長屋王について

1日本@名無史さん2014/01/13(月) 08:25:21.19
・生年問題(684年説or676年説)
・王・親王問題
・長屋王の変とは何だったのか?
・その他

これらについて語り合いましょう

2日本@名無史さん2014/01/13(月) 11:54:47.46

3日本@名無史さん2014/01/15(水) 12:23:50.33
吉備内親王の夫だから親王扱い?

4日本@名無史さん2014/01/15(水) 13:51:30.43
多分親父が太政大臣だったからじゃね

当時の太政大臣は皇太子みたいなもんだったから、草壁と同じように、その子を親王扱いしたんじゃね

文武も皇孫だけど皇子扱いだったし。

ぶっちゃけ、いくら律令で決めても、天皇が例外認めればそれで通る世の中だったし。

5日本@名無史さん2014/01/15(水) 21:59:59.17
高市皇子(壬申の乱の英雄)と御名部皇女(元明の同母姉)の子だから皇子(親王)扱いかな
それだから吉備内親王の夫になれた訳だし
長屋と吉備の子は男系原則で言えば三世王なのに元明の勅で二世王扱いだし
・二世王なら初叙は従四位下
・三世王なら初叙は従五位下
ところが長屋王は二世王なのに文武の勅で初叙いきなり正四位上
初叙で正四位上は今も破られてない記録かな
臣籍降下した天皇の子や摂関家の子でも初叙で正四位上に叙爵された
例は無いはず

6日本@名無史さん2014/01/16(木) 00:39:42.23
長屋王が高位スタートだったのは、皇位継承を諦める見返りとしての官界デビューだったからじゃないか、
って意見を概説書で読んだ覚えがある。

ただ、草壁直系は首皇子(聖武)だけで、草壁や文武のように夭折してしまう懸念はあっただろうから、
その時は長屋王本人じゃなく、吉備内親王との子供に皇位継承させるつもりがあったんじゃないかな。

そう考えると、長屋王の変で吉備内親王とその間の子供も消された理由が想像出来そうだよね。

7日本@名無史さん2014/01/16(木) 12:18:02.86
白壁王と井上内親王、他戸王と立場が似てるな

8日本@名無史さん2014/01/16(木) 13:07:33.40
>>4
文武は母親が天皇(元明天皇)だよ

同母妹の吉備内親王も内親王だし

9日本@名無史さん2014/01/16(木) 18:12:06.93
>>6
不比等の娘の母に持つ長屋王の子は助命されてるしな。

10日本@名無史さん2014/01/16(木) 19:16:45.88
>>6
長屋王の父高市皇子が天武天皇の第一皇子で
生前は太政大臣にまで登って行政のトップにあっただろ
だからその嫡男である長屋王が高位スタートなのはおかしくないんだが

元明天皇が息子の文武天皇が臣下の藤原宮子に産ませた孫(首皇子=聖武天皇)よりも
娘の吉備内親王が皇族の長屋王との間に産んだ孫に期待していたというのはあるんだろう
吉備内親王の子は本来3世王なのに母方によって2世王に繰り上げられているからね

11日本@名無史さん2014/01/16(木) 20:38:34.46
>>8
母の元明が即位したのは、文武が崩御した後だから時系列的に無関係。

珂瑠が生まれた時、既に父草壁が皇太子なので、早ければ生まれた時から、
遅くても高市皇子薨去後の立太子までには皇子扱いされていたと思う。

その辺は、持統の意向でどうにでもなったと思う。

珂瑠が皇子扱いされるのと同時に、姉妹の氷高や吉備も同じように皇女扱いされたと思う。

12日本@名無史さん2014/01/16(木) 20:45:12.21
>>11
草壁皇子は即位してないのに死後、岡宮御宇天皇と諡名され天皇扱いを受けたから
そのあたりからの皇子号かもしれない
現在でも宮内庁が草壁皇子陵墓比定地を「岡宮天皇陵」として管理している

13日本@名無史さん2014/01/16(木) 21:07:03.16
草壁皇子が即位しなかったのは高市皇子に遠慮したからかな?
大津皇子暗殺のこともあったろうけど。

14日本@名無史さん2014/01/16(木) 21:12:19.22
>>13
母が采女出身と身分が低すぎる高市皇子に皇女の母を持つ草壁皇子が遠慮したということはないだろうが…

この時代は中大兄皇子・大友皇子など天皇になるべき人がすぐには即位しないで
皇太子のまましばらく様子見ていたこともあるので一概には言えない

草壁皇子は2年で亡くなったので病気で政務が執れなかった説は根強いけど

15日本@名無史さん2014/01/17(金) 12:12:21.33
文武天皇即位が高市皇子死去の翌年なのがどうにも怪しい

16日本@名無史さん2014/01/17(金) 22:35:39.46
藤原氏が排除したかったのは長屋王本人よりもむしろ吉備内親王とその息子達だろう
吉備内親王の子以外の長屋王の息子も弟の鈴鹿王もお咎めなしだし

