは討伐/鎮圧される危険性が増すだけだったんだろうさ

684日本@名無史さん2018/03/04(日) 08:43:20.81
室町時代の初期には、足利尊氏に敗れた足利直義が南朝に帰参するということもあった。
だから、北畠・浪岡北畠・楠木・名和などの功臣が後南朝の皇胤を擁立して仮御所を
作って、ある程度朝廷としての実態を作っておけば、反主流となった足利将軍家と
連携することもできたかもしれない。
反主流側の足利氏に征夷大将軍の官位を授けた実績を作れば、後南朝の威信を回復
することにもつながる。

685日本@名無史さん2018/03/04(日) 09:35:54.28
>>684
尊氏も南朝に降ったことがある。

686日本@名無史さん2018/03/04(日) 10:11:25.57
それらの連中には仮御所を作る力は無かったよ。
北畠だけは、その力があったが小倉宮を担いで反乱して幕府の総攻撃受けて、当主が討死して以降は幕府寄りになったからな。

687日本@名無史さん2018/03/06(火) 09:58:40.84
https://ameblo.jp/tengetu-akindo/themeentrylist-10067653434-1.html
個人的にここのサイトの後南朝の考察は中々見てて良いと思ってる

688日本@名無史さん2018/03/06(火) 19:27:35.85
>>687
せいぜい「ポエマー氏よりはマシな内容」ていどだね
史料と論考の区別も付けてないし、考察と呼べるレベルには達していないよ

689日本@名無史さん2018/03/08(木) 06:01:54.27
>>687
ソースの提示無しで妄想を書き連ねているだけで、全く駄目だな

690日本@名無史さん2018/03/08(木) 15:06:14.95
南朝の子孫は今でもいますよ。
一番確実なのが、神奈川県茅ヶ崎市香川の熊沢家。
後亀山天皇の孫(曾孫とも)が山梨の石和の豪族、熊沢氏の娘との間に
生まれた皇子がさらに相模の北条早雲のもとへ逃れ、現在の場所に定着し、
分家は20近くもあり、江戸時代の儒学者「熊沢蕃山」もこの一族。
で、尾張の熊沢家はこの香川の熊沢家の分家の分家だとか。

他にも和歌山の浅利家もやはり南朝の一族だとか。

691日本@名無史さん2018/03/08(木) 19:21:19.91
>>690
どれも真偽不詳(というか、極めて疑わしい。この上なく怪しい。)

692日本@名無史さん2018/03/10(土) 06:46:58.89
後南朝の子孫は臣籍に下ってしまった上、その系統が不明になってしまったので、
「ここの家は、元は後南朝」と言っても、なかなか信じてもらえないのが実情だ
臣籍降下するときに、後南朝の当主から源姓を賜姓され、堂上家としての家格を
認定されるという過程を経ておくべきだった

693日本@名無史さん2018/03/10(土) 08:18:12.32
後南朝で源姓を賜姓されたのは後醍醐源氏くらいだよな

694日本@名無史さん2018/03/10(土) 17:43:25.60
後醍醐源氏なんて存在しない

695日本@名無史さん2018/03/11(日) 12:39:38.01
後南朝は初期のころは、熊野宮とか十津川宮のような宮家が自天王のような南帝の
藩屏となっていたが、いつの間にか臣籍に下っていたな

696日本@名無史さん2018/03/11(日) 14:06:08.06
臣籍に下るってのは臣下としての籍を与えられることで、南朝系では籍を与えられて下ったものなどいないから間違い

没落零落凋落しただけだよ

697日本@名無史さん2018/03/11(日) 21:44:20.49
熊沢とか、賜姓された記録あるの? つか、賜姓されてたら、天皇を自称するのおかしくない?

698日本@名無史さん2018/03/17(土) 07:25:09.07
賜姓されないまま、ずっと末端の皇族として王を名乗っていた
明治以後に自分で苗字をつけて戸籍に登録し、地元に土着するようになった
だから、気分としては皇族だが、実態は地元民という形になった

699日本@名無史さん2018/03/17(土) 07:42:44.52
何を言っているんだ
自称皇族でしかなく、証明できるものなんて何もないだろ
ただの地元民だよ

700日本@名無史さん2018/03/21(水) 17:31:27.91
後南朝の元皇族は今でも地元では名士なのか?

701日本@名無史さん2018/03/21(水) 18:00:11.55
元皇族?一介の庶民だよ

702日本@名無史さん2018/03/21(水) 18:04:18.12
『アース神族』というのもいなかった?

703日本@名無史さん2018/03/21(水) 20:53:53.00
後南朝の皇胤は、地域社会で「王」を自称していたり、敬称で呼ばれたり
していただけで、社会全体では皇族扱いではなかったよ
明治維新のとき、南朝の遺臣が叙爵された際も、後南朝の皇胤が皇籍復帰
したり宮号を授与されることもなかった

704日本@名無史さん2018/03/22(木) 05:46:23.37
しつこいな
後南朝の皇胤なんていない
自称していた地元民がいるだけで、何の証明も無い
詐称って奴だよ

705日本@名無史さん2018/03/22(木) 05:54:04.48
二条道平の日記(1333年)に記録された落書「くすの木のねはかまくらに成るものを 枝をきりにと何の出るらん」

『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、
もとは利根川流域に基盤を持つ武蔵の党的武士だった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。
河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住したものと思われる。
討幕運動への参加は、同じ得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけである。
楠木正成は得宗勢力の内紛によって、旧主を裏切って後醍醐に接近したのであり、この点では足利尊氏(相模国鎌倉出身)と何ら変わるところがない。
(海津一朗・和歌山大学教授)

706日本@名無史さん2018/03/22(木) 20:47:35.63
大友皇子とか安徳天皇とか平将門の末裔のほうがまだ優遇されてるのでは?
南朝末裔なんてホラ吹きばかり。

