武家公家の家格について語るスレ

レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
1日本@名無史さん2013/04/29(月) 17:04:24.21
この手の話題が盛り上がるのでスレッド立ててみました。
家格についての話題なら何でも結構かと思います^^

2日本@名無史さん2013/04/29(月) 18:16:33.05
公家って分家と本家の家格が同じ所多いよね。

3日本@名無史さん2013/04/29(月) 21:07:39.97
幕末が好きでよく本を読むんだけど、イマイチ武家の家格がよく分らない
現代でいうとどのくらいのレベルなのか、簡単に分かる方法はないものか

4日本@名無史さん2013/04/30(火) 09:05:58.66
御殿人(みあらかんど)一族の武家は?

5日本@名無史さん2013/06/28(金) 23:01:43.87
>>3
徳川将軍家=清華
徳川家分家=大臣家
大大名=平公家
大名=官務家
大身旗本=諸太夫

6日本@名無史さん2013/06/30(日) 22:03:48.83
>>5
徳川分家って御三家でも大納言か中納言どまりじゃなかったっけ?
大臣家は大臣を出す家じゃなかったけ?
だから徳川分家は羽林相当では?
ただ明治の華族制度では
将軍家が公爵、御三家や前田あたりの大大名が侯爵になってるよね。
このあたりの区分はどうなんだろ?

7日本@名無史さん2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN
>>6
将軍家、御三家、御三卿は公爵、侯爵、伯爵と決められた。
大名は現高で決められて、最大でも侯爵どまり。
公爵になった家は維新勲功が加算されてる。
公家は摂家が公爵、清華が侯爵、大臣家と上位平堂上が伯爵、それ以下は子爵。
男爵は家老や大身旗本で実高が万石を超えた家や奈良華族等の特殊な家で当初は少なかった。

8日本@名無史さん2013/10/09(水) 12:42:03.63
摂家は別格だけど
清華家や大臣家は何か優遇あったのでしょうか?

9日本@名無史さん2013/10/09(水) 14:22:55.31
大臣にまで昇れることじゃないか?
羽林家以下ではそこまでの昇進は基本的に無理だし

10日本@名無史さん2013/10/09(水) 19:39:38.50
・国主、国主格、城主、城主格、無城陣屋、という本拠地の規模や住まいでの基準
・江戸城の控え席による基準
・冠位による基準

江戸時代はこの三点が絡んでややこしい

11日本@名無史さん2013/10/10(木) 10:19:41.96
将軍家は清華相当でしょ。
太政大臣になれるのと女御をだせる特権が重要なんじゃ。
天皇、関白、摂政、太政大臣と一上以上になれば、
国政の決定に関与できる立場になるからじゃ?
そすれば、公家、武家と両方を掌握できるからじゃ?

12日本@名無史さん2013/10/10(木) 19:20:55.89
豊太閤は徳川将軍家より上ぢゃの。
なるほど、なるほど。
殺生関白ですら、家康以下より上位を占めているナ。

13日本@名無史さん2013/10/10(木) 20:17:56.51
>>11
清華家風情で代々連続して大臣に叙されたことなどないでしょ。
将軍家は常に大臣に叙されているから、清華家よりは上に扱われている。

14日本@名無史さん2013/10/10(木) 21:42:20.84
>>11
秀吉の時は別として、足利義満以降の将軍家は摂家よりも格上とみなされている。
この時代になると家格が重視されているし、家格は官位とは必ずしも連動していない。
鎌倉期でも、執権、得宗の権威が確立した後の方がむしろ官位が低い傾向があると
いうし。むろん、後期の方が早逝していることが多いということの影響も大きいだろうけど。

15日本@名無史さん2013/10/12(土) 11:41:31.06
>>13
武家官位は公家官位の外の為、家格の上下の比較はナンセンスだと思う。
常に大臣に任じられている(叙は位の場合なので官位の時は任になる)と言うが、
これは将軍に付随した肩書きと言うべきで、従って七代家継のように、
満三歳二ヶ月の幼児が将軍になっても自動的に正二位内大臣右大将が与えられる。
初代家康が従一位太政大臣になっている為、一応これが極位極官の先例になっており、
しかも大将は右大将であるところから見て、強いて言えば家格的には清華家相当と
みなすのが妥当だと思われる。
近世の朝廷は家康に意向で摂家の権威が非常に高められ、それを以て朝廷統制を図った。
しかし、それ以前は三公や左右の大将を清華家が独占した事もあったし、
決して清華家風情と呼ばれるものではないし、大臣就任も早世さえしなければ、
家格通り必ず大臣になれた。
摂家と言えども、全員が連続して摂関に任じられた訳ではなく、九条家は近世当主14人の内、
6人しか摂関になっておらず、二条家も宗煕以後六代にわたり、摂関になれなかった。

16日本@名無史さん2013/10/13(日) 01:23:18.47
ナンセンスを言うなら武家の序列を公家の家格に当てはめること自体がナンセンス

17日本@名無史さん2013/10/13(日) 11:41:08.89
武家官位は公家官位の外とはいえ、一応律令官制の身分を帯しているので、
あながちナンセンスでもないだろうよ。

18日本@名無史さん2013/10/13(日) 11:51:35.03
室町期でも江戸期でも将軍の権威・権力が摂関を上回っていたことは疑いないのに
それが清華と同等になるという時点でやってることがナンセンスだと気付かないのか
>>5に突っ込むのも面倒だがイコールの両側に当時そういう感覚があったとはとても思えないし
武家の家格を官位の点のみで考えること自体が実態とかけはなれている
まあ分かっていながらも名目でしかなくなった律令官制マンセーな公家ごっこで遊びたいのね

19日本@名無史さん2013/10/13(日) 11:57:46.16
摂家にしても将軍家にしても、家格の主要な部分は「摂関」なり「征夷大将軍」
になるというところでしょう?
そこを無視して清華相当だなんだと語るのはナンセンスだと思うが。

20日本@名無史さん2013/10/13(日) 11:59:52.76
>>18
公家の官位にしても、摂家の中少将に大中納言が道を譲るという
礼が確立していた状態だしね。

21日本@名無史さん2013/10/13(日) 16:36:40.75
秀吉の代にも家格作りがあったんだよねえ。

摂関家相当=豊臣宗家
武家清華家=豊臣庶家、5大老家、他
その他侍従、布衣。

22日本@名無史さん2013/10/13(日) 16:54:39.32
圧倒的な武力を背景にした権力を持った将軍が、摂関を上回っていたのは事実だ。
しかし、その将軍も自身の権威付けとして将軍位他の官位を受けている。
公家官位の外なら、それ程権威・権力のある将軍の力をして就任時にいきなり、
極位・極官の従一位太政大臣にならないのか?大将だって左大将を取ればいい。
しかし、実際は正二位・内大臣・右大将という典型的な清華家の官位でしかなく、
ここに将軍の地位の限界と矛盾がある。
武家の家格は三家・三卿・国持ち・城主など領国規模に関わる家格があるが、
この家格はほぼ変動する可能性は少なく、従って大名達の関心は官位の上昇に向く。
固定された封建体制下において、可能性のある自家官位の上昇志向は凄まいものがあり、
有名な会津松平家と井伊家の四位・中将の先任争いなど、その一例だ。
封建下の武家統治方としての武家官位はもっと研究されるべき。

23日本@名無史さん2013/10/13(日) 17:25:47.13
>>22
そういえば征夷大将軍の官位の前列は
家康以前だと
源頼朝 右大将
源実朝 右大臣
徳川家康 内大臣
だよね。

他の将軍の前例はどうだろう?
他になかったら前例に倣ったとも言えるかも。

24日本@名無史さん2013/10/13(日) 17:32:17.37
>>22
頼朝、家康は将軍就任以前の官位ね。
頼朝、家康が先例だと「吉例」となる気がするんだ。

25日本@名無史さん2013/10/13(日) 17:37:08.36
>>22
将軍家の官位だけを抽出すると清華相当というのはその通り
武家が覇者となっても公家の世界というか律令官制では最高峰でなかったというだけで
将軍家の家格が清華家と同等だなんて言うからナンセンスになるわけ
実権を失った天皇や公家が滅ぼされることもなく位の上では極めて高位を維持しながら存続したことのは日本史の大きな謎だわな

26日本@名無史さん2013/10/13(日) 18:18:37.98
徳川将軍家が要求すれば太政大臣でも関白でも望みのままだろ。
朝廷としてはむしろ、実態の権勢に相応しい官職に就いてもらいたいはず。
官位官職が下の者が絶大な権力を持つという構造は、名目的にも朝廷が形骸化するから。
朝廷は力と位が一致してもらわないと困る。

27日本@名無史さん2013/10/13(日) 18:32:16.87
>>22
摂家と清華の差は、左大将任官の有無かね?「摂関に就けるかどうか」
だろ?将軍家にしてもしかりで、前例・家例踏襲以上の装飾的官位は
必要としなくなった後の話だ。
室町時代には、将軍よりも官位の高い公家や大名も存在していたが、
彼らも将軍に伺候する立場であったことに変わりはない。
権威確立後、鎌倉中・後期には得宗の官位が比較的低くなっていたと
いうのも、「官位で飾る必要がなくなったから」だと指摘されている。
江戸時代にしても、大名統制の一つに官位を使った関係上、将軍家も
大名を超越した官位は必要としただろうが、
> 極位・極官の従一位太政大臣にならないのか?大将だって左大将を取ればいい。
無駄に装飾的な官位よりは吉例を優先させたんだろう。右大臣の将軍
でも、公家の左右大臣や摂関より上座に着したということだし。

28日本@名無史さん2013/10/13(日) 18:32:41.16
官位は家格であり、家格は官位だ。
武家の棟梁、天下の覇者と言ったところで、律令体制の官位体系に準じている限り、
将軍と言えども当然極位極官が決まっていれば、官位発給元の朝廷の家格に
相当されても文句は言えない。
それが嫌なら無官か、独立した独自の官位体系を創設すればいいだけの話。
大体が、征夷大将軍などと言う卑官すら朝廷から授けられているんだからね。

29日本@名無史さん2013/10/13(日) 18:33:42.78
>>22
> 封建下の武家統治方としての武家官位はもっと研究されるべき。
近世武家官位も中世武家官位も、すでに多数の研究がなされている
が、それらをレビューしたうえで「不足だ」と言っているのかな?

30日本@名無史さん2013/10/13(日) 20:00:52.05
元服後いきなり権大納言というのは、徳川将軍家だけだね。

31日本@名無史さん2013/10/13(日) 20:13:26.82
このめんどくさい奴を清華くんと呼ぶことにするか

32日本@名無史さん2013/10/13(日) 20:24:48.62
ひでおくんと呼んでやろう

33日本@名無史さん2013/10/13(日) 20:28:26.14
ひでおw

34日本@名無史さん2013/10/13(日) 20:29:22.30
>>32
31ですが英雄に賛成ですw

35日本@名無史さん2013/10/13(日) 20:39:24.56
>>29
吉川弘文館の日本歴史、それに同館や続群、岩田書院などからも刊行されているし、
学習院大の人化研、東大史料編纂所など大学でも研究されているのは知っている。

あなたがどの様な研究書を知っているのか分かりませんがね。

36日本@名無史さん2013/10/13(日) 20:56:52.21
公家の家格は官位が殆ど全てだろうけど
武家の家格は官位もさることながら石高や将軍家との親疎など
わざと多重構造になっているのに官位にしつこく拘泥する意義がわからん
がっちり徳川幕藩の封建体制が固まってしまってからは石高や親疎が変わることは稀だから
官位の点で諸大名が競ったというのも間違ってはいないが
だからといって官位の点から大きく家格が変動したということも無いから結局は瑣末な大同小異
とにもかくにも持論に強い自信があるのならこんなところで油を売ってないで
将軍家は清華家レベルの家格でしかないんだ律令官制での武家の限界だ
みたいな論文を書いてどっかに載せてもらいなよ

37日本@名無史さん2013/10/19(土) 16:21:18.23
将軍家は摂関家相当でも清華家相当でもなく、『将軍家』だろ…どう考えても。

38日本@名無史さん2013/10/19(土) 21:47:35.62
定規の目盛に貴族と同じ官位を流用しただけで、
測る対象が相互に比較可能と否かは別の問題だと思う

39日本@名無史さん2013/10/20(日) 07:23:30.97
>>37
全く以てその通り

>>38
石高で見れば摂関は旗本・家老で名家は御家人・下士だ
有名無実の官位だけ抽出して論じても意義が無い
官位だけ語りたいなら官位スレでやればいい

40日本@名無史さん2013/10/20(日) 11:51:49.18
ここは武家公家の家格を語るスレでしょう?

ならば朝廷も幕府も同じ律令官制を帯している限りは、比較してもいいじゃん。
将軍の力を持ってすれば摂関にでもなれると言うのも事実だとしても、
正二位内大臣右大将(極位極官は従一位相国)と定めたのも将軍だよ。
と言う事は、これが将軍家の家格になる。律令官制下の家格に将軍家と言う家格が無い限り、
公家の清華家相当と言う比較があってもおかしくはないと思われ。
書き込みをみても、誰も清華家とは言ってはいなくて、相当と言っているだけ。
比較遊びなんだから、ぐだぐだ言う事でもないだろう。

41日本@名無史さん2013/10/20(日) 12:18:53.86
>>40
> 律令官制下の家格に将軍家と言う家格が無い限り、
律令官制下には摂家だの清華だのと言う家格も存在していない。
どれも、「武家(将軍家)」という家と並行して成立してきた格式。
そもそも狭い意味での極位極官を言うなら、摂家も清華も従一位
太政大臣で相違がない。摂家と清華を分ける決定的な違いは「摂関」
だし、将軍家と摂家や清華以下を隔てるのは「将軍」。
本質を無視して語るなら、摂家も清華相当という、無意味な話にし
かならんぞ。

42日本@名無史さん2013/10/20(日) 13:04:08.86
>>41
>将軍家と摂家や清華以下を隔てるのは「将軍」

将軍職自体は公家の官位的には4-5位相当の取るに足らない官位で摂家清華は誰も欲しがらないような官位だが?
天下を取った武士が追認という形で将軍職を賜るだけであって将軍だけでは上級公家と釣り合いが取れないから大臣なり
右大将なりの官位を得ていたということ。

将軍が偉いのは事実上の日本の統治者という事実であって将軍職ではない。

43日本@名無史さん2013/10/20(日) 13:37:58.42
>>42
征夷大将軍の官位相当なんてあったか?
それに、摂家だ清華だというような家格が確立する時期には、征夷大将軍は
頼朝から始まる「公卿の就く地位」になった後だ。
源氏三代の後の摂家将軍以降の将軍家は「上級公家」そのものだし。
> 律令官制下の家格に将軍家と言う家格
なんていうとんちんかんな話を持ち出すようではどうにもならんだろうが、
「自分の珍奇な思いつき」に固執して珍論を並べ立てるのはやめてくれ。

44日本@名無史さん2013/10/20(日) 15:04:43.98
そもそもの話をしだすと、摂関内覧も令外官だし、家格というのも鎌倉以降のできた。
なので、将軍家というのは、将軍家になる。
摂関家は、何相当というぐらいナンセンス。
将軍家特有の官位ルートもある。

45日本@名無史さん2013/10/20(日) 17:00:16.27
>>44
令外官は関係ないし、家格は鎌倉以降というが、将軍家も鎌倉以降だから。

46日本@名無史さん2013/10/20(日) 17:15:22.03
語れば語るほど珍妙さが増してくるなw

47日本@名無史さん2013/10/20(日) 18:03:43.26
承久の乱以後公武の力は逆転し、摂家将軍、宮将軍による権威の高まりは、
公家の棟梁たる摂家と武家の棟梁たる将軍を同格と見なすようになった。
そしてその権威は足利義満の時に頂点に達し、皇位簒奪を企てたとされている。
皇位への裏付けとなる天皇の血統を示す源氏の象徴は将軍であり、
義満にとってその他の官位など、単なる飾りに過ぎなかった。
徳川将軍も公家に対して領知宛行状を発給する事によって、公家を家臣化している。
将軍から領知宛行状を授けてもらう摂家と将軍家の関係も、これで明らかだろう。
将軍である以上、その他の官位は飾りに過ぎず、将軍家は家格を超越している。

48日本@名無史さん2013/10/21(月) 02:33:27.11
室町殿などは(また徳川将軍家も)「飽くまでも官位から見れば」清華と言うしかないと思う。
(明治期に平島公方家や義輝裔と称する熊本藩士が華族取立を願った際に足利家は清華衆だからという理由を述べているし、他に清華と呼ばれていた史料を見たことがあるけど失念)
それは官位を基準として摂家を頂点とする旧来の家格制度が新興の権力者に対して適合しにくかったというだけで、
事実上の日本国王として摂家以下の拝賀を受けていた等の事実とは矛盾しないと思う。
これは過小評価というより評価装置の方が力不足なのだと言える。

余談だが、現在では「清華家」という言い方が普通に通用しているが、史料や文献には「清華」という「家」を付けない形ばかりが表れている。
「摂家」「大臣家」「羽林家」「名家」「半家」など皆「家」が付くので、それに引きずられる形で「家」が付くと誤解されてきただけで、単に「清華」と呼ばれていたのが正しいのではないか。
ちなみに「名家」も「めいけ」でなく「めいか」が正しいのではないか。

49日本@名無史さん2013/10/21(月) 04:07:00.68
>>48
明治の叙爵では、武家は石高しか基準にならなかったんだもん、
公家の分家や支流でございと言うしかないじゃん。

摂家と清華とを、摂関に就けるか否かという最重要ポイントで区別しているのに、
清華と将軍家とでは、征夷大将軍や武家の棟梁としての地位を取り上げないのはナンセンスだろ。
将軍家を公家の家格に無理矢理当てはめても、該当するポジションが無いんだから、
将軍家は将軍家という特別かつ隔絶した家格とするのが妥当。

明治の叙爵でも、旧将軍家の徳川家達や前将軍の徳川慶喜は、清華として侯爵というわけではなかったし、
喜連川家は室町将軍家の後裔と見なせるのかどうか知らないけど、子爵にすぎなかった。
実際の典礼や儀式・書式で将軍家を清華に準えて扱ったという例でもあるの?

将軍家と清華の比較の話ばっかになってるけど、
そういう比較が意味あるなら、他の武家でも>>5みたいになるのかね。
どうも無理矢理な感じしかしないんだが。

50日本@名無史さん2013/10/21(月) 06:28:31.79
摂関家も清華家も極官になれるかなれないかは未定、将軍家は征夷大将軍になるやつの官位ルート。
この辺もほかの家格と異なる。

51日本@名無史さん2013/10/21(月) 12:04:15.15
武家の官位は朝廷への儀礼的なバランスに過ぎない。
春日局が参内しようとした時に無官である事が問題になったように、その為の官位に過ぎない。
事実として天皇と朝廷組織を構成する公家の官位制度を幕府が認めている限り、
その儀礼関係のひとつの要素として官位の存在を欠かす事は出来ない。
将軍位がすでに摂関と同等又はそれ以上(領知宛行状の関係を見ても完全に主従)と認識されて
いるのであれば、二位内府から一位相国に進める将軍の官位はバランスとしても最高位だ。
それと員数の問題もあったのだろうが、武家官位を公家官位の外としたのも、
公家の家格に囚われず、超越した将軍家の立場を示そうとした家康の考えだと思う。

52日本@名無史さん2013/10/21(月) 13:56:32.08
単純に定員があるからじゃ?

53日本@名無史さん2013/10/21(月) 18:05:53.63
>>49
華族取立願いの話は爵位というものが設定される以前の話だよ。
それに後にできた叙爵内規も公表されたものではないからその反論は成り立たない。
また喜連川は室町殿の裔ではない。

わざわざ室町期の話まで持ち出したのは、「近世に完成された」「将軍」を頂点とする秩序を「それ以前の時代」に投射して、あたかもアプリオリに最初からそうであったかのように考える倒錯的な思考に釘を刺しておきたかったから。

そもそも頼朝由来の象徴的な価値があるとはいえあくまでも卑官に過ぎない征夷大将軍を摂関や大臣に比すべき官職と思い込んでいるのはいただけない。
例えば将軍職は室町殿(足利家督)その人でなく家督継承予定者が就くこと(義持・義量・義尚など)や、五位で就くこと(古くは実朝の例)さえも珍しくなかった。
簡単に言えば将軍だから偉いのではなく、偉い人が将軍職に就いただけ。

ちなみに「将軍家」という語は家格の名称としてでなく、将軍職にあるその人を指称する表現として使われる方が圧倒的に多い。
例えば「室町殿」とその子である「将軍家」という風に。
「将軍職を世襲するから将軍家だろ」と言われれば敢えて否定する気はないが、江戸幕府のプロパガンダを鵜呑みにして将軍職そのものを有り難がる思潮は近世武家権力を真に解明するのに邪魔だから前世紀で終わりにしてもらいたかったね。
それと「武家の棟梁」のような曖昧な概念を無批判無媒介に使用しないでくれ。

54日本@名無史さん2013/10/21(月) 18:06:34.63
続き

一方で官位を基準とする旧来の家格制度があり、他方でそれを事実上の権力で凌駕した武家がある。
前者が後者を評価するときにその事実上の権力に比して不相応に低い地位を与えるというエラーを起こしたって不思議はない。
「あくまでも官位を基準とすると」室町殿や江戸の公方は清華と考える他ない。

ところでここまで「事実上の権力」という表現を用いて来たのは、室町殿や江戸の公方が朝廷から如何なる権能をも「事実上」与えられていないことを強調するためだ。
「名目上」は征夷大将軍源氏長者内大臣右大将等を与えられている(そしてその限りでは「清華」と評価せざるを得ないかも知れない)ものの、それだから何だと言うのか?
それらがその権力に相応しいものではないのは明白であり(就中将軍職は不当と言えるほどに低いと言える)、その「名目上」と「事実上」の乖離を笑い話にすればいいだけの話。

中世から近世にかけての権力の歴史は、朝廷の秩序からすれば卑賎そのものでしかなかった武士が逆に朝廷を規定しうる存在となっていった歴史と見ることができる。
しかし近世武家権力の比較を絶したあり方をいくら目の当たりにしようとも、尚官位からすれば「清華」と見ることができてしまうということがいわば問題なんだよ。
宮中の座次からすれば確実に摂関よりは下座になりかねない(実際幕末に家茂が上洛した折りには「内大臣」の座次に甘んじたという)のだから、いっそのこと内大臣その他の官位などは謝絶すれば良かった。
それなのにそれをしなかった。

将軍はもっともっとすごく偉いんだ!と言っていれば済むレベルの話ではないんだよ。
議論についてもっと立体的に考察できないものかね。

55日本@名無史さん2013/10/21(月) 19:17:20.54
豊家は事実上本家が断絶した摂家ということか。

56日本@名無史さん2013/10/21(月) 20:09:58.33
>>54
>家茂が上洛した折りには「内大臣」の座次に甘んじた
既に権威が失墜して、内親王の降嫁を仰がなければならなくなった
家茂の時代だからこそ甘んじたんだろ。

57日本@名無史さん2013/10/21(月) 22:07:07.93
叙爵内規が公表されたものでないということが、なんの論拠になると
考えているのか理解できないが、
公爵:一条、岩倉、九条、近衛、三条、島津2家、鷹司、徳川(宗家)、二条、毛利
侯爵:大炊御門、花山院、菊亭、久我、西園寺、醍醐、徳大寺、中山、広幡
   徳川(旧三家)、浅野、前田等々
という顔ぶれを見れば、少なくとも当時の人間には「家柄での公爵が摂家と
徳川宗家、侯爵が清華と大大名」だということは明白だった。嵯峨実愛が日記に
記しているとおりにね。後、
>足利家督その人でなく家督継承予定者が就くこと
は明白な誤解ですよ。家督を譲り隠居、出家したまま権力をふるうのは、天皇家の
「治天」や摂家の「大殿」等々、当時の通例。古くは藤原道長生前の摂政・関白頼通
という例もあるが、まさか摂関も「家督継承予定者が就くことさえも珍しくなかった。」
とは言わんでしょうな。
それと、
> ちなみに「将軍家」という語は家格の名称としてでなく、将軍職にあるその人を指称する表現として使われる方が圧倒的に多い。
と拘っておきながら、すぐ続けて「室町殿」を「新しい歴史用語としての用法」で使うのは
いかがなものでしょうな。まあ、そんな意識はないんでしょうが。

58日本@名無史さん2013/10/21(月) 22:10:14.86
> しかし近世武家権力の比較を絶したあり方をいくら目の当たりに
> しようとも、尚官位からすれば「清華」と見ることができてしまう
> ということがいわば問題なんだよ。
なぜ「清華」と見ることができてしまうんだ?「摂関にならない」から?
であれば、それはあなたが勝手に「征夷大将軍は卑官」という
当時の感覚から乖離した前提を立てているだけで、全く無意味ですね。
で、
> わざわざ室町期の話まで持ち出したのは
あたかも自分が最初に持ち出してきたかのような書き方をする意図は?

59日本@名無史さん2013/10/21(月) 23:47:53.42
「征夷大将軍という地位は日本の国家主権を示すものではなかった」

しかし、なぜ一軍司令官たる征夷大将軍が事実上国家主権を掌握し得たのか?
この疑問を「日本国王」だった征夷大将軍は将軍位であったためではなく、
源氏長者であったという事実に着目し、これを謎解きにように解明していくのが、

岡野友彦著「源氏と日本国王(2003年・講談社現代新書)で興味深く、目から鱗だ。

後世の仮作との説もある史料としながらも「公武法制応勅十八箇条」の一文を挙げている。
「淳和奨学別当職(源氏長者)、関東将軍へ任じられ候上は、三親王・摂家を始め、
公家並びに諸侯と雖ども、悉く支配いたし候、」と。

まぁ、詳しくは読んでみてくれ。将軍の家格がどうこうなんて、
いかに下らない問題かよく分かるよ。

60日本@名無史さん2013/10/22(火) 00:01:50.42
>>59
> 岡野友彦著「源氏と日本国王(2003年・講談社現代新書)で興味深く、目から鱗だ。
ネタ?釣り?誰からもまともに相手にされていない本を持ち出されてもね。
> 後世の仮作との説もある史料としながらも「公武法制応勅十八箇条」の一文を挙げている。
家康に仮託しつつ「尾紀両家」がどうしたこうしたと書いてある、
出来の悪い偽文書を持ち出してくるような駄本なぞどうでもいいよ。

61日本@名無史さん2013/10/22(火) 00:16:12.57
いつどこの誰が偽造したかすらわからないような偽文書、幕府関係者が
存在を知っていたかどうかすらわからんような代物を
「近世において江戸幕府が朝廷に対していかなる認識を有していたかを
窺い知ることのできる資料としては有効であろう」
などと持ち上げて論拠にされてもね。
「幕府の認識をわずかにでも反映した偽文書である」という論拠がなけ
れば、全く無意味でしょう。

62日本@名無史さん2013/10/22(火) 00:38:30.77
>>59
義満より前の将軍や得宗はどう考えるんだろうね。
足利将軍の中でも将軍でありながら源氏長者でないという経歴が
ある人物は珍しくないが、彼らには権威が無かったとでも思って
いるのかな。
「正当性の根拠云々」という話だろうが、そもそも源氏長者の権威
自体が足利義満の権勢によるもの。義満より前の源氏長者が
「事実上国家主権を掌握」なんて言い出したら、鼻で笑われる
だろうに。

63日本@名無史さん2013/10/22(火) 01:40:52.35
結局ネタ元は、豊臣政権時の武家清華説と、岡野のとんでも説かよw

>>49だけど反論したいことは他の人が言ってくれた一つだけ。

>議論についてもっと立体的に考察できないものかね。
官位だけを必要以上に抽出し、その解釈も穏当とも思えない、
お ま え が 言 う なw

それと
清 華 必 死 だ な w

是非、あなたの考える、官位だけから見た、将軍家以下の、諸侯や旗本などの武家の家格についても、御教授ねがいたいものです。
>>5のままでいいのなら、是非解説をおねがいします。

64日本@名無史さん2013/10/22(火) 08:00:23.45
私も「源氏と日本国王」は読みました。
岡野氏がどの様な評価を受けている研究者かは知りませんが、
私は「源氏と日本国王」は大変興味深く読みましたし、面白かったです。
大兄諸氏の様に、岡野氏を罵倒するだけの学識を持ち合わせておりませんが、
「源氏の長者」説もあながち妄説だとは思えません。
将軍職のみを譲られた足利義持と徳川秀忠が、源氏の長者を握って君臨した
義満と家康の下で、果して国家主権者と言えるのか?と言う部分も納得できました。
>>61>>62の方は「源氏と日本国王」を読まれたのでしょうか?
また博学の皆様から罵倒されそうですが、私は学説など一朝一夕で定まるものでは
無いと思っています。

65日本@名無史さん2013/10/22(火) 09:13:21.79
罵倒されて上等だよ 俺も含めてだが、ここに書きこみしてるようなやつは
知ったかぶりのど素人ばかりだよ そんなやつほどエキセントリックによく吼える
弱い犬ほどよく吼えるというやつだね >>61>>63も偉そうにいうなら、
岡野説とやらを詳しく考証して論破してみろよ バカが!