17日本@名無史さん2014/01/19(日) 17:10:06.06
ちなみに長屋王の息子の一人の桑田王は高階氏の祖。

18日本@名無史さん2014/01/19(日) 22:00:44.67
長屋王

704年 正四位上
709年 宮内卿
710年 式部卿
716年 正三位
721年 正三位右大臣
724年 正二位左大臣
729年 死去

19日本@名無史さん2014/01/20(月) 09:16:02.00
>>16
桑田王は、吉備内親王の子なのな。
長屋王と吉備内親王の子は一緒に死んだのでその系統は絶えているように思われがちだが、
孫王は助けられて吉備内親王系統の血は残っている。

20日本@名無史さん2014/01/20(月) 10:45:51.31
江戸時代には沢山居ただろうな。

長屋の王が。w

21日本@名無史さん2014/01/20(月) 12:23:43.20
>>19
大友皇子の子も助けられてるし幼少ゆえに助かったんだろう

22日本@名無史さん2014/01/20(月) 12:50:08.35
>>21
大友皇子の場合は正妃が一緒に死んでいない
大友皇子の正妃は天武天皇の娘十市皇女だから当然天武は助けた
十市皇女が産んだ葛野王も天武の孫なので当然助けた

正妃と正妃の子も一緒に死んだ長屋王のケースとは全く異なる

23日本@名無史さん2014/01/20(月) 13:02:23.35
桑田王の母は石川虫丸(石川虫名か)女説があるな。
たしか続日本紀の中でも、自殺した四子が吉備内親王の子だとは断定していなかった。

24日本@名無史さん2014/01/20(月) 14:26:44.24
それにしても聖武天皇は讒言とはいえ父の同母妹で実の叔母を死なせてるのか
吉備内親王の同母姉の元正上皇もまだ存命だったのに
随分と思い切ったことをしたもんだ

25日本@名無史さん2014/01/20(月) 14:37:26.00
>>24
吉備内親王の子による皇位簒奪に誰よりも脅えていたのは聖武天皇自身だろう
聖武天皇は父こそ文武天皇だが母は皇位継承権のない藤原宮子
父方も母方も皇族である吉備内親王の子のほうが血筋が勝っている
また、吉備内親王自体、兄も姉も天皇である通り当然に皇位継承権があり
吉備内親王自ら即位してその息子に皇位を譲る可能性もなきにしもあらずだった

長屋王事件は加害者である藤原氏の讒言を聖武天皇が信じたということから起こったのではなく
聖武天皇自身の皇位不安を取り除くためにおじの藤原四兄弟が起こしたとみるべきだと思う
つまり聖武天皇も少なからず加害者の一人であった

26日本@名無史さん2014/01/20(月) 17:03:43.55
>>23
「続日本紀」には石川氏という側室も登場しない
石川虫丸女という記述があるのは室町時代成立の
「本朝皇胤紹運録」のため不詳らしい

27日本@名無史さん2014/01/20(月) 22:27:29.88
長屋王邸からは「石川夫人」「石川大刀自」木簡が多数出土している。
長屋王との続柄は不明だが。

28日本@名無史さん2014/01/21(火) 00:04:24.62
>>25
聖武には加害者意識はあったでしょうね。

自身の治世に天然痘が流行り共犯の藤原四子が次々と亡くなり、
せっかく光明子の立后をごり押ししたのに、待望の男児は呆気なく夭折してしまい、
結局男児がもうけることは敵わなかった。

大仏や国分寺の建立、度重なる遷都といった行動も、罪悪感や恐怖感にかられての事でしょうね。

また、吉備内親王とその子を生かしていた場合、未亡人か未婚が女帝の条件なので、
孝謙を差し置いて我が子を後見するために即位する可能性は出てくるね。

孝謙を即位させたことで、光明皇太后が藤原四子に代わり、甥に当たるその子供達をバックアップ出来たわけで、
反藤原勢力が吉備内親王を担ぐ可能性は有ったでしょうね。

29日本@名無史さん2014/01/21(火) 00:17:51.83
基王が早世しなかったら長屋王即位の可能性が無くなって粛清されずに済んだんだろうか?
どのみち藤原宮子の尊号の件とかで対立してたから
殺されることは無くても橘諸兄のように干されるか。
少なくとも阿倍内親王や大炊王が擁立されることはなくなるわな。

30日本@名無史さん2014/01/21(火) 00:48:19.63
>>29
大夫人/皇太夫人の件は、「勅の撤回で恥をかかせた」のではなく、
「皇」字を付けることを公卿の総意として推したという形をとることで、
「恩を売られた」のだという説があるようですね。
いくら律令の規定とはいえ、皇族外に「皇」の称号を贈る初例だとい
うことで、慎重にならざるを得なかったのではないか、と。