707日本@名無史さん2018/03/22(木) 22:07:57.61
安徳天皇の末裔!!!
享年何歳だよ

708日本@名無史さん2018/03/23(金) 06:48:41.50
明治維新のとき、南朝の遺臣が叙爵された?
ホントですか?四百年もたってたのに。

709日本@名無史さん2018/03/23(金) 07:03:31.24
>>708
明治13年7月20日に楠木正成が正一位を叙爵。

710日本@名無史さん2018/03/23(金) 11:29:04.13
>>707
末裔は今でもいるようだが

711日本@名無史さん2018/03/23(金) 12:07:38.98
享年が数え年で八歳、満年齢で六歳四ヶ月だぞ、その年で死ぬまでに子供を残せたはずがない

壇之浦で死なずに落ち延びたと言うトンデモ説を前提にしない限り安徳天皇の子孫は存在し得ないよ

712日本@名無史さん2018/03/23(金) 12:09:49.47
>>708-709
過去の有名人に高位高官を追贈するのって、不人気な政府の人気取り手法として定番だったんだよね
明治維新当時の政府って不人気だったのか? 今では信じられないんだけど

713日本@名無史さん2018/03/23(金) 12:38:13.52
>>711
生き延びた説あるだろ。ここの後南朝末裔レベルの信憑性だがw

714日本@名無史さん2018/03/23(金) 12:45:33.21
自称子孫の偽物ならいるでしょ。

715日本@名無史さん2018/03/23(金) 22:39:29.32
現代で南朝を正統という人の殆どが南朝に譲位しろと言わないくらい胡散臭いからねw

716日本@名無史さん2018/03/24(土) 07:24:58.54
明治新政府は旧幕府勢力や不平士族からは相当に恨みを買っていたから、一定の
人気取りは必要だった。明治新政府は「天皇を推戴している」という点に正統性
のある政権だったから、過去の忠臣たちに官位を追贈したり、忠義の行いを
顕彰したりしている。
和気清麻呂、菅原道真、織田信長なども顕彰されている。
南朝、後南朝の廷臣たちもその一環として顕彰された。

717日本@名無史さん2018/03/24(土) 09:17:37.69
>>716
楠木正行が正二位で菊池武光が従三位はおかしい。

718日本@名無史さん2018/03/24(土) 10:43:14.21
九州で戦った征西将軍・良成親王の子孫とかいたはずだけど、どこへ行ったのやら?

719日本@名無史さん2018/03/24(土) 10:50:07.00
そんな子孫はいない。
伝承では寺に入った一族がいたくらい。
寺で子孫残せず終了コースのいつものパターン。

720日本@名無史さん2018/03/24(土) 12:10:36.17
征西将軍懷良って九州の拠点を失ったあと脱出して吉野の方に戻ったとか、してないの?
九州のなかで転戦して消息不明になったの?

721日本@名無史さん2018/03/24(土) 13:33:19.30
>>720
筑後矢部で崩御だと。

722日本@名無史さん2018/03/24(土) 14:40:30.01
親王は矢部で死亡。
残された一族も寺に行ったとの伝承あり。
北朝に降伏し、子孫は寺で断絶させられたのでしょう。
親王も暗殺かもね。
五條氏はその後も矢部で勢力保ってるし、最後まで徹底交戦したとは思えない。

723日本@名無史さん2018/03/24(土) 15:29:26.85
懐良親王の皇子には源姓を賜って臣籍降下した源良宗がいたが、征西将軍府が
衰退した後の消息は不明とされる
征西将軍府が隆盛のころは、賜姓源氏の貴族として重用されていたのだろうが
後南朝の再興に関わった記録はない

724日本@名無史さん2018/03/24(土) 16:01:59.88
五条頼元流清原氏は、南朝功臣となったことで地下官人から立身したが、その後は
南朝時代に築いた勢力をもとにして、地方豪族として生きる道を選んだんだろうね

725日本@名無史さん2018/03/24(土) 21:31:46.69
南朝は出家で跡取りなしとかだらしないね。
出家して子作りして天皇にした後水尾天皇見習えよw

726日本@名無史さん2018/03/25(日) 01:21:56.24
出家のレベルが違う

727日本@名無史さん2018/03/25(日) 07:58:42.11
南朝は断絶が幕府方針だから。

728日本@名無史さん2018/03/25(日) 08:24:29.69
まず南帝として即位してから出家して法皇になっていたのなら、まだ望みがあるが
いきなり出家していたのが、後南朝皇胤のウイークポイントだ
法皇はおろか法親王を名乗ることもできないまま終わった方が大半だ

729日本@名無史さん2018/03/25(日) 10:13:40.52
正統な皇統たる南朝を断絶せしめた北朝の罪は海よりも深し。
今上は己を罪する詔を内閣の助言と承認のもとに発し、
上は神祖に 下は万民に謝すべし。

730日本@名無史さん2018/03/25(日) 11:28:15.68
幕府の方針が「正統は北朝」だからな

つか、南朝こそ本当の正統とか言い出すやつが出たのは南朝後裔が完全に滅亡して数百年の後、江戸時代後半のことだしな
同時代に南朝こそ正統で北朝は偽物と信じてたやつなんて全国で数人もいなかったレベルだぞ

731日本@名無史さん2018/03/25(日) 11:41:56.21
>>730
伊勢国司の北畠はどう思っていたんだろう?

732日本@名無史さん2018/03/25(日) 12:26:07.73
『鳳翼天翔』?

何度でも蘇る、復活する

733日本@名無史さん2018/03/25(日) 12:31:44.34
mike oldfield『let there be light』
(ミュージック・ビデオ、動画を観てみて)


『松傾』なぜか同じ

734日本@名無史さん2018/03/25(日) 12:45:43.20
浦島太郎

735日本@名無史さん2018/03/25(日) 13:15:34.30
誰でも知ってると思う

『アナザー・ディメンション』

736日本@名無史さん2018/03/25(日) 13:18:42.47
「〇」輪のなかに入っていく子供、五人?