66日本@名無史さん2013/10/22(火) 09:16:57.52
PS
>>60お前もだよ

67日本@名無史さん2013/10/22(火) 16:27:20.60
将軍は形式上天皇から統治の大権を委任(実際は武力で取った)された覇者だ。
対外的に元首として振る舞い、国内的は朝廷と諸侯を膝下に屈せさせたが、
それもパワーバランスが逆転して没落すると大政を奉還し、官位を返上する。
ただの無官の武士に落ちぶれるのだ。将軍だ、従一位だ、太政大臣だといってもその程度。
無官になれば平堂上はおろか、七位や八位の官位を持つ地下官人にも劣る。
将軍の官位などあくまでも虚位(公家も同じだが)に過ぎず、論ずるに足りない。

68日本@名無史さん2013/10/23(水) 00:43:53.32
摂関家なんて、平安時代末期に落ちぶれて明治に至るぞ…

69日本@名無史さん2013/10/23(水) 08:33:32.29
>>68
別に落ちぶれてないだろ。
明治に至るまで、豊臣の二代を除けば常に摂関を独占してただろ。

70日本@名無史さん2013/10/23(水) 18:39:32.91
悲しいことになってたのは室町時代から戦国期にかけてだな。
その他の時期は実権はなくても栄誉はあった。

71日本@名無史さん2013/10/23(水) 19:56:08.48
>>57
爵位どころか叙爵内規すら存在しない時期の願書にそれらを意識した理由を書くわけがないんだから、>>49の反論は的外れだと言ってるんだよ。
この程度のことも説明されないと理解できないのか。
それと嵯峨実愛は叙爵内規の存在も知らずに「何でうちが伯爵なんだ!」と内規の規定からすれば見当違いな文句を垂れていただけだよ(旧来の家格を考慮しろという主張としては正当と言えるが)。
そもそも叙爵内規は近世期の家格を十分に反映しておらず、それゆえ嵯峨実愛はじめ当事者たちの不満が続々と噴出する結果となったわけで、そうした不誠実で大雑把でその場しのぎな基準を持ってきて近世期の家格を云々するというのは不見識の謗りを免れない。

それと、在位、当職にある者イコール家督という素朴な思い込みは止めた方がいい(そもそもこの場合「家督」という語を「家督と隠居」のような近世的な意味で使用しているわけではない)。
例えば将軍義量の死に際して後継者が全く問題とされていないのに対して、室町殿義持不予の折りには(その間何年も将軍職は不在であったのにも拘わらず)急にそれが問題となっている。
また中世の王家・院宮家の伝領過程をまともに考えれば、その「家督」が天皇にではなく治天にあったと考える方が自然。
中世は隠居したじいさんが権力を持った時代ではなく、公の地位とその家督が分離した時代と言った方が正確。
そもそも「新しい歴史用語としての用法」などと、「室町殿」という地位・概念への理解が薄弱であることを自白しながら論じようというのは無謀。
また誤解がないように言っておくと、後継者が幼稚か不在のときには室町殿が将軍職にあることも勿論あるよ。
まあこう説明されてもピンと来ないんだろうけどね。

72日本@名無史さん2013/10/23(水) 19:57:24.48
>>58
征夷大将軍は間違いなく卑官だよ。それ自体は大したことのない職。
例えば頼朝は従二位だの大納言だのの官位を帯するがゆえに頼朝卿と呼ばれる身分となりうるが、征夷大将軍従五位下源実朝朝臣ではそこらの諸大夫と変わらない。
頼朝の例に倣うという象徴的意味以外には何らの実質的価値はない。
繰り返しになるが、例えば家康は将軍であるがゆえに偉いのではなく、実力ある者が将軍職の象徴的機能を選びとったにすぎない。
江戸のイデオローグが将軍に関する倒錯的なプロパガンダを行ったところで、現代に生きる我々がそれにまともに付き合う必要はない(というかアイデオロジカルな言説に対する批判的姿勢くらい高等教育を受けている段階で身につけておいて欲しいな)。
将軍職を帯びるゆえに隔絶した格式を得るとでも言いたいのならば、将軍職に補する朝廷の権力を不当に高く見積もることになりかねないが、その辺りの矛盾をどう考えるのか(何も考えていないのだろうが)。

不思議なのは将軍職を称揚する一方で、公方が実際に内大臣等の官位を帯び太政大臣を先途とするという事実を直視していない点だ。
同じ官位体系に属する両者のうち、単に当職というだけでは公卿に昇るどころか昇殿すらも覚束ない卑職を必要以上に重視し、片や現任の公卿を過度に軽視するというのは矛盾を通り越して間抜けと言うべきだろう。

結局「将軍は偉いんだ!」とナイーブに主張しているだけなのに、前時代的な大政委任論の認識枠組から抜け出せていないという自己矛盾に気付かない時点でおよそ話にならない。

そもそも当方は、公方の権力を否定しているわけではなく、「公方は事実上の日本国王であるが、官位だけを見れば清華に比せられうる」と述べているだけなんだが、何をそこまで否定しようと頑張るのか。
論理的思考力の欠如ゆえに以上のごとき簡明な論理構成をまともに理解できず、物事を多面的に見れない単細胞に付き合うのもとりあえずここまで。

>>63
わざわざ申し述べるも馬鹿らしいことだが、このスレでの当方のレスは>>48>>53>>54だけであり、その他のレスについては責任を負えない。

あと「ご教授願う」じゃなくて「ご教示願う」な。


ちなみに岡野氏の著書は当方も読んだが、評価は問題提起○、推論△、結論×といったところだ。

73日本@名無史さん2013/10/23(水) 23:07:55.49
↑ぐだぐだと読み辛いが、あんたも源氏と日本国王をカンニングしてるじゃん。ふふふ。

74日本@名無史さん2013/10/23(水) 23:14:32.59
反論できず、と

75日本@名無史さん2013/10/24(木) 00:59:30.84
単に「将軍は卑官だから将軍家は清華だ」という無根拠な
思い込みを書き連ねているだけだな。
> それと嵯峨実愛は叙爵内規の存在も知らずに「何でうちが伯爵なんだ!」と内規の規定からすれば見当違いな文句を垂れていただけだよ
これなんか、無知の証明としか言いようがない。嵯峨日記の引用は
「華族誕生」にもあるが、非常に性格であるだけでなく「旧大藩現収
十五万石以上云々」というように、叙爵内規の内容を熟知していな
ければ書けない表現が頻出している。
この程度のことは当然知っていると思っていたんだがね。

76日本@名無史さん2013/10/24(木) 01:11:05.01
後、相変わらず「現代の歴史学用語と当時の用語の混同」を
続けているようだが、「家督」「室町殿」等々、どちらの意味で
使っているのかはっきりさせてくれ。
「室町殿」もあんたが>>71で言い出した「家督」も、両方の
用法をごちゃまぜにして書いているから読みにくくて仕方ない。
> そもそも「新しい歴史用語としての用法」などと、「室町殿」という地位・概念への理解が薄弱
「将軍家の『家督』を指す用語としての『室町殿』」は、現代の
歴史用語以外の何物でもなかろう?同時代にそういう総称と
して使われていたわけでも、そういう概念があったわけでも
ないんだから。それと、
> 中世は隠居したじいさんが権力を持った時代ではなく、公の地位とその家督が分離した時代と言った方が正確。
普通は藤原道長の「大殿時代」や院政期あたりも含めるし、
江戸時代にも当たり前のようにつづけられていると考えられているがね。

77日本@名無史さん2013/10/24(木) 01:33:39.78
>>72
長々と書き連ねているが、要するに
> 「公方は事実上の日本国王であるが、官位だけを見れば清華に比せられうる」
「摂関は尊く征夷大将軍は卑官」という無根拠な思い込みを繰り返しているだけ
だね。「官位だけを見」れば、摂家も清華も将軍家も「従一位太政大臣」が極位
極官であることに差はないんだから。
摂政、関白も本来は本官・本位の身分でしかない。「摂関」自体が高い地位になっ
たのは、強引な手段も含め他の公卿を従え続けたという伝統の積み重ねによるも
の。最初から至高の身分だったわけでは無い。
「将軍」もしかりで、摂関を伺候させ、右大臣の将軍が関白や左右大臣の上座に
座すというように、「本官、本位の序列を超越した身分であることを示し続ける」
ことで権威を獲得していった。
類似の道筋であるのに、「摂関は偉いが〜」と連呼されても、「『あなたは』そう考
えているんですね」としか言いようがないね。根拠が皆無なんだから。

78日本@名無史さん2013/10/24(木) 01:44:29.18
官位を超越しているという意味では、将軍摂関は、上皇と変わらんね。
平安から江戸まで、そういう歴史だったわな。

79日本@名無史さん2013/10/24(木) 06:23:16.27
>>75-77
本格的な低能だなこいつ

80日本@名無史さん2013/10/24(木) 07:09:20.65
公卿補任では摂関・大臣・大納言・中納言・参議+散位というくくりはあるが
書式として将軍はナントカの別当のようなものと一緒の兼帯の扱いで摂関とは扱いがまったく違う
それに摂関は宮中座次に関わるけど将軍は関わらない
将軍「だから」偉いとは言えないし
将軍「だから」摂関以下の公卿の上に立ったわけじゃないだろ

公家の家格は昇進ルートや、極官がこうした座次のどこまで到達するかで決まるのだから
この中で将軍を持ち出したり「摂家も極官は太政大臣」と言い張ったところでナニイッテンダコイツとしかならない

結局室町とか江戸の「将軍」の権威・権力は将軍職を含めた官位から引き出されるものではないと言ってるだけだろ

自分こそ「将軍だから偉い」と言いたいだけじゃん
どちらが無根拠な思い込みを書き連ねてるんだか

81日本@名無史さん2013/10/24(木) 07:21:07.10
>>79

俺もそう思う。
摂関の場合、大臣でなくても大臣よりも上なのだが、将軍の場合、5位なら少しやばいだろ?
だから最初から内大臣なり二位なりの高官を得ているわけでw

82日本@名無史さん2013/10/24(木) 08:58:07.92
五位の将軍だったら五位の座次につくしかないからな
要するに将軍職単体での地位の低さを担保するために内大臣その他の官位を持ってくるわけだけど
言ってみれば内大臣でも低すぎる
徳川が清華かなんて俺の興味の外だけどそう見なせると言われても仕方ない部分がある
事実上の主権者なのにわざわざなんでそんな地位に?いっそ簒奪しちゃえばよかったんじゃないの?ってのが問題意識に上ってくる
誰だかが天皇が何故続いたかが日本史最大のテーゼみたいに言ってたけどそこにもつながってくる
家格の話っぽくなくなってきたのでとりあえずこの辺で

83日本@名無史さん2013/10/24(木) 09:07:06.76
>>82
豊臣の時代から徳川は武家清華家だったじゃん。

84日本@名無史さん2013/10/24(木) 09:43:45.56
すると前田も毛利も上杉もずっと清華なの?


ていうか読み返したら>>63は武家清華「説」なんて言ってるな
岡野説と並べられるレベルの単なる「説」だと思い込んでるのかな

馬鹿丸出し

85日本@名無史さん2013/10/24(木) 13:59:47.21
清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
家格の低い織田氏に戻らなかった信雄の空気の読め無さが、
強制出家と秋田への流罪を呼んだ。
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。

清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人として、
どんな大罪であろうと死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。

信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ政権樹立できただろうね。

平清盛や源頼朝も清華家の家格を手に入れてるしな。
清盛の娘の徳子が天皇の妻になれたのもこれが理由だからね。
摂関家に次ぐ家格だから、これを上回る為には摂関家の養子になるしかない。
のちの羽柴関白家・武家清華家への発展はこの時に端を発している。

86日本@名無史さん2013/10/24(木) 15:03:27.18
何かかなりズレた(イタい?)人が来ちゃったな

北畠は南朝バブルで大臣に任じられたりしてるが、親房がやっと(特別に?)准大臣になったように元来羽林家相当(「羽林家」は近世の呼称なので「相当」と言っとく)の家だよ
ちなみに鎮守大将軍(「鎮守府大将軍」は間違い)になったのは顕家の家系だから伊勢の北畠はちょっと関係ない

87日本@名無史さん2013/10/24(木) 15:34:07.77
触れちゃダメ

88日本@名無史さん2013/10/24(木) 17:46:37.94
>>84
江戸時代も大臣昇進資格があった徳川が豊臣時代から武家清華だからといって極官が4位や3位参議の前田etcとかも近世まで清華だったの?と歴史板で平然と聞くその思考回路がわからん。

89日本@名無史さん2013/10/24(木) 19:12:32.03
豊臣政権下では武家を任官を押し進め、公家の官位が足りなくなった。
事実上、公武一体政権だった。
前例にとらわれないから極官もないし、秀吉の気分次第。
家格もへったくりもなくなった。

北畠は官位は低いが、准三后。
前例を大事にする公家としては、准三后家かね

90日本@名無史さん2013/10/24(木) 20:03:59.47
>>88
混ぜっかえされてることにくらい気付けよ

91日本@名無史さん2013/10/24(木) 20:54:02.22
北畠がどうとか言ってる馬鹿は論外だからもう来なくていいよ

ていうかへったくりってw

92日本@名無史さん2013/10/24(木) 21:36:28.41
もともと「家格」の話をしているんだと思っていたんだが。
将軍を世襲する足利将軍家や徳川将軍家の「家格」が
清華ははるかにしのぎ、摂家とも同等以上だったという
話だぞ。「将軍職そのものがどうこう」という話自体が全く
の見当違いだ。
>>81
室町時代には四位、五位の将軍もいたが、彼らが公卿の
下、諸大夫に交じって
> 五位の座次
に着いた事例などないぞ。そういう事例があるというなら
言えなくもないがな。
>>82
> 摂関の場合、大臣でなくても大臣よりも上
内大臣以上の経験者でなければ摂関には就けないだろ?
> だから最初から内大臣なり二位なりの高官を得ているわけでw
だから、中・大納言の時にはとりあえず内覧とし、急きょ大臣に
上げるという例が出てくるわけだし。

93日本@名無史さん2013/10/24(木) 21:40:42.21
>>80
> 公家の家格は昇進ルートや、極官がこうした座次のどこまで到達するかで決まるのだから
> この中で将軍を持ち出したり「摂家も極官は太政大臣」と言い張ったところでナニイッテンダコイツとしかならない
足利将軍家、徳川将軍家では、幕末期の挑発を除けば座次は本官、公家の同官
よりも上に就く例だし、昇進ルートに関して言えば、前にも書いたとおり徳川将軍
家の世子は参議どころか中納言も超越していきなり大納言に就くのが通例。
清華はおろか摂家でも家格として中納言を飛び越えるという昇進は無い。

94日本@名無史さん2013/10/24(木) 22:04:21.08
はいはいそうだね^^

95日本@名無史さん2013/10/24(木) 22:13:43.68
>>81、82
摂関の座次だが、自動的に一座になるわけではない。
そもそも内大臣以上の経験者でなければ就けないし、
上首の大臣の位階が摂関より上であった場合には、
少なくとも同じ位に上がるまでは一座としないというのが
本来の原則。(葉黄記等)。

96日本@名無史さん2013/10/24(木) 23:49:54.36
>>93
近衛基通は治承3年11月17日従二位非参議右中将から、いきなり正二位内大臣関白となっている。
将軍世子の官である大納言さえも越官しているぞ。

そして、その時左大臣は従一位の藤原経宗だったが、正二位内大臣の基通が上とされた。

97日本@名無史さん2013/10/25(金) 00:31:06.55
>>96
関白になるためには内大臣なる必要があるからね。で、基通の継母は
平清盛の娘であり清盛が全盛時に外孫を強引に引き上げただけの話。
そもそもが平清盛による院政停止と反平氏派追放という政変の産物で
あって、中納言を経ない昇進が家格となったわけではない。
もっとも、摂関の場合には実際に公家社会を主導するだけの経験が必
要だから、昇進が早ければいいというものではないということもあろうけ
ど。実際、近衛基通は能力不足をたたかれているし。

98日本@名無史さん2013/10/25(金) 01:12:08.48
将軍家以外の武家は、家格はどうかねと。
朝廷と直接かかわって家格といえるほど、持続した家はなさそうだけど。

99日本@名無史さん2013/10/25(金) 04:47:37.88
結局のところ将軍清華厨は他の武家のことは知らないかどうでもいいんだろ
とりあえず将軍を清華と見立てることが至上課題らしい

100日本@名無史さん2013/10/25(金) 06:22:54.00
往生際の悪い低能だな

101日本@名無史さん2013/10/25(金) 06:37:22.88
>>97
基通はずーーーっと「非参議」だったし(政務関与させて貰えない)
父基実から摂関としての教育を受ける機会がなかったからね。
序列については内大臣は確かに左大臣右大臣より下だが
「関白」が左大臣より上位と見なされてたから
左大臣より上位にされたと思う。
(天皇の相談役>太政官の最上位)

102日本@名無史さん2013/10/25(金) 09:19:59.26
将軍家は何が何でも清華家だ!と絶対的に主張している奴なんて一部を除けばいないだろうに
将軍家は何が何でも清華家じゃない!なんて絶対的に否定する必要がどこにあるんだろう
結果的に極論みたいになってるんだけど

他人の言ってることも正確に理解できないのは家が貧しくて高等教育を受ける機会が得られなかったから?

103日本@名無史さん2013/10/25(金) 09:24:00.53
>>97
清盛との関係は常識。
>>93が摂家でも中納言を越官する昇進はないと書いているので出しただけ。
基通が中・大納言を越官したのは事実だし、先例の一つとして残るからね。
ただ、その先例を後世再び採用するかどうかは、公家社会のコンセンサスだ。

104日本@名無史さん2013/10/25(金) 13:48:00.15
>>102
江戸時代の徳川将軍が内大臣や太政大臣を帯びていたので、清華家に該当するって?
するわけがない。
江戸時代の徳川家は武家官位であって、徳川家と徳川家に従う武家大名たちの
上下関係を表すためだけのもの。
公家たちとは完全に別なのだから。

105日本@名無史さん2013/10/25(金) 13:56:30.63
>>104
がから武家官位は公家官位の外というのは皆分かっているし、君はどこを見てるの。
そんな事は承知のうえで、公家家格に相当するとしたら清華かなぁ、と遊んでいるだけ。

106日本@名無史さん2013/10/25(金) 14:04:41.96
>>105
公家の家格に当てはめる必要がない。

じゃあ、お前は、公家の清華家って徳川将軍家だよなあ、
と言うのか。

107日本@名無史さん2013/10/25(金) 14:07:32.59
>>106
????こいつ馬鹿

108日本@名無史さん2013/10/25(金) 14:33:01.99
>>107
徳川将軍家を公家に当てはめるからだろ

公家を武家に当てはめればそうなる

109日本@名無史さん2013/10/25(金) 15:56:57.64
清華家は、摂関にも将軍にもなれんがな。

110日本@名無史さん2013/10/25(金) 16:36:17.74
>>104
たしかに武家官位は「禁中並家諸法度」第七条に「公家当官の外たるべき事」とあり、
独自の体系であったのは間違いない。これは、天皇(朝廷)の持つ官位叙任権に規制を加えたものだが、
形式的であるにせよ、武家官位の場合も朝廷の発給する「位記・口宣」を受けて初めて成立する。
これによって律令制的官位の正当性を担保され、支配の正統性をも得ていた。
従って、武家の官位は徳川家と大名の支配関係のみに用いられたのではなく、
封建統治の重要な要素としての機能も果たしていた。
勿論朝廷との人的関係にも員外の虚官である武家官位は通用し、官位通り遇せられる。

111日本@名無史さん2013/10/25(金) 16:48:15.06
>>109
徳川将軍家も摂関にはなれない

そもそも将軍なんて臨時職で太政官に常に置かれるべきものじゃないしな

112日本@名無史さん2013/10/25(金) 18:18:43.80
>>104
家が貧しかったんだね

113日本@名無史さん2013/10/25(金) 19:24:07.60
>>110
事実上、武家の官位を決めるのは江戸幕府で、
朝廷がそれを覆すことなど100%なかったわけだが。

それを清華だの言ってる馬鹿がおかしい。

114日本@名無史さん2013/10/25(金) 19:54:38.94
>>113
今は様々な奨学金を利用できるからな
貧しいから高等教育を受けられなかったというのは言い訳にならないよ
それとも別の理由で大学に入れなかったのかな?
だったらこの板で発言しない方がいいよ
馬鹿にされるだけだからね

115日本@名無史さん2013/10/25(金) 20:50:38.24
>>112>>114
あらら。家が貧しい高卒君が、他人に説教してるよ。

116日本@名無史さん2013/10/25(金) 20:57:49.94
>>105
将軍家以外の武家に全く関心が無いのは遊び心が足りないんでないの
>>5でいいのかね

117日本@名無史さん2013/10/25(金) 21:28:26.44
>>113
コミュ障だなこいつ

日頃から周囲に空気読めない奴と煙たがられてそう

118日本@名無史さん2013/10/25(金) 21:34:49.37
>>117
障害だの学歴だの病気だの
言い出しっぺの方が怪しいと思うけどな

119日本@名無史さん2013/10/25(金) 22:16:50.31
>>103
摂関に就くための超越であれば、兼通の例等々前例はいろいろあるね。

120日本@名無史さん2013/10/25(金) 22:19:36.19
>>110
> 形式的であるにせよ、武家官位の場合も朝廷の発給する「位記・口宣」を受けて初めて成立する。
一応まとめて受けてはいたが、受ける前から正式な官位として
通用していた。公家の場合にはわざわざ位記・口宣をもらった
りはしないのが通例だったというくらいだし。

121日本@名無史さん2013/10/25(金) 22:27:34.81
言われて悔しかったことを鸚鵡返しすることしかできないんだね

122日本@名無史さん2013/10/25(金) 22:33:42.67
>>120
下級公家など礼金の関係などで口宣を受けない場合がある事も承知しているし、
武家も従五位下の諸太夫の場合は、高家がまとめて奏請・受領をする事も承知している。
しかし、その受領過程がどうであり、正式な位記・口宣が権威を担保してくれる事には間違いない。

123日本@名無史さん2013/10/25(金) 23:01:33.80
九条家だけは寄合に列する資格があるけど、あとの摂家は平旗本だな。

124日本@名無史さん2013/10/25(金) 23:48:39.53
日本史板住人が華族の叙爵内規を作るスレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1314694693/

125日本@名無史さん2013/10/26(土) 05:57:18.22
日本一の実力者が就く将軍職そのものは大したことがない卑官なので他の上級公家との官位の釣り合いを取るため清華相当官位昇進ルートを将軍家が辿ったという事すら無視して恥ずかしい事を粘着している奴がいるねw

126日本@名無史さん2013/10/26(土) 06:03:31.35
>>104

ならばどうして将軍家は将軍以外に大臣や源氏長者等の清華が今まで就いていた称号を熱望したの?
将軍という職位がが他を超越している摂関並みに偉いのなら征夷大将軍だけでいいでしょう?w
本当に何を言いたいのかわからんww

127日本@名無史さん2013/10/26(土) 06:41:43.49
>>125
釣り合いを取るならなんで摂関を凌駕しなかったん?
>>126
大臣にしろ源氏長者にしろ清華固有のものじゃなくね?

128日本@名無史さん2013/10/26(土) 09:48:15.26
>>126
馬鹿だな。
江戸幕府内部の序列を決めるために決まってるだろう?
征夷大将軍だけでは、将軍以外の大名の家格が決まらない。
御三家はこの程度、○○家はこの程度、と大名間での上下関係を決めたんだよ。

武家官位がなんのために作られたかも知らない重度の馬鹿だな。

129日本@名無史さん2013/10/26(土) 11:40:46.65
> 清華相当官位昇進ルートを将軍家が辿った
徳川将軍家の世子は、元服後ただちに権大納言に任官するのが例。
例えば徳川家綱(1641-1680):1645年に元服、同日権大納言
家重:1725年に元服、同日権大納言
等々、家光の前例を踏襲している。
清華は言うに及ばず、摂家でも元服・叙爵後は少将から中将、権中納言
等を経るのが通例。

130日本@名無史さん2013/10/26(土) 14:12:21.35
将軍家は、ルートも清華家以上なのに、なんで清華家なの?

131日本@名無史さん2013/10/26(土) 18:12:48.58
>>130
摂関にはなれないから、じゃね?w

132日本@名無史さん2013/10/26(土) 19:30:04.94
堂上家なら全員特に許可も要らずに将軍と見えることはできたん?
だとすると禄高によらず堂上は全て御目見え以上で旗本としていいな
でも地下家でも五位以上とか公卿とかになれば将軍にお目見えできそうな気もする

133日本@名無史さん2013/10/26(土) 19:32:25.30
>>130
摂家か清華のどちらかを無理やり当てはめるなら、
したら、「摂関にはつかない」から清華だ、という
理屈だろうね。
そもそもの二択自体が無意味だけど。

134日本@名無史さん2013/10/26(土) 19:36:53.41
>>132
堂上も地下も徳川の直臣じゃないから旗本とか御家人とかじゃない
陪臣

135日本@名無史さん2013/10/26(土) 19:41:45.52
将軍家は清華家か摂関家かなんて、ミカンはリンゴかモモかという問題と一緒。
ミカンなミカン。将軍家さは将軍家。清華家でも摂関家でもない。

136日本@名無史さん2013/10/26(土) 20:26:45.08
>>135
それが遊び心なんですってよ

137日本@名無史さん2013/10/26(土) 23:02:06.84
明治期に摂関家と将軍家が公爵になったから、同格だとおもっていた。
将軍の正室もほとんどが摂関家か宮家からだしな。

138日本@名無史さん2013/10/27(日) 01:21:05.61
>>137
ちょっと話がずれるけど、奥様をずらずら並べてみると、家格というものが見えてくるかもね。
頼朝の兄弟スレでもそんな話題が出てたので。

139日本@名無史さん2013/10/27(日) 10:06:56.65
>>137
御三家の正室も摂家・宮家が多いぞ。

140日本@名無史さん2013/10/27(日) 10:59:50.18
御三家は明治時代には侯爵で、清華家と同格になったんだな。

141日本@名無史さん2013/10/27(日) 11:02:45.54
>>139
公家は摂家のみが内親王を娶ることができた。
将軍も紆余曲折はあったが、婚約一人(輿入れ前に将軍家継が夭折)
婚姻一人、内親王を娶った例がある。

御三家は内親王と婚約・婚姻した例はないよね。

142日本@名無史さん2013/10/27(日) 13:11:16.50
>>141
宮家と言っただけで、誰も内親王なんて言っていないぞ。
実際四親王家の娘(女王)を正室にしているだろう。
慶喜の母も有栖川宮織仁親王の娘吉子女王だ。違うか?

143日本@名無史さん2013/10/27(日) 14:16:47.13
>>142
だから、御三家の正室と将軍の正室の格の違いをいっただけだが?
どこに御三家は宮家の娘を妻にできなかったと書いてある?
御三家は内親王を妻にできなかったと書いただけ。

144日本@名無史さん2013/10/27(日) 14:17:21.31
江戸時代には宮家は摂家の下だから
摂家の娘より格は低かったんだよね。

145日本@名無史さん2013/10/27(日) 15:33:36.33
>>141
親王家の男子は天皇猶子の手続きを経て親王宣下を受けれたが、女子は女王のままで、
それは将軍に降嫁しても変わらなかった。
家継の許婚であった八十宮吉子は、婚約後一年程で家継が亡くなったため、
婚約は自然解消となり、彼女の内親王宣下も後になってからだ。
おそらく順調に婚約期間が過ぎ結婚となった時には、その前に内親王宣下があったと思うが、
しかし絶対とは言えない。
そう考えるとニュアンス的には同じだが、内親王を娶る事が出来たと言うより、
むしろ天皇の娘を娶る事が出来たと言うのが正しいように思う。

146日本@名無史さん2013/10/27(日) 16:00:13.08
>>145
>女子は女王のままで、 それは将軍に降嫁しても変わらなかった。

女王のまま将軍に降嫁した天皇の娘がいたっけ?
和宮親子内親王は江戸へ下る半年前に内親王宣下を受けており、
八十宮が内親王宣下を受けないまま江戸へ下ったとは考え難い。

どちらにせよ、将軍は和宮親子内親王を娶った事実がある。
御三家には女王(宮家の娘)を娶ったことはあっても
内親王を娶ってないのだから、どちらでもいいと思うが。

147日本@名無史さん2013/10/27(日) 16:05:56.46
>>146
女王のまま将軍に降嫁した天皇の娘がいたっけ?