31日本@名無史さん2014/01/21(火) 12:21:51.04
>>30
臣下出身の蘇我堅塩媛(欽明妃、用明・推古両天皇の母)がすでに皇太夫人となっているので
藤原宮子が臣下出身の皇太夫人初例ではないよ。
(日本書紀・推古天皇20年条。当時在位中だった娘の推古天皇が自分の母に皇太夫人の名を贈ったとみられる。
蘇我堅塩媛は欽明天皇の大后ではなかったが、推古天皇は父の陵墓に母を合葬してしまっている)
長屋王はこの例を出してきて皇太夫人の名を贈ることを言ったに過ぎない。

それに対して「大御祖」とは天皇家の祖先を指す名称であり(天照大神を大御祖神と呼ぶ)
聖武天皇は藤原宮子をこれから天皇家の祖先として敬おうと言っている。
つまり、宮子が産んだ一粒種の聖武天皇とその子孫だけがこの国の天皇となる資格保持者であり、
それ以外の皇統を排除せよという聖武天皇の意思が込められている。
長屋王や吉備内親王、他諸々生き残っていた天智・天武系諸王たちから反感を買う内容であったと思われる。

32日本@名無史さん2014/01/21(火) 13:02:20.05
天武系の男帝は全員諡に「武」がついてる。
文武天皇と聖武天皇は病弱で「武」のイメージはないけど
天武系全員に「武」をつけてるのは何らかの意図があるのか?

33日本@名無史さん2014/01/21(火) 16:59:19.29
>>31
でも長屋王の変の時に生き残っていた天武天皇の皇子の舎人親王・新田部親王は
長屋王を擁護するどころか糾問する側に回ってるな。
藤原氏に逆らえなかったのもあるだろうけど、
長屋王は他の天武系皇子からも支持されてなかったってことだろう。

34日本@名無史さん2014/01/21(火) 17:24:02.80
>>33
新田部親王の母は藤原氏
母の藤原五百重娘は藤原鎌足の娘で天武天皇妃となったあと異母兄の藤原不比等と再婚
藤原麻呂(京家の祖)は新田部親王の異父弟。
外戚の藤原氏の庇護を受けていておかしくない。
尚、新田部親王の子・道祖王は当初、聖武太上天皇の遺言により孝謙天皇の皇太子だった。

舎人親王は分からないが、知太政官事として聖武天皇に次ぐ地位にあったために
あえて聖武や藤原氏に逆らう理由がなかったためか。
尚、舎人親王の子・大炊王は後に藤原氏に庇護され、淳仁天皇として即位している。

35日本@名無史さん2014/01/21(火) 23:17:15.10
>>31
日本書紀のその記述は、「郡」と同じく令制に合わせた修飾でしょう。確実な例は
宮子の例が初例。それに、少なくとも続日本紀の記事では公式令を引いている
だけで、蘇我堅塩媛云々は引かれていない。
で、最初は単に大夫人と呼ぶように命じていたのを、長屋王以下の奏上のおか
げで最初の勅を撤回し「文書では皇太夫人、口頭では大御祖」という詔を出す
ことになったのだから、直接には文句を言うような話ではないのでは?
特に、前者は「勅」だったのに対し後者が公卿の総意を前提とする「詔」だった
ことに大きな意味がある、という話もありますね。

36日本@名無史さん2014/01/22(水) 10:34:47.92
>>35
「続日本紀」に忠実に行くという割に、「続日本紀」には臣下に「皇」の名を贈ってはいけない決まりがあるのに
長屋王がこれを宮子に勧めて聖武天皇に恩を売ったなんてどこにも書いてないよ。
「続日本紀」に忠実に行けというのならば、すでに令に皇族臣下関係なしに天皇母に皇太夫人の名を贈る決まりがあったわけで、
長屋王は聖武天皇に恩を売ったわけでもなんでもない。
宮子が皇太夫人になるのは当然なのだから。

それに例え装飾だったとしても日本書紀に臣下皇太夫人の例があるのは大きなことだと思うが。
(藤原光明子は葛城磐之媛の臣下皇后の例を出してきて立后している)

37日本@名無史さん2014/01/22(水) 22:28:38.50
>>36
> 臣下に「皇」の名を贈ってはいけない決まりがあるのに
> 長屋王がこれを宮子に勧めて聖武天皇に恩を売ったなんてどこにも書いてないよ。
そりゃそうだろうね。で、誰がそんなことを書いたんだ?
もともとの話は、
> すでに令に皇族臣下関係なしに天皇母に皇太夫人の名を贈る決まりがあった
のに、なぜ「皇」のつかない「大夫人」を「勅」として出したのかという事。
河内祥輔、坂上康俊といった人たちは、敢えて令に反する「大夫人」を言い出した
うえで、臣下の総意として「皇太夫人」を推させたと論じているね。