737日本@名無史さん2018/03/25(日) 13:27:45.65
アナザー・ディメンション

>精神支配の技としては一輝の鳳凰幻魔拳と同等の威力とされる。

738日本@名無史さん2018/03/25(日) 15:30:11.17
伊勢の北畠は、途中で見放したよ。
小倉宮を担いで戦い、当時の当主が討ち死にして、滅亡しそうなとこを幕府の温情で助けられたからな。
以降は、幕府に従順になり南朝を見放した。

739日本@名無史さん2018/03/25(日) 16:13:17.21
>>738
楠木正儀も南朝に帰参せずにいたら河内守護あたりに任じられていたかな?
まあ細川頼之の失脚がなければ帰参もなかったんだが。

740日本@名無史さん2018/03/26(月) 19:09:58.87
崇徳天皇の系統こそ真の皇統。
あとは全部偽物。

741日本@名無史さん2018/03/26(月) 22:31:06.20
>>687
長慶天皇ー玉川宮ー玉川若宮(高義または高秀)−北山宮梵勝
                                弟河野宮梵仲

という推理は自分も考えた。
あと、西陣南帝が護良親王の子孫という熊沢伝承も面白い。

742日本@名無史さん2018/03/27(火) 01:37:28.58
>>741
そのサイトもお前の推理も何の根拠も無いただの妄想
熊沢なんて詐称だし

743日本@名無史さん2018/03/31(土) 06:24:49.32
伊勢北畠の支援が弱まってからは、後南朝は経済力が乏しくなったのが痛かった。
南帝の生活費はもちろんだが、宮中祭祀や政治活動自体が存続できなくなり、
後南朝はその存在感を弱めていった。だから、応仁の乱のころを境に、後南朝の
消息がぱったり絶えてしまった。

744日本@名無史さん2018/03/31(土) 07:57:10.38
後南朝を抑圧してきた室町幕府は応仁の乱を境に、
天下を治める力がなくなったのに、同じ応仁の乱を境に後南朝も力を失って消息が絶えるとは不思議な奇縁だな

745日本@名無史さん2018/03/31(土) 12:50:46.21
後南朝は継続的に存在したのではない

南朝後胤を担ぎ出して反乱を起こす勢力が出たときにだけ、
散発的に出現しただけだよ

南朝後胤は平時には都にいた。寺の中だが。
けっして地方勢力として戦い続けてはいなかった

北畠とかは、後南朝が蜂起したときに参加することは多かっただろ、
けっして後南朝を見限ってしまったわけではないよ
もっとも、戦国時代になると北畠じたいのちからが傾いてるので
支援することなどできなくなってたかもしれんけど

746日本@名無史さん2018/03/31(土) 15:41:37.16
後南朝の時代には北畠は支援してないよ
南朝の小倉宮と組んで幕府に反逆して、幕府に潰されかかったが助けてもらって、恩義を感じて以降は幕府よりだよ
せいぜいが後南朝が実質的に潰れた時に残党を伊勢に匿ったくらい(楠木氏とか)

747日本@名無史さん2018/03/31(土) 17:20:39.87
いつも支援したわけではないけど支援したときもあるじゃん

748日本@名無史さん2018/03/31(土) 21:30:26.63
バイオハザードというのは日本の作品??

749日本@名無史さん2018/03/31(土) 21:35:47.55
『トトロ』

750日本@名無史さん2018/03/31(土) 21:51:27.39
国造り 聖造の家の話

751日本@名無史さん2018/03/31(土) 22:28:25.99
『アヴェスター』ググると出て来たでしょ?

『宥罪』という言葉

神、翡翠、リン、ビンビン(不明)、話とか
長竿、トトロのような話

752日本@名無史さん2018/04/01(日) 03:59:57.42
>>747
いつ北畠が後南朝を支援したんだい?
具体的にご教授願えますか?

753日本@名無史さん2018/04/01(日) 09:02:25.57
伊勢北畠の支援があるうちは、経済力だけではなく、伊勢国司で村上源氏の堂上家が
支えているという社会的威信が大きかった。
だが、伊勢北畠の支援が弱まり、楠木正理などの土豪が支えるだけになると、後南朝の
周囲にはめぼしい公卿や守護大名が存在しない事実が明らかとなり、後南朝の衰退が
誰の目にも明らかになった。

754日本@名無史さん2018/04/01(日) 09:55:30.17
皇族というのは、確かに「支えてくれる有力者」がいてこその存在だよな
以仁王は親王宣下も受けていない末端皇族だったが、源頼政に擁立されて
その発給した令旨が大きな役割を果たした
後南朝も支えてくれる有力者がいたかどうかが境目だったんだろう

755日本@名無史さん2018/04/01(日) 09:58:54.61
二 千 年 前 パ レ ス チ ナ を 守 ろ う と し た あ の 人 物 が 再 臨 !!
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1522532018/l50

756日本@名無史さん2018/04/01(日) 10:12:45.50
お前たちの言う皇族というのは、
先住民のこと?それとも中華(中国)の本当の皇族のこと?

757日本@名無史さん2018/04/01(日) 10:29:10.32
頭の良い人は気づいている

お前たちの言っていることは、
ほとんどデタラメ

この掲示板に限った話ではない、
他のサイトや書籍など・・・デタラメ

合致(符合)も、何もしていない

758日本@名無史さん2018/04/01(日) 10:29:10.68
>>752
おまえの後南朝の定義がわからん
北畠に擁立されていた小倉宮は後南朝に入るだろう

759日本@名無史さん2018/04/01(日) 10:30:35.41
中華じゃ数百年ごとに王朝交代があって皇族なんて全面入れ替わりしてるだろ
中華の皇族にありがたみなんてないな
せめて千年つづく王朝のひとつでも出してから言え

760日本@名無史さん2018/04/01(日) 10:41:12.43
googleで検索すると出て来たでしょ?

『お盆の夜は満月だった:僧侶も知らない本当の起源』

このような言葉⇒『宥罪』【このページを訳す】

訳して、読んでみたほうが良い

761日本@名無史さん2018/04/01(日) 12:02:28.85
>>754
王で令旨が出せるなら高見王・高望王・経基王・興世王でもだせるんか?

762日本@名無史さん2018/04/01(日) 12:25:37.83
諸王の身分では本来なら出せない令旨を、親王を詐称して発したらしい

wikipedia>令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。
 >中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、
 >太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。

763日本@名無史さん2018/04/01(日) 12:58:40.96
>>762
以仁王は親王宣下されていないのは何故なんだろうね?