親王家の娘の事なんだけど。

148日本@名無史さん2013/10/27(日) 17:18:22.77
>>147
摂家に嫁いだ天皇の娘は全員内親王宣下されている。
同様に、将軍家茂は内親王を正室にしている。
将軍は摂家同様、内親王を妻にできたで問題ない。

149日本@名無史さん2013/10/27(日) 20:16:48.40
>>148
摂家に嫁いだ天皇の娘は全員内親王宣下されている。

全員を調べた訳ではないが、近衛基護に降嫁した品宮常子は、正式には内親王宣下は受けていない。
瀬川淑子著「皇女品宮の日常生活」から引いてみる(短くするために一部文章を略する。
常子本人の奥書はそのまま記す)
品宮常子内親王は、寛永19年に、後水尾天皇の第16皇女として生まれた。内親王と呼ばれてはいるが、
実は正規の宣下があった様子はなく、品宮自身、延宝5年(すでに基煕と結婚していた)、
兄弟達と亡母の供養の写経をし、その時の奥書の書名にこう書いている。

奥書などもささせられ候はん由なり。それにつき我身忌み名ならびに親王宣下の事今までついでもなく延引なり。
一日参内のおりふし此の事申し上げる。忌み名は常子に定めらる。親王宣下の事は先年の分なり。

本人が宣下の事は今までなく、とはっきり書いている。しかし著書は後水尾院の品宮とその母広義門院への
寵愛の深さから見て、本来なら内親王宣下があって当然だが、この時忌み名が定まり、
それをもって内親王宣下に準じて公認となったのか、写経の奥書に常子内親王と書名し、
その後は常子内親王として知られている、と書いている。
念のため、公卿補任で常子誕生年の寛永19年から奥書の延宝5年を経て、天和3年(常子41歳)まで、
年間の行事を詳しく調べたが、他の内親王宣下はあったが、やはり常子の内親王宣下はなかった。

150日本@名無史さん2013/10/27(日) 20:18:57.28
近衛基護ではなく、基煕の間違い。

151日本@名無史さん2013/10/27(日) 20:28:07.03
鷹司教平室(離縁)・文智女王、近衛尚嗣室・女二宮もそうじゃね

152日本@名無史さん2013/10/27(日) 21:22:59.20
常子内親王の異母姉の文智女王もそうだったね。
たしか、朝幕間の大事件になったおよつ御寮人事件のおよつの娘だったかな。
鷹司教平と離婚後奈良の寺に入った薄幸の女王で、晩年後水尾帝は、
文智女王に対する仕打ちを後悔し、ほのぼのとした親子の愛情が戻った。

153日本@名無史さん2013/10/28(月) 04:09:24.22
>>129
初官が大納言だから他を隔絶しているとでも言いたいの?
だったら初叙が4位の国持大名も皆摂家以上という事になるねw

将軍の官途は内大臣以降は清華の速い方って感じじゃね?

>>126
将軍家が家格の上から摂家をも超越しているのなら大臣職なんていらんだろ?
幕府内の序列を付ける為に大臣とか源氏長者になった?
意味不明過ぎて訳わからんわw

154日本@名無史さん2013/10/28(月) 05:02:20.86
せっかく違う話になったのに蒸し返すなよ

155日本@名無史さん2013/10/28(月) 08:53:30.49
ほんと。バカはいなくならないね。

156日本@名無史さん2013/10/29(火) 00:15:57.84
室町から江戸まで、将軍家は天皇家を上回る家格だったのは、まぎれもない事実。
清華家相当なんて、公家のやっかみ。

157日本@名無史さん2013/10/29(火) 00:42:43.05
>>156
えっ、家格?

158日本@名無史さん2013/10/29(火) 04:05:11.54
ついに皇室を家格と捉える奴まで登場w

159日本@名無史さん2013/10/29(火) 04:52:59.73
>>156
将軍は事実上の日本国王。
将軍職自体は卑官だから対朝廷向けに公卿の官位を得ていただけだろ。
ただ、朝廷内の格の上では皇室はおろか摂家よりも下。

160日本@名無史さん2013/10/29(火) 04:56:22.21
>>156
室町将軍はモロ清華じゃね?
事実上の国王だから摂家にすら偏諱を与えていたが。

徳川は内大臣(5歳でも40歳でも内大臣)までは速いけどその後の昇進ルートは清華。

161日本@名無史さん2013/10/29(火) 08:53:47.65
>>159
>将軍は事実上の日本国王
王は帝より下だが?

162日本@名無史さん2013/10/29(火) 09:16:02.33
王には皇帝から冊封された辺境の統治権者という意味がある

163日本@名無史さん2013/10/29(火) 10:28:00.65
>>153
将軍の官途は内大臣以降は清華の速い方って感じじゃね?
>>160
徳川は内大臣(5歳でも40歳でも内大臣)までは速いけどその後の昇進ルートは清華。

近世将軍(徳川家)の官途が清華家並みなどとはとんでもない。
幕府の方針により、摂家の権力は清華家以下の公家達とは隔絶したものになってしまった。
太政大臣だから清華家だと言っているようだが、近世太政大臣は摂関経験者の中でも特別な者に限られ、
近衛基煕が近世初めて公家の太政大臣になったのが、やっと宝永6年の事だ。
その後たった7人しか任じられておらず(近衛家4人、九条家・一条家・鷹司家各1人、二条家0)、
摂家の任左大臣の平均年齢が34・7歳であるのに対して任太政大臣のそれは52・4歳。
いかに太政大臣のステイタスが上がっているかが分かる。家光が左大臣に留まったのは、
父と祖父を憚ったためだし、その後家斉までの将軍が左大臣を遠慮したのは家光を憚ったためだ。
しかし家斉はそのような先例に囚われる事なく将軍家の権利を行使し太政大臣となった。
一方清華家は、太政大臣はおろか左大臣すら寛延2年に辞任した醍醐冬煕を最後として任じられていないし、
久我、今出川両家は右大臣のみ、広幡家は内大臣に留まり、太政大臣など遠く及ばなかった。
この様に近世の太政大臣は摂家の中でも特別な存在であり、この官職においては徳川家は、
摂家と同待遇を得ていたのではないだろうか。

164日本@名無史さん2013/10/29(火) 10:46:36.45
武家のトップが摂関待遇、その次が清華、諸侯の上位が羽林っていうのは、豊臣体制の名残かもね

摂関 羽柴秀吉
清華 徳川家康
羽林 上杉景勝、徳川秀忠、前田利家、北畠信雄、羽柴秀長、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景

165日本@名無史さん2013/10/29(火) 13:03:23.42

166日本@名無史さん2013/10/29(火) 13:41:36.88

167日本@名無史さん2013/10/29(火) 14:05:33.75
1586年時の武家序列って信雄がトップかな?

168日本@名無史さん2013/10/29(火) 14:18:24.64
もう秀吉が関白になってるんだね。
恥ずかし!

169日本@名無史さん2013/10/29(火) 16:51:29.09
家格と実質的政治権力はまた別だろう。

170日本@名無史さん2013/10/29(火) 17:01:10.54
関白   秀吉
権大納言 義昭
中納言  信雄
権中納言 家康・秀勝・秀長
参議   秀次
左近衛権少将 利家・秀信・景勝

だった
スレ汚し、すんません。

171日本@名無史さん2013/10/29(火) 17:12:43.22
家康以外の武家清華って豊臣政権が永続してたら清華に準じて大臣になれたのかな?
家康は清華の中でも別格扱いで他は大納言止まりのまま?

172日本@名無史さん2013/10/29(火) 17:27:53.97
分家ができてたらどこに位置づけられてたんだろ。

173日本@名無史さん2013/10/29(火) 17:30:58.48
>>170
どの時点での官位?秀吉が関白になった天正13年なら義昭は権大納言だが、
信雄も権大納言だし、他に武家公卿はいない。意味が分からん?

174日本@名無史さん2013/10/29(火) 17:39:48.62
1586年、天正14年だよ。
秀勝が死んだ年。
秀勝が死んだ時、他の人はどんな感じだったんだろって思って。
wiki見ただけなんで他に間違ってたら
教えてください。

175日本@名無史さん2013/10/29(火) 18:01:02.99
岐阜13万石織田家は中納言だったけど武家清華ではないの?

176日本@名無史さん2013/10/29(火) 18:09:31.44
>>174
天正14年は下記の通り。

関白・太政大臣(内大臣から昇任) 豊臣秀吉
権大納言 織田信雄(正三位→従二位)
     足利義昭(従三位)
権中納言 徳川家康(参議から昇任)
     豊臣秀長(  同   )
参議   豊臣秀次
 
武家公卿は以上。公卿補任を見れば分かるよ。

177日本@名無史さん2013/10/29(火) 18:36:39.56
そうなんですね!
ありがとうございます!

178日本@名無史さん2013/10/30(水) 01:40:00.66
武家關白家
羽柴本家:關白秀吉、關白秀次、右大臣秀頼

武家清華
織田(羽柴大野)家:内大臣信雄、宰相秀雄
羽柴武藏(江戸)家:内大臣家康、中納言秀忠
羽柴大和家:大納言秀長、中納言秀保
羽柴近江→尾張家:中納言秀次(→關白家へ)
羽柴加賀家:大納言利家、中納言利長
羽柴備前家:中納言秀家
羽柴越後→會津家:中納言景勝
羽柴安藝家:中納言輝元、宰相秀元(→廢嫡)
羽柴筑前家:中納言隆景、中納言秀秋

武家清華の可能性あり
羽柴會津家:宰相氏郷

179日本@名無史さん2013/10/30(水) 18:03:04.30
各地域毎に官位序列による支配関係があった

180日本@名無史さん2013/10/31(木) 00:39:39.68
朝廷なんてみんな藤原だったんだから、全部羽柴でもいいだろって感じだな。

181日本@名無史さん2013/10/31(木) 01:27:17.65
羽柴関白家ー武家清華家ー公家成国持大名ー諸大夫成豊臣・徳川大小名

182日本@名無史さん2013/10/31(木) 03:18:42.48

183日本@名無史さん2013/10/31(木) 05:19:35.74
混んとき、公家はどうしていたの?

184日本@名無史さん2013/11/01(金) 19:12:22.22
慶長3年9月
関白 空位
太政大臣 空位
左大臣 空位
右大臣 空位
内大臣 徳川家康
大納言 前田利家
中納言 徳川秀忠 小早川秀秋 宇喜多秀家 毛利輝元 上杉景勝 豊臣秀頼


織田信雄は官位官職を剥奪されたんですか?????

185日本@名無史さん2013/11/01(金) 19:25:32.09
小田原戦のあと転封拒否して改易流罪されとるがな

186日本@名無史さん2013/11/01(金) 20:14:20.79
>>184
義昭も信雄も出家して官位的には引退しますた。

187日本@名無史さん2013/11/01(金) 20:22:46.63
信雄たん泣いたのかな?

188日本@名無史さん2013/11/01(金) 20:25:23.62
>>184
織田秀信は?

189日本@名無史さん2013/11/01(金) 20:46:09.90
ほんと前代未聞だよね。
官位を武家が独占して左右大臣空位って。

190日本@名無史さん2013/11/01(金) 21:22:04.39
>>189
この時点で公家の殆どが滅亡してもおかしくはなかったな

191日本@名無史さん2013/11/01(金) 21:28:56.47
文禄4年秀次が高野山で出家した為、関白と左大臣が同時に空位になり、
秀次と近い関係にあった右大臣今出川晴季も失脚して同じく空位となる。
そして関白、左右大臣欠官のまま、慶長3年太政大臣秀吉が死ぬに及んで、
大臣は内大臣の家康のみとなる。
もっとも12月に晴季が右大臣に環任しているから大空位時代は4ヶ月程の事だが。

192日本@名無史さん2013/11/01(金) 23:24:37.03
義昭は出家して准三后になったし、
信雄も豊臣政権に復帰後に何らかの地位に復帰したんじゃないの?
信長が右大臣を辞任した時もそうだが、
関白→太閤みたいな辞任後や出家後の権威ってなにかあるの?

193日本@名無史さん2013/11/01(金) 23:29:04.39
日本では一度、任官さえすればすぐに辞めてもその権威がついて回るからね。

194日本@名無史さん2013/11/02(土) 00:05:52.06
前の○○

195日本@名無史さん2013/11/02(土) 09:51:17.30
朝鮮出兵時に秀吉に許されて還俗した信雄の官位は
織田嫡孫の秀信の出世で打ち消された?

196日本@名無史さん2013/11/02(土) 12:12:15.03
関白をやめた秀吉がどうやって政権を維持したのかと思ったら、ずっと太政大臣だったのね。

豊臣政権的に左右大臣を誰にも与えず空位にしていた意味が分からん。

197日本@名無史さん2013/11/02(土) 12:18:07.37
秀頼の為だろうな。

198日本@名無史さん2013/11/02(土) 12:32:45.74
将軍は死んだらすぐ世襲できるけど、関白はそうできなかったのは、何で。
秀頼もそうだけど、摂関家でも確実じゃないよな。

199日本@名無史さん2013/11/02(土) 13:12:23.70
公家が途方もなく沢山いるからね
でも官位自体は限られてる

200日本@名無史さん2013/11/02(土) 16:22:31.23
世襲なのは、将軍家だけなんだな。

201日本@名無史さん2013/11/02(土) 16:27:30.47
一応、この家ならここまでってのはあるけど、昇進のスピードや到達できるかは個人差があるね

202日本@名無史さん2013/11/02(土) 20:47:24.23
>>198
平安中期の摂関政治全盛の頃ならいざ知らず、平安後期以後になると、
その政治的価値は低下し、清盛、後醍醐、秀吉のような桁外れの実力者が出現した場合、
簡単に交代、廃止、乗っ取りなどが行われてしまう。
家康は朝廷管理のため摂家に絶対的な権威を与えたため、逆に摂関の不在は考えられなかったが、
「禁中並公家諸法度」第四条で摂家であっても、人物の器量に欠ければ大臣、摂関に
任じられるべきではないと明記して、釘を注している。
おのれの所は、家継の様な幼児や家重、家定の様な馬鹿を将軍にしておきながらだ。

203日本@名無史さん2013/11/03(日) 01:11:42.60
公家への法を定めない室町幕府も世襲。
なんか不思議。

摂関家は家業なのに世襲ではない。
鎌倉時代は将軍は朝廷から派遣で、世襲じゃないし。
室町に転換があったのかな。

204日本@名無史さん2013/11/03(日) 08:14:35.90
足利将軍家が義満の時に公家化

205日本@名無史さん2013/11/03(日) 08:47:00.96
義持も後継指名を拒否してクジ引き

206日本@名無史さん2013/11/03(日) 10:46:47.91
摂関は五摂家の世襲だろう。五家しかなれないんだから。
秀吉も近衛家の猶子となり関白になっている。

207日本@名無史さん2013/11/03(日) 12:31:42.55
義満以降、摂関家が将軍家の家人になった。

208日本@名無史さん2013/11/03(日) 13:07:43.26
>>203
鎌倉将軍家も、源氏三代は世襲だし、摂家将軍家も摂家だった。ついでに執権も世襲だ。
摂関も藤原北家による世襲だし。

209日本@名無史さん2013/11/03(日) 14:04:52.26
摂家将軍は違うやろ

210日本@名無史さん2013/11/03(日) 15:00:29.51
>>209
鎌倉将軍の四代目と五代目の九条頼経と頼嗣は親子だろ?

211日本@名無史さん2013/11/03(日) 16:10:01.37
摂家将軍は摂家ではない
摂家出身だから将軍になったわけでもない
頼朝の縁故によって鎌倉右大将家の相続者として将軍になった

212日本@名無史さん2013/11/03(日) 19:01:57.07
>>211
九条家が摂家ではないとは、どういう意味だ?

213日本@名無史さん2013/11/03(日) 19:07:19.13
摂家だから「摂家将軍」と呼ばれるわけだが。

214日本@名無史さん2013/11/03(日) 20:10:53.03
厳密に言うなら摂家将軍自身は摂家ではないけど
摂家出身だから摂家将軍と言ってるわけだ
それが気に食わないなら摂家門跡とかも言い換えなければならなくなるが
代案がないならそのままにしておくのが吉
特にわかりにくい言葉でもないし

215日本@名無史さん2013/11/03(日) 20:56:08.51
あのまま続いてれば面白かったのに。

216日本@名無史さん2013/11/04(月) 09:27:58.53
豊臣姓は秀吉死後に、
血縁外にブランドのように与えていると書いているのと、
それ以前に秀吉が聚楽第行幸あたりで次々と豊臣姓を血縁外に与えていたとする説があるようですが、
実際どうなんでしょうか?

217日本@名無史さん2013/11/04(月) 11:52:15.08
>>205
息子に継がせたのに早世したからだろ?

218日本@名無史さん2013/11/04(月) 15:12:26.48
豊臣姓って秀吉生前にはあげてないでしょ。
書状にも名である羽柴侍従としてしか出てこないし。

219日本@名無史さん2013/11/04(月) 19:15:29.42
羽柴は氏
豊臣は姓

220日本@名無史さん2013/11/04(月) 19:21:36.19
>>219
んなこと知ってるわ

221日本@名無史さん2013/11/04(月) 20:50:22.91
太閤 
羽柴秀吉
関白 
羽柴秀次
権大納言 
関東-徳川家康
権中納言 
なし
宰相 
中四国-毛利輝元、宇喜多秀家 
近畿・中部-前田利家、上杉景勝、羽柴秀保、羽柴秀俊 
関東-徳川秀忠
中少将 
近畿・中部-織田信包、細川忠興 
関東-結城秀康 
東北-蒲生氏郷
四位侍従 
九州-大友義統、龍造寺政家、立花宗茂 島津義弘、小早川隆景
中四国-長宗我部元親、吉川広家
近畿・中部-羽柴秀勝、木下勝俊、堀秀治、丹羽長重、毛利秀頼、森忠政、前田利長、織田秀信、長谷川秀一、池田輝政、京極高次、稲葉貞通、前田玄以、筒井定次
東北-最上義光
五位侍従
九州-小早川秀包、宗義智、大友義述
関東-井伊直政、大澤基宿、佐竹義宣、里見義康
東北-伊達政宗

222日本@名無史さん2013/11/04(月) 22:40:46.00
極官が正4位上中将の井伊家と正4位下会津松平や従4位中将の伊達や島津とだったら井伊の方が家格は上なの?

223日本@名無史さん2013/11/04(月) 22:57:07.39
普代筆頭、井伊家が上でしょ

224日本@名無史さん2013/11/04(月) 23:34:39.10
その時の官位が上の方が上
井伊
常溜、譜代筆頭、大老を出す家、城主
伊達
表大名、大身国持、

225日本@名無史さん2013/11/04(月) 23:58:40.24
>>221
これは、いつの?

226日本@名無史さん2013/11/05(火) 00:08:45.70
文禄元年

227日本@名無史さん2013/11/05(火) 08:22:07.31
豊臣姓をあげるようになったのは、
関ヶ原の戦い後の秀頼名義での
論功行賞の時からだと思う。
家康への牽制に利用したんじゃないかな。

228日本@名無史さん2013/11/05(火) 09:28:23.20
公卿補任を見ればすぐに分かる。

天正15年、秀長、秀次の血縁以外初めて豊臣姓の武家公卿が誕生している。
従四位下参議の豊臣(宇喜多)秀家だ。任参議と同時に従三位昇任。
続いて天正18年には豊臣(前田)利家が従四位下参議に任じられている。

前年の公卿補任に藤原姓で記載されていた秀吉が、天正15年分では豊臣姓に改められ、
それと同時に豊臣姓の賜姓制度がスタートしている事が分かる。

229日本@名無史さん2013/11/05(火) 15:42:53.84
豊臣姓と公家成はセット

230日本@名無史さん2013/11/05(火) 23:33:52.22
豊太閤

231日本@名無史さん2013/11/06(水) 06:25:30.82
さる太閤

232日本@名無史さん2013/11/06(水) 08:39:07.26
>>228
池田輝政は?

233日本@名無史さん2013/11/07(木) 16:20:17.14
>>232
関が原の戦いの直前に豊臣姓をもらったようです
朝鮮での功績かなにかでしょう

234日本@名無史さん2013/11/07(木) 20:45:43.83
無知低能ばかりだな

諸大夫成と豊臣姓がセット
秀吉が豊臣姓を賜った以後に官位を貰った武士は殆どが豊臣姓名義で貰っているため特に珍しくもないし特に名誉でもない
(但し豊臣賜姓以前に任官した清正などは結果的に貰えていない)

公家成とセットなのは羽柴苗字

家格スレに出入りするならこの程度のことは知っておけよ

235日本@名無史さん2013/11/08(金) 10:28:53.88
諸大夫成と豊臣姓がセット
公家成とセットなのは羽柴苗字
>>229と正反対だけど???

>>232>>233
wikiには下記と書いてるけど、>>228の意見と違うし1996年発表だといささか古いか。。。
村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年
天正15年(1587年)九州征伐後 賜羽柴姓
天正16年(1588年)4月11日 従四位下、侍従。賜豊臣姓

236日本@名無史さん2013/11/08(金) 13:40:43.35
一門の他、堀秀政、前田利家(羽柴筑前守)、滝川雄利など秀吉が天下を取る過程の時期に羽柴苗字を貰った者はいるが、
当然政権樹立後に羽柴苗字や豊臣姓の下賜が栄典のようなものとして半ば制度化され運用される以前の話

しかも上記三人のうち前二者は後に公家成しており、羽柴苗字を賜りながら諸大夫身分に留まったのは滝川雄利を含めた初期の例外二、三人のみだったはず。

公家成=侍従(以上)任官→豊臣姓羽柴苗字
諸大夫成=侍従不可→豊臣姓のみ

237日本@名無史さん2013/11/08(金) 14:30:12.31
>>235
そのwiki間違ってるんじゃね?

238日本@名無史さん2013/11/08(金) 17:32:53.49
時系列的には↓

1585輝政従五位下武蔵守
1586秀吉豊臣改姓
1587輝政羽柴苗字
1588輝政従四位下侍従豊臣姓

輝政は秀吉が豊臣姓に改めたとき既に任官していたため豊臣姓を賜る機会は次の転任を待たなければならなかった
「豊臣姓は諸大夫成とセット」と言ったが、より広く「豊臣姓は叙任とセット」と言うべきかも知れない
というよりも、日常で豊臣某と名乗ったり呼んだりするわけではないのだから、
実際は位記官記口宣案の名義上豊臣姓とされるというだけのことで、それほど大袈裟なことではなかったのかも知れない
豊臣姓を賜る文書というのがその他に特に存在するわけではないし

対して羽柴苗字の場合は、文書を発給される(文面は「御一家に仰せ付けられ云々」という感じだったかな?)
また公家成の家の子息は侍従に任官する前でも羽柴某と名乗るから、公家成した個人というよりも、公家成の「家」に与えられる家格標識であったと言った方が正確かも

239日本@名無史さん2013/11/09(土) 09:05:28.37
>>218>>227>>233

知ったかぶって明白な虚偽を撒き散らしたり臆測で物を言う馬鹿は書き込まなくていいよ

240日本@名無史さん2013/11/09(土) 16:04:43.10
武家のままでは高位高官に任官できないから
豊臣姓を賜姓+任官という感じでパスさせるって感じ?

241日本@名無史さん2013/11/09(土) 16:49:17.96
関係ないだろ
従五位下の諸大夫でさえわざわざ豊臣某名義にされてるんだから

豊臣姓付与による擬制的同族関係を通した武士統制及び政権安定策

242日本@名無史さん2013/11/12(火) 13:53:03.14
>>239
昔使ってたバッファロー君は落雷で亡くなったけどいい子だった

243日本@名無史さん2013/11/12(火) 18:10:58.39
何も無しな家柄だと従五位程度の家格でも自前で用意しようと思ったらそこそこお金かかるだろうからなぁ

244日本@名無史さん2013/11/12(火) 23:46:34.42
叙任認可は氏長者としての豊臣関白家が保持

245日本@名無史さん2013/11/13(水) 16:08:35.15
豊臣賜姓されると、もともと源氏だったり藤原氏を名乗っていた家は、氏はチェンジなの?

246日本@名無史さん2013/11/13(水) 16:18:22.65
チェンジというより二重状態な感じかな
紙貼って『豊臣』って上書きしてる状態

247日本@名無史さん2013/11/13(水) 21:45:11.52
あんまり良い糊じゃなかったらしくすぐ剥がれちゃったね

248日本@名無史さん2013/12/13(金) 16:10:27.95
大臣家未満のヒラ公家の中で特に家格が高かったのってどこですか?
松木とか日野とか?

249日本@名無史さん2013/12/13(金) 20:24:47.65
家格自体は羽林家名家で団栗の背比べでしょ
羽振りの良かった家や一時の権勢を誇った家ならあるだろうけど

250日本@名無史さん2013/12/13(金) 21:53:15.89
下橋敬長「維新前の宮廷生活」(『幕末の宮廷』平凡社東洋文庫所収)によれば
准大臣に任ぜられるのは中山・中御門(松木)・園・広橋ぐらいとある
但し他と比べると園は実績として一人しか准大臣になっていない
(園は准大臣宣下の直近の実例の一つと言えるのでそこから下橋が誤認したと思われる)

寛延三年官位御定の規定では
「旧家の内しかるべき家」として大臣家三家及び中御門(松木)・中山・正親町・滋野井を挙げている
但し正親町・滋野井は正二位大納言止まりが多い(下橋もこの両家については「従一位に叙せられる家」としてすら挙げていない)

浅井虎夫『新訂 女官通解』(講談社学術文庫)には
「松木をもって羽林の最とす」「松木家は清華に並び、大臣家につづきたる門閥家なり」とある

摂家親王家清華大臣家以外で諸大夫を使うのは中山家のみ


ここから平堂上最上位は中御門(松木)、中山だと考えられる

251日本@名無史さん2013/12/13(金) 22:10:39.25
外戚としてとかではないんか

252日本@名無史さん2013/12/14(土) 16:07:58.01
伯爵になった家と子爵の公家じゃ大納言に直任で差が付けられていたから伯爵公家が平公家では上級ということで良いのでは?
この定義に習うと大臣家も平公家の分類に入ってしまうが、そもそも大臣家って清華というよりも平に近いだろ。

253日本@名無史さん2013/12/14(土) 22:06:16.03
>>252
昇進過程は羽林家・名家の上層と大差ない。
太政大臣まで昇れるとされているが、実際は内大臣までで羽林家・名家の上層も内大臣に任ぜられる。
そして摂家と清華が任ぜられない参議を大臣家が任ぜられる。
それ以上に昇った例では、三条西家で三例、中院家で一例ほど右大臣に昇った例があるだけ。

254日本@名無史さん2013/12/16(月) 22:03:23.15
たまに大臣になっただけなのに大臣家の家格になったんだろう?

大臣家は中納言になっても中将は兼ねるのでしょうか?

255日本@名無史さん2013/12/17(火) 09:12:17.74
>>253
太政大臣まで昇れるとされている

太政大臣まで昇れるのは摂家と清華家。大臣家は通常内大臣が極官。
右大臣の例もあるが、それ以上は絶対に不可能。

256日本@名無史さん2013/12/17(火) 12:10:36.93
江戸期なんか清華でさえ摂家のつなぎで大臣を舐めるだけで殆ど大納言あたりで過ごしていたのに
大臣家なんか全くお呼びじゃないだろw

257日本@名無史さん2013/12/17(火) 12:14:21.69
>>255

大臣家、実例は無いにしても理論上、太政大臣まで昇ることは可能だと思っていたが違うの?
十分太政大臣に就く資格がある清華にしても江戸期は太政大臣任官皆無だし(摂関経験者に限るということで任用資格すら失った)。

258日本@名無史さん2013/12/17(火) 17:38:34.71
>>257
およそ鎌倉期に公家の家格が出来上がってから、その後の大臣家(家格ではなく、
大臣に任じられる家)の昇進過程を見ると、太政大臣・大将に昇る家が清華家となり、
大臣(内大臣)には昇っても、大将を兼ねる事が出来ない家が大臣家となっていった。

259日本@名無史さん2013/12/17(火) 17:54:44.67
>>255
PS
つまり、理論上太政大臣に昇る事は可能ではなく、
太政大臣に昇れなかったから、清華家にはなれなかったと言う事だ。
近世は徳川幕府の創設した公家社会なので、官位制度もそれまでとは同一に
論じられない。近世以前には、大臣家の右大臣は三条西公條の一例はあるが、
それ以外は総て内大臣であり、中院家においては准大臣も二例ある。
これを見ても、大臣家の極官が内大臣であった事は明らかだと思う。

260日本@名無史さん2013/12/17(火) 20:15:59.36
>>259
大臣家と清華の違いは大将任用資格だけじゃね?
まぁ大臣家が出自からして清華の分家筋で清華に遥かに及ばず、事実上内大臣が極官なのは異論ないけど
右大臣に中院と三条西がかすった例もあるし(平公家でも僅かに例があるが)実際なれる、なれたは別として
「理論上」太政大臣まで昇進ルートあると言いたかった。

貴方の言うことは十分理解できるし(結果内大臣が極官だったという事実からして)もっともだけどちょっと
私と視点や考え方が違うみたいだ。

でもわざわざレスくれてありがとう。



話は変わるが近世以降は大臣は事実上摂関家の占有官位になって左右大臣大臣家の専売特許だった舐り大臣が
清華まで拡大したよね。
中世までは清華は摂関任用資格と昇進スピード以外、本質的には差が無かったのに。

261日本@名無史さん2013/12/17(火) 23:35:41.79
江戸期、左右大臣は清華は摂関の隙間に短期間入り込むだけだったけど内大臣も5年以上長期で勤めること
出来なかったの?
宮中席次見ても左右大臣と内大臣は、かなり差があるよね?