38日本@名無史さん2014/01/23(木) 12:40:03.58
>>37
恩を売った話は>>30に書いてある。
>>31はそれに対する反論で、>>35がそれに食いついている。

>>37の説だと皇太夫人>>>>大夫人という前提が必要。
聖武天皇が謙遜してうちの母は大夫人でいいよ、と言ってみせておいて
群臣に皇太夫人を押させた(まんまと聖武の希望にかなった)ってことだろ。
聖武天皇は皇太夫人と書かせてもオホミオヤの読みを捨てていないのだから
最初から皇太夫人狙いだったとは思えない。
聖武天皇にとっておおみおや(大御祖・大夫人)>>>>皇太夫人であったことは間違いない。
ちなみに聖武天皇は初代皇太夫人・蘇我堅塩媛の血を引いていない。

最初の大夫人を勅で言い出したことも問題がない。
聖武天皇が「こうしたい」と言うだけでは勅しか出せない。
詔には公卿全員の署名が必要。
逆に詔に天皇の署名は必要ないので
勅は署名した聖武天皇の本心ではなく
聖武天皇が署名しない詔にこそ聖武の本心があるというのは無理。

39日本@名無史さん2014/01/23(木) 22:35:41.38
>>38
> 臣下に「皇」の名を贈ってはいけない決まりがある
なんていう不可思議なことを書いている奴は、>>36一人だけだよ。
河内説は、基本的には
> 聖武天皇が謙遜してうちの母は大夫人でいいよ、と言ってみせておいて
> 群臣に皇太夫人を押させた(まんまと聖武の希望にかなった)ってことだろ。
に近いが、「まんまと」ではなく最初からそういう芝居だった、ということだね。
いずれにせよ、「夫人(キサキ)」に単に大をつけた「大夫人(オオキサキ)」
の方が、「皇太夫人」よりはるかに上だというのは理解しがたいね。
ところで、オオミオヤと読まれているのは、即位の宣命では皇祖母であり、
皇太夫人の詔では「大御祖」。「オヤ」の読みは「祖」に対応しているんだが、
大夫人のどこにその文字があるのかな。

40日本@名無史さん2014/01/23(木) 22:56:31.32
藤原房前は長屋王排除には消極的で藤原四子の中では長屋王の変後も唯一昇進していない。
兄武智麻呂に先んじて参議になったり内臣(内大臣の前身か?)に任命されたり
武智麻呂の藤原氏長者の座を脅かすような出世を警戒され
長屋王の変後に政権首座となった武智麻呂に冷遇されたと思われる。

41日本@名無史さん2014/01/24(金) 17:22:17.92
>>39
「大夫人」に振仮名がついていないから「オオミオヤ」と呼ぶわけがない、
「大御祖」とは全く別物、というのはどうだろう。
聖武天皇がそこまで読みにこだわったのは「大夫人」として「オオミオヤ」と
呼ばせたためだと思うが。
聖武天皇が初めから宮子を皇太夫人と呼ばせたいのにわざわざ長屋王に天皇の間違いを指摘させ
詔を撤回させる意味もない。
律令に乗っ取って皇太夫人とする、と聖武天皇が初めから言えば、反対者が出るはずもないのに。

42日本@名無史さん2014/01/24(金) 21:44:24.86
>>34
長屋王を排除すれば自分が皇親最上位に立てるという思いもあったんだろうか。
それにしても皇親政治を終わらせた政変に当の親王が加担したとは皮肉な話。

43日本@名無史さん2014/01/24(金) 21:51:15.97
>>41
皇太夫人の方の記事には、「文書に記す場合には皇太夫人とし、
口頭では大御祖とし」というように、わざわざ口頭での呼び方を
指定している。
「大夫人」の前例がありオオミオヤという読みが常識であったなら
別だろうけど、夫人に大をつけただけで呼び方を指示していなかっ
たら、オオミオヤとは読みようがないのでは?

44日本@名無史さん2014/01/25(土) 16:21:48.22
ところで長屋王の長屋の意味は?
長屋首とか長屋臣とか養育に当たった氏族でもいたの?

45日本@名無史さん2014/01/26(日) 14:52:21.12
諱も気になる
なぜ長屋などと呼ばれたのか?