764日本@名無史さん2018/04/01(日) 13:13:54.54
>>758
小倉宮は後南朝には入らない
何故なら幕府と講和して京にいたからね
そのまま幕府に従い、京で死んでるし
彼は南朝皇族に過ぎない

後南朝というのは、京から逃げ出した後の自称南朝後胤で幕府に反逆していた連中の事を言う

765日本@名無史さん2018/04/01(日) 13:48:24.57
>>763
単に、後ろ盾がなかった(いたが早世した)だけだろ

766日本@名無史さん2018/04/01(日) 13:49:52.19
>>764
後南朝蜂起の代表格とも言える禁闕の編だって蜂起直前までは京都で寺にいたわけで小倉宮と大差ないんだが

767日本@名無史さん2018/04/01(日) 19:10:10.58
探偵eye=バイオハザード

768日本@名無史さん2018/04/01(日) 19:34:40.62
親王宣下を受けていない以仁王が平家追討の令旨を出して、その令旨を受けて
源頼朝が挙兵した例は参考になるな
後南朝の皇族であっても、伊勢北畠クラスの有力者が擁立し、呼応する公卿や
武士がいるなら、室町将軍追討の令旨を出すこともできたということだ

769日本@名無史さん2018/04/01(日) 21:19:06.66
叛乱を起こしたがっていた地方武士たちが大義名分がわりに利用したという側面は大きいな、以仁王の場合は。

後南朝の蜂起も同様のパターンだが、叛乱を起こされる側の不人気度が足りなかったり状況の切迫度が低かったりしたか、叛乱の規模が広がっていない

770日本@名無史さん2018/04/01(日) 23:14:36.72
>>765
八条院が後ろ盾?

771日本@名無史さん2018/04/01(日) 23:19:12.32
関係ない

772日本@名無史さん2018/04/02(月) 18:20:14.58
八条院みたいなのは複数の皇族の後ろ盾になったりするので、逆に特定のひとりを強くバックアップしてはくれないと思う

以仁王の後ろ盾は母親の兄だよ。藤原公光。以仁王が16歳の頃に失脚してる。


もっとも、
>院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみだった。
>以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。

という論もあるので後ろ盾の失脚と無関係に親王宣下を受けられなかった可能性もある

773日本@名無史さん2018/04/03(火) 05:51:46.44
>>766
そいつらは幕府と講和して京都に住んでたんじゃない
無理やり寺に入れられて出家させられてた連中だ
小倉宮とは立ち位置が違う

774日本@名無史さん2018/04/03(火) 08:01:41.89
いや、小倉宮だって同様だろ

775日本@名無史さん2018/04/03(火) 20:31:27.32
小倉宮は当事者として自分自身で幕府と講和して京都に住んでいた
その他の連中は子供の頃に本人のあずかり知らぬところで強制的に出家させられてる
大違いだろ

776日本@名無史さん2018/04/03(火) 21:55:21.06
>>775
その部分の違いは史料的裏付けがあるのかね?
全部お前さんの空想だろ

777日本@名無史さん2018/04/04(水) 04:08:18.58
>>776
史実を否定するんだねwww
 
お前の中ではそれで良いんじゃないか?

778日本@名無史さん2018/04/04(水) 18:23:02.05
もしかして史料が無いとは言わんよね?
裏付けとなる史料が無いものは史実じゃないもんね。

で、史料はまだ?

779日本@名無史さん2018/04/05(木) 07:19:58.24
資料はあるよ。知らないお前がおかしい。
お前の妄想こそ、資料はあるの?
自分は資料ないのに相手にだけ求めてるの?
それなら詭弁だよ。

780日本@名無史さん2018/04/07(土) 08:57:52.17
以仁王も後南朝も皇族の中で不遇であった点は共通している。
だが、平氏政権に反旗を翻す機運が高まっていたので、源三位頼政という
有力者がバックについたし、以仁王の平家追討の「令旨」は効力を発揮した。
だが、室町幕府はおおむね大半の武士に支持されており、反乱が波及する
気運にはなかった。だから、伊勢北畠がバックについたとしても、後南朝は
なかなか表舞台に出るチャンスがなかった。

781日本@名無史さん2018/04/07(土) 09:41:00.59
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D
後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、
南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。

ーーーー
よって小倉宮と北畠の挙兵も、後南朝の運動に入る

>>780
それも一理あるが、幕府への反乱勢力が南朝の天皇を担いでも
味方は増えないし、逆にお世話が後々面倒で忌避されるようになったのかもしれない
畠山義就は、かつて南朝の勢力基盤だった河内や大和を実効支配し、しばしば幕府から
追討の対象になり戦いを起こしたが、後南朝の天皇を担いだりはしていない
享徳の乱で幕府と戦った足利成氏も同様で、
書状では開戦前の年号を使い続けるのみで、後南朝の年号を使うことはなかった

782日本@名無史さん2018/04/08(日) 15:33:59.08
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/Q5Ifb-UXVic

783日本@名無史さん2018/04/09(月) 12:46:22.64
>>781
それは、室町時代には挙兵するとき、皇族をかつぐことの効果が薄れていたため
と考えてよいだろうか?
「皇族がついているから味方しよう」と思う武士は少なくなっており、
皇族の世話をする手間だけが増えて、何もメリットがない、という状態に
室町時代にはなっていたということだろうか?

784日本@名無史さん2018/04/09(月) 19:23:15.06
仮に北朝の皇族を担ぐ機会があったとしたら、後南朝皇族よりは役に立っただろうと思うね

実際のとこ、北朝系の皇族で叛乱に利用できそうなのはいなかったけどさ

785日本@名無史さん2018/04/10(火) 15:11:34.02
やがて皇族をかついで挙兵ではなく、
足利将軍家内部で失脚した人をかついで、挙兵する事例が増えていったね

嘉吉の乱→足利直冬の孫の義尊をかついで赤松満祐が挙兵するも失敗
永正の錯乱→廃位された前将軍足利義材をかついで大内義興が挙兵し、上洛に成功
信長上洛→討たれた将軍義輝の弟の義昭をかついで織田信長が挙兵し、上洛に成功