262日本@名無史さん2013/12/17(火) 23:45:02.86
江戸期は大臣家から内大臣昇進は実質皆無。
なっても数日で解官。
清華は大臣家よりはマシだが数日〜数ヶ月が殆どで長くて2年。
摂家にとっては内大臣は踏み台に過ぎないが昇進が遅れた場合、長期任官している例がある。

263日本@名無史さん2013/12/17(火) 23:48:15.22
清華家とはなっていても、新しく出来た
醍醐家は太政大臣を出したことが無いし、
広幡家に至っては、内大臣しか出したこと無い。
この辺も、「理論上」って感じだね。

264日本@名無史さん2013/12/18(水) 00:23:31.77
江戸以前から清華って呼ばれていたの?

265日本@名無史さん2013/12/18(水) 01:02:48.75
吉良家は高家やから

266日本@名無史さん2013/12/18(水) 11:07:18.93
>>263
広幡って極官内大臣だけど他の清華と較べたら内大臣昇進率が高い。
他の家と比べ早世が少なかったのか単なる偶然なのか大将兼ねられないから代替だったのかは知らないけど。

267日本@名無史さん2013/12/18(水) 16:08:40.85
>>266
以前にもどこかに広幡家は大将が兼ねられないという書き込みがあったけど、
豊忠、前豊、基豊、忠礼は右大将になっている。
ただ、経豊は内大臣になっているにも関わらず、大将を兼ねられなかった。
これは、先任の大炊御門経久が右大将を兼ねて内大臣になり、続いて久我通明が、
すぐに右大将を兼ねて内大臣になった。
そして、その後を受けて経豊が内大臣になったが、兼ねられるべき右大将は、
大納言の鷹司輔煕のところに行ってしまい、珍しい例になった。

268日本@名無史さん2013/12/18(水) 18:09:01.44
清華の内大臣就任って引退の花道、前官待遇ゲットの手段か?
近世は左大臣になると紛れ込む隙間も殆ど無い感じだし。

269日本@名無史さん2013/12/18(水) 18:38:03.06
近衛の細川は有名だけど現在の五摂家はどこの男系子孫なの?

270日本@名無史さん2013/12/19(木) 00:41:26.67
>>267
広幡の右大臣大将兼任の件って制度化されてたの?
それともたまたま内大臣と兼任しなかっただけ?

271日本@名無史さん2013/12/19(木) 12:00:17.63
>>270

広幡の右大臣大将兼任の件って制度化されてたの?

ちょっと質問の意味が分からないけど、常豊が大将になれなかった件なら、
やはり広幡家の新家としての弱さと、常豊の運の悪さが重なったのかと思う。
文政7年は九条尚忠が右大臣に転じた後、清華家の3人が内大臣を舐めた年であり、
その一人目が、大納言先任の44歳の大炊御門経久だった。
経久は右大将を兼ねており、これは大臣直前の清華家の先任大納言としては珍しくはなかったが、
問題は次席、三席の大納言が、年齢の接近した清華家の久我通明45歳、広幡経豊46歳だった事。
この為、久我通明は大将になっていなかったが、4ヶ月程で辞任した経久の後を襲った通明は、
内大臣と共に右大将を兼ねる事が出来た。
そして半月程で辞任した通明の後、やっと経豊が内大臣になり、ここで普通なら右大将を兼ねる所だが、
どう言う訳か右大将は鷹司輔煕が任じられてしまった。
常豊が20日程で辞任した後、17歳の左大将近衛忠煕が内大臣になっているが、すでに忠煕は大将を兼ねており、
輔煕は18歳と1歳年上でありながら、大将を兼ねていなかった為、バランス上の事とかとも思われるし、
そこに、弱い新家の広幡家にしわ寄せが来たのではないだろうか。

272日本@名無史さん2013/12/19(木) 17:11:25.18
大塩平八郎のことを調べてたら、養子縁組によって当時の武士の家格の考え方が
透けて見えるように思う。

大塩の祖父は、徳島藩筆頭家老稲田家の家臣真鍋家の生まれで、つまり陪々臣の出。
一旦、同じく稲田家の家臣塩田家に養子に入った後、更に大坂町奉行組与力(抱席御家人)の
大塩家の養子に入っている。全て知行200石相当だ。与力は蔵米支給で、現米80石という
表現になってるけど、禄米二百俵と同じく4公6民で知行200石と同じ扱い。
平八郎の親戚や弟子に養子縁組した人間は多いけど、堺奉行組与力や大阪定番組与力、
大和郡山藩家臣といったように、直臣陪臣の区別なく、知行200石相当の家同士で
行き来している。もちろん、同役である大坂町奉行組与力の間での養子縁組がダントツに多いけど。

これが大名旗本ともなると、同じ大名旗本からって話で別枠になるだろうけどね。お上から
かなり厳しく監視されるし。しかし御家人であれば、陪臣とかそういうのはこだわらないようだ。
あくまで家格は知行高相当で決まるらしい。

ちなみに、もう一段格下の同心(抱席御家人)ともなると、裕福な町人とか農民とかと平気で
養子縁組してる。

273日本@名無史さん2013/12/19(木) 17:26:49.31
町人や農民と養子縁組と言うより、同心株・与力株の金銭による売買だろう。

274日本@名無史さん2013/12/20(金) 00:02:50.24
>>272
徳島藩の直臣と稲田家陪臣で、収入が同じ程度の家同士の縁組はないの?

因みに小藩の中級武士(80石程度)なら庄屋、本陣、社家、寺家あたりとも縁組してる

275日本@名無史さん2013/12/20(金) 01:27:49.01
徳島藩と稲田ってすごく仲悪かったんじゃないか?

276日本@名無史さん2013/12/20(金) 07:08:27.57
稲田陪臣が藩外に縁組を求めていたということはないのだろうか?

277日本@名無史さん2013/12/21(土) 21:01:31.84
>>272
稲田の家臣で200も貰っているなら家中では上士じゃないか?

278日本@名無史さん2013/12/27(金) 00:31:41.94
>>275
稲田昌植の妻有馬久米の兄松田正之の妻蜂須賀笛子
有馬経由で蜂須賀と稲田がつながる

279日本@名無史さん2013/12/27(金) 06:26:29.20
>>278
それ明治の近代貴族制度下の話

280日本@名無史さん2013/12/30(月) 21:29:13.04
華族制度な

281日本@名無史さん2013/12/31(火) 00:01:38.57
宮本町(宮津市)
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/miyamoto.html
分宮神社

分宮神社は宮本町(文久二年正月旧職人町改称)に鎮座し指定村社にして宮津町東半の産土神なり、(写真参照)その勧請に就いては宮津事跡記に
分宮大明神御勧請之儀京極丹後守高広公府中一之宮に御信仰被爲在毎月御参詣被遊候處雪中
又は、荒等之節御参詣難被遊に付寛永五年丑九月職人町に御勧請同十一月御遷宮其後は一之宮之神主年々祭禮之節神事相勤候處職人町住人に
大兵衝と申者而至而実禮之者に而信仰致侯に付社内之掃除又は宮守に被仰付其後官職可致旨被仰出当社神主と相成御領内神主筆頭に被仰付候
また宮津旧記に
 分宮大明神は京極高広公御在城の砌府中一の宮へ御信仰雲中御参詣を御厭ひ今宮津職人町の地へ御引移寛永五辰九月十一日遷宮即ち宮守には
同町太兵衛と云ふ者至って信仰故に宮守となり其後官職の儀は阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
とあれば寛永五年九月十一日藩主京極高広侯籠神社のみ霊を祀られしに濫觴すること明かなり。

→阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。

阿部対馬守とは、江戸時代の徳川家譜代家臣の阿部正勝の子孫で、大阪城二代城主の阿部重次の事。
従六位島谷出雲守とは、阿部家従六位なのだろうか・・

奥州安倍氏従六位島谷出雲守・・

282日本@名無史さん2013/12/31(火) 14:36:07.11
無位無官の町奉行 同心与力と官位持ってる町人とでは町人が偉いの?
土足で官位持ちの容疑者町人の家に踏み込めないという話は聞いたことあるけど

283日本@名無史さん2013/12/31(火) 15:38:28.32
>>282

容疑者町人の家には踏み込めないから、家から出てきたところを捕縛する。

284日本@名無史さん2014/02/12(水) 22:43:11.21
日野とか平公家にもかかわらず清華以上の1000石とか800石とかの家禄持っている公家って結構おるけど何物?

285日本@名無史さん2014/02/12(水) 23:58:35.10
足利将軍家の親戚

286日本@名無史さん2014/02/13(木) 01:41:13.81
平堂上で1000石前後の家は日野家以外は飛鳥井家(羽林家)、広橋家(名家)、烏丸家(名家)、高倉家(半家)、萩原家(半家)で
石高だけなら清華の今出川家に匹敵する多さ。その今出川家も石高だけなら摂家の鷹司家より何故か多い。

287日本@名無史さん2014/02/13(木) 12:41:59.37
>>1
御殿人の家格とは何か?

288日本@名無史さん2014/02/13(木) 12:53:27.44
武家伝奏

289日本@名無史さん2014/02/14(金) 16:43:44.97
>>286
それはじっ(日偏に尼)近衆でしょう。江戸初期から家康や秀忠に接近し、
参内の共をしたり、将軍家に伺候し、臣下の様な礼を取っていた公家衆の事です。
日野、烏丸、広橋、飛鳥井、勧修時、高倉、舟橋等20 家弱が知られています。
その形成や役割は明確ではありませんが、知行高などで優遇され、
幕府による公家衆の分断策と見る事も出来るとされています。

講座前近代の天皇 第2巻天皇権力の構造と展開その2  より

290日本@名無史さん2014/02/19(水) 16:29:54.02
>>289
>>286

> 幕府による公家衆の分断策と見る事も出来る

あー、なるほど。

291日本@名無史さん2014/02/19(水) 22:49:08.25
近世朝廷の法制と秩序
ttp://www.yamakawa.co.jp/product/detail/2118/

292日本@名無史さん2014/02/23(日) 10:49:38.10
にゃあ

293日本@名無史さん2014/03/05(水) 09:34:10.24
>>282
町奉行クラスの大身旗本で無位無冠なんてあるの?

294日本@名無史さん2014/03/05(水) 15:07:16.66
ある

295日本@名無史さん2014/03/06(木) 19:31:01.36
無位無官でも布衣なら六位相当だから問題ない

296日本@名無史さん2014/03/07(金) 03:10:53.10
>>289
武家(足利家)の家礼の流れを汲む家々の事ですか?。


かれらの家々の分家は高家(武士)として徳川家近習になったりしてますね。

297日本@名無史さん2014/03/07(金) 06:52:57.25
役に付いていない大身旗本は一部を覗いて無位無官じゃない?

298日本@名無史さん2014/03/07(金) 08:46:35.80
元の>>282は町奉行が無位無官と言ってるんだが、さすがに無位無官はないんじゃないか。遠国奉行なら別だが。

299日本@名無史さん2014/03/07(金) 19:12:05.30
>>298
奉行本人ではなく奉行所の与力同心と町人を比べていると読み取れるが?

300日本@名無史さん2014/03/08(土) 10:51:58.05
前田利家って、秀吉が天下人になったとき、「羽柴筑前守」って秀吉の旧名をもらってるんだけど、
これって元同僚で友人の立場としては、けっこう精神的にキツイというか屈辱じゃなかったのかね?

301日本@名無史さん2014/03/08(土) 18:07:45.42
>>300
徳川期に松平の称号貰った外様大名も屈辱って事か?
内心は分からないにせよ天下人から旧名をそのまま貰えるというのは非常な
栄誉だと認識されていたと思う。

羽柴や豊臣は乱発されすぎて有り難みがないから筑前守をセットで与え、他との差別化を図ったのだろう。
実際、豊臣政権で前田家は過剰なほど優遇されてるしね。

302日本@名無史さん2014/03/09(日) 15:55:46.83
細川じゃ、松平下賜を辞退してるな。
大御所が長岡から細川に戻るように言った直後に、秀忠が下賜しようとしたので大御所の言をたてにうまく断った。

303日本@名無史さん2014/03/10(月) 00:14:31.27
細川、上杉は殿上元服・賜諱があるが松平姓ではない
山内は殿上元服・賜諱も松平姓もない

304日本@名無史さん2014/03/10(月) 19:40:43.69
豊臣清正  カッコわるw

305日本@名無史さん2014/03/10(月) 21:50:50.79
だが、清正が勝手に豊臣姓を使用したとき、秀吉の逆鱗にふれた。

306日本@名無史さん2014/03/10(月) 22:09:28.23
清正て秀吉の遠縁なのに、なんで怒られたんだろ?
陪臣にすら豊臣姓をバンバン下賜してんだし
清正にも気前よく与えれば良いやん

307日本@名無史さん2014/03/10(月) 23:37:21.61
>>303
山内は松平○ 殿上元服?じゃなかった?
外様大藩では珍しいと思う。

308日本@名無史さん2014/03/10(月) 23:45:25.09
>>307
山内は家来の筋と称してた

309日本@名無史さん2014/03/11(火) 19:54:34.60
山内は松平土佐守だよね。諱は2代目の忠義1人しかもらえなかったけど。

310日本@名無史さん2014/03/11(火) 20:34:47.23
細川や上杉は、なぜ松平の名字をもらわなかったんだろう?

311日本@名無史さん2014/03/11(火) 20:45:02.89
日本史、興味ねえんだな
よく分かるわあ

312日本@名無史さん2014/03/11(火) 20:50:04.18
建国からたった50年しかない小国の歴史などない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                              糞スレ終了
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

313日本@名無史さん2014/03/12(水) 17:25:07.36
日本は滅んだからね

314日本@名無史さん2014/03/12(水) 17:37:23.59
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                     糞スレ終了
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

315日本@名無史さん2014/03/12(水) 17:40:14.89
>>312
このスレだけじゃなくて日本史板廃止運動しなさい

316日本@名無史さん2014/03/12(水) 23:35:25.32
>>310
細川は羽柴はもらっていたんだっけ?

317日本@名無史さん2014/03/13(木) 16:58:47.62
秀吉時代、武家の任官は豊臣姓必須じゃなかった?

318日本@名無史さん2014/03/13(木) 17:20:16.17
出自不明の新興武家ならともかく過去に任官例ある家格のとこは必須ではないような

319日本@名無史さん2014/03/17(月) 00:09:57.98
伊勢平氏の公卿12人って誰?

320日本@名無史さん2014/03/19(水) 21:30:06.25
秀吉は武家全体を豊臣氏に取り込んで
豊臣氏のトップ(=氏長者)として武家全体を統制しようとしてたんでしょ?
武家が官位をもらうときは天下人秀吉に無断でもらうわけにもいかず
そうなると自動的に秀吉の推挙で叙任=豊臣朝臣となる
豊臣朝臣でない武家は豊臣賜姓以前もしくは関ヶ原以後に叙任された例に限られるはず

321日本@名無史さん2014/03/19(水) 21:53:20.92
氏爵なのか関白家の門流なのか、どちらなのかね。

322日本@名無史さん2014/03/19(水) 21:59:46.30
そうすると秀吉の構想していた豊臣氏ってのは
今までの氏とは異質なものだよね
そのまま続いてたら血筋をあらわすものじゃなくなって貴族の証みたいなものになってた?

もし将来的に貴種の末裔で担ぎあげられる奴が出てくると
その点で劣る秀吉からしたら血筋をあらわす氏ってのは邪魔な存在だろう
そこで自分を頂点とする氏のみが存在できるように根本的に変えてしまうつもりだったのか

323日本@名無史さん2014/03/21(金) 06:50:33.11
全国の武家のトップ=豊臣関白家

324日本@名無史さん2014/03/21(金) 08:11:41.48
お公家さん達にとっては、公卿の定員を武士に横取りされる武家関白制より、徳川幕府の方がありがたかったろう。

325日本@名無史さん2014/03/21(金) 10:08:41.80
とは言っても摂家以外ないような形だっちらどっちも迷惑かも。

326日本@名無史さん2014/03/21(金) 11:11:14.67
>>324
そりゃ分からんよ。
公武が同列の豊臣政権であれば同じ官職は同等の価値を持ってたけど
徳川政権下では京都に押し込められて政権から完全に疎外されたし。

327日本@名無史さん2014/03/21(金) 12:46:57.62
豊臣政権下で武家並みに影響力にあった公家はいたか?菊亭晴季くらいじゃないか。

328日本@名無史さん2014/03/21(金) 12:57:00.28
本当に秀吉がその意味をわかってたかは
難しいけど、平安以降の「血統」を表すものとしての
「氏」とは別物になってただろうね。

これは徳川でもそうだけど、「氏を変更する」ということ自体が
すでに「血統」の正当性を証明してない。
公家さんはその意味がわかってるから
ハナでわらってたろうけどね。

ただ、秀吉が自分の直系のみを豊臣としてたら
従来の使用法なんだけど、「新しい氏の誕生」にはなっちゃうよね。
でも、その場合は「秀吉の出自がはっきりしない」ということから
「豊臣なんて氏、卑賤のものである」と堂々とハナで笑える。

菊亭や近衛はちゃんと考えてたんじゃないだろかな。
そして結果的に追放されたりするけど。

妄想だけど「豊臣」というのも結構イヤラシイ
ネーミングと思うのだよね。
そのままで「金で買った地位」ってのもあるし
「豊臣朝臣」なんて書くと、「臣」が二重になって
「身分をわきまえろよ」との確認みたいになる。

まぁ、公家と秀吉ー武家の価値観の違いって
ことなんだけどね。

329日本@名無史さん2014/03/21(金) 13:13:27.64
公家の間でもたとえば源氏の家に藤原氏から養子、猶子に入るなんて
ことは普通に行われていたんだから、特に
> 公家さんはその意味がわかってるから
> ハナでわらってたろうけどね。
なんて話は起きないね。長尾輝虎が上杉の名跡を継いだとき、近衛前
久が同族になったと祝意を表したという話も伝わっている通り、氏の変更
なんてのは公家にとってもごく普通の話だよ。

330日本@名無史さん2014/03/21(金) 13:57:27.67
>>329
だから、源氏の家に行ったようなのはもう
「仲間じゃないよ」ということでしょう。
前久は上杉好きだから典型的なお世辞
であるしね。
逆に、出自のはっきりしない武家を
猶子じゃなく正式に高貴な藤原家の
血統にいれたことなんてある?
血統の正当性、の話であって
武家が氏の変更をすることはごく普通の
「ハナで笑ってた」話だ、ってことなんだけど。
自分たちの氏は貴種だよ、ってね。

331日本@名無史さん2014/03/21(金) 16:33:19.51
近衛信尋、一条昭良は養子だな。

332日本@名無史さん2014/03/21(金) 21:42:17.88
日本で一番出自のはっきりした最高の名門、天皇家の皇子を、
正式に高貴な藤原摂関家の血統にいれた例だな。
とくに近衛家なんて、昭和までずっと後陽成天皇の男系子孫で、
伏見宮一門より現皇室に血が近かったし。

333日本@名無史さん2014/03/21(金) 21:48:54.98
家康の三河守任官を近衛前久が取り次いだときの話も
知らなければ、長尾家や上杉家が何氏なのかも知らな
いようだな。

334日本@名無史さん2014/03/21(金) 22:28:08.63
長尾氏 → 泰忌寸
上杉氏 → 高倉朝臣

335日本@名無史さん2014/03/22(土) 00:13:14.99
>>332
しかも、近衛信尋、一条昭良の母は、女御の近衛前子(中和門院)で、後水尾帝の同母弟。これ以上がない身分の2人だな。

336日本@名無史さん2014/03/22(土) 15:28:47.56
江戸時代の細川家当主の官位だが、家柄の割りには別段高くないのではなかったか?

337日本@名無史さん2014/03/23(日) 10:15:02.46
そもそも国主級大名の官位って、秀吉時代に比べたらかなり低いし、
細川家、それも分家の和泉半国守護家や奥州家なんて室町時代から、
それほど官位が高かったわけじゃないし。

338日本@名無史さん2014/03/23(日) 10:23:40.93
室町期の全盛時の今川氏だって、せいぜい従四位下だしな

339日本@名無史さん2014/03/23(日) 13:22:22.26
幕末期になると、国主級大名の官位がインフレ状態をおこし、
明治維新直後の大大名は中納言だらけになってしまう。

340日本@名無史さん2014/03/23(日) 16:58:14.76
しかし、現在の近衛家は清和源氏細川氏流だし、鷹司家に至っては、
氏素性も無い徳川家の庶流の大給松平流に成り下がっている。これも時代か。

341日本@名無史さん2014/03/23(日) 17:36:03.69
鷹司は鍋島でそ

342日本@名無史さん2014/03/23(日) 17:42:43.88
しかも現当主の父は大正生まれかつ父親が婿養子なのに側室腹らしい(戦前の華族本?に嫡母との記載あり)

343日本@名無史さん2014/03/23(日) 19:29:03.92
下級武士あがりの勲功華族やら、正真正銘の一般人の婿に取って代わられた家よりは、
まだ大名家からの養子の方がマシだろう。

344日本@名無史さん2014/03/23(日) 21:40:44.72
上冷泉家とか……

345日本@名無史さん2014/03/24(月) 01:02:02.79
>>339
公家社会の官位なんて、ずっと前にインフレしすぎてるけどね。
何で大納言になれる家が100以上もあるんだよ・・・大納言って何か知ってるのか?
って感じ。

346日本@名無史さん2014/03/24(月) 01:15:06.72
大中納言と参議までは、今でいう閣僚だからね

347日本@名無史さん2014/03/24(月) 07:03:50.87
公卿自体が既にインフレ状態だよな>公家社会

348日本@名無史さん2014/03/24(月) 08:52:37.63
しかし家格だのなんだのってのがでるってことは今だに日本は中世以前なんだな

349日本@名無史さん2014/03/24(月) 08:57:22.52
345
なんで言葉を納めるって字がつかわれてると思う?

350日本@名無史さん2014/03/24(月) 09:02:59.43
>>347
公卿って、国家の中枢をなす、常人には近づけないくらい偉い人ってことだからね。
何でそんな偉い人が常時何十人もいるのって話。

351日本@名無史さん2014/03/24(月) 09:03:45.45
>>349
自分でググレカス

352日本@名無史さん2014/03/24(月) 09:18:20.29
350
奈良に始まり戦国時代にはもう終わってる
幕府ってのは家政制度の発展だからね

353日本@名無史さん2014/03/24(月) 09:43:09.86
だから何?

354日本@名無史さん2014/03/24(月) 09:55:13.39
日本は既に終わってるってこと
存続自体が無意味

355日本@名無史さん2014/03/24(月) 10:07:20.80
幕末に土佐の侍が上洛したときに、下級公家の岩倉具視が、山内家当主より官位が上だったので
びっくりしたという話がある。

356日本@名無史さん2014/03/24(月) 10:13:00.60
>>355
それはさすがにネタでないの?
それか、岩倉がよほど公家らしからぬボロボロの格好していたか

357日本@名無史さん2014/03/24(月) 10:14:08.12
>>354みたいな、他人に対する悪意だけで生きてる人って
生きてて何が楽しいんだろうね・・・って思うけどまあ、世の中にはいろんな人がいる

358日本@名無史さん2014/03/24(月) 10:17:16.41
本当に歴史を知らないのお前ら?

359日本@名無史さん2014/03/24(月) 10:18:54.17
>>355
逆に、都の人は言葉も通じない土佐の侍にびっくりしただろうよ

360日本@名無史さん2014/03/24(月) 16:48:21.61
>>345
近世堂上公家137家のうち大納言に昇った家は78家、100家も無い。

361日本@名無史さん2014/03/24(月) 17:45:21.39
極官が大納言でも任官が少ない家、極官が中納言、参議の家から非参議の半家まで子爵だから、ごちゃまぜ状態だな。

362日本@名無史さん2014/03/24(月) 18:17:42.29
摂家と清華以外はごちゃ混ぜ
明治迎える21年前に堂上した大江朝臣北小路家も子爵。

363日本@名無史さん2014/03/24(月) 18:22:22.78
>>356
岩倉本人がどうだったかは知らないが、そのクラスの平公家だと、
窮迫して装束も持っておらず、参内するときだけ借りていたらしい。

364日本@名無史さん2014/03/24(月) 18:39:16.48
>>362
伯爵は、大臣家、羽林家と名家の上層(大臣宣任多い家)だからまだましなんだろうが、大臣家の不満は大きかったようだな。

365日本@名無史さん2014/03/25(火) 23:43:27.41
公家で非参議が極官っていかにも底辺で貧乏って感じがするけど(実際そうなんだが)、
でも家格は前田家並みで、その死は薨去なんだよな

366日本@名無史さん2014/03/26(水) 00:07:54.97
家禄が100石超あれば、今でいう1000万とかそれくらいだから、
決して貧乏ってわけじゃない。ただその俸禄のうちから家人を雇って、
種々の体面を保とうとしたら大変だったはず。
庶民の買わないものは値段も驚くくらい高かったから、装束もレンタルで済ませてた。

367日本@名無史さん2014/03/26(水) 20:13:14.71
じいちゃん家に、中納言宣下なんちゃら書かれた紙があるよ。
ボロボロだけど偽物だろうな

368日本@名無史さん2014/03/26(水) 21:01:37.84
他には何か読み取れないかみておいたほうがいいよ。

369日本@名無史さん2014/03/26(水) 22:07:50.35
>>362
そんなこと言い出せば維新の2年前に立藩した高徳藩1万石戸田家も
高田藩15万石榊原家も子爵だから武家も同じ。

370日本@名無史さん2014/03/27(木) 02:11:53.55
まあ実質何十種もあった家格を公侯伯子男の5種に無理やり押し込めるんだから
不満も出るわな
しかし今見ても所謂勲功華族は待遇良すぎる。
岩倉や三条、西園寺あたりは公爵でも良いが、
伊藤・山県以下、旧藩士レベルの奴らは全員男爵でもいい。
伯爵となった大名階層の人々は、何でこいつらより自分の方が下なのか?って
すごい不満だっただろう。

371日本@名無史さん2014/03/27(木) 05:50:16.98
華族社会は、伝統華族内では公家と大名が反目してたが、勲功華族にたいしては、公家と大名がタッグを組んでシカトしていたらい。

372日本@名無史さん2014/03/27(木) 06:49:59.02
>>371

とはいうものの、大名家といっても戦国時代のどさくさで台頭した家が多いからなあ。

373日本@名無史さん2014/03/27(木) 07:26:14.09
>>371
(公´д`)(公´д`)(武´д`)               (´・ω・`勲功) やぁ!何をしているんだい?

(公´д`)(公´д`)(武´д`) ……               (´・ω・`勲功) ?

(公 ´д) 今日の晩御飯は何になさいますの?(公´д`) うちはフォアグラとかいう変わった料理を…(д`武) 洋食ですか?うちは家内が洋食嫌がって食べないんですよ・・            (´・ω・`勲功) あの…

(公 ´д) 武家華族の奥様も?うちも洋食嫌がって…(公´д`) 異国の料理は変わったものが多いですからね。仕方ないですよ。(д`武) 少し前は魚だとか米だの食べてましたから急に食生活変えるのは無理でしょう。   (´・ω・`;勲功) …

(公´д`)(公´д`)(武´д`) ……               (´・ω・`;勲功) …………

(公 ´д) ヒソ(公´д`) ヒソ(д`武)               (´;ω;`勲功)

374日本@名無史さん2014/03/27(木) 10:35:51.21
>>372
だから、公家と大名の反目もあった。
ただ、江戸時代、公家と大名の婚姻が結構あって親戚付き合いしてたからな。大名家からの経済援助目的だが。
三条実美の母が土佐山内家、祖母が長州毛利家とか。

375日本@名無史さん2014/03/27(木) 14:38:33.11
>>374
そういうのって、長男女じゃなくて、ちょと下ぐらいが
多いもの?
それとも援助多くほしい時は公家さんでも
長男出したりするのかな。
次男ぐらいだと死亡率も高かったろうから
結局家督相続者になったりもしそうだし。

376日本@名無史さん2014/03/27(木) 21:39:23.06
>>375
公家の男子が武家の養子になるとか、その逆も聞かないから、お互いに女子を嫁にやり取りするんだろう。
女子だったら、家督に関係ないから、長女もあれば末娘もあるだろうね。

377日本@名無史さん2014/03/27(木) 21:52:19.34
>>376
そか、ビンボ公家に望まれれば
どんどんだしちゃうこともあるわけか。

378日本@名無史さん2014/03/27(木) 22:08:07.48
佐竹と津軽は公家からの養子が継いでる。
亀井も公家からだけど明治以降だっけかな?秋田は明治以降だよね。
武家から公家を継いだ例は知らないな。

379日本@名無史さん2014/03/27(木) 22:16:23.06
>>366
名目レートで、
家禄100石=現米35石=米35俵=米70kg

380日本@名無史さん2014/03/27(木) 22:18:19.62
>>370
逆だろ。数百年前の先祖の勲功以外に取り得がない連中
なんて、伯爵か副伯で十分だよ。
日本が手本にした欧米の制度でも、勲功貴族が高い爵を
受けるのはごく普通のことだし。

381日本@名無史さん2014/03/27(木) 22:27:28.28
これでOK

公爵 長州藩士
侯爵 薩摩藩士
伯爵 摂政関白になったことがある摂関家
子爵 公卿に昇らず亡くなった当主がいる摂関家
男爵 摂政関白になったことがある摂関家以外の公家
士族 徳川宗家 江戸時代左大臣になったことがある公家
平民 徳川御三家 それ以外の家ぜんぶ

382日本@名無史さん2014/03/28(金) 01:17:37.28
勲功華族も、結局華族として同じ貴族院議員になったりするし、
子どもどうしが婚姻したりも出てくるから、公家・大名華族たち
と同化していったと考えた方がいいと思う。

例えば。
徳川慶喜の子どもの婚姻だって、伏見宮、四条侯爵(公家華族)
もいれば、蜂須賀侯爵、池田侯爵、水戸徳川公爵(大名華族)とか
もいて、更に勝伯爵(勲功華族)もいる。孫の代になれば、西郷
侯爵とか勲功華族との婚姻ももっと増えてる。

383日本@名無史さん2014/03/28(金) 06:23:35.90
娘が慶喜の息子に嫁いだ名和は勲功?