46日本@名無史さん2014/01/26(日) 15:37:01.64
白髪皇子(清寧天皇)とか舎人親王(舎人=従者)とかもいるからな

47日本@名無史さん2014/01/26(日) 16:55:09.84
>>43
長屋王が聖武天皇の頼みによってあえて聖武天皇が出した勅を撤回させて
長屋王主導で詔を出すことまで示し合わせるほどの強調体制だったのらば、
その後長屋王が討たれるはずはないだろう。
聖武天皇は縁故とはいえ天武系皇子の支援も受けていたからね。
詔の撤回が尋常なことであるはずがなく、
そのことで神経質な聖武天皇が喜んだとはとても思えない。
聖武天皇と長屋王が見事なタッグを周囲に見せつけて仲の良さをアピールしただけの事件だったとは解釈できない。

48日本@名無史さん2014/01/26(日) 18:01:24.89
長屋王は不比等の娘婿になっているくらいだし、不比等生前〜薨
去後しらばくは藤原氏との間もうまくいっていたんじゃないのかな。
はるか後代だが、師輔生前は娘婿として庇護を受けていた源高明
が、師輔が薨去した後で師輔の子たちにの安和の変で排除される
というような例もあるし。

49日本@名無史さん2014/01/26(日) 18:55:19.36
>>48
不比等は孫の聖武天皇の即位を見ることなく亡くなっている。
(宮子の称号事件の時には不比等はもういない)
藤原宮子の称号事件から長屋王の変までは5年で、
この間に長屋王が聖武天皇の機嫌を決定的に損ねる大事件というのは起こってないが。

50日本@名無史さん2014/01/29(水) 02:09:18.40
長屋王とは名古屋王。尾張の国(終わりの国)出身。
壬申の乱との共通点は調べましたか?

51日本@名無史さん2014/01/30(木) 23:38:54.54
長屋王に安宿王がいるんだから、
バラック王とかプレハブ王とかボロ屋王とか
掘っ建て小屋王とか廃屋王とか段ボールハウス王とか
そんなのが居ても良いような。

52日本@名無史さん2014/01/31(金) 21:05:24.02
バイク王やらホームラン王でしたら、なんとかご用意できます

53日本@名無史さん2014/01/31(金) 21:14:47.61
>>51
ようブルーシート王

54日本@名無史さん2014/01/31(金) 21:32:36.80
マジな話、王がいないからなあ
親王と内親王と女王しかおらん

55日本@名無史さん2014/02/01(土) 10:01:18.26
ホームレス王に、俺はなる
って、ホームレス王ってどんなだ?

脱線はこのくらいにして、結局長屋王をはめたのは、
聖武天皇?藤原朝臣武智麻呂?

56日本@名無史さん2014/02/01(土) 10:45:21.39
長屋王を排除して一番得をするのは武智麻呂で、聖武天皇も即位の可能性のある
長屋王とその妻吉備内親王、吉備内親王の皇子達を脅威に思っていた。
但し、親王二人と長屋王に次ぐ地位にあった多治比池守も長屋王排除に加担していて
長屋王を庇おうとする者が誰もいなかった以上、遅かれ早かれ失脚していた可能性が高い。

57日本@名無史さん2014/02/01(土) 13:29:26.70
なるほど、本人に悪気はなくても存在してるだけで周囲の人に邪魔に思われる。
そう言う巡り合わせの悪い人っているよね。
仮に出家したとしても、子供が邪魔じゃあやっぱり排除されたのかなあ。

58日本@名無史さん2014/02/07(金) 22:52:27.82
パックンはハーバードしか卒業してないから
英語は不安だろう

59日本@名無史さん2014/02/08(土) 08:49:52.04
大伴旅人は長屋王派とされるけど長屋王の変後に大納言に昇進してるから違うんだろうな。

60日本@名無史さん2014/02/10(月) 12:07:13.91
息子の一人(不比等外孫)は、後に藤原氏になってるけど、
その後の系譜不明の藤原氏に子孫が混じってるんだろうか?
他の息子達の子孫は高階氏とかだったよね。

61日本@名無史さん2014/02/10(月) 19:16:31.26
長屋王の邸宅跡は現在イトーヨーカドー

62日本@名無史さん2014/02/10(月) 23:30:34.53
なにげに現代まで血を残している(かもしれない)藤原弟貞(山背王)

山背王−女(藤原巨勢麻呂妻)−藤原黒麻呂−藤原春継−藤原良尚−藤原菅根−藤原元方−藤原致忠−女(源 満仲妻)−源 頼信…
…源 義朝−女(藤原能保妻)−女(西園寺公経妻)−西園寺実氏−西園寺姞子−後深草天皇……今上天皇

63日本@名無史さん2014/02/11(火) 00:01:25.49
高階氏の祖となった桑田王の子孫も大いに栄えている。

長屋王-桑田王-磯部王-石見王-高階峰緒-茂範-師尚-良臣-成忠-貴子(藤原道隆妻)-隆家-経輔-師信-経忠-信輔-信隆-殖子-後鳥羽天皇…今上天皇
長屋王-桑田王-磯部王-石見王-高階峰緒-茂範-師尚-良臣-成忠-貴子(藤原道隆妻)-隆家-経輔-師家-家範-基隆-忠隆-近衛基実妻-基通…近衛忠[火軍]