786日本@名無史さん2018/04/10(火) 15:17:31.46
仮に大内義興が義材を奉戴せずに、「大内家が天下を取るためだ」と
私利私欲丸出しで上洛の兵をあげたら、沿道の大名らが抵抗して、京都へ到着すらできなかったと思う

787日本@名無史さん2018/04/14(土) 07:56:18.58
「後南朝の皇族では弱かったから」というのもあるが、たとえ北朝の皇族であった
としても、往時ほどのメリットがなくなっていたのでは?
「皇族をかついで綸旨や令旨を旗印に挙兵」という手法自体が古臭いものになって
いたのではないか?
だから、後南朝の皇族を擁立して戦ったのは、北畠のような保守的な公家大名
くらいしかいなかった

788日本@名無史さん2018/04/14(土) 16:55:28.08
征西府が1392年以降も九州を平定したままならどうなっていただろう。

789日本@名無史さん2018/04/14(土) 18:12:07.24
1391 征西将軍良成親王が肥後八代城を開城
1392 楠木の本拠地・河内国千早城陥落

南朝は軍事的大打撃を蒙っていた
一方の足利は明徳の乱で山名氏清を討ち取り、
大名支配を確立

だからこそ南朝があきらめて、
南北朝合一を受け入れた

790日本@名無史さん2018/04/14(土) 18:21:01.94
>>789
だから楠木は負けても征西府は九州から足利勢力を一掃していたらどうなる。

791日本@名無史さん2018/04/14(土) 19:29:07.34
忠冬が九州で頑張り続けて、菊池が大友とかを駆逐しちゃってたらありえる可能性だと思うけど。
ただ、その場合、明に従属する勢力が九州を支配し続けるわけで、大陸の動静次第では
倭寇討伐に本腰を入れざるを得ないとかあるかも。

792日本@名無史さん2018/04/14(土) 19:59:46.84
朝貢は従属じゃないぞ

九州勢が明に朝貢したのは事実だが、その主家は明じゃなく南朝のほう

だが、いずれにしても幕府が九州攻略に尽力して戦い続けただろうことは予想が付く

793日本@名無史さん2018/04/14(土) 21:05:52.50
>>790
それなら南朝は南北朝合一に同意しないだろう
二代将軍足利義詮の時に佐々木道誉と楠木正儀が和平交渉したが、
九州の大宰府は南朝軍が制圧していて、九州では南朝が優勢だったので南朝も強気であり、結局義詮が交渉の打ち切りを決断し、和平交渉は失敗した

794日本@名無史さん2018/04/15(日) 05:24:46.94
>>792
日本国王に封じられておいて、従属じゃないとか言われても

795日本@名無史さん2018/04/15(日) 14:20:36.96
>>794
古代の遣唐使の時と条件は変わらないんだけど。
日本国王に封ぜられて中国の暦を持ち帰らされたりしてるわけだよ、遣唐使の時も。

「倭の五王」だって日本国王に封ぜられてるけど、あれも従属とは普通は言ってないよ

796日本@名無史さん2018/04/15(日) 17:02:38.09
呉の孫権が216年に魏王曹操にしたように、
形式的に従属したとはいう

797日本@名無史さん2018/04/15(日) 23:46:48.67
>>795
はあ? 遣唐使の時代に冊封されてた?
朝貢と冊封は全然別の話だぞ

798日本@名無史さん2018/04/19(木) 18:48:50.49
後南朝は九州ではなく、関東に拠点を作ればよかったのでは?
関東は鎌倉公方・関東管領などが都の足利宗家と敵対することもあり、
政情不安定だ。北条氏の御内人の子孫もまだ生き残っている。
それらの反中央勢力を後南朝と浪岡北畠がまとめて鎌倉に拠点を
置けばよかったのではないか?

799日本@名無史さん2018/04/19(木) 21:55:36.45
>>798
浪岡北畠?
関東なら地下に潜伏した新田勢力が出て来るだろう

800日本@名無史さん2018/04/20(金) 00:02:32.51
>>797
日本側の認識はともかく唐の側の認識では日本国王に封じたつもりだったようだぞ、記録によると。

801日本@名無史さん2018/04/20(金) 05:55:47.52
>>800
どこの記録? 日本は王を封じるに値しない、たまに朝貢してくる蛮族って認識だぞ、唐
記録があるというなら、どの天皇をなんという王位に何年に就けたか、わかってるんだよね?

802日本@名無史さん2018/04/20(金) 19:22:47.38
大宝とかの頃はまだしも、20年ごとと約束(契約?)したから、いちおうは定期朝貢だぞ
たまに/不定期に朝貢する国という認識は早期に払拭されてるぞ

803日本@名無史さん2018/04/22(日) 11:59:53.98
そもそも古代東アジア世界で王という称号は、中華の皇帝から下賜されるものであり、当時の認識で日本の王号は新羅王と同じく唐から賜った同格のものでしょう。

天皇という言葉は当時の国際情勢的にはただの僭称にしか過ぎませんでした。
つまり天皇という言葉は国際的に認められたものではなく、格的に新羅王家や高麗王家と同じく王号なのです。
百済王家は日本で百済こにきしと名乗っていましたが、それと同じです。
テンノウという言葉は王号を表現する日本語の名詞と考えるべきでしょう。天皇という漢字を当てることは適切ではありません。

王家というのは、当時の東アジア国際情勢に則り、テンノウという日本語に王という文字をあて、天皇家を表現したものなのです。
韓国や中国で天皇家を日王と呼ぶのは、これが理由ですし、それが正当解釈です。

これが中世日本でテンノウを王と書いた理由です。

804日本@名無史さん2018/04/22(日) 12:40:27.84
他のスレでも見たが、誤爆か無差別多連続投稿かどちらだね

805日本@名無史さん2018/04/22(日) 19:31:24.31
応神 継体 天武 明治
万世一系ではないだろう
何度もアカの他人に政権簒奪されてんだから、中国と同じだろ

806日本@名無史さん2018/04/22(日) 19:43:48.94
明治天皇は部落民の大室某です。

807日本@名無史さん2018/04/22(日) 19:46:07.75
王号そのものは勝手に名乗ってもいいんだよ
東胡やビン越の王のようにね
ただ日本の場合は、倭の五王の時は王号のみならず、
安東将軍だの都督だの中国王朝の官位を欲しがっており、
朝貢していたことは確か