384日本@名無史さん2014/03/28(金) 06:38:25.26
実際のところ、慶喜自身が勲功。

385日本@名無史さん2014/03/28(金) 08:54:51.29
木戸孝允は男前だったのと物腰が柔らかかったので
大名からも公家からも好意的な扱いをされたという説があるが。

386日本@名無史さん2014/03/28(金) 08:57:52.69
徳川宗家の隠居だった慶喜が公爵を受爵したのは、確かに大政奉還、恭順に対する勲功ともいえるな。
しかし、御三家の御曹司で実母が皇族(有栖川宮家の女王)なので、最高の貴人であることも間違いがない。

387日本@名無史さん2014/03/28(金) 09:11:49.26
だれにおもねってるんだよ

388日本@名無史さん2014/03/28(金) 09:13:24.40
381
なんのギャグ?

389日本@名無史さん2014/03/28(金) 09:29:27.14
>>381

公爵 長州藩士 ← 藩士の家全部?
侯爵 薩摩藩士 ← 藩士の家全部?
伯爵 摂政関白になったことがある摂関家 ← 摂関家は当たり前でしょ?
子爵 公卿に昇らず亡くなった当主がいる摂関家 ← いたっけ?
男爵 摂政関白になったことがある摂関家以外の公家 ← 摂関家以外は摂政関白なれないけど?
士族 徳川宗家 江戸時代左大臣になったことがある公家 ← 摂関家と清華家(久我家と広幡家除く)しか該当しない
平民 徳川御三家 それ以外の家ぜんぶ


長州、薩摩藩士以外は不満爆発する叙爵基準だな

390日本@名無史さん2014/03/28(金) 09:33:23.30
なあなあお前らがやってる茶番劇どうすんの?

391日本@名無史さん2014/03/29(土) 02:01:00.70
助さん「言葉を慎みたまえ。君は前の副将軍の前にいるのだ」

392日本@名無史さん2014/03/29(土) 02:13:55.48
熊沢「君の一族と私の一族は元々ひとつの皇室だったのだ。南北朝のとき二つに分かれたがね」
熊沢「流行りの服は嫌いですか」
熊沢「私も古い秘密の名前を持っているんだよ、裕仁」
熊沢「君のアホ面には心底うんざりさせられる」
熊沢「全世界は再び南朝の元にひれ伏すことになるだろう」
熊沢「南朝は滅びぬ!何度でもよみがえるさ!」
熊沢「ひざまずけ!命乞いしろ!」
熊沢「3分間待ってやる」
熊沢「あああ、目がぁ、目がぁ、・・・!!」


佐藤弘夫(創価学会)研究室に11年いた吉川裕は
やっぱり創価学会。創価じゃないと出世できない東北大学のからくりがバレる。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/716475.html (創価の見分け方)
週刊新潮はいつも真実が書いてあるっていうとファビョるのが創価

http://www.geocities.jp/myudash/new.html (裕チャンのブログ)
べいべー!! 週刊誌に書かれてるのは全部嘘だぜ! のピレプーです。違いますか、違います。エジャナイカエジャナイカどーでもエジャナイカ〜。

394日本@名無史さん2014/04/15(火) 17:52:40.19
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Naitou1980
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Freetrashbox
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>海獺
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Colocolo
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>氷鷺
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Holic 629W
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ぱたごん
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Ks aka 98
ジャムリンX>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>謎の魔人X
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>篠岡
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Blue-comet
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬屋橋
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>cpro
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Akatsuki444
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>アイザール
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>朝彦

395日本@名無史さん2014/04/17(木) 22:08:12.67
【2ちゃん抗争激化で鯖落ちした場合の避難所】

1日7万投稿 存在感増す「おーぷん2ちゃんねる」 
「2chにあれば面白そうな機能、どんどん追加する実験場」

ITmedia ニュース 4月14日(月)12時52分配信

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1404/14/news068.html

396日本@名無史さん2014/06/15(日) 23:18:43.03
摂関家
藤原北家御堂流近衛家
藤原北家御堂流鷹司家
藤原北家御堂流九条家
藤原北家御堂流一条家
藤原北家御堂流二条家
豊臣氏羽柴家

清華家
村上源氏久我家
村上源氏堀川家
村上源氏土御門家
藤原北家閑院流三条家
藤原北家閑院流西園寺家
藤原北家閑院流今出川家
藤原北家閑院流洞院家
藤原北家閑院流徳大寺家
藤原北家閑院流宇喜多家
藤原北家花山院流花山院家
藤原北家花山院流大炊御門家
藤原北家勧修寺流上杉家
藤原北家御堂流醍醐家
桓武平氏六波羅家
桓武平氏織田秀信家
桓武平氏織田信雄家
桓武平氏小早川家
清和源氏鎌倉家
清和源氏足利家
清和源氏徳川家
大江氏毛利家
菅原氏前田家
正親町源氏広幡家

397日本@名無史さん2014/07/18(金) 16:44:25.11
殆ど断絶した家ばかりだな。

398日本@名無史さん2014/07/18(金) 17:02:48.18
摂関家
藤原北家御堂流近衛家
藤原北家御堂流鷹司家
藤原北家御堂流九条家
藤原北家御堂流一条家
藤原北家御堂流二条家
豊臣氏羽柴家 ← 断絶

清華家
村上源氏久我家 ← 断絶?
村上源氏堀川家 ← 断絶
村上源氏土御門家 ← 断絶
藤原北家閑院流三条家
藤原北家閑院流西園寺家
藤原北家閑院流今出川家
藤原北家閑院流洞院家 ← 断絶
藤原北家閑院流徳大寺家
藤原北家閑院流宇喜多家 ← 断絶
藤原北家花山院流花山院家
藤原北家花山院流大炊御門家
藤原北家勧修寺流上杉家
藤原北家御堂流醍醐家
桓武平氏六波羅家 ← 断絶
桓武平氏織田秀信家 ← 断絶
桓武平氏織田信雄家 ← 断絶
桓武平氏小早川家 ← 断絶
清和源氏鎌倉家 ← 断絶
清和源氏足利家 ← 断絶
清和源氏徳川家
大江氏毛利家 ← 断絶?
菅原氏前田家
正親町源氏広幡家 ← 断絶?

399日本@名無史さん2014/08/26(火) 10:01:16.61
 

400日本@名無史さん2014/08/26(火) 10:01:50.37
 

401日本@名無史さん2014/08/29(金) 14:08:54.94
 

402日本@名無史さん2014/08/31(日) 18:24:08.66
>>379
めちゃくちゃ遅レスだけど御旗本御家人の家格にも関わることなので間違いを指摘して当時の家格序列についても述べたい

公儀は当初その御料及び御旗本御家人の知行については四ツ物成(四公六民)として俵は四斗俵を採用していたが
割と早い時期から干損水損を考慮して知行は三ツ半物成(三・五公六・五民)として俵は三斗五升俵に切り替えた
(高百石と高百俵との収納高・支給高が名目上等しくなるように調整)

従って名目レートは
(知行)高百石=(藏米)高百俵=高現米三十五石=高二十人扶持=金三十五兩
が正しい(扶持のみの禄などはあまり見ないが換算の都合上併記)

以下諸役の名目収入(札差料・売側などの手数料控除前)
兩御番 高三百俵=現米百五石=金百五兩
新御番 高二百五十俵=現米八十七石五斗=金八十七兩二分
大御番 高二百俵=現米七十石=金七十兩
小十人組 高百俵十人扶持=百五十俵=現米五十二石五斗=金五十二兩二分
諸組與力(例) 高現米八十石=二百二十八俵二斗=金八十兩
御徒 高七十俵五人扶持=九十五俵=現米三十三石二斗五升=金三十三兩一分
諸組同心 高三十俵二人扶持=四十俵=現米十四石=金十四兩
(ちなみに禄を表示するときは頭に「高」を付けるのが原則)

無役の御旗本(御目見以上)と御家人(御目見以下)の家格序列は
御目見以上は必ず御目見以下の上となり更にその中では「高」の順となるが
例えば「高現米八十石(=二百二十八俵二斗)」の御旗本がいたとしたら「高二百俵」の御旗本の上席となる
また同収入であっても格の上では石表示>俵表示>現米表示>扶持表示の順となるので高百石は高百俵の上席となる
(ちなみに百俵と現米三十五石とでは表示方式が異なるだけで双方とも百俵=現米三十五石を支給されることに変わりない)

ところで稀に表示の切り替え(=「高直し」)が行われることがあり
当初二百俵だった家が現米表示に切り替えて貰い四斗俵換算で現米八十石となったことがあったが
三斗五升俵に切り替えたときに二百俵のままだった家は現米七十石となり損したらしい

この紛らわしい表示と序列は当時でも誤解の種だったようでその不正確な所伝が現代における誤解の源泉となっているのかもしれない

403日本@名無史さん2014/09/21(日) 16:16:01.89
なぜ、すっきり統一した表示にしなかったんだろう?
当時の人間だって、こんな表示はめんどくさくて紛らわしいと思ってただろうに。

404日本@名無史さん2014/09/26(金) 08:32:40.42
簡単に言えば「高」というのは「格」であり、「高直し」は「家格の変更」に関わる問題だから容易には許されない。
表高五萬石を十萬石にするのでも百俵を百石にするのでも同じこと。
それに知行で貰うのと藏米で貰うのとではやはり格が違う(地方知行で貰えば小なりと言えど領主だが藏米ではサラリーマン)。
ただ地方知行では土地の肥沃さや気候条件により収納高が安定しないのに比べて(小物成という副収入が見込めるが)、
藏米は百俵なら現米三十五石が間違いなく支給される。
だから役職に就いている間だけ藏米に振り替えてもらうとか、
実質収納率の低い知行所を返上して完全に藏米に切り替えてもらうとかいうことはできた。
また扶持は換算の便宜上一人扶持=五俵=現米一石七斗五升ということになっているが、
実際には旧暦の一年三百五十四日×五合=現米一石七斗七升支給され、閏月がある年はその分も余計にもらえるので、
格が低い代わりに実質的利得がある

ちなみに家禄が知行(石表示)・藏米(俵表示・現米石表示の二種)・扶持などの混合である場合は、
扶持を除いて一番格の高い表示に統一して内訳を但し書きで表す。
(高二百石十人扶持 内百俵御藏米 のように)

405日本@名無史さん2014/09/26(金) 08:34:20.84
●地方知行+藏米+扶持米の事例
勝麟太郎 高四十一俵一斗二合六勺九才二人扶持
     内二十二俵二斗五升六合九才地方
       十八俵一斗九升六合御藏米

知行 22俵 2斗5升6合6勺9才
藏米 18俵 1斗9升6合0勺0才 2人扶持
合計 41俵 1斗0升2合6勺9才 2人扶持

扶持を俵に換算すると

合計 51俵 1斗0升2合6勺9才

俵を現米表示にすると

合計 17石9斗5升2合6勺9才

地方なのに俵表示なのは釈然としないが、
勝家が旗本昇進前の鐵炮玉藥同心時代に貰っていた大縄知行(与力や同心など一同複数人に一括して知行を与えること)の名残だろうか。
ちなみに50俵以上は小普請金1兩を徴収される上に、
藏宿(札差)に札差料(受領代行手数料)・売側(うりかわ・売却代行手数料)を天引きされるので、勝家の困窮ぶりが伺える。
(百俵につき札差料金1分・売側金2分なので、50俵余ならば端数を除いたとしても計金1分2朱=0.375兩の控除となるか)

更にちなみに勝麟太郎(安房守)が布衣以上に列した時点で、内規により家禄百俵に加増されているはずだが、
御役高五千石などに隠れてよくわからなくなっている。

406日本@名無史さん2014/09/26(金) 11:13:58.73
知行って言っても超高給武士以外は実質蔵米だろ?
100石程度の領地、知行するの面倒くさいし。

407日本@名無史さん2014/09/27(土) 12:25:36.18
江戸時代中期以降の微禄の知行取りの場合、藩も天領も代官が一括で徴税して分配だね

408日本@名無史さん2014/09/27(土) 12:44:15.21
岡山藩かなんかは地方知行でも、小物成は殿様の取り分だったんだっけ?

409日本@名無史さん2014/11/04(火) 13:17:24.75
江戸時代だと
摂関家宮家=将軍家御三家
清華家=国主クラスの大名家

410日本@名無史さん2014/11/24(月) 20:07:52.82
>>409
御三家・国主=羽林家

411日本@名無史さん2015/01/22(木) 22:36:17.18
徳川治宝=従一位

将軍家でも従一位は家斉が久方ぶりだったのに
なぜ紀州藩主如きが従一位?

412日本@名無史さん2015/01/24(土) 11:53:08.83
半家の西洞院家の分家が名家に分類されてるけど
昇進ルート見ると分家の方も半家じゃないの?

413日本@名無史さん2015/02/07(土) 16:47:44.44
 

414日本@名無史さん2015/02/07(土) 17:06:45.34
>>411
当時の紀州藩主が徳川家斉の息子。
新将軍家慶の任官に当たってのご祝儀昇叙で従一位。
将軍家に縁があるとこういうことは結構あるよ。

415日本@名無史さん2015/02/27(金) 08:51:00.23
そのせいか知らんけど
家慶以降は将軍継嗣の段階で従一位になったな

416日本@名無史さん2015/03/05(木) 20:19:29.73
将軍は朝廷から見れば所詮関東の代官。

417日本@名無史さん2015/03/06(金) 00:49:02.71
岩松家は可哀想

418日本@名無史さん2015/03/07(土) 12:22:00.12
朝廷なんて柔弱でチャラチャラした腑抜けの役立たず集団だろ

419日本@名無史さん2015/03/08(日) 09:40:44.17
武家がお歯黒の長袖者に膝を屈していたのは、日本史における一大汚点。
信長や家康のときに、腐りきった朝廷や公家は一掃しておくべきだった。

420日本@名無史さん2015/03/08(日) 16:57:01.14
権力の根拠として朝廷は必要だろ
また日本の伝統文化の保持発展にもかかせない

421日本@名無史さん2015/03/08(日) 18:24:27.47
あんな惰弱な麻呂連中を権力の根拠にしなければいけなかったのは、
武家にとっての屈辱であり、一大痛恨事だな。

422日本@名無史さん2015/03/08(日) 18:55:46.85
天皇家や公家だって5世紀には武装して
武力で日本を支配者にのし上がっただろw

だいたい江戸幕府だって3代目以降は戦もせず
幼児や障がい者だって将軍になっていた

423日本@名無史さん2015/03/08(日) 21:18:23.34
そりゃ戦する必要ないからな

足利将軍は戦をするのが多いけどそれはいつも大名に反抗されてるからで
最初から絶対服従なら戦なんか誰もしない

424日本@名無史さん2015/03/08(日) 23:29:33.06
武家は朝廷公家の伝統文化芸術に対して敬意をもっていたけどな

425日本@名無史さん2015/03/11(水) 09:07:21.10
そういや明治の元勲も維新の頃は自ら戦ったよな

426日本@名無史さん2015/03/12(木) 09:37:19.17
東条英機も自ら戦ったことがある

427日本@名無史さん2015/04/02(木) 19:09:14.33
>>422

> 天皇家や公家だって5世紀には武装して
> 武力で日本を支配者にのし上がっただろw


天皇自身が戦場で指揮を取ったケースは少ないだろ。

天武天皇も即位してからは戦場に立っていないはず。

428日本@名無史さん2015/04/03(金) 16:40:45.01
徳川家(松平)の近縁として
岩松家 横瀬家 里見家 山名家 大館家などが
真に家柄が高いといえるのでは?。

429日本@名無史さん2015/04/03(金) 19:11:10.41
里見とか酷い扱いだよね。
豊臣時代以降どんどん封土を削られて最後に難癖付けられてあっさり改易。

430日本@名無史さん2015/04/03(金) 20:32:02.30
岩松なんか、家康に媚びを売っておけば、由良や横瀬と同じように千石取りの高家になれただろうに・・・

431日本@名無史さん2015/04/07(火) 10:08:27.49
この上の書き込みで細川が松平氏姓をもらわなかったとあるが、実際は、
もらえなかった。関ヶ原で武功を余り上げられなかったのと国主ではない。

江戸時代の幕藩体制において一番の名誉でもある松平氏姓を断る家なんて、
秀忠時代、すぐさま改易だよ。アホか。細川ってほんとアホだらけ。

432日本@名無史さん2015/04/07(火) 17:09:49.08
幽斎が丹波の西軍1万余を丹後に留めさせただけで充分だろ。

433日本@名無史さん2015/04/07(火) 18:03:23.94
細川家はそもそも中大名からなぜか大大名だからな。
豊前から肥後大身になったのは棚ボタ。
加藤家改易の後に旗、像、紋をつけて肥後入国したくらいに、
肥後では加藤人気があった。

434日本@名無史さん2015/04/10(金) 18:57:52.06
>>433

家柄は

細川 >>>>> 加藤

なんだがな。

435日本@名無史さん2015/04/11(土) 01:29:36.53
家柄がーとか言うのはみじめすぎる
松平姓貰えなかったくせに

436日本@名無史さん2015/04/11(土) 01:32:52.12
細川アンチとか珍しいな
一色さんの子孫っすか?w

437日本@名無史さん2015/04/11(土) 14:52:14.54
豊前小倉39万9千石の時点で大大名ではないのか?
それに豊前移封は、忠興の関ヶ原で奮戦も論功行賞に込み込みだろうし

438日本@名無史さん2015/04/11(土) 15:10:06.88
表高は30万石だし中大名と大大名の境目付近の微妙な所

439日本@名無史さん2015/04/11(土) 17:36:45.15

440日本@名無史さん2015/04/11(土) 21:41:56.07
>>435

家柄は

細川 >>>>> 松平

だろ。もともとは。

441日本@名無史さん2015/04/11(土) 22:29:28.78
清和源氏>>>>>偽紫田舎源氏

442日本@名無史さん2015/04/11(土) 23:10:28.56
>385
木戸はもともと身分が高かったから
下級武士から神輿にされたのだろう

443日本@名無史さん2015/05/01(金) 23:27:42.11
肥後の細川は、和泉守護の細川でなくて
奉公衆の淡路細川の分家(義分家)の細川だって東大の先生が
言ってたよ
松平さんや加藤さんと、どっこいどっこいなんだって

ほんものの和泉守護の細川は京都で朝廷の侍になったみたい
ちなみに細川氏嫡流の京兆家は東北の小藩の家老になったんだって
武衛家は消滅、河内畠山氏のみ高家として殿中に残れたらしい

444日本@名無史さん2015/05/02(土) 03:17:08.38
(肥後)細川家の史料は多いと言われてるけど
それはあくまでも忠興の代移行の話で、藤孝の史料はイメージ程多くないんだよな

445日本@名無史さん2015/06/24(水) 21:05:19.76
五摂家の諸大夫で正四位になった人と従五位の大名とでは、どちらが格上なんですか?

446日本@名無史さん2015/06/24(水) 21:54:42.75
宮中だと諸大夫の座次は位階によるので摂家諸大夫>大名諸大夫

殿中だと摂家諸大夫は摂家の家来として殿上之間御次という控之間に候して
大名と一緒に並ぶということがないので上下の規定はないかと

ただ仮に席次を決めるとすれば
大名四品(四位諸大夫)以上は必ず五位諸大夫の上席なので
やはり摂家諸大夫>大名五位諸大夫となるか

447日本@名無史さん2015/06/24(水) 22:01:59.13
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

448日本@名無史さん2015/06/24(水) 22:02:36.94
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

449日本@名無史さん2015/06/25(木) 01:42:35.32
では、近衛家諸大夫の進藤家で従三位に昇った者がいたが、殿中では、大廊下ということになるのか?
鎌倉時代、藤原定家は、やはり摂家の家司を勤めていたが、権中納言に昇った。もっと古くは大納言に昇った者もいた。この様な例外な者は、御三家当主が若年であれば、官位が上になり、将軍家世継と同格となる。
殿中では、どの様な待遇となるのか?

450日本@名無史さん2015/06/25(木) 08:56:39.06
時代が違うからな。
豊臣の大老を関白家家司と見ると、内大臣、大納言、中納言が居並ぶな。

451日本@名無史さん2015/06/25(木) 09:09:40.64
定家は道長の男系子孫だし、一応、代々公卿の家柄だから
江戸時代の諸大夫と一緒にするのは違う気がする
>>446の言う通り大廊下に詰めるってことはなかっただろうし
御三家当主と席次の上下を競うようなことがあったかは知らんが
ただ三位になると社会通念上、それなりに厚遇されたはずだとは思う。

452日本@名無史さん2015/06/25(木) 09:29:56.87
三位って位のもつ不思議な重みは何なんだろうね
律令制が定められたときには、三位と四位の間にここまでの差が
出るとは思わなかったはずだが

453日本@名無史さん2015/06/25(木) 09:56:56.00
昔は従三位以上に昇る人は人数が少なかったし、
まさに雲の上の人ってくらい尊かったわけだからね

従二位大納言・大伴旅人と、正二位権大納言・烏丸光広では
官位だけ見ると似たようなもんだが、社会的な重みは全然違う

454日本@名無史さん2015/06/25(木) 14:04:54.07
藤原基経は、正三位摂政右大臣だからな。昔は三位以上は偉かった。

455日本@名無史さん2015/06/25(木) 22:14:10.58
>>449
三位だろうがなんだろうが、地下だろ。
目見得以下だろうし、公卿の勅使並みの大廊下なんてあり得ないね。

456日本@名無史さん2015/06/25(木) 23:50:15.59
江戸期の武家の三位以上って、どのような位置づけはどうなんだろ?
右大将を兼ねて大臣に上る徳川家の地下の家司扱いなのか、それとも公卿である門流扱いなのか

457日本@名無史さん2015/06/26(金) 00:33:46.46
>>455
地下家の出身でも三位以上は公卿だし、その死は薨去。
まあ確かに大廊下はないだろうけど。

458日本@名無史さん2015/06/26(金) 07:07:56.93
斯波義銀と吉良義昭が戦そっちのけで席次を争ったとか
江戸時代の武士は、たかが畳一枚の格式の上下を必死に争っていたって
よくバカにされるけど、
このスレの住人がもし過去に生れてたら、彼ら以上に下らない身分の上下で必死になりそうだな

459日本@名無史さん2015/06/26(金) 07:43:32.10
武家と公家の格式も、自分がその場にいたらって考えると結構わかり易いよね。
公家は位通り自分が上だって言いたがるし、
武家は自分たちが公家を養ってあげてるんだから公家よりも上だって言いたがる。
そこで、お互い争うわけだが、結局力が強いのは武家だから、
位通りよりは、武家よりに相場が決まる。
でも武家だって、官位制度自体を否定してしまうと今度は自分たちの立場がなくなるので
官位は官位で尊重して、自分たちの身を守るっていう。

460日本@名無史さん2015/06/27(土) 00:51:20.44
あなた、素人さんですね。

461日本@名無史さん2015/06/27(土) 01:00:04.54
いえいえ、あなたこそ。

462日本@名無史さん2015/06/27(土) 01:08:55.26
>>458
それを馬鹿げたことと思っていた学生時代。
いざ社会に出てみたら誰を上座にするかで胃が痛くなるほど悩んでいる私が居ます。

463日本@名無史さん2015/06/27(土) 01:10:53.13
>>457
地下でも三位に登ることはあったらしいけど。
京都の街で三位の地下人と五位の殿上人が出会ったら、どちらが目上になるの?

464日本@名無史さん2015/06/27(土) 09:18:17.55
知る限りでは、進藤氏しか例はありませんが、地下で三位に叙位されたとしても高齢です。
もし、出会ったら家格の上の方が優位でしょうね。

465日本@名無史さん2015/06/27(土) 10:54:28.55
>>464
陰陽頭に昇った幸徳井保ロのほか、
局務・官務の中原姓押小路家、小槻姓壬生家などの当主の一部が
従三位に叙位されているはず。そんなに多くはないが、極めて稀ってほどでもないと思う。

466日本@名無史さん2015/06/27(土) 13:41:29.09
>>462
実際に自分の立場になって考えてみると、かなり違うんだよな。>>459の通り。
今の会社でも、オヤジはオヤジで、役職の上下で必死になってるし、
女の多い部署なんかだと、いつも大奥みたいに小さな権力闘争ばかりしてるわけで

まあ昔の人のことは笑えん。

467日本@名無史さん2015/06/28(日) 18:13:57.94
江戸時代になると、極位極官で比較してたんでしょ。
清華の大臣が摂家の少将に謙るんだから。
三位に登る地下が威張れるのは地下にだけなわけで。

468日本@名無史さん2015/07/01(水) 09:04:05.34
江戸時代の公家の乗り物は何でっしゃろ。
どのくらい下の位まで利用できたんやろ。

469日本@名無史さん2015/07/01(水) 17:29:10.44
位階は身分内での上下に関わる

堂上・親王家殿上人(若江)・六位蔵人>地下諸大夫>侍>士分以下

したがって

五位殿上人>地下三位諸大夫

地下六位諸大夫>五位侍


武家侍從以上は殿上人なので三位諸大夫より上

470日本@名無史さん2015/07/01(水) 18:04:13.22
老中が侍従だからな。

471日本@名無史さん2015/07/01(水) 19:53:26.53
>>468
烏帽子や冠を被るときは輿もしくは騎乗。被らんときは駕篭。
利用は親王・摂家・清華は常に乗物。平堂上は財力による。乗物を常備し、
それを担ぐ剛力ものを雇えること。無理なら徒歩。参内も徒歩。
遠出んときは今でいうレンタル。

472日本@名無史さん2015/07/01(水) 19:57:35.64
>>468
牛車と言いたいところだがほとんど駕籠。
だから身分上の制約はない。
まあ駕籠のグレードは違うけど。

473日本@名無史さん2015/07/02(木) 00:50:35.37
>>470
まるで「老中が侍従だから」侍従以上は殿上人なのだとでも言うかのようなこの言い草ね

474日本@名無史さん2015/07/02(木) 01:49:33.42
従五位下の小大名と従三位の地下人とでどちらが上かは微妙なところだな。

475日本@名無史さん2015/07/02(木) 02:06:45.48
ふんw

476日本@名無史さん2015/07/02(木) 02:10:21.44
非参議従三位 押小路師資(家禄54石)
従五位下摂津守 鍋島直温(肥前蓮池藩主、5万2000石)

↑こんな感じ?禄高は1000倍違うが

477日本@名無史さん2015/07/02(木) 02:45:32.05
武家でも四品以上は領知高・知行高は全く関係なく完全に官位によって序列化される

但しそれ以下だと官位に全く関係なく領知高・知行高によって序列化される

478日本@名無史さん2015/07/02(木) 15:21:18.48
征新羅大将軍ってのもあったのね。

479日本@名無史さん2015/07/02(木) 21:15:39.03
天皇への拝謁は、侍従以上でなかったけ

480日本@名無史さん2015/07/02(木) 22:28:25.23
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

481日本@名無史さん2015/07/02(木) 22:29:06.26
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

482日本@名無史さん2015/07/03(金) 11:05:34.51
>>476
この場合の摂津守は名前だよな

483日本@名無史さん2015/07/03(金) 12:29:58.63
非参議従三位 押小路師資(家禄54石)

年収540万円か。
ちょっと少ないな。

484日本@名無史さん2015/07/03(金) 14:41:49.14
押小路家は地下筆頭で付け届けも多いから、下手な平堂上より豊かな暮らしぶりだよね。維新でもちゃんと男爵になれたし。

家職化が曲減に達すると、家格と収入から比例しなくなる訳で、
貧乏堂上が反発し続けたわけだけど、地下はどう対応してたんだろ?
幕末の宮廷だと、摂家の諸大夫が怖かったとあるが、堂上についてはあんまらり記述がないが、馬鹿にしてたりしたのかな?