ただし高階師尚は在原業平の落胤だという俗説もあるが。

64日本@名無史さん2014/02/14(金) 23:05:45.81
黄文王の子孫は不明ってことで良いの?
そう言えば山背王も縁起でもない名前を付けてもらってるな。

65日本@名無史さん2014/02/15(土) 07:39:17.01
高階氏といえば高師直も高階氏の末裔。
子孫は意外と活躍してるね。

66日本@名無史さん2014/02/26(水) 22:41:38.87
>>64
山背大兄王?長屋王と同じく即位の可能性を危ぶまれて消されたんだっけか。

67日本@名無史さん2014/03/24(月) 22:31:39.17
山背王が臣籍降下したのは奈良麻呂の乱後。
同母兄弟の安宿王・黄文王が奈良麻呂の乱で失脚したから保身のためか。

68 忍法帖【Lv=9,xxxP】(2+0:5) 2014/04/13(日) 16:55:06.54
なるほど

69日本@名無史さん2014/04/14(月) 08:04:01.82
長屋王は本当に冤罪だったのか?

70日本@名無史さん2014/04/21(月) 11:09:37.75
長屋王が無罪ってことになると、
どう考えても冤罪の中心人物てことになっちゃうはずの人達がご先祖の、
南家・式家がまだ勢力を持っていた頃編纂の続日本紀に誣告ってあるんだから、
まあ、多少危ない言動(愚痴レベル)程度はあったかもしれないけど、
具体的なことはなかったんじゃないの。

71日本@名無史さん2014/04/21(月) 11:19:10.97
その罪だのなんだの決めてたのだれなんだや?
書いた人物の意見がでるわけだから参考になるぞ

72日本@名無史さん2014/04/21(月) 11:26:05.13
65
師直の家系は源義家の末子の方の弟が兄の義国についていって高階に養子に入ったあとに
足利の家宰になってるはずだけど?
詳しい話があったはずだがちょっと忘れたなあ

73日本@名無史さん2014/04/21(月) 18:01:15.01
長屋王に連座して解任された官人はほとんどいない

74日本@名無史さん2014/04/21(月) 21:33:44.86
>>72
師直の祖先の惟頼というのが実は義家の落胤でどうたら、って話は読んだことがある。
よくある出世した人物の仮冒話だと思ってスルーしたけど。

75日本@名無史さん2014/04/21(月) 21:37:56.13
>>67
山背は藤原姓を名乗って臣籍降下するという父や兄弟に顔向けできないことをやっちゃってるよな。
母が藤原氏というのが辛うじてエクスキューズになってるけど。

76日本@名無史さん2014/04/21(月) 21:40:45.02
74
足利辺りのかなりの荘園を相続してるのにか?

77日本@名無史さん2014/04/21(月) 21:45:11.44
けっこう広い荘園持ってたんだよなあ
伊達に家宰になったわけじゃないだろ

78日本@名無史さん2014/04/21(月) 21:49:31.49
義国が土着した時点でかなりの独立した勢力は持ってたよ

79日本@名無史さん2014/04/21(月) 21:50:14.56
義国が土着した時点でかなりの独立した勢力は持ってたよ

80日本@名無史さん2014/04/21(月) 21:54:57.24
最近、スレ違いの話題を連投する、日本語の不自由な人をよく見かける

81日本@名無史さん2014/04/21(月) 22:24:37.08
日本語理解できないんだね^_^

82日本@名無史さん2014/04/21(月) 22:31:11.84
うん
末子の方の弟
とか、理解できないな

83日本@名無史さん2014/04/21(月) 22:35:50.95
義家の末子←対象
弟←義国にとって

日本語伝達むずかしいだろ

84日本@名無史さん2014/04/21(月) 22:41:12.12
主語の見方を自分にとるか相手に合わせてとるかでまったく意味がちがってくるからな

85日本@名無史さん2014/04/21(月) 22:48:53.04
これは経験上、どっちを取るかは完全に人によって二種類に分かれる

86日本@名無史さん2014/04/21(月) 23:09:05.13
文章の途中で主語が入れ替わったり
人によって異なる意味に読めてしまう文章は悪文
つまり下手くそな文章

87日本@名無史さん2014/04/22(火) 06:34:09.35
日本語は非合理的だなぁとはつくづく思うわ。。
古語だと、現在以上に書いてなくても「察しなさい」的なことが多すぎる

88日本@名無史さん2014/04/22(火) 12:19:41.82
>>75
臣籍降下すること自体は問題ないけど自分の父、義母、兄を
死に追いやった藤原氏の姓を名乗るというのは苦渋の決断だっただろう

89日本@名無史さん2014/04/22(火) 20:27:28.17
アパート王

90日本@名無史さん2014/04/22(火) 20:56:53.82
橘奈良麻呂の変と比べて連座で処罰された者がほとんどいないって不気味だな。
長屋王派とされてる大伴旅人ですら後に大納言に出世してる。