あと中国では現在は「天皇」と表記して報道していることが多く、韓国とは趣が違う

808日本@名無史さん2018/04/22(日) 22:29:58.82
>>803
そこが違う。
唐にとって、「日本は王号を与えるに値しない蛮国」
だから、朝貢は認めても王とは認めなかった。天皇はいわば蛮族の酋長という認識。
そこを日本は逆手にとって「天皇は皇帝と対等だから、王号を与えられるようなことはしないのだ」と国内的に言い張った。
時代が進むにつれ、日本(というか朝廷)は本気でそう考えるようになった。
宋の間、正式な国交が無かったのも影響しているのだろう。
だから、義満が明と交易するために「日本国王」になった時、日本の体面を損なうとして議論になった。

長くなったが、懐良親王がやらかしたことは、皇族が中国皇帝の家臣になったということで、遣隋使以前のレベルに逆戻り。
聖徳太子に土下座して謝るべき。

809日本@名無史さん2018/04/23(月) 19:12:02.65
>>808
>唐にとって、「日本は王号を与えるに値しない蛮国」
>だから、朝貢は認めても王とは認めなかった。天皇はいわば蛮族の酋長という認識。

すごくデタラメだな。もしかして、お前さんの存在自体もデタラメなのか?
王と認めるかどうかの境目は規模。文明度も影響ないわけではないが、大きい相手について王と認めないとか、やってないだろ

810日本@名無史さん2018/04/23(月) 21:47:02.45
ローマ帝国も知ってたが、王に封じてたか?

811日本@名無史さん2018/04/23(月) 21:48:45.02
>>809
で、どの皇帝が何年の遣唐使の時にどの天皇を、何の官職につけたんだ?

812日本@名無史さん2018/04/25(水) 00:58:13.06

813日本@名無史さん2018/04/28(土) 08:16:14.71
天皇は中華皇帝から王号をもらって冊封されるのではなく、自分自身で権威を持つ
存在であり、権威の源泉であった。中華の冊封体制の外にいることで、そのしくみを
醸成し続けることができた。そして、近代に入り、国際社会から日本の「皇帝」の
地位を是認されるようになった。現在では、中国は天皇を「天皇」と呼ぶし、外交儀礼
では「天皇陛下」と、「陛下」の尊称をつけて呼んでいる。
中国の辞書では、天皇を「日本の皇帝」と定義している。

814日本@名無史さん2018/04/28(土) 09:35:48.85
古代においては天皇は中国皇帝より安東将軍とか都督とかの官位をお願いして
もらっていたけど、朝鮮半島から撤退したことや律令体制の確立で
国内での天皇の最高権威性が揺るぎないものとなり、中国皇帝から官位をもらうことに必要性がなくなったのだろう

815日本@名無史さん2018/04/28(土) 18:48:04.20
朝貢国の多くは、中国の権威が必要だから朝貢したり冊封されたりするわけではなく、中国との交易の利益が必要だから便宜的に冊封されてるだけだよ
むしろ中国から与えられた王号とかを国内には公開してない国の方が多くなかったかね

816日本@名無史さん2018/04/29(日) 07:23:15.89
そうすると、征西将軍・懐良親王が明朝の冊封を受けて王号を受けたのは、
明朝の権威が欲しかったのではなく、明朝との交易によって資金を獲得し、
征西府を強化しようとしたと考えてよいのだろうか?

817日本@名無史さん2018/04/29(日) 11:49:49.55
当時の情勢見ても、明王朝の権威を欲しがったとは考えにくいと思うんだよ。

むしろ九州在住豪族らが交易を求めてて、拒否できなくて冊封を受けたんじゃないかって気がする。
または、部下が勝手にやった!



後に今川了俊が幕府の許可も無く勝手に冊封を受けようと試みた(明の方が拒絶したんだったか?)事もあったように、部下が勝手にって可能性も否定できないよな。

同様に、遣唐使の時だって冊封されてると思うよ。少なくとも唐の暦を持ち帰らされてたことは間違いない。

818日本@名無史さん2018/04/29(日) 15:06:10.06
え、史料があるからの話じゃなくて
妄想ロマン語ってるの?

819日本@名無史さん2018/04/29(日) 16:41:35.16
日本の記録はともかく、冊封したなら中国王朝側に記録が残ってるだろ。
お前が思うのはお前の心の問題だから止めないが、チラシの裏にでも書いてろよ。

820日本@名無史さん2018/04/29(日) 16:48:46.69
唐代の記録は意外と散逸が激しくて残ってないよ。律令法典でさえ大半が散逸してるしね

散逸した唐律令の復元研究が衝撃的だった

821日本@名無史さん2018/04/29(日) 22:48:17.63
唐の時代は文献が宋以降と比較して各段に少ない上、五代十国時代に相当部分が
散逸した。歴史だけでなく、文学の分野においても、唐の文献には不確かなことが
多く、解明できてないことが多い。

822日本@名無史さん2018/04/29(日) 23:04:31.52
冊封も含めた外交の記録だって残ってるのはごく一部だけってわけだ

記録がないから冊封されてない、などとは言えないよな

823日本@名無史さん2018/04/30(月) 16:45:26.34
史料もないのに語ることはロマンに過ぎない

824日本@名無史さん2018/04/30(月) 17:02:25.48
朝貢の直接記述はなくても、冊封した朝貢国に対するのと同じ呼び方で日本のことを呼ぶ記述が残ってるんだから十分だろ

唐王朝の基本認識として日本を冊封国の一つと思っていたことが分かる、それだけで根拠になると思うが。

825日本@名無史さん2018/04/30(月) 18:28:35.05
だから朝貢と冊封をごっちゃに言うなっつの

826日本@名無史さん2018/04/30(月) 19:09:58.63
冊封された国は必ず朝貢国なのだから混同ではない

冊封国という集合は朝貢国の集合の中に含まれている


それを意識して読めば、「冊封した朝貢国」という文面は「冊封した国」と同義。どこに問題が?

827日本@名無史さん2018/04/30(月) 21:08:52.72
朝貢した事実は?