485日本@名無史さん2015/07/03(金) 19:25:45.70
【訃報】
綾小路 有昭氏(あやのこうじ・ありてる=元富国生命保険常務)
6月28日、呼吸不全のため死去、86歳。連絡先は同社秘書室。
告別式は5日午前10時から東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場。
喪主は長男、有則氏。

綾小路子爵家の家系だね。

486日本@名無史さん2015/07/04(土) 23:43:53.93
結局>>476だと、さすがに押小路さんの方が格上でしょ?
例えばどこかの道ですれ違ったら(そんなこと実際にはほとんどないだろうけど)
鍋島分家の殿様の方が道を譲るでしょ。

487日本@名無史さん2015/07/05(日) 08:59:12.02
江戸時代の公家なんて大名家との婚姻がなによりも食いぶちだったからな。
あと同じ菩提寺院の檀家。

島津家の近衛家、黒田家の有栖川宮家、前田家の三条家、
みんな武家が面倒みてるやないかい。

488日本@名無史さん2015/07/05(日) 09:48:01.72
>>486
供も連れずに徒歩で歩いている押小路三位に駕篭に乗って行列を組んでいる
鍋島摂津守が道を譲るとは考えられん。将軍家の権威を背負っているとはいえ
旗本の禁裏附(五位)だって平堂上相手なら素通りだし。

489日本@名無史さん2015/07/05(日) 11:04:59.90
蓮池鍋島家は甲斐守・摂津守を交互に名乗ったらしいが、
直温は摂津守ではなく甲斐守じゃないかな

堂上公家であれば仕事柄、江戸に下向したりすることもあっただろうけど
そういうときに大名行列とすれ違ったら、御三家とかは別として、
一般的には公家が本陣、大名が脇本陣でないの?

490日本@名無史さん2015/07/05(日) 11:11:01.06
公家とか、ご三家みたいな厄介な相手と道中でかち合わないようにするのが家老、奉行の腕の見せどころ。

491日本@名無史さん2015/07/05(日) 11:45:47.69
>>487
前田家の三条家??

492日本@名無史さん2015/07/05(日) 11:48:15.75
>>489
それは堂上公家だからではなく仕事柄の関係じゃない?

493日本@名無史さん2015/07/05(日) 12:16:50.77
>>492
勅使でなく別の要件で公家が旅行する場合には
例えば従四位上の大大名と正二位権大納言が重なったら
前者(大名)が本陣、後者(公家)が脇に泊ったであろう、ということ?

よく知らんで済まないが、その主張を支持する根拠って何だろう?

494日本@名無史さん2015/07/05(日) 14:19:05.28
> 一般的には公家が本陣、大名が脇本陣でないの?
一般的にはというくらいだから相当数の事例があるんだろうけど、具体的にはどの例かな?

495日本@名無史さん2015/07/05(日) 15:22:29.25
勅使だったら、ご三家でも譲るんじゃないか、さすがに。

496日本@名無史さん2015/07/05(日) 15:25:16.40
>>494
すまん、勅使が本陣に泊るときには一般の大名は脇に泊ったっていうのは
ごく一般的な常識で、ネットで検索すると幾らでも出てくる。例えば

http://www.yc-sanjo.com/tohkaidoh-53/Vol.48/Vol.48.html
> 勅使・院使など格の高い公家が本陣に泊まる場合には、大名も脇本陣に泊まらねばならなかった。
文献:慶應義塾大学 三田情報センター 文献シリーズ22

もっと直接の文献もきっとあるんだろうけど、自分は素人なんで知らない。すまん。

で、じゃあ勅使でない正二位の公家が、(もし仮に)何らかの用件で旅行をした場合に
大名を本陣に泊まらせて、自分は退くだろうってのが>>492さんの主張しているところだという風に
読めるんだが、>>492さんがそう信じている根拠って何なんだろう?
って尋ねているのだが。

497日本@名無史さん2015/07/05(日) 16:05:29.86
>>496
いや、まさに同じことについて根拠を聞きたかったんだが、筆足らずもいいところで申し訳ない。

498日本@名無史さん2015/07/05(日) 17:46:16.77
幕末になると「将軍は天皇の臣下」という建前から勅使に平伏するようになったというが、そな頃になると武家公家の序列も変わったのだろうか。

499日本@名無史さん2015/07/05(日) 20:38:31.17
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

500日本@名無史さん2015/07/05(日) 20:39:02.46
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

501日本@名無史さん2015/07/06(月) 06:18:59.55
>>498
承久の乱以後は武家は天皇の臣下とは皮膚感覚的に思ってなかったろうね。
建武政権が超短命だったのもその辺の感覚も大きかったろうと思う。
天皇を頂点とする朝廷は武家とは別個の組織って感覚だろうな。
その感覚がもっとも如実に出たのが武家官位制度だろうね。
天皇の臣下のつもりはないし公家の下のつもりでもないけれど、
社会的地位の権威づけとして官位にかわるものは見いだせなかったってことだね。
天皇の臣下である将軍を通じて武家も天皇の臣下という感覚にかわったのはいつごろだろうか。
その感覚の変化も興味深いね。

502日本@名無史さん2015/07/06(月) 23:14:37.54
将軍家の臣下で居続けていた武家が、天皇の臣下と言う認識を最後まで持つことがあったのだろうか?
明治維新も官位を受けていた大名自身がお仕えする天皇のために幕府を倒したのではなく、大名の家臣クラスの者がまさに錦御旗として朝廷を担いだだけだし
大名などの武家が天皇の臣下に名実ともになったのは、華族制度に移行し武家も公家も同じ身分体系に組み替えられてからでは

503日本@名無史さん2015/07/06(月) 23:26:30.89
水戸家は、大日本史を編纂していたせいか、天皇の臣下の意識が高かったような。
そんな家の出身でしかも母親が皇族の慶喜を将軍にしたのが間違いだったな。

504日本@名無史さん2015/07/06(月) 23:37:21.99
黒船来航時に家定みたいな半分池沼入ったようなのが将軍だった時点で
徳川幕府の命運は尽きていた
将軍がまともならいちいち条約結ぶのに朝廷の勅許なんて求める必要なかったし

505日本@名無史さん2015/07/06(月) 23:54:23.63
>>504
徳川将軍なんて半分以上は池沼みたいなもんだったから、まあやむを得ないよ。
むしろあそこで潰れて新政府に移行してくれて、
その後の日本にとってはとてもラッキーだった。

506日本@名無史さん2015/07/07(火) 02:21:53.03
>>504
統治機構がしっかり出来ていれば、トップが暗愚でも政務は回るよ。無論、聡明なトップのほうが望ましいに決まっているが。
最悪なのはトップが半可通で意固地な場合かな。

507日本@名無史さん2015/07/07(火) 22:06:53.76
もし徳川家定が、家康なみに有能な人物だったら
その後の日本はどうなっていただろう?

あるいは、もし後醍醐天皇みたいな自称有能な、うざい奴だったら?

508日本@名無史さん2015/07/07(火) 23:21:05.15
>>507
そうなると、天皇はローマ法王的な神官に近い立場になって、徳川将軍が現世の君主となったのではないでしょうか

話は変わりますが、江戸時代、公家と大名層では通婚して姻戚関係になっていました。
しかし。公家の子息が大名の世子になって家を継いだり、大名の子息が公家を継ぐことはなかったと思います。
女系では維がっていて、武家同士、公家同士であれば養子になっていたのに、なぜ公家と武家の間で男子の養子がなかったのでしょうか?
やはり公家と武家では、家格、身分に差があったのでしょうか?

509日本@名無史さん2015/07/08(水) 09:08:59.63
> しかし。公家の子息が大名の世子になって家を継いだり、大名の子息が公家を継ぐことはなかったと思います。

例外的だが、ないことはないね。

公家の子が武家を嗣いだ例
細川澄之、佐竹義隣など

武家の子が公家を嗣いだ例
持明院基定など

最近で有名な例は近衛忠Wさんだが、これは既にそういう範疇でもないか。
いずれにせよ近世までは例外であったことは間違いないので、
やっぱり公家・武家の区分はある種、動かしがたいものという意識はあったんでしょうな。

510日本@名無史さん2015/07/08(水) 09:17:31.49
忠臣蔵に浅野内匠頭が応接する勅使として
高野保春っていう公家が出てきて
当然、いかにもお公家さんって感じで描かれることが多いんだが、
この人実は持明院基定の子で、祖父の代までは武士なんだよな

511日本@名無史さん2015/07/08(水) 09:31:55.61
室町時代の細川澄之は別として、
江戸時代の佐竹義隣は、堂上家当主の子息から大名ではなく、大名分家(つまり陪臣)への養子。
持明院基定は旗本・高家から羽林家への養子。

実際に公家と武家では経済力は1000倍くらい違ったわけで、
家格としては公家>=大名家ながら、実際に養子縁組をする際には、
「堂上公家」と「大名未満の家」とで縁組されていることがわかる。
このあたりの難しさが、
江戸時代に公家と武家とで養子縁組が少ない理由だったんじゃないかね。

512日本@名無史さん2015/07/08(水) 09:45:11.39
禁中並公家諸法度には一応制限があって、可被用同姓、女縁其家家督相續、古今一切無之事とある。
大沢家は元々持明院家の分家だから、持明院家への養子が許されたっていうこと。
但し、同姓なら良いわけだから、源氏→源氏、藤氏→藤氏なら問題ないようにも見える。

やっぱりまあ、
せっかく大名の息子に生まれて、摂家や清華家ならともかくも
たかが100石程度の貧乏平堂上に養子に入って、
毎日関白の顔色伺いながら生活するのはやってられん、ってことだったんでしょう。

513日本@名無史さん2015/07/08(水) 09:51:49.58
逆に大名家の方も、みんな側室つくってやりまくるものだから
男子が余りすぎてて、大名家当主の座を狙ってるわけだから
わざわざ公家から養子迎えんでもて感じでしょうな

514日本@名無史さん2015/07/08(水) 18:00:57.29
摂家の近衛家は外様大名の島津の娘を2回養女にしてるよ

515日本@名無史さん2015/07/08(水) 18:57:32.08
>>513
そうでもないよ。
末期養子が認められた江戸中期以降でも無嗣断絶した大名家はあったし。
生き残った家でも跡継ぎに相当苦労したところも多かった。
相良なんて例外的なところを挙げるまでもなく尾張徳川家や越前松平家あたりもきわどい綱渡り。

516日本@名無史さん2015/07/08(水) 21:22:20.06
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

517日本@名無史さん2015/07/08(水) 21:23:05.60
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

518日本@名無史さん2015/07/08(水) 23:51:19.47
>>514
養子は、家を継ぐ前提だから厳格だが、養女は嫁入りの箔つけだから結構行われてる。

519日本@名無史さん2015/07/09(木) 03:43:04.05
>>512
禁中並公家諸法度で、「同姓」なら縁組可、というのなら
結局、藤原氏の間ではかなり自由に縁組できてしまうねw

西園寺公望は「同族」の徳大寺家からの養子だから全然問題ないが、
その父親の徳大寺公純は、閑院流でない、鷹司家からの養子だしね。
藤原氏の中であれば縁組可能だったようだ。

しかしじゃあ、村上源氏の公家を、自称清和源氏の武士の息子が嗣ぐっていうのは
果たして可能だったんだろうか?どっちも源氏(つまり同姓)とはいえ、
実際はほぼ全くの他人だと思うんだけど。

520日本@名無史さん2015/07/09(木) 03:55:23.27
そもそも天皇や親王家の息子が摂家継いでるけど
あれはいいの?

521日本@名無史さん2015/07/09(木) 08:47:36.10
摂政はもともと皇族がやってたからじゃ?

村上源氏は源氏でもあり、藤原道長の後継者最有力候補っていう特殊な事情が
あるようなので、他源氏では微妙かもよ。

522日本@名無史さん2015/07/09(木) 09:10:47.36
>>520
後水尾天皇、近衛信尋、一条昭良の三兄弟は、後陽成天皇と中和門院近衛前子(女御)の間の同母兄弟で非の打ち所がない血統だからな。

523日本@名無史さん2015/07/09(木) 10:30:46.78
いくら藤原氏といえども摂関家に養子に入るのは摂関家以上の血筋が求められたんじゃないの?
ということは摂関家に養子候補がいなければ皇族からしかない

524日本@名無史さん2015/07/09(木) 10:38:23.64
公家諸法度で養子は同姓に限られたけど、その前はいい加減だよね
山科言継は平氏の血筋だったと思うけど山科家は藤原氏、逆に西洞院家は桓武平氏なのに血筋は藤原氏

525日本@名無史さん2015/07/09(木) 21:47:24.01
平頼盛の子孫は、京都政界で生き残れたんですか?

526日本@名無史さん2015/07/09(木) 22:54:19.92
>>518
箔をつけるなら(?)男子では猶子ですよね
女子に猶子はなかったのでしょうか

527日本@名無史さん2015/07/10(金) 02:10:16.71
>>524
> 山科言継は平氏の血筋だったと思うけど

そうだっけ?

528日本@名無史さん2015/07/10(金) 10:33:59.09
山科教成が平業房の息子だからじゃない

529日本@名無史さん2015/07/10(金) 12:46:49.75
>>525
つ、源氏嫡流久我家

530日本@名無史さん2015/07/10(金) 13:31:09.67
幕末の時点で、男系をたどると

摂家
近衛家:皇胤(後陽成天皇)
九条家:藤原氏(九条兼実裔)
二条家:藤原氏(九条兼実裔)
一条家:藤原氏(九条兼実裔)
鷹司家:皇胤(閑院宮直仁親王)

清華家
久我家:藤原氏(九条兼実裔)
三条家:藤原氏(閑院流)
西園寺家:皇胤(閑院宮直仁親王)
徳大寺家:皇胤(閑院宮直仁親王)
花山院家:藤原氏(師実流)
大炊御門家:藤原氏(師実流)
今出川(菊亭)家:皇胤(閑院宮直仁親王)
醍醐家:皇胤(後陽成天皇)
広幡家:藤原氏(近衛基実裔)


まちがってたらすまん。
ほとんど皇胤に支配されてるのかと思ったら、案外藤原氏の血が残ってる感じだね。

上で問題になっていた、異なる源氏の間で養子縁組ができるのか?って話だが、
久我家(村上源氏)の子である豊忠が、正親町源氏である広幡家の後を嗣いでいるから
可能だったみたいだ。

疑問なのは、江戸時代末期に一条家の子息が久我建通として村上源氏嫡流を嗣いでいるのだが、
これは禁中並公家諸法度に照らして、問題なかったのだろうか?
つーか問題だと思うんだが。

531日本@名無史さん2015/07/10(金) 13:40:04.37
源氏嫡流の久我家が藤原氏の男系子孫で、
藤原氏嫡流の近衛家が皇室の男系子孫ってのは皮肉だね

532日本@名無史さん2015/07/10(金) 13:57:37.46
>>530
実子扱いだったじゃない?

533日本@名無史さん2015/07/10(金) 14:36:15.47
>>532
禁中並公家諸法度って、異姓の養子は認めなかったが、異性の実子なら認めたのかな?
それもそれで、ようわからん話だけど。
それか、「実子」ってのは、誰かに聞かれても
「いやこの子は本当に俺の実の子ですから。何か?」とか
言い切ってしまうレベルだったのだろうか?

534日本@名無史さん2015/07/10(金) 16:02:24.88
実子ってのは元の家の系図から削除されるレベル

535日本@名無史さん2015/07/10(金) 21:43:38.74
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

536日本@名無史さん2015/07/10(金) 21:46:06.24
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

537日本@名無史さん2015/07/10(金) 23:33:48.18
>>531
そして今の近衛家は清和源氏(細川家)からの養っl

538日本@名無史さん2015/07/10(金) 23:51:23.79
>>534
いやだから、実子が養子よりもより「実の子」に近い扱いだったのはわかるんだが、
それは「実の子であると公に言い張っている」ような存在だったのか、
「実の子ではないが実子扱いしていることが公然の事実」だった存在なのか、
どちらなのだろう?と。

普通に考えれば後者なんじゃないかと思っていたのだが、もしそうであるのなら、
幕府が異姓の「養子」を禁じておきながら、
養子よりも更に近い「実子」を禁じていなかったのなら、それは
おかしな話じゃないかと。

539日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:00:38.49
幕末であれば、幕府の法度が有名無実化していたのかも・・・

540日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:11:09.99
>>538
実子は本当の子ではなく「実子」とわざわざ記載される位だから、
前者でなく後者なのは明らか。
ただし今の感覚と違うのは、DNA鑑定のない当時、
一度生まれてしまった子が誰の子かというのは「原理的に誰も知りえない」事柄に属する。
なので書類上「実子」にしてしまえば、それは「実子」以外の何ものでもなく
幕府だろうと誰だろうと、それ以上とやかく言えなかった、という可能性はある。

ただまあ、久我建通が「実子」だったから久我家を継げたのか、
あるいは幕府の法度が有名無実化していたからなのかは、知らん。

541日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:15:09.26
鷹司松平家は、直系が絶えたとき何で鷹司家から養子を迎えなかったのだろうか
初代の嫁の縁から紀伊の連枝扱いだとしても、家格は鷹司家出身だった故だったはずなのに
連枝になって紀伊家からの養子をもらっても、紀伊本藩の相続権もない片道切符の養子だし
財政援助が目当てだったのかな

542日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:15:14.24
そもそも公家諸法度の異姓養子の禁制って厳格に適用されたもんなの?
摂家が皇子とはいえ他姓の外孫で継いでるんじゃ示しがつかないじゃん

543日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:22:13.91
>>542
結局そこに行き着くw
堂上公家なんて全員、先祖代々ずっと親戚みたいなもんだから
今さら源氏だの藤氏だの言ってもねえ・・・ってのは正直ある。

後陽成天皇と閑院宮の皇子たちと久我建通の他に、
他姓での養子(実子)で後を継いだ例ってのはあったのかな?江戸時代に

544日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:26:35.28
岩倉具視。
堀河康親の子で、堀河氏は藤原北家。

結構普通にあったんじゃないか?w

545日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:35:27.83
>>541
公家ではないが、足利家であることがアイデンティティーであるはずの喜連川家が全くの他家から養子取ってるしね。

546日本@名無史さん2015/07/11(土) 00:53:06.23
>>542
公家諸法度は1615年公布

547日本@名無史さん2015/07/11(土) 01:04:40.37
西園寺公潔、実父は有栖川宮韶仁親王

548日本@名無史さん2015/07/11(土) 01:23:26.60
>>546
女縁其家家督相續、古今一切無之事(キリッ
なんて言われても、はぁ?w としか言えないがw

白川伯王家を見てみたが、藤氏の高倉や冷泉から養子とってる。
誰でもいいから源氏か平氏かにできなかったのか。

549日本@名無史さん2015/07/11(土) 01:23:28.13
>>544
岩倉具視も岩倉具慶の「実子」だな。
面白いのは、具視の妻は具慶の娘なんだけど、これがまた堀河康親の「娘」ってことになってる。
おそらく、具視が具慶の「実子」なんで、そのままだと兄妹婚になっちゃうのを避ける意味だと思うんだが、
同じようなケースは幾例かあるようだ。

550日本@名無史さん2015/07/11(土) 01:25:04.80
>>549
実子って法度逃れだったのかね?

551日本@名無史さん2015/07/11(土) 01:35:09.40
公家諸法度の同姓限定が適用されるのは家を継ぐ養子のみで
家を継がない養子や実子には適用されなかったでOK?

養子にするか実子するかの境は叙爵済みかどうか?

552日本@名無史さん2015/07/11(土) 01:48:36.71
>>548追記
高倉永孝の子の雅陳王、冷泉為起の子の資敬王、どっちも白川家譜にちゃんと実父の記載がある。
高倉永孝と冷泉為起、藤氏だけど実は源氏の血統だったりするか、と思ったがそうでもない。
どっちも養子になった時日は不明だけど、たぶん叙爵までに済ませたと思う。
雅陳王の叙爵は元和5年(1619)で、慶長20年(1615)の法度より先だわ。

>>551
家も継がん奴を養子や実子にしてどないするんじゃい?

553日本@名無史さん2015/07/11(土) 01:59:38.63
>>552
(家を継がない養子)や(実子) 

 鷹司輔平 閑院宮家 → 一条家 → 鷹司家

 

554日本@名無史さん2015/07/11(土) 02:58:07.33
>>553
そんなマネーロンダリングみたいんが許されるんかーい。

まあつまりザル法だったっちゅうことですな。

555日本@名無史さん2015/07/11(土) 04:07:06.82
幕府「他姓養子はダメよ〜ダメダメ」
公家「実子ですが何か?」
幕府「」

556日本@名無史さん2015/07/11(土) 05:15:46.20
幕府の法度なんてそんなもんさ。
幕府に影響がなければいくらでもすり抜けを許すけど
支障があれば法度を持ち出して処罰する。

557日本@名無史さん2015/07/11(土) 08:56:29.42
他姓養子に関しては別に実害があるわけじゃないしな
歴史好きがイライラする程度
当時もそんなもんだろ

558日本@名無史さん2015/07/11(土) 10:48:14.31
>>552
戦前の華族令でも家を継ぐ養子に関しては制限があった。
制限自体は選り好みしなければ家が絶えることはない程度にゆるいが、男系の親族は良くても女系はだめだった。
で、娘の子に継がせたい場合の方法の一つとして平民の兄弟がいる場合に取られた便法が、一度兄弟の養子にするというやり方。
平民にはそういう制限がないし、平民だろうがなんだろうが養子になった時点で「男系の甥」になるからOKということらしい。

559日本@名無史さん2015/07/11(土) 11:38:59.54
なんつーか、タイムマシンに乗って
「実子」とか言って喜んでる連中に、DNA鑑定結果見せつけて
「あ?どこが実子なんじゃい!オラ!」って言ってやりたいわ

560日本@名無史さん2015/07/11(土) 11:52:40.04
そもそも実子って養子のことだから
本当の親子は子だから

561日本@名無史さん2015/07/11(土) 12:10:13.73
>>530
九条兼実と同世代からの男系子孫でいうと、
摂家+清華家14家のうち、

後白河天皇・・・6
近衛基実・・・1
九条兼実・・・4
三条実房・・・1
中山忠親・・・2

だね。
後白河の勝利だな。さすがと言うべきか

562月輪関白2015/07/11(土) 13:03:02.96
>>561
清華の如き凡夫のたぐひ、いかで数の内に入りたるや?

563日本@名無史さん2015/07/11(土) 15:23:31.21
そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。

ていうか、その落胤伝説がなかったら、
一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
そもそも成立しなかったはずだと思う。

っていう目で見ると、>>530は結局、摂家・清華家は全て
天智天皇の男系子孫、ってことで整理がつく。

564日本@名無史さん2015/07/11(土) 15:50:50.84
>>563
天武帝の落胤なら多少はわかるけど

565日本@名無史さん2015/07/11(土) 15:55:38.45
天武系は絶えちゃったからね。

566日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:00:10.56
当の藤原道長たちは、実際どう思っていたんだろう?
自分は天智天皇の皇胤だと思っていたのか

567日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:02:36.37
ていうか道長の時代に落胤説てあったのか

568日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:10:27.81
皇胤っていっぱいあるけど、なぜに藤原氏だけ?

569日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:10:36.49
>>567
落胤説は不比等在世当時?だかのかなり早い段階からあった模様で、
9世紀の興福寺縁起にも記載され、その後更に広まって
大鏡にも不比等は落胤だとの記載があるのだが

570日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:39:04.38
不比等から5代後の藤原良世自身が撰した興福寺縁起にも記され、
俗説としても流布して大鏡にも記され、
公卿補任にも書かれているということから、事実がどうであったかはともかく、
道長とかが自分は皇胤だと信じ、また周りの人もそう扱っていたことは確かだと思う。
>>563の通りだからこそ藤氏が源氏よりも格上でも、誰も文句言わなかったっていうのは
歴史を見る上で重要なことではないか。

実際に、不比等の男系子孫と、(それ以外?の)天智帝の男系子孫は
かなり特定できるわけだから、Y遺伝子の鑑定を行えば
落胤だったかどうかは、確認できるんじゃないかな。

571日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:49:17.07
> Y遺伝子の鑑定を行えば

これは禁断中の禁断。皇室の「男系での相続」っていう伝統を
根本から揺るがす事態になりかねないんで、マジで洒落にならない。
例えば、近衛秀麿の孫である一さんが、不比等の男系子孫だったとしよう。

ふーん、近衛家は藤原氏嫡流だものね。まあそうだよね。

・・・?

・・・・・・Σ(゚д゚)

・・・・・・・・・・!!(゚д゚|||)ェエ工ッッ!!!


てことになりかねない。

572日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:52:41.47
>>571
意味がわからない

573日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:57:16.17
>>572
Wikipediaで「近衛一」を検索し、そこから13代ほど父系をクリックして行ってみてくれ。
(つか、便利な時代だなw)

そうすれば言っている意味がわかる。

574日本@名無史さん2015/07/11(土) 16:59:15.67
まあ平安〜鎌倉時代の公家社会の乱脈ぶりを見れば、
誰が誰の男系子孫で、隠し子であってもおかしくない。
現在の皇室が、本当に公式記録の通りの、天智天皇の男系子孫だったら
むしろそっちの方が驚きだ。

575日本@名無史さん2015/07/11(土) 17:01:46.74
近衛信尋は後陽成皇子。
近衛秀麿の孫である一さんが不比等の男系子孫だったとしよう。

ますますわからない。

576日本@名無史さん2015/07/11(土) 17:04:31.34
>>574
誰もそんなの信じてねえよ

577日本@名無史さん2015/07/11(土) 17:45:50.22
>>576
「だれも信じてない」は明らかに言いすぎだし、
そもそも信じてる・信じてないにかかわらず、
現在の皇室が男系でつながってないことが、もし明確に証明されたら
大問題であること自体は誰にも否定できない

578日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:14:50.22
>>570
藤原氏は皇胤だから皇胤である源氏よりも格上でも文句言わないってどういう意味?

周りの人が道長を皇胤だと扱っていたってどういう意味?

579日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:20:17.57
どういう意味ってそういう意味だろ

580日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:22:58.16
そういう意味ってどういう意味だよ

581日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:24:28.31
そういう意味はそういう意味

582日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:25:18.09
道長にとって天皇の落胤の子孫であることがステータスになるのか?

583日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:25:28.14
だからそれはどういう意味?

584日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:35:33.39
皇胤と言っても、皇統を継いだ系統以外はほぼステータス云々以前に雲散霧消していっているが

585日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:39:51.38
>>568
意味不明
藤氏より繁栄してない皇別なんて平橘清高いくらでも居る
朝廷で繁栄するためには皇別じゃないといけないなんて風潮がどこにあったんだ?
蘇我、物部、大伴、みんな落胤なのか?

586日本@名無史さん2015/07/11(土) 18:47:15.40
>>575みたいに鑑定すれば分かるはずとか言う奴いるけど
>>579みたいな性活環境を想定してるんだと思うが
系譜伝承に信を置かないから鑑定するのに
誰が源氏で誰が藤氏かどうやって検証するんだ?
公家以外の武家の系図や民間の系図なんて更に信用できんだろうし
全く関係ない他氏が入ってることも考えられるし
解決策を呈示してるようで全くの空理空論というお話

587日本@名無史さん2015/07/11(土) 19:07:43.26
藤原氏が皇胤だったかどうかはともかく
皇胤だったから繁栄したっていうのは違う気がする

588日本@名無史さん2015/07/11(土) 20:01:50.48
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

589日本@名無史さん2015/07/11(土) 20:03:40.72
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

590日本@名無史さん2015/07/11(土) 21:22:58.85
藤原氏が皇胤だから繁栄したとか言ってるやつは、
皇室は直系以外はほとんど消えて言った事をなんだと思ってんだ?w

591日本@名無史さん2015/07/12(日) 00:08:30.31
あのさ、賜姓皇族の多くが落ちぶれて行ったとか、その程度のことを
知らないわけがないだろうが・・・orz

自分が言っているのはまず第一に、
平安時代当時は藤原氏が皇胤かも知れない、という意識を
多くの人が持っていたであろう、ということ。
藤原北家自らが撰した興福寺縁起という重要文書にそう記されて
いることから、少なくとも藤原氏自身の多くはそういう意識であったであろうことが推測できるし、
それに、大鏡という文献の性質上、そこに書かれた不比等皇胤説は
当時の貴族社会で一般的に受け入れられたものであっただろうことも
ほぼ明確に推測できる、ということ。

それから第二に、
もし「当時の貴族社会の中で不比等落胤説が受け入れられていたのであれば、
それは当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
ということ。

別に藤原氏が「皇胤だから」栄えたとか言うつもりは勿論全然ないわけだが、
だからといって、皇胤とみなされたことが全く、もしくはほとんど
その藤原氏の地位向上に寄与していなかった、と出張する人がいたとしたら、
かえってものすごく不思議な気がするけど。
「皇胤であるとみなされていた」ことはそれなりに大きな影響であったなんて、
当り前じゃん?としか思えないわけだけれど。

592日本@名無史さん2015/07/12(日) 00:17:08.18
で、ここから先は歴史的感性の問題になるが、
当時は皇室が日本の支配者であることを誰もが明確に認識していた
にもかかわらず、藤原氏が皇胤氏族よりも明らかに高貴なものと
思われていた、っていうギャップが、
一般的には極めて不思議な現象に思われるわけだ。
そしてその不思議な現象を考える際に、不比等落胤説というものの
存在がある意味で謎を解くものになるんじゃないかってのが自分の印象。

まあこれは印象だし、歴史的感性の問題でこれ以上議論できるものでは
ないかもしれないが、いずれにせよ
>>591に書いたことは明確だと思うので、それだけ同意してくれれば
自分は一応満足する。

593日本@名無史さん2015/07/12(日) 00:25:02.96
あと>>586
もし現在、明確な系図の残っている
源氏や藤原氏の人々のDNA鑑定をしたら、
かなりのことがわかるだろう、ってことはほぼ間違いないと思うよ。

あなたが言っているのは、
「史料って間違いも多いし、あてにならないものも多いから
史料をいくら研究しても歴史はわからない」
って言っているのと一緒。
間違いは他との比較によってある程度校正できるわけだし、
それをして不確かな史料から歴史を読み取っていくのが学問ってものなわけで。

DNA鑑定も同じで、もしきちんとしたデータをとって
きちんと解析することができれば、昔の乱脈ぶりも含めて
いろんなことが解明される可能性が高い、と思う。
実際にはそこまで多くのデータは取らせてもらえないだろうけど。

594日本@名無史さん2015/07/12(日) 00:42:56.23
>藤原氏が皇胤氏族よりも明らかに高貴なものと思われていた

妄想乙

595日本@名無史さん2015/07/12(日) 00:49:05.65
平安期の氏族の序列が一般的に
皇室>藤原氏>真人氏族・源・平など
というのはまあみんな概ね首肯するとは思うが、
その理由が、
藤原氏(天皇の落胤家系)>真人氏族・源・平など(天皇の公認皇子の家系)
というのはやっぱし違うだろ。
なんで「天智の落胤だけ」がなんでそんなに特別やねん。長続きすんねん。
物語文学に落胤記述があるからとか(興福寺縁起にあったかな)、
はし書きに「或いは落胤か」なんて書かれてる程度で、貴族社会に受け入れられてたとは思えない。
同じような落胤談は道鏡や清盛や秀吉などにもあるが、彼らが出世したのは、
あなたは皇胤だったからと思ってるのかもしれんが、俺にはそうは思えん。
藤原氏興隆の理由はもっと違うところに見出すべき。

596日本@名無史さん2015/07/12(日) 00:56:47.25
>>593
なんつうか君は血統信仰がすさまじいな
んなもんどうだっていいじゃん
上にもあるように公家なんて多くは
「為実子」とか「他姓養子」とかで家をつないでんだから

597日本@名無史さん2015/07/12(日) 00:57:20.83
>>591
皇胤とみなされたことにより藤原氏のみに与えられた優遇は具体的に何ですか?
それはなぜ他の皇胤には与えられず藤原氏のみに与えられたのですか?