91日本@名無史さん2014/04/22(火) 23:31:32.90
たぶん本人の言動も性格も関係なく、存在自体が支配者層全体にとって迷惑だったんだろう。
皇族とか王族とかご一門とかでそう言う人って時々いるよね。

92日本@名無史さん2014/04/23(水) 13:18:13.76
>>89
息子の一人はホテル王。

93日本@名無史さん2014/04/23(水) 13:24:48.60
ホテル王www
まあそういうやつって威張ってるけどな
問題なのは関係のないやつにまで強制するようなところがあるとこかなあ

94日本@名無史さん2014/04/23(水) 18:39:47.25
長屋はほてるじゃないだろ
あばら屋王だろ

95日本@名無史さん2014/04/23(水) 19:38:32.05
息子ってあるから安宿王のことでは?
>ホテル王

96日本@名無史さん2014/04/23(水) 20:31:19.81
>>91
吉備内親王の夫で親王扱い、父親は太政大臣とくれば誰からも疎まれるわな。
後ろ盾になってくれそうな吉備内親王の同母姉元正上皇も
長屋王と吉備内親王の粛清を黙認したし。

97日本@名無史さん2014/05/02(金) 13:06:02.95
>>2
前スレ
〜長屋王 Part1〜
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1090338190/
親スレ
【奈良時代の★女★政治家達】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1076250016/

98日本@名無史さん2014/05/02(金) 21:05:16.09
奈良時代の「長屋」も現代の建物って意味なのか?

99日本@名無史さん2014/05/03(土) 13:56:18.67
適当な理由を付けて一家皆殺し。
恐ろしい連中だね。

100日本@名無史さん2014/05/03(土) 14:03:27.41
レオパレスの社長と東横インの社長ってとこか。

101日本@名無史さん2014/05/03(土) 17:43:28.24
血のつながった親戚同士での殺し合いを連綿と続けてきた。
政治とか別の問題で、ただただ地位と権力が欲しいだけ。

102日本@名無史さん2014/05/07(水) 17:43:20.87
皇族や藤原氏に限ったことでもないし、時には正当防衛の場合もあるだろう

103日本@名無史さん2014/05/07(水) 18:24:51.91
社名で性格が決まるのかw
すげえな

104日本@名無史さん2014/05/10(土) 19:39:35.48
なんか追放された人ね

105日本@名無史さん2014/05/20(火) 14:30:19.11
>>99
長屋王の父高市皇子だって壬申の乱で従兄弟の弘文天皇殺害の指揮を執った人物だし
あの時代には普通のことでしょ

106日本@名無史さん2014/05/21(水) 22:13:35.84
その高市皇子も暗殺疑惑があるしな

107日本@名無史さん2014/06/02(月) 05:15:43.42
【NHK】百田氏「貧乏長屋」発言を釈明も謝罪なし 「講演出ても、笑いがないと寂しくなってくるんで」
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401623524/

108日本@名無史さん2014/06/02(月) 09:56:52.21
>>98 母親が中殿で無く長屋局住まいだったのかも知れないな

109日本@名無史さん2014/06/02(月) 09:57:57.28
ところでレオパレスって儲かるの?

110日本@名無史さん2014/06/02(月) 10:12:52.32
長屋って江戸時代の一般的な町民の居住区じゃん

111日本@名無史さん2014/06/02(月) 10:17:27.43
昔の城の防壁みたいので百メートルくらい続いてるのようなのが長屋のモデルだろ

112日本@名無史さん2014/06/02(月) 11:43:05.15
当時はガチ韓流時代だったんで中韓では後年まで繰り返されがちだった都房政治派によるクーデター失敗事件だったのかも

113日本@名無史さん2014/06/13(金) 17:49:06.60
ただ政変後に長屋王派として失脚した者がほとんどいないというのがな

114日本@名無史さん2014/06/17(火) 19:09:58.23
>>108
長屋王の母は天智天皇の皇女・御名部皇女
元明天皇の同母姉という貴種なのに、長屋局なんかに住むわけないじゃんw

115日本@名無史さん2014/06/17(火) 19:29:14.60
どうでもいいんじゃまいか?