828日本@名無史さん2018/04/30(月) 21:53:21.58
>>827
「偉大なるわが国日本が中国に朝貢するわけないんだ!」というように、
愛国心から起こる気持ちはわかるが、自分の政治イデオロギーから結論ありきで歴史をみる態度は適切とはいえない

829日本@名無史さん2018/04/30(月) 22:12:36.81
日本は中国の朝貢国でした。
それも韓国や越南や琉球にも劣る半蛮族として入朝すら許されない程の辺地の王国と扱われています。

天皇というのは単于や大汗や皇太極などと同じ国内向けの王号に過ぎません。
格付けとしては韓国王や越南王に劣り琉球王未満となります。

830日本@名無史さん2018/05/01(火) 00:48:49.27
>>829
日本が新羅と席次を争った際に唐王朝は新羅より日本を上位に置くよう変更したよ

831日本@名無史さん2018/05/01(火) 01:43:58.95
>>830
それは、新羅が日本の朝貢国だから、と日本が主張したからだよ

832日本@名無史さん2018/05/01(火) 09:19:04.75
>>830
新羅が譲ってあげたんだよ
大人の余裕を見せたということですな

833日本@名無史さん2018/05/01(火) 09:21:24.98
>>829
「偉大なるわが国朝鮮が日本に劣るわけないんだ!」というように、
愛国心から起こる気持ちはわかるが、自分の政治イデオロギーから結論ありきで歴史をみる態度は適切とはいえない

834日本@名無史さん2018/05/01(火) 10:51:02.47
史料がなければ事実認定が出来ないのが歴史の世界

835日本@名無史さん2018/05/01(火) 17:27:03.41
話を戻すぞ

よく南北朝長期化の理由として、惣領制で一族に内紛が起きたとか
幕府内の権力闘争を挙げる説が多い
もちろんそれらの説も正しいが、それだけで充足できないように考える

例を挙げれば宗良親王が居を構えた信濃大河原、
懐良親王が居を構えた筑後矢部
幕府軍は、この2か所に攻め寄せることはあるが、
本気で(つまりかなりの大軍で)攻めた様子がなく、結局2か所とも南朝軍が守り通している
高師直ですら吉野を落としながら、後村上天皇が避難した賀名生には追撃しなかった
また幕府は悪党出身の楠木討伐にはかなり尽力したが、
それと比べると公家の北畠征伐は実行しているものの、あまり本気を出していないように見える

幕府は力で南朝を滅ぼす潰す気が最初からなく、
最後の最後は平和的な南北朝合一を目指したいので、公家や皇族の命を取らないように
配慮していたのではないだろうか?
(もちろん尊良親王や春日顕国など例外はある)

836日本@名無史さん2018/05/01(火) 20:50:29.55
冊封された国は必ず朝貢国なのだがその逆はイコールではない

冊封国という集合は朝貢国の集合の中に含まれているが
逆にいえば朝貢国がみな冊封されるわけではない


それを意識して読めば、「冊封した朝貢国」という文面は「冊封した国」と同義だが
「朝貢した冊封国」は「朝貢した国」と同義ではない。

837日本@名無史さん2018/05/02(水) 02:28:15.80
>>829
入朝が許されてないわけねえだろ、遣唐使送ってるんだから

838日本@名無史さん2018/05/02(水) 10:44:40.57
散るぞ悲しき〜辞世の唄
有名な辞世の句に曲を付けた名曲。
ドラマチックなラストが圧巻。↓
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4

839日本@名無史さん2018/05/03(木) 09:21:23.82
>>835
足利政権側の認識として、南朝のもとに集まった武士団が主敵であって、南朝の
皇族や公家は主敵ではない、あるいは戦闘員ではない、という考え方があった
のだろうか?
鎌倉政権が倒れるとき、「北条高時追討」の綸旨が出たし、実際に北条氏は
滅ぼされてしまった。だが、鎌倉殿(親王将軍)や公家出身の実務官僚たちが
標的にされた気配はなかった。それと同様と考えてよいだろうか?

840日本@名無史さん2018/05/03(木) 09:52:58.82
当初は足利氏の思惑としては両統迭立時代に戻したかったっぽいな

それを撤回して北朝一辺倒に変えようとし始めたのは、早く見積もっても義持時代以後。ひょっとしたら義教時代に入ってからかもしれん。

841日本@名無史さん2018/05/03(木) 13:04:39.84
>>840
義満は両統定立はるか明後日の義嗣を天皇にしようとしたんではないか?

842日本@名無史さん2018/05/03(木) 14:00:46.33
その説は事実誤認を積み重ねたあげくの迷走だと考える人が今では主流

843日本@名無史さん2018/05/03(木) 14:50:47.06
>>842
では義満贈太上天皇とかは嘘か?

844日本@名無史さん2018/05/03(木) 15:21:27.36
義満が願って贈られたわけじゃないし、参考にならんだろ常考

845日本@名無史さん2018/05/04(金) 09:22:57.84
両統迭立に戻すということは、鎌倉幕府の方針に戻すということか
確かにこの方針が貫徹されれば、南北朝の対立はなくなり、戦乱も収束する

846日本@名無史さん2018/05/04(金) 09:51:54.36
悪く考えれば両統並立なら朝廷は分断される
幕府としては朝廷の力が半減されていれば、「安心」して政権運営できる

後醍醐天皇は討幕したじゃないかという批判もあろうが、
あの時は鎌倉と京都で遠く、六波羅探題の対朝廷監視能力が不十分だったのだろう
でも足利幕府は京都が本拠地だから、十分に朝廷の「不審」な動きに目が届きやすい

847日本@名無史さん2018/05/04(金) 10:13:03.17
鎌倉幕府が擁立していたのは親王将軍(摂家将軍)で、天皇とは一定の距離があったが、
室町幕府は北朝を擁立して、政権も京都にあったので、南北朝の対立の渦中に入って
しまうことになった。後南朝の時代まで含めると、長い対立となった。
室町幕府も鎌倉に政権を置いて、親王将軍を擁立して足利氏は執権になっていたほうが
政権は安定したのではないか?