598日本@名無史さん2015/07/12(日) 01:04:40.19
>>591
あのさ、別に藤原氏が皇胤でもいいけどさ
落ちぶれた皇胤と落ちぶれなかった皇胤(藤原氏)の違いって何よ?

599日本@名無史さん2015/07/12(日) 01:08:29.61
>>593
乱脈ぶりって確定事項みたいに書いてるけど
子供の親が分からなくなるほど常に乱れてたのか?
史書をやたらと疑うつもりは無いが
だったら史書からそういう当時の状況を教えて欲しいわ

>>595
北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは皇胤だったからみたいな曲解だよね
なんか血統に夢を見すぎ

600日本@名無史さん2015/07/12(日) 01:14:09.16
>>596が説明すべきなのは
藤氏が落胤であったという噂があったことじゃなくて
それが藤氏の興隆にどのように影響したか

>>597>>596も印象論にすぎないことが分からない?

601日本@名無史さん2015/07/12(日) 01:17:21.32
>>600
答えは単純で、「影響しなかった」

602日本@名無史さん2015/07/12(日) 01:19:15.87
>>592
>>591の第一は同意できるが第二は全く同意できない。
皇胤が優遇されるのは天皇である親兄弟が生きている間だけ。
平安時代の藤原氏にとって祖先が天皇の落胤かもしれないなんてことに重要な意味はない。

603日本@名無史さん2015/07/12(日) 01:29:10.83
>>600
落胤であることが具体的に藤氏の興隆にどのように影響したのですか?
そしてそれはなぜ他の皇胤には影響しなかったのですか?

604日本@名無史さん2015/07/12(日) 11:01:20.05
警察が集団ストーカーをやる理由
それほど事件や犯罪が頻繁におきるわけでもないのに、むやみに組織を拡大してきた結果、警察は暇で暇
でしょうがなくなった。ターゲットを作れば作るほど警察予算が増えていくのでその分、ピンハネできるお金
も増えていく。集団ストーカーは、警察OBの天下り先の防犯協会と連携することで利権を維持できる。
集団ストーカーをすればするほど抗精神薬が売れ、製薬会社と利権で癒着、天下り先確保。
集団ストーカーをすればするほど、暴走族が蔓延ったり、時に、周南市事件のような事件が起こり治安が悪
くなる。警察組織を維持拡大するためには、ある程度事件が起こり、治安が悪くなくてはならない。
集団ストーカーによって生け贄を作り、警察権力の恐さを世間に知らしめる。警察官全員が裏金の偽領収書
を書かせられるシステムがあるため仙波敏郎氏のような正義感のある警察官が警察組織から排除され、腐敗
した人間ほど出世できる仕組みになっている。役に立たない人間を社会から抹殺することで国民を権力者に
とって都合のいい奴隷だけにし税金の徴収効率を上げる。

605日本@名無史さん2015/07/12(日) 13:50:10.58
落胤>>>>>>>>>>>>>>>その他賜姓皇族

そんなに次元の違う存在か?
思い入れがある場合もあるだろうが一般的には単なる庶子では?

仮に思い入れがある存在だとしても、そこ後の人間が
その人とその子孫を数百年以上、担ぐ理由になるのか?

606日本@名無史さん2015/07/12(日) 19:08:43.88
あの、ねえ・・・・・・orz
自分が主張したのは、
>>591の1「当時の貴族社会の中で藤原氏=皇胤説はそれなりに受け入れられていた」
>>591の2「皇胤説がそれなりに受け入れられていたということは、
当時の藤原氏の地位を考える上でかなり重要な要素になる」
>>593「遺伝子鑑定は歴史の解明のために、それなりに役にたつ」

の3点だが、
最も自明だと思っていた>>591の2に反対する人が出てくるとは・・・

皇胤であることが昔の日本の社会で重要視されていたなんてことは、
論じるまでもなく明らかなことであって、それに反対してくるような人は
根本的に俺とは全く異なる「日本史」を見ている人だ、としか思えないけど・・・

証拠だとか何とか言うまでもなく、昔の武家は○○天皇何世の子孫とかいうことを誇りにしていたし、
源氏が武家社会で大きな力を持ったのは皇別氏族だったことの影響が大きいわけだけれど。

いま問題にしている公家社会で、皇胤であることが家格の決定に
大きな影響を示していることは、堂上公家の姓を見れば明らかなわけだが。
いま藤原氏は皇胤か?って話をしているので、藤原氏以外で見ると、

清華家・・・皇別(2) それ以外(0)
大臣家・・・皇別(1) それ以外(0)
羽林家・・・皇別(11) それ以外(0)
名家・・・皇別(3) それ以外(0)
半家・・・皇別(11) それ以外(13)

ですよ。明らかに皇胤の家が公家社会の上位を占めていて、
そうでない大伴氏だの蘇我氏だの、下毛野氏だのは堂上公家にさえなれなかったわけなんですけれど。

607日本@名無史さん2015/07/12(日) 19:09:15.55
>>595とかその他の人

あの。。。
「藤原氏が落胤だから源氏よりも高貴とされた」などとは、全く言っていないんだが・・・

藤原氏が大きな勢力を握ったのは、不比等やら冬嗣やら、その他の人々が
極めて政治的に有能で、政敵を排除したからですよ。
そんなの当たり前でしょう?

> 同じような落胤談は道鏡や清盛や秀吉などにもあるが、彼らが出世したのは、
> あなたは皇胤だったからと思ってるのかもしれんが、

そんなこと全く思っていませんが・・・

何度も同じこと言うようだけれど、自分が言っているのは、
藤原氏の家格形成に、藤原氏が皇胤だと思われていたことが
それなりに大きな影響を与えていたはず、ということ。
他の要因が全くないなどとは言っていないし、
何度も言うけれど、「最も大きな要因」は不比等やら冬嗣やらの有能さだったわけで、
そんなの論じるまでもなく明らかでしょ、と思っています。

608日本@名無史さん2015/07/12(日) 19:15:25.77
>>599
>>593
> 乱脈ぶりって確定事項みたいに書いてるけど
> だったら史書からそういう当時の状況を教えて欲しいわ

乱脈ぶり自体は「とはず語り」とか見ればわかる。

実際に誤って子が認知された事態があったかどうかは、
そりゃ正式な史書からはわからないですよね。
物語にはいろんな記載がある(源氏物語とか)けど、
それ以上に史実がどうだったかは推測でしか言えないはずだとは思う。

> 北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは皇胤だったからみたいな曲解だよね

何度も言うけど、北条氏や徳川氏が覇権を握れたのは、彼らが軍事的に有能で
敵を滅ぼしたから、ですね。当り前だと思うけど・・・


>>601
> 答えは単純で、「影響しなかった」

は?「影響しなかった」とかどうして主張できるの?

>>602
> 皇胤が優遇されるのは天皇である親兄弟が生きている間だけ。

これも、何を根拠にこう断言できるのか、自分にはおよそ想像もつかないけど。

609日本@名無史さん2015/07/12(日) 19:21:47.23
ていうか、ものすごく当り前で、ごいく当然のことを
主張しているだけのつもりなんだが、
何でこうやってムキになって噛み付いてくる人がいるのか・・・
2chて不思議なところだね。

610日本@名無史さん2015/07/12(日) 19:23:01.31
その「藤原氏の家格形成」ってのはいつのことを言ってるのだ?

611日本@名無史さん2015/07/12(日) 20:03:45.06
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

612日本@名無史さん2015/07/12(日) 20:04:40.03
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

613日本@名無史さん2015/07/12(日) 22:14:05.93
皇別と言っても村上源氏も宇多源氏も藤原北家御堂流との縁戚関係のおかげで、公家社会に踏みとどまれたのでは?
そうすると皇別であったことも有利に働いたかもしれないがそれ以上に摂関家との繋がりが大切だったのだと思うよ

正親町源氏はだいぶ後の時代になるけど清華となったのは、徳川氏との縁戚のおかげだろうか
名家には桓武平氏がいるが、もともと半家の西洞院の庶流で、おそらく養子で継いだ当主が実家の家格を継承したとかだろう
半家は地下から引き上げられた家も多いので、家職があるか権力者との距離次第で皇別ではなくてもチャンスがあったのではと思う

614日本@名無史さん2015/07/12(日) 22:21:02.68
>>613
全くその通りだよね。
他の皇別が消えるか地方に落ちて行ったのに、
村上源氏や正親町源氏が生き残ったのは時の権力者との関係があったから。

615日本@名無史さん2015/07/12(日) 22:23:46.86
藤原摂関家と縁戚になるにはやはりそれ相応の家格が必要なわけで、家格形成期である平安末期にすでに落ちぶれていた氏族よりも皇別が有利だったのは言うまでもない
摂関家と縁戚になれなければ皇別でもあっという間に落ちぶれていく

616日本@名無史さん2015/07/12(日) 22:28:18.31
>>607
何度も同じこと言うようだけれど、自分が言っているのは、
藤原氏の家格形成に、藤原氏が皇胤だと思われていたことが
大きな影響を与えていないということ。

617日本@名無史さん2015/07/12(日) 22:39:34.49
>>606
それはいつの時代の公家の構成ですか?
たとえば奈良時代後期や平安時代前期の構成はどうなってますか?

618日本@名無史さん2015/07/12(日) 22:48:14.64
>>608
大臣にまでなった一世源氏の子孫がどうなったか調べてみたら如何か。

619日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:05:35.58
>>609
ていうか、ものすごく当り前で、ごく当然のことを
主張しているだけのつもりなんだが、
何でこうやってムキになって噛み付いてくる人がいるのか・・・
2chってほんと不思議なところだね。

620日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:12:21.41
村上源氏
摂関家との関係で清華家、その庶流が大臣家、羽林家
正親町源氏
徳川家との関係で清華家
宇多源氏
摂関家との関係で羽林家、地下から昇格して半家
清和源氏
足利家との関係で昇格して半家
桓武平氏
半家に踏みとどまる?庶流が江戸時代にどういうわけか名家に
清原氏
明経道を家職としたおかげで半家

であってるかな?
正親町源氏は元皇族だからこそ清華になれたというのはあるとは思うけど、全体的に見るとそれほど有利に働いたわけでもなさそう

621日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:20:33.25
最初の数世代で皇別であること以外のアドバンテージを残せれば羽林家までに残れる
もしくは地下から半家への昇格を狙うかってことかな
地下からの昇格には皇別であることは有利になっていないけど

伴氏も蘇我氏も半家ならばなれるチャンスあったのかな
蘇我氏はたしか地下にも残っていないようだが

622日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:25:01.49
>>616
「藤原氏が皇胤だと思われていたことが大きな影響を与えていない」と主張する根拠は何?
ただの鸚鵡返し?

623日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:30:53.41
>>620
村上源氏の繁栄は単に藤原氏との縁戚ってだけではなくて、
通親の時代に、むしろ摂関家をも上回る権勢を得たってことも大きい
あれがもう一時代か二時代前であれば、摂関家の仲間入りさえ
できたかも知らん程だけど、結局、清華家どまりだったね。

624日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:39:24.05
>>622
そもそも「藤原氏が皇胤だと思われていたことが大きな影響を与えていた」と主張する根拠は何?

鸚鵡返しとは他人の言ったことを「そのまま」言い返すことである。

625日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:46:14.17
>>623
村上源氏の後は閑院流が台頭して、
あわや摂家の仲間入りかってところまで行ったけど
やっぱり無理だったね。
もう鎌倉時代には家格が固定してしまい、手遅れだったんだろう。

626日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:47:51.21
>>624
やっぱり鸚鵡返ししかできないんだね。哀れだな

627日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:51:16.22
>>621
蘇我氏ってどこいっちゃったんだろうね?
いつまでぎりぎり、歴史に残っていたんだろう

628日本@名無史さん2015/07/12(日) 23:53:34.78
>>606
阿部氏が皇別氏族に入っている気がするが、
これは「自称皇別」な香りがぷんぷんするw

629日本@名無史さん2015/07/13(月) 00:01:42.51
>>626
やっぱり鸚鵡返しの意味を理解してないんだね。お可哀想

630日本@名無史さん2015/07/13(月) 00:04:46.50
>>626
やっぱり鸚鵡返ししかできないんだね。哀れだな

631日本@名無史さん2015/07/13(月) 00:11:41.65
>>626
「ぼくは自明だと思い込んでいる」、という以上の根拠は何一つとして示せないんだね。話にならんよ。
落胤なんて、日本社会では正式な皇胤とは比較にならないほど低い扱いだっただろうに。
平清盛落胤説と同じで、「出世し、隔絶した地位を築いた」という事実が先にあって、後から落胤説がついてきたと考える方が自然だよ。
あいつ/奴らがあんなに出世するのはおかしい、なにか裏があるはずだ、とね。

632日本@名無史さん2015/07/13(月) 00:12:18.49
>>627
平安初期の石川真守が蘇我氏最後の公卿かな?

633日本@名無史さん2015/07/13(月) 00:28:38.36
>>626
議論の一般的ルールとして、
「ある」と主張した者が、それを先に証明しなければならないという暗黙の了解があります。
「あなたが先に「ない」ことを証明せよ、さもなくば「ある」のだ」と主張する詭弁を
「悪魔の証明」と呼びます。

634日本@名無史さん2015/07/13(月) 00:30:18.15
石川朝臣は陽成朝に宗岳(ソガか)朝臣に改姓したね。
御堂関白記にも氏人らしき人の名前が出てくる。
あとは中世・近世地下の宗岡(ムネオカ)氏が実際に宗岳朝臣と関係があるや否や。

6355492015/07/13(月) 01:52:43.55
>>571は吹いた
>>591の「第二」の根拠、あるいは傍証は結局ないの?
落胤説が家格形成に影響を与えたっていつを想定してるの?
不比等の登場時?あるいは院政期?それとも別の時期?もしくはその間ずっと?

636日本@名無史さん2015/07/13(月) 09:13:44.02
だからさ、藤原氏が落胤だとして、それがその他の賜姓皇族系を圧倒する理由って
ただ有能な人がいたからってだけなの?

637日本@名無史さん2015/07/13(月) 09:36:24.83
>>606
天皇の子孫というだけで出世できるのならわざわざ地方で武家にならずに
都に留まって公家になればよかったのにね。

638日本@名無史さん2015/07/13(月) 09:39:26.77
まあ端的にいうと、
皇室に娘を入れ続けることに成功し皇室の持続的な身内と化したこと、
蔭位の制によって他氏族より早くまた数多く一族が出世できる素地があったこと。
それが実は落胤(と周りから思われていた)だったから出来たんだ、とか言われると、いや違うんじゃないかと思うし、
後宮対策でいえば葛城氏や蘇我氏は百年ほどで消えたが藤原氏が千年続いたというのは
やはり先祖が落胤(と周りから思われていた)だったからだ、とか言われると、いや違うんじゃないかと思うわけ。

639日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:00:38.32
えっと、ねえ・・・
一応返答しておくと、

>>610
興福寺縁起だの大鏡だの言っていることから想像してもらえるように、
奈良時代から平安末期にかけての期間を想定しています。
その間に公家家格というものはかなり決まってしまい、
それが江戸時代の堂上公家の家格に影響している。

>>617
平安前期にまだ存続していた伴氏などは、末期には没落して
その結果が>>606の通りなわけですな。

>>618
大臣にまでなった一世源氏の子孫もほとんど没落していると思うけど。
だから?

>>628
まあ確かに阿倍氏まで皇別は入れすぎかも知らん。

>>636
「だけ」じゃないけれど、それが最も大きな要因でしょうね。

>>637
都には他にも皇胤の氏族がたくさんひしめいていたのだから、
それは無理な話でしょう。

640日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:01:39.61
>>635
「時期」については上記の通り。
自分が言っているのは、

1. 一般論として、日本の歴史において「皇胤であること」はそれなりに重要視されていた。(大前提)
2. 上記の公家の家格が形成される期間の間、公家社会において藤原氏は
「皇胤であるかもしれない」とみなされていた(小前提)
3. 従って、藤原氏含む公家の家格形成において、「皇胤とみなされていたこと」がそれなりに大きな影響を与えたはず(結論)

という三段論法なわけだけど、正直、この小前提に疑問を挟む人が出ることは想定していたのだが、
大前提にこんなにわけのわからん文句つけてくる人がいてびっくりしている、というのが現状なわけですね。

>>603にも書いた通り、自分からみてこの大前提はごく当り前で当然だし、
それに文句言われても、ああそうですか、この人は日本史ってものを全く知らない、
思い込みだけでものを語ってしまう種類の人なんですね・・・としか思わないわけだけど。

たぶん想像つくと思うが、「日本の歴史一般において皇胤が尊重されていた」
こと自体を、いろんな文献から傍証することは、手間をかければかなりできると思うよ。
結果は見えているので、自分はやる手間かけるつもりもないし、
今ここでできるわけでもないけど。

また、実際には皇別でないと思われる氏族が皇別を名乗っていたことも、
そうすることが自分たちの地位向上に資するという意識があったから、だということも傍証になり得ると思う。


で、これは当然だと思うのだけれど、じゃあ実証的にどうかっていうと
実際に>>606の通り。
御堂流との血縁がどうの言っている人もいるけど、ここは>>615の言う通り
御堂流と血縁関係になること自体に、皇胤であることが関係していたと思われるので。
どんな文句を言ってみたところで、>>606のように明確に結果が出てしまっている以上、
「公家の家格形成に皇胤であることは全く役に立たなかった」と
主張することは全くできないはず。

641日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:02:22.77
・・・で。

>>633
申し訳ないがあなたは、議論の仕方というものを全く理解していらっしゃらない
ようですが、もし仮に
「○○である」ことの立証も、「○○でない」ことの立証もできない場合には、
我々が主張できるのは「○○であるか○○でないかは、わからない」
ということだけですよ。

「○○であることを立証できない」ことが、「○○でない」ことを主張する根拠になり得ると、
もし思っていらっしゃるとしたら、
根本的に中学校から勉強をやり直された方がいいのではないでしょうか。
(冗談で言ってるのじゃなくて、たぶん、背理法とか対偶とか、忘れてるでしょ?
悪いこと言わんから、もう一度勉強なさいな。)

2chってなぜか、「悪魔の証明」だとか言って>>633みたいなことを言う人多くて
昔から不思議なのだけれど・・・
正直、「悪魔の証明」とか言って何か言った気になれる人ってのは
人文科学の素養のない人に限られるわけなんですが。

いずれにせよ、今の場合には「○○はある」と言っている俺はそれなりに根拠を提示して話しているが、
「○○はない」と言っている人は全く何も提示できていないので、
あなたの言っていることさえ当てはまらないですね。

642日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:05:08.33
それでね。
自分が不思議なのは

「藤原氏が皇胤とみなされていたことは、その家格形成に
全く(ほとんど)影響しなかった」という不思議な主張を
なさっている人がいて、
元々それほどレベル高いレスが帰ってくるとは期待していなかったのだけれど、

実際に、それを支持する根拠を、この人(たち?)は「全く何も」提示できなかった、っていうこと。
期待はしていなかったが、全く本当に完全な「ゼロ回答」しかできないとは・・・

申し訳ないけど、あなたたちに対してはものすごく呆れたし、驚愕したし、失望した。
この世界で生きるために、もう少しだけ、真摯にものを考えるようにしてみてはいかがでしょうか。

643日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:08:11.91
端的にいうと、
>>601 602 616 619 624 629 631 633
お前らのことだ。

>>638
落胤なり皇胤「だから」できたと言っているわけではなくて、
落胤なり皇胤であることがそれなりに影響した、と言っているわけですが。
実際に、これだけ明確に結果に差が出ているわけなんですが。

何で「影響しなかった」とか言えるんですか?ってもう一度だけ聞いておきたい。
まあ、あまり明確な答えが帰ってくるとは、もう期待していませんが。正直。

644日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:28:16.83
>日本史ってものを全く知らない、思い込みだけでものを語ってしまう種類の人なんです

自己紹介乙としかいえない。

645日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:38:59.70
>>641
STAP細胞はありますw

646日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:40:51.55
>>643
638だけど、私が藤原氏が他氏族を圧倒する家格形成を築くことができた基本要因だと思ってるのが
>>638にあるとおり。
で、それらは皇胤(と看做されていた)であることが影響したのかと言われれば、
藤原氏はおのが氏族としてのを繁栄を企図していることが垣間見えるし、
皇室側が詔なんかで藤原氏を称揚する時も鎌足・不比等の業績を讃えるのであって、
ということは、その当時周りから皇胤だと思われていたのかというと、そんな例証は無い。
少なくとも私はそこに、実は皇胤である云々の影響を見出すことはできない。

647日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:44:38.37
それでね。
自分が不思議なのは

「藤原氏が皇胤とみなされていたことは、その家格形成に
大きく影響した」という不思議な主張を
なさっている人がいて、
元々それほどレベル高いレスが帰ってくるとは期待していなかったのだけれど、

実際に、それを支持する根拠を、この人は「全く何も」提示できなかった、っていうこと。
期待はしていなかったが、全く本当に完全な「ゼロ回答」しかできないとは・・・

申し訳ないけど、あなたに対してはものすごく呆れたし、驚愕したし、失望した。
この世界で生きるために、もう少しだけ、真摯にものを考えるようにしてみてはいかがでしょうか。

648日本@名無史さん2015/07/13(月) 10:57:47.19
>>643
>落胤なり皇胤「だから」できたわけではなく
影響ないって認めちゃってるじゃん

649日本@名無史さん2015/07/13(月) 11:09:25.02
>>640
【一般論として】、日本の歴史において「皇胤であること」は【それなりに】重要視されていた。

このことに文句をつけている人などいませんが・・・。

650日本@名無史さん2015/07/13(月) 11:28:27.77
1. 一般論として、日本の歴史において「皇胤であること」はそれなりに重要視されていた。(大前提)
2. しかし、上記の公家の家格が形成される期間の間、大臣にまでなった一世源氏の子孫は
ほとんど没落している(小前提)
3. 従って、藤原氏含む公家の家格形成において、「皇胤とみなされていたこと」が大きな影響を与えないはず(結論)

651日本@名無史さん2015/07/13(月) 11:46:25.97
>>640
「それなりに大きな影響」って数字であらわすとだいたい何%ぐらい?

652日本@名無史さん2015/07/13(月) 12:01:43.58
>>641
日本史板で根拠と言えばそれは史料記事
>>646のような傍証を挙げることもせず
思いこみの観念論しか語ってない
ここまで不毛な長文も香ばしい

653日本@名無史さん2015/07/13(月) 12:08:36.86
>>640
三段論法があほらしすぎる
犯罪者がみんなパンを食ってたみたいなもんだ

皇子皇孫ですら朝廷に残れなかった系統が数多だというのに
藤原氏に限って遠い先祖が落胤だったかもしれないというのを評価するのは
ダブルスタンダードでしかない

654日本@名無史さん2015/07/13(月) 12:15:49.31
>>643
独りぼっちで悪戦苦闘ご苦労様で〜すw

655日本@名無史さん2015/07/13(月) 12:26:06.69
>大臣にまでなった一世源氏の子孫もほとんど没落していると思うけど。
>都には他にも皇胤の氏族がたくさんひしめいていたのだから、

なんで「皇胤だったこと」がそれなりに大きな影響を与えなかったの?

656日本@名無史さん2015/07/13(月) 13:09:01.36
>>641
「ある」と主張した者が、それを先に証明しなければならない
「ない」ことを証明できないからといって「ある」ことにはならない

これのどこに間違いがあるのかわかりやすく説明していただけますか。

657日本@名無史さん2015/07/13(月) 13:12:46.17
不比等はもしかしたら噂があることで有利になったかもしれないが、その後は代々藤原氏が権力の中枢にいたからだろ
源氏ですら大半は落ちぶれていってるんだから落胤程度の噂で代々権力の中枢にとどまれるわけがない
藤原氏の家格は長期間、権力の中枢にとどまったことで形成されたものだろ?
摂関が藤原氏の世襲のものと認識されるまでに他氏が摂関の座を奪っていれば藤原氏も没落していたかもしれない

658日本@名無史さん2015/07/13(月) 13:28:15.41
もう知障は相手にするなよ

659日本@名無史さん2015/07/13(月) 13:54:10.09
(すべてはここから始まった)

そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。

ていうか、その落胤伝説がなかったら、
一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
そもそも成立しなかったはずだと思う。

っていう目で見ると、>>530は結局、摂家・清華家は全て
天智天皇の男系子孫、ってことで整理がつく。

660日本@名無史さん2015/07/13(月) 14:19:54.60
>(すべてはここから始まった)

いや、始める前にさ、確かめてほしいんだけど、
落胤伝説って「興福寺縁起」じゃなくて「多武峰縁起」(鎌倉時代以降)じゃね?
しかも大鏡の話をパクって、天智−不比等じゃなくて孝徳−定恵になってるという……(間違ってたらスマン)
だとすると、平安後期の「摂関時代」も終わり頃になって初めて落胤話が出てきた可能性も出てくるわけで。
それに大鏡って不比等の兄が中臣意美麻呂だったり、宇合や麻呂が不比等同腹の弟だったりと、
結構滅茶苦茶で信が置けないし、史実に依るというよりは落胤話も物語のネタとして使った感があって、
これによって、それまでの藤原氏の繁栄には貴族社会が藤原氏を皇胤だと認識してたのが影響してた説には
とても同意できない。
むしろ誰かが書いてたように、権力を完全に確立してた藤原氏に落胤話を後付けしたようにも思える。

661日本@名無史さん2015/07/13(月) 16:53:58.17
下記のスレでやるか別スレ立ててやったらどうだ。

藤原氏はなぜ長続きしたのか?
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1340125962/

662日本@名無史さん2015/07/13(月) 22:24:24.28
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

663日本@名無史さん2015/07/13(月) 22:25:10.07
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

664日本@名無史さん2015/07/15(水) 00:35:29.97
あの・・・やっぱり
「皇胤であることが全く、もしくはほとんど影響を与えなかった」
と主張する、もしくは信ずる根拠を述べてくださいませんか、ってあれだけ言ったのに、
これだけ書き込みしといて、本当に全く何も回答できないの??
マジですか?

>>648
ごめん、本気で言ってるの?人の言っていることを少しくらいは
理解してから、書き込みをしてほしいんですが。

自分の主張は、落胤「だから」できた=落胤であったことが藤原氏の家格形成の最大の理由だった、ということではなく、
落胤であることが家格形成にそれなりの影響を与えていたはず、
ということなんですが。
どうしてそれが、「影響ないって認めちゃってる」ことになるの?