116日本@名無史さん2014/07/04(金) 20:13:40.65
>>112
長屋王は格好の神輿になりそうだよね

117日本@名無史さん2014/07/23(水) 20:35:26.15
長屋王-桑田王-磯部王-石見王-高階峰緒-茂範-師尚-良臣-成忠-貴子(藤原道隆妻)-伊周-藤原頼宗妻-俊家-全子(藤原師通妻)-忠実-忠通…五摂家

118日本@名無史さん2014/08/10(日) 19:15:37.96
長屋王粛清後から数年間は左大臣も右大臣も置かれなかった

119日本@名無史さん2014/09/14(日) 08:54:09.06
46歳か54歳かどっちだ

120日本@名無史さん2014/09/14(日) 14:26:27.35
皇族の名前って地名や氏族の名前が多いから、
長屋王の名前の由来も地名かなって考えたが、
それらしき地名が見つからんかった。

121日本@名無史さん2014/09/14(日) 14:35:57.22
山辺郡長屋郷ってとこがあったらしいんでそこじゃないのかな。
今の天理市あたり。

122日本@名無史さん2014/10/01(水) 21:01:53.25
不比等の生前は不比等の娘婿として藤原氏との関係は悪くなかったはず

123日本@名無史さん2014/12/07(日) 11:28:56.36
生駒に行きたい。。

124日本@名無史さん2015/07/06(月) 12:26:27.44
>>14
亀レスだが
古代の皇位継承は、三十過ぎだって仮説を読んだことがある
官僚機構が未整備な古代では、トップの判断力や経験値が必要だった
天武が亡くなった時、草壁はまだ三十前だった
ていうか三十前に亡くなっているわけで
母親の持統が即位したが、孫が三十になるまで生きられない
と思って、年齢制限撤廃と直系継承に変えるために
官僚機構を整備したのだと思う
自分が元気な内に孫に皇位を譲り、しばらくは後見するつもりで
大友も天智が亡くなった時に、まだ三十前だった
母方の出自だけでなく年齢もネックになったのでは?

125日本@名無史さん2015/07/09(木) 22:09:48.43
厩戸皇子が即位できなかったのもそこらへんの事情だったのか

126日本@名無史さん2015/07/09(木) 23:42:53.36
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

127日本@名無史さん2015/07/09(木) 23:46:03.53
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

128日本@名無史さん2015/08/16(日) 08:56:22.89
貴族なのにアパート暮らし

129日本@名無史さん2017/02/06(月) 07:03:28.26
684よりは、前に生まれていると思う
懐風藻まで引き上げられるかは、わからないが

704年の初叙の記事だけど、続日本紀の前後の記事では、蔭位による叙位が行われた、最初の記事
蔭位による叙位は、正月とかにまとめて行っているわけだが、704年以前には、そういった集団叙位が行われていない

130日本@名無史さん2017/02/07(火) 11:33:10.47
680年より前にはならない、かな
700年時点で、21になっていたなら、浄⚫⚫とかの位を貰っていたはずだから

大宝律令移行は、しばらく蔭位による叙位が行われていない
681から684の間ってところかな

131日本@名無史さん2017/03/27(月) 15:03:01.23
>奈良の商業地にささやかれる「長屋王の呪い」 
>「そごう」「ヨーカドー」が相次ぎ閉店
>怨念は晴れるのか

http://www.sankei.com/west/news/170327/wst1703270003-n1.html

132日本@名無史さん2017/03/31(金) 13:50:24.89
長屋王を祀った神社を知りませんか

133日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:19:50.29
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

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134日本@名無史さん2018/07/12(木) 17:05:22.45
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

7QM

135日本@名無史さん2019/04/15(月) 02:14:53.33
>>121
へえ〜
「デカイ邸宅に住んでるから長屋王」だと漠然と思ってた

136日本@名無史さん2019/04/15(月) 03:21:43.18
長い谷か蛇の谷でナガヤだね

137日本@名無史さん2019/04/15(月) 03:26:42.07
熊が蛇を嫌うので蛇が多い谷は熊があまり出ない事になるから
山岳民である山辺の民が定住するには丁度いいわけだな

138日本@名無史さん2019/04/15(月) 22:18:50.64
>>119
46歳です

139日本@名無史さん2019/05/15(水) 14:01:36.66
>>138
根拠は?

140日本@名無史さん2019/05/15(水) 19:52:02.65
54歳説の史料根拠は懐風藻だけ、それに対して46歳説は、公卿補任、尊卑文脈、扶桑略記
帝王編年記、本朝皇胤紹運録などの複数史料が根拠になっているからです

141日本@名無史さん2019/07/08(月) 12:16:37.15
長屋に住んでる王様なんているもんか!

142日本@名無史さん2019/07/29(月) 16:25:38.39
>>140
懐風藻は奈良時代の編纂だが
それ以外は平安時代末期〜室町時代に編纂されたものだぞ

143日本@名無史さん2019/07/29(月) 19:49:38.91
懐風藻が間違っていたから、後の史料が54歳説を採用しなかったでのしょう

144日本@名無史さん2019/08/01(木) 09:40:48.48
>>143
何百年もあとの人がなんで懐風藻は違っていると分かったの?

145日本@名無史さん2019/08/01(木) 14:36:34.16
>>144
懐風藻の54歳説がその後に史料に全く反映されなかったのが間違いだった事の証だよ
大宝四年に21歳で正四位上に初叙されたから46歳説が正しい

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