848日本@名無史さん2018/05/04(金) 13:13:05.56
>>844
そんなこと忖度する皇族や公家がいたか義嗣がたのまなきやそんなことにはならんぞ。
義持はノシをつけて叩き返したらしいから頼むわけないし。

849日本@名無史さん2018/05/12(土) 10:58:16.44
「足利義満が皇位簒奪を図った」という今谷明の学説は、今日では否定されている。
だが、仮にもし義満が北朝の天皇から皇位を簒奪していたら、どうなっていただろうか?
これは、南朝側から見れば、義満を征伐する大きな名分となる。
公卿はもちろん、守護大名や足利一門の中にも、皇位簒奪に異議を唱える人が出るだろう。
守護大名たちを巻き込んで、南朝側が盛り返すチャンスになっていたのではないか?

850日本@名無史さん2018/05/12(土) 15:55:10.94
義満が天皇になっていたら、義満の朝廷と南朝の朝廷で対立するだろうな
幕府側は「義満天皇」では団結できまい
鎌倉公方あたりが南朝について、大動乱になる

851日本@名無史さん2018/05/13(日) 06:33:22.11
なんで朝廷は義満に太上天皇を贈ったかわからんなー?

852日本@名無史さん2018/05/13(日) 10:38:42.79
太上天皇位を贈った理由が分からんのは事実だけど、849や850の言うとおり、簒奪が可能な状態ではなかったのだから、
朝廷側が何か勘違いしていたのが原因と考えざるをえないのではないかな

853日本@名無史さん2018/05/13(日) 12:22:22.22
大室寅之助 南朝の末裔だろ

854日本@名無史さん2018/05/13(日) 13:03:31.10
もともと、準三宮だったんだから、亡くなったから追加しとこう、ぐらいじゃね?

855日本@名無史さん2018/06/02(土) 10:50:15.58
太政天皇の称号は、後南朝が先手を打って贈ればよかった。
そうすれば、後南朝の存在感も増すことになった。

856日本@名無史さん2018/06/02(土) 11:11:58.08
後南朝のファンがいるなんて。

857日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:02:58.44
吉野山中を転々とするのではなく、地方の有力者の支援を継続的に受けられる形で
運営すれば、後南朝はもっと長続きしたように思う。
伝説上の存在ではあるが、美作後南朝のようにしておけばよかった。

858日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:56:17.70
支援を十分に受けられなかったから転々とせざるを得なかっただけだろ、好んで転々とするはずがないんだよ

859日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:55:45.99
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM

860日本@名無史さん2018/06/10(日) 03:05:02.19
>>857
定着してたら、支援者ごと足利幕府に攻められるだろ
根無し草みたいに漂ってたからこそ、応仁の乱までなんとか生き残れた

861日本@名無史さん2018/06/10(日) 05:52:17.16
一休さんは後南朝に入りますか?

862日本@名無史さん2018/06/10(日) 08:38:02.34
アニメの一休さんは義満が南朝復活を気にしてる描写けっこうあるな
同じ寺の小坊主が後南朝ゲリラに参加するために寺を出るエピもあるし。
なお、その小坊主は次の話だと寺に戻ってた。

863日本@名無史さん2018/06/10(日) 10:37:29.01
一休さんは南朝子孫じゃなく持明院統の一員だから後南朝に含まれません

>>860
後南朝の前半時代は京都在住の南朝系皇族が連れ出されて蜂起してるから、吉野山中を転々としてたわけじゃないし、そもそも存続してなくて断続してるんだよな
応仁の乱を目前にした後半時代ってか足利義政時代に入ってからか、地方生まれの後南朝皇族が出てきたのって。

864日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:28:08.97
>>860
北畠や菊池が支援してたと思うけどね

865日本@名無史さん2018/06/14(木) 11:17:41.68
アニメの一休さんでは、旧臣が一休さんを呼び止めて、足利義満と戦うように
促す場面があった。一休さんは北朝の御小松天皇の皇子だが、反幕勢力に
担がれる要素もあったのだろう。
安国寺の先輩小僧・周念さんは後南朝に参加して戦うため、寺を出奔した
こともあった。

866日本@名無史さん2018/06/14(木) 12:14:50.24
そりゃ、一休さんの実兄である崇光天皇が死んだ際、後小松の実子たる一休さんをさしおいて遠縁の伏見宮の子をを養子にして天皇にしてるから、
差し置かれた一休さんを担ぎ出したい勢力はいただろうさ
南朝支持でなく反幕府を目的にしてるなら一休さんのほうが後南朝系より役に立つ立場だから、
一休さんの同意が得られてたら担ぎ出してただろうよ
後南朝皇族は一休さんほどの有用性はないけど候補者が多いのと遠縁すぎて一休さんほどには監視されてないのとで
担ぎ出しやすかったんだろうな

867日本@名無史さん2018/06/14(木) 12:52:13.67
一休生母が南朝遺臣花山院某の娘で
怨みを晴らさんと後小松天皇に女官として近侍し
寵愛を受けながら機会を伺っていたが
常に懐剣を所持しているのがばれたため御所追放
この時一休を懐妊中で一休は寺に入れられた
という話じゃなかったか

868日本@名無史さん2018/06/14(木) 13:01:08.79
>>866
一休宗純は後小松天皇落胤説だろ
崇光天皇は兄じゃないぞ
崇光天皇は後小松天皇の祖父・後円融天皇の実兄

一休が後小松落胤なら一休の異母弟が称光天皇
称光天皇没後、曾祖父後円融天皇の兄崇光天皇の曾孫にあたる伏見宮家の王が
後小松天皇の養子に入り後花園天皇になった

869日本@名無史さん2018/06/14(木) 19:34:06.04
ああ、ごめん、思いっ切り間違えてるな

崇光天皇じゃなくて称光天皇だった

870日本@名無史さん2018/06/17(日) 08:49:52.43
後南朝に参加して戦う鉄斎さんのような僧もいたんだろうな
アニメといえども、時代背景をよく描いている
幕府、旧臣にかつがれた一休さん、後南朝についた鉄斎さんが
三つ巴になって戦う回もあったら見たかった

871日本@名無史さん2018/06/19(火) 00:22:06.03
西陣南帝とその皇子の物語を考えてる

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