ごめん、自分には素で不思議なんだけど、
あなたは本当に、この違いが理解できないほどのアホなんですか?
それとも、わざわざアホのふりしてるんですか?
俺は、わざと池沼のふりをした悪質な輩に、からかわれているだけなのか?
よくわからんな・・・

>>649
文句つけている人がたくさんいるから、困っているんですが。

>>651
そんなの知らんよ。
俺が昔、大学受験に受かったのは「運」のせいと「素質」のせいと
「努力」のせいと、全てあると思っているけど、
そのそれぞれが何%くらいの寄与?とか言われても、そんなこと
知らん、としか答えようがない。
俺が知っているのは、運も素質も努力も、すべてが寄与していた、ということ。

665日本@名無史さん2015/07/15(水) 00:36:27.31
>>652
ごめん、>>646は、>>638が「基本要因」だということの
「傍証」にはなっているけど、
(そして、それには俺も別に反対はしないけど)
その他の要因がなかった、ということの「傍証」には
全くなっていないんですが。これだけ何度も言っても、わかりませんか?

あとこれも何度も言うけど、自分が「影響を与えていた」ことの
傍証として挙げているのは>>606の家格形成結果である、と言っているのだけど。
ここまで明確に結果が出ているのだから、当然それは信じるべき根拠の一つになり得る。

> 日本史板で根拠と言えばそれは史料記事
んなこたないでしょうが・・・・考古学とか全否定するつもりですか?
上に述べたように、例えばDNA鑑定結果とかだって、十分歴史の真実をしる根拠になりえますよ。

>>653
> 皇子皇孫ですら朝廷に残れなかった系統が数多だというのに
勿論そうですけど。

> 藤原氏に限って遠い先祖が落胤だったかもしれないというのを評価するのは
> ダブルスタンダードでしかない

なんでそうなるの?
自分が言っていることは「藤原氏に限ったこと」とかじゃ全然ないんですけど?

>>654
ん?一人だから何?
大人数の側についていさえすれば安心してしまう人ですか?

666日本@名無史さん2015/07/15(水) 00:41:48.27
>>655
例えば二つの氏族がいて、もし両方とも皇胤だったら、その場合には「皇胤であること」は影響を与えないわけですが。
っていうか当然じゃない?

>>656
>「ない」ことを証明できないからといって「ある」ことにはならない

別にそれは否定しないけど。
でも、なぜかここには
「ないことを証明できない」のに「ない」と言い張りたがる不思議な人がいるから、途方にくれているんですが・・・

繰り返すけど、もし「ない」ことも「ある」ことも証明できなかったとしたら、
我々が言えるのは「あるかないか、わからない」ということであって、
そこで「ない」と主張するのは誤りですよね。それ位のことは、わかりますよね?

>>657
> その後は代々藤原氏が権力の中枢にいたからだろ
そうですね、何度も言うけどそれは別に否定はしない。

>>658
そうだねえ、何か知らんけど、池沼レベルの言語の通じない人がたくさんいて、
本当に疲れてきたよ・・・

まああまり期待はしていなかったけど、率直な感想として、
「皇胤であることが影響を与えなかった」と言っている人が、
自分がそう信じる根拠について、ここまで本当に「全く何も」述べることができなかった、というのは
自分には本当に驚きだ。

歴史板ってこんなレベルだったのか?
そうは信じたくないが・・・

667日本@名無史さん2015/07/15(水) 02:09:53.16
>>660
合ってるよー、多武峰縁起では定恵が孝徳の皇子になってる。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879797/240

で、興福寺縁起を見たが、落胤のことなんて書いてない。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879797/235

大鏡の適当さは笑ってしまう。
諸書を校合なんてこともなく、手近にあった適当な文書を疑いもなく参考にしたんだろう。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027818/95

公卿補任を見れば分かるように、落胤云々は註文であって本文ではない。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/12

668日本@名無史さん2015/07/15(水) 02:11:03.01
落胤伝説が、平安時代に有力だったという主張もあるが、本当にそうだろうか。

公卿補任の註文が、果たしてどこまで遡れるかは分からない。
落胤説のような記事は、たとえ風説としてかなり広まっていても、公式な文書に残したりは普通しない。
崇徳天皇や一休のことが、系図に出たりはしないように。

加納諸平以来、石作皇子=多治比嶋、車持皇子=不比等、ということになってるけど、
他の三人がまんま実在なのに、皇子二人だけ婉曲にした意図が分からない。こじつけくさい。
まるっきり架空ではなさげなら、佚名の皇子か、既知の皇族の異称の失伝と考えるべきではないのか。

公卿補任が先行したなら、多武峰縁起がそれと違う話を造作するのも、よくわからない。
しかも、後世も当時もあまり顧みられなかった孝徳に結びつけてどうするのって感じ。

落胤伝説の成立は、時系列で考えると、
竹取物語、大鏡、多武峰縁起、公卿補任という来歴を想定した方がすっきりする。

まず、竹取物語が、今に伝わらない皇子の名を作品に使う。
院政期以降、緩やかに落ち目の藤原氏に、祖先が落胤という伝説が語られるようになり、大鏡や多武峰縁起が記す。
元が噂なので、事実関係も正確なはずもなく、父、子、母が一定しなかったのだろう。
やがて鎌倉期くらいに、父・天智、子・不比等、生母・車持氏という筋に固まり、落胤の話と車持皇子の話が習合し、
説話として有力になったところで、誰かが公卿補任に書き入れた、とそんな感じだろう。

669日本@名無史さん2015/07/15(水) 09:27:42.16
少し一晩、頭を冷やしてみて思ったんだが。

ここで奇妙な主張をしている人たちも、きっと本当は
相手の言うことを落ち着いて読んで、きちんとした主張を
しようとがんばれば、できる子たちなんだろう。
きっと本当は、>>652さんだって、本当に考古学を全否定したいわけじゃなく、
つい成り行きで口走ってしまっただけなんだろう。

どうしてこういうことになるかっていうと、
まずここが2chなので、つい相手の言っていることを読まずに
反射レスしてしまう、ということがあるだろう。
しかし同時にもう一つ、以下のような大きな理由があるのではないか。

俺が言っている

1. 平安時代の家格形成期において、藤原氏は皇胤だと一般的に認識されていた
2. 藤原氏が皇胤だと認識されていたとしたら、それは家格形成にそれなりの影響を与えたはず

について、2.は何度も言う通り、疑いようなく明らかに正しいと思う。しかし
実は1.については自分はそれほど確信しているわけではない。

なので1.ではなく主に2.に反対してくる人がいる、ということが自分には不思議なわけだが、
恐らくここでは、実際に「皇胤でない藤原氏がほぼ独占的に繁栄し、
皇胤はほとんど没落して行った」という「史実」を、多くの人が強烈に認識しているために、
「皇胤であることはほとんど影響しなかった」という先入観を、深く、根強く持ってしまっているのだろう。

670日本@名無史さん2015/07/15(水) 09:28:48.59
だから、例えば>>655みたいな、奇妙な、そして理屈になっていないことを言う人が
跡を絶たなかった、ということなんじゃないか、と思えてきた。

で、もしそうであるとしたら、上記の1.が「もし」正しかったとしたら、
それは日本史一般を扱う人々の中に、ものすごく根強く存在する、この「思い込み」を、
根底から覆すものである、ということを意味するのではないか。

つまりこうやって、明らかな非論理をもって反射レスで反対してくる人が
跡を絶たないということ自体が、この問題がとても根深い、従ってある意味
歴史の認識にとって重要な問題であることを、逆に明らかに示しているのではないか。

・・・恐らくこれは、俺の自己満足ではないだろう。
本当にそれが、最初俺が思っていた以上に重要な問題であることが、
このスレの反射レス群から、逆説的にそれこそ「傍証」される、
っていうことなんだろう。

こう考えると2chってつくづく、不思議なところだね。

671日本@名無史さん2015/07/15(水) 09:29:04.10
>>660 >>667-668
そうだね、上にも書いた通り、それについては俺も確信度は70%くらいしかない。

何で70%もあるかっていうと、大鏡は当時の知識階級が書いたものであって、
従ってそれが「史実」であるか否かとは関係なく、
当時の知識階級の「常識」を反映しているものだろう、と思ったから。

そして上記の通り、「史実」の問題ではなく「当時の一般常識」の問題として
これが果たしてどうであったか、というのは
歴史を考える上で極めて重要な問題であるように思われる。

672日本@名無史さん2015/07/15(水) 10:02:19.37
>>671
落胤伝説が大鏡以前に遡れる強い根拠が無いなら、
不必要な長文でだらだら述べて来たことの大方が崩れるんでないのか?

大鏡が常識を反映?w
あのでたらめな系譜記事からも分かるように、そんな代物じゃないだろう。

そもそも、公卿補任のような書き継ぎ書き継ぎで、史料批判が厳密になされるような文書や、
竹取物語のような完全な創作物、大鏡のような歴史物語、多武峰縁起のような縁起物、
そういう史料としての評価に疑問符を付けざるようなものにしか言及がなく、
六国史のような公刊史書に記載が無いどころか、
平安期の公卿の日記などにも一切記事が無いのに、
70%も確信するとか、それは確信じゃなくて過信だ、間違いない。

2chが不思議なところだとか、池沼呼ばわりとか、偉そうな発言を繰り出すくせに、
史料批判の初歩すら理解していないんじゃないのか?

>>660>>667-668を見て、落胤伝説が当時の一般常識だなんて寝言がよく言えるよw

673日本@名無史さん2015/07/15(水) 10:08:43.69
相手するから長々と続くんだろう。

674日本@名無史さん2015/07/15(水) 10:10:22.96
自分語り終わった?

675日本@名無史さん2015/07/15(水) 10:14:25.40
>>660>>667-668に付け加えておくと、(Wikipediaにすら言及されているが)
成立時期としては大鏡に遅れ、多武峰縁起と同時期?な平家物語にも落胤の記事がある。

>>668の指摘のように、この時期には、
まだ親子関係や対象人物が固定化されていなかったと見えて、天智の子が定恵になってる。
しかも、清盛も落胤ということになってる。
異様な出世を遂げた人物には、この手の風説が出現するという良い見本。

中世に成立した系図類など、同時代に信頼すべき記事が無ければ、価値は低い。

いったい何をどう評価すると、風説を書き留めたにすぎない記事を、70%で確信するに至れるのか。
一般常識だったなら、日記や詠歌に何の痕跡も留めていないのはどういうわけか。
2chよりその方が不思議だわ。

>>673
荒らしということか。

676日本@名無史さん2015/07/15(水) 10:18:03.68
>>672
そうだね、確かに興福寺縁起見てみたが、書いていないようだ。
これは俺が自分で確認せずネットを鵜呑みにして、これは済まなかった。
ここが崩れると、確かに、大鏡はともかくとして
平安初期〜中期の家格形成期にそれが信じられていた、と主張する根拠はかなり薄れる。

論理のないアホなことを言う人がたくさんいるので、つい、当り前のことを沢山書いてしまったが、
そこが薄れると、確かにそもそもの根底が怪しくなるね。
結構大発見をしたつもりだったが、そう甘くはなかったかw
指摘については感謝する、有難う。

677日本@名無史さん2015/07/15(水) 10:28:05.27
>>665
いつのまにか「大きな影響」が「それなりの影響」に変わっちゃって、
しかも「藤原氏に限ったこと」じゃなくなっちゃたのね。

あほらし。

678日本@名無史さん2015/07/15(水) 10:36:33.18
>>677
そうそう。
述べてるうちに論旨を少しずつ変える卑怯な奴だよ。
>>591>>606では大きな影響だったのにねw
いつの間にかそれなりの影響に後退してる。

大きいでもそれなりでもいいけど、具体的にどのように影響したのかを全く言わないし。

大発見だとさ、あほらしw
史料批判もできない奴がこういう勘違いをして、ホラ話を著作にして、いい気になるんだよなw

>>676で俺に謝るくらいなら、アホだの池沼だの罵ったことも謝れよ。
ネットソース鵜呑みくん

679日本@名無史さん2015/07/15(水) 11:06:58.02
まさか言いたかったことが
皇胤(藤原氏を含む。)であることは、家格形成に『それなり』の影響を与えた『はず』
だったとはねw

680日本@名無史さん2015/07/15(水) 12:33:14.35
当たり前のことをみんなが教えてくれているのに
それに気付かず一人相撲とは

681日本@名無史さん2015/07/15(水) 12:45:04.38
学部生くらいの人だったのかしら。
頭でっかちの。

682日本@名無史さん2015/07/15(水) 13:14:20.38
こんなめんどくせえ奴がゼミにいたら教官にぶん殴ってもらいたいわw

683日本@名無史さん2015/07/15(水) 13:44:22.87
>そもそも昔は、不比等=落胤説が結構な確からしさで信じられていたわけで(今でも否定はされていないが)、
>そういう目で見ると藤原氏の独占的繁栄っていうのは結構納得が行く。

>ていうか、その落胤伝説がなかったら、
> 一介の豪族に過ぎない藤原氏が、皇胤である源氏よりも格上であるなんていう風潮は、
>そもそも成立しなかったはずだと思う。

藤原氏が突出した理由を論じているのかと思っていましたw

684日本@名無史さん2015/07/15(水) 14:03:46.19
だから低能は相手するなと言ったのに

685日本@名無史さん2015/07/15(水) 15:48:06.13
>>676
悪意なき無知よ去らば!

686日本@名無史さん2015/07/15(水) 16:53:27.27
藤原氏の場合、母系で皇室に血が入りまくって
皇胤でもないのに、名門血統になり得たんだろう?

687日本@名無史さん2015/07/15(水) 19:18:28.08
794年の公卿補任を見るとすでに
藤氏 5人
皇族 2人
紀氏(皇別)、石川氏(皇別)、大中臣氏(神別)、大伴氏(神別)それぞれ1人
なんだね

688日本@名無史さん2015/07/15(水) 20:11:51.01
初期の頃って南北式京それぞれが他の氏族同等に公卿一人だったのけ?

689日本@名無史さん2015/07/15(水) 20:45:09.43
794年、延暦13年だけど、以下の通り。
正二位右大臣 藤原継縄(南家)
正三位大納言 藤原小黒麻呂(北家)
正三位中納言 紀古佐美
従三位中納言 神王
従三位中納言 壱志濃王
正四位下参議 石川真守
従四位上参議 大中臣諸魚
従四位上参議 藤原雄友(南家)
従四位下参議 藤原内麻呂(北家)
従四位下参議 藤原真友(南家)
従四位下参議 藤原乙叡(南家)

690日本@名無史さん2015/07/15(水) 21:18:19.26
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

691日本@名無史さん2015/07/15(水) 21:18:54.64
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

692日本@名無史さん2015/07/15(水) 22:34:13.00
>>689
平安遷都の年には藤原氏による上位独占がかなり進んでるし
皇族はいるけど皇胤(賜姓皇族)はいなかったのね。

693日本@名無史さん2015/07/16(木) 00:44:50.09
長いレスは読む気がしないということだけはわかった

694日本@名無史さん2015/07/16(木) 01:01:51.69
読む気はしないと思うが、一通り読み返して思ったことを。
やはりWikipediaはこわいな…と思いつつも
不比等が落胤であることが、奈良時代にすでに大きな影響を与えていたのなら、
公然の事実ということになるので、隠す必要もないから、
藤氏家伝はほのめかしも含めて、現存部分にでもそれなりに記述がありそうだし、
光明立后の言い訳がましい宣命も他に書きようがあったと思う。
細部はともかく大筋は>>668の説明が自然だと思う。
大鏡の記述内容が当時の貴族社会の常識を反映しているとも限らないし、
徒然草の「いでやこの世に…」でも藤原氏皇胤は念頭になさそう。
保立道久氏が皇胤説をどのように説明しているのか、気にはなるが…

まあ話は単純であって
・藤原氏の家格形成は皇胤影響説を採用しなくても普通に十二分に説明できるのではないか。
 (逆に藤原氏が皇胤でなかったらその地位を失うような状況があったのか)
・皇胤影響説を支持するには没落した皇胤が多過ぎ(というか大半が没落)ではないか。
・以上のような素朴な疑念をひっくり返すだけの史料や説明がない。

くらいのことなのに、これに全く答えていないので、ほとんど支持が得られない。
結局のところ、>>563の「摂家・清華家は全て天智天皇の子孫、ってことで整理がつく」という
江戸時代以降の状況からの思いつきと見なされても仕方がなく、
ゆえに>>659で「すべてはここから始まった」とか言われるのだろうか。

根拠は皇胤説くらい乏しいが、ここまでからむくらいだから院生じゃないかな。
興福寺縁起が読めるくらいだし、やればできる子じゃないかとは思う。
なので強がってここのレベルの低さを連呼しているのが余計に哀れをさそう。

695日本@名無史さん2015/07/16(木) 02:25:28.65
>>667-668です。

>>694
Wikipediaを鵜呑みにしない方がいいのは勿論なんだけど、
ネット上では他にも「興福寺縁起」を出典として言及されるのが凄く多くて気になる。
誰も文面を引用してないから孫引きっぽいので、単純に誰かの勘違いが拡散してるだけとは思う。
明らかに「大鏡」や「尊卑分脈」の文言なのに「興福寺縁起」からなんて書いてる人もいるし。

それとも、群書類従所収以外の異本があるのか、あるいは、良世作以外の別本があるのか、
はてまた、タイトルを誤認してて実は興福寺の他の文書に記載があるのか。
確認したいけど物凄く面倒くさそうなのでやらない。

光明立后の言い訳については、正しくその通りだね。
当時から公然の秘密であったなら、ああいう迂遠で面倒な手続きを踏む必要も無かっただろう。

藤氏の繁栄は、累代の外戚、功臣・高官の続出、権謀術数の成功、くらいで十分説明できるだろう。

暇があったら図書館で保立道久の新書を読んでみることにするわ。
Googleブックスにプレビューが無くて残念w

6966942015/07/16(木) 09:03:47.95
>>695
あらためて先の資料報告ありがとう。
「興福寺縁起」がやたらと多いのは、Wikipediaから拡散したと思いこんでたが、
異本や他資料の可能性も否定はできないかなあ。
良世でなければ「大鏡」をさかのぼらなさそうなので、大きな影響はないと思うし、
「群書類従」「校刊美術史料」あたりを総チェックなんかとてもできないな。
と思ったが、保立氏読んだらこのあたりの検討はしているはず。
ブログでも皇胤を力説してるし、光明立后をどう説明してるか気になるし、
こちらも時間があれば読んでみるよ。
さすがにここまでくるとスレ違いかな…

697日本@名無史さん2015/07/16(木) 09:52:59.64
ttp://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b78b.html

ttp://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/huhitokousinn.html

698日本@名無史さん2015/07/16(木) 10:12:44.65
公家の家格の定義ってどう認識されていたのだろう?
家によってはどの家格になるか資料によって分かれる場合があるらしいと聞いたので気になりました

699日本@名無史さん2015/07/16(木) 12:23:11.59
藤原氏が皇胤だとして、賜姓皇族系を圧倒する。

有能な人物が毎世代現れたからかも。

ただそれだけだった。

なんじゃそれは。

700日本@名無史さん2015/07/17(金) 02:22:25.82
>>695です。

>>696
家格形成に皇胤であることが如何に影響するか、という点ではギリギリセーフ、のはず。
でもこれで最後にしておきます。

興福寺関係の精査は、そもそも縁起を出典としている人がやるべきことだね。

>>697
おお!ありがてえ!
あいにく近くの図書館に無いわ、新書の分際で3800円(Amazon)もするわで、助かったよ。

> 平安時代にはまったくの事実として信じられていた。
と仰るわりに、代表史料として「帝王編年記」(南北朝期の系図)と「大鏡」(院政期の歴史文学)を挙げてるくらいだから、
やはり「興福寺縁起」(平安前期)には載ってないと考えてよさそう。
大鏡より古い史料があるなら、それを真っ先に例示するっしょ。
あと、持論に都合の悪い「多武峰縁起」や「平家物語」に触れないのは、素直に狡いと思う。

持統が天智系の皇胤を引き立てたいなら、なんで落胤の不比等を選択したのかも合点がいかない。
大津や長屋が草葉の蔭で泣いてをるぞ。川島、志貴、葛野らも侍るは。
不比等が公然の落胤で、それを無闇に取り立てたら、蘇我氏より危険な存在になるんじゃないのかと小一時間。
やはり、功臣・寵臣・外戚として引き立てたという評価でいいと思うがね。

よしこ・しげこ説には、一瞬、おっ!って思ったが、女性名といえば角田文衞。
奈良平安の后妃にそんな傾向が見出せるなら、見逃すはずはないと思うけど、どうなんだろう。

701日本@名無史さん2015/07/17(金) 23:40:15.50
>>700
> 持統が天智系の皇胤を引き立てたいなら、なんで落胤の不比等を選択したのかも合点がいかない。
「落胤」でしかないというのが重要だという解釈なんでしょう。
いかに公然たる存在であっても、落胤は所詮落胤で表向き
には「皇胤」にはなり得ない。
自分の支持だけが拠所で息子のライバルにはなり得ない
異母弟を、他の皇親のけん制も兼ねて引き立てたという
のは、想像としてはありでしょう。
もっとも、無理に落胤であると想定せずとも、
> やはり、功臣・寵臣・外戚として引き立てたという評価でいいと思うがね。
で充分だと思うけど。父の功臣で唯一の大織冠の後継と
いうことで毛並みはそれなりに良いし、自分以外の後ろ盾
を持たないというのも君主側からは都合が良いことだから。

702日本@名無史さん2015/07/18(土) 15:12:21.16
公卿を輩出した武家を無理やり当てはめるとこんな感じ?

六波羅殿 清華家
池殿 半家
門脇殿 半家
鎌倉殿 清華家(将軍家)
足利家 清華家(将軍家)
鎌倉公方家 地下家
畠山家 地下家
赤松家 地下家
大内家 地下家
織田家 清華家
織田信雄家 大臣家→地下家
織田信包家 地下家
羽柴家 摂関家
大和羽柴家 清華家
宇喜多家 清華家
毛利家 清華家→地下家
上杉家 清華家→地下家
前田家 清華家→羽林家
小早川家 清華家
徳川家 清華家→将軍家
尾張徳川家 羽林家
紀伊徳川家 羽林家
水戸徳川家 羽林家
越前松平家 羽林家
細川家 地下家
伊達家 地下家
島津家 地下家
福島家 地下家

703日本@名無史さん2015/07/18(土) 15:49:08.35
無理矢理なら当てはめる必然性を感じない

704日本@名無史さん2015/07/18(土) 16:41:58.27
>>702
清華家とする基準がわからない

705日本@名無史さん2015/07/18(土) 18:55:13.88
>>704
勅許によるものや
二代目以降の官位叙任歴から

706日本@名無史さん2015/07/18(土) 19:28:48.82
越前松平家は完全に地下家

707日本@名無史さん2015/07/18(土) 21:14:17.33
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

708日本@名無史さん2015/07/18(土) 21:15:48.23
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

709日本@名無史さん2015/07/20(月) 06:33:12.72
>>702
足利は室町殿

710日本@名無史さん2015/08/03(月) 14:54:35.05
>>510

あー、それは気づかなかった。

711日本@名無史さん2015/08/03(月) 14:55:45.47
>>701
> >>700

平清盛が白河天皇の落胤だったというのは、信ぴょう性が高いみたいだが。

712日本@名無史さん2015/08/03(月) 15:56:54.83
>>710
この家のご当主さんは神田で喫茶店経営されてるね
次期ご当主が公家スレ(だったかな?)に降臨されたことがあった。
もちろん家名など名乗ってないが、質問内容から当てはまる家がそれしかなかった。

713日本@名無史さん2015/08/03(月) 16:52:46.93
>>509

> 公家の子が武家を嗣いだ例
> 細川澄之、佐竹義隣など


この佐竹義隣さんのケース。
どういう事情で相続に至ったのか?

714日本@名無史さん2015/08/03(月) 22:45:19.19
>>711
推測とそれに基づく伝承以外の根拠はないでしょ?
信憑性を云々する以前の問題だと思うけど。

715日本@名無史さん2015/08/24(月) 15:43:26.16
摂家や清華家、大臣家などの家格はだれが決めたんですか?
江戸時代の大名なら将軍や幕閣がランク付けしたと思うんですが。

716日本@名無史さん2015/08/24(月) 23:08:02.61
自然に決まったんでしょ

717日本@名無史さん2015/08/25(火) 19:44:14.89
平安時代からの積み重ねが中世の激動の時代というフィルターに掛けられて近世の慣例を作った

718日本@名無史さん2015/09/07(月) 00:29:06.39
最初から完成されてる必要はないわな

719日本@名無史さん2015/11/17(火) 18:33:21.24
武家で清華相当と言えるのは
太政大臣まで上り詰めた平家の本流
将軍在任期間が短いので極官は低めだが官位叙任履歴から鎌倉将軍家
実質は摂関以上だけど摂関じゃない足利、徳川
勅許によって清華成したと言われる豊臣政権での毛利、上杉、宇喜多、前田、小早川くらいか
織田家と秀長家は官位が清華成大名並ではあるが豊臣政権での位置付けが不明

720日本@名無史さん2015/11/17(火) 23:37:55.57
>>719
こういう無理矢理ちがうものを当てはめる人の目的がよくわからん
豊臣家を皇室に擬制するなら宮家や摂家はどこなん
チラシの裏でやってておくれ

721日本@名無史さん2015/11/18(水) 01:13:40.98
>>720
どこにも
> 豊臣家を皇室に擬制
した部分は見当たらないが。

722日本@名無史さん2015/11/18(水) 04:14:46.20
豊臣政権下で武家清華家が創出されたのって定説?

723日本@名無史さん2015/11/18(水) 08:09:25.05
豊臣家は摂関家だろ

724日本@名無史さん2015/11/18(水) 08:12:18.61
よく清華成って単語を見るけど具体的にどういうことやねん
>>709>>710もよくわからん

725日本@名無史さん2015/11/18(水) 10:08:16.71
足利、徳川は、太政大臣が出てるから清華といってもかまわんだろうが。

726日本@名無史さん2015/11/18(水) 12:01:11.04
持明院基定
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/持明院基定

室町殿
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/花の御所

武家清華家創出
矢部健太郎の論文参照

727日本@名無史さん2015/11/18(水) 15:08:38.46
江戸時代の武家は極位極官が決まっていたから、清華とか関係ないだろ
尾張・紀伊ですら大納言止まり

728日本@名無史さん2015/11/18(水) 17:18:01.99
清華の家格とは一般的に
@極官が太政大臣
A昇進ルートが参議を経由することなく中将→中納言→大納言→大臣
B娘が入内
というのが条件になっていたと思うが
これを100%満たす武家はいないんじゃないか?
徳川はいきなり大納言だから満たしているといっていいのか分からない
そもそも公家の家格にはこだわっていなかったんだろう

しかし例外的に豊臣政権ではかなり意識していたと思われる

729日本@名無史さん2015/11/18(水) 17:36:12.61
清華成についてはいくつか書状が残っていて、秀吉の要請と朝廷の許可で清華に列せられたんじゃなかったか?
だから豊臣政権についてはそれまでの条件を無視して清華家ができたものと思われる
これは豊臣家が摂関になったことで、公家の伝統にも対応しつつ武家の統制に家格を利用しようとしたんだろう

730日本@名無史さん2015/11/20(金) 10:32:50.93
1588年の聚楽第行幸に際して清華成
織田家(信雄、内大臣)
大和羽柴家(秀長、権大納言)
徳川家(家康、権大納言)
近江羽柴家(秀次、権中納言)
宇喜多家(秀家、参議)

同年中に上洛して清華成
上杉家(景勝、参議)
毛利家(輝元、参議)

1590年の小田原征伐前に清華成
前田家(利家、参議)

小田原征伐後に織田信雄が失脚

1591年に秀長と秀保が養子縁組
秀長が死去し、秀保が大和羽柴家を継いで参議輔任

秀吉と秀次が養子縁組
秀次が関白輔任(摂関成)

1594年に小早川隆景と秀俊が養子縁組

1595年に秀保が死去し、大和羽柴家断絶

秀次失脚

1596年に清華成
小早川家(隆景、権中納言)

731日本@名無史さん2015/11/20(金) 11:40:39.95
>>730
それを見ても「清華成」と言う人の意図が不思議でならない。
そもそも清華というのは、定着した家格のことだろ。
一定の官位に昇進したことを「清華成」と称するなら、
他の清華以下の公家が同様の官位に進んだ時を全てそう言わないのに、
公家の清華という概念を武家に当てはめてるのには参議も納言も皆清華なの?
矛盾してないか。

同時代にそういう表現はあったの?

家格の成立まえに滅んだ、松殿家を摂家、洞院家を清華とか言うのともまた違うし。

732日本@名無史さん2015/11/20(金) 14:23:20.45
同時代に「清華成」という表現はあったらしい
ただしそのような家格が本当にあったのか議論があって、単に公卿に昇進したことをそう呼んでいるのではという話も聞いたことがある

公家 武家
摂関家 =豊臣家
清華 =清華成
平堂上(羽林)=公家成
地下家 =諸大夫成

733日本@名無史さん2015/11/20(金) 14:31:42.79
諸大夫を従えることができるのは、親王、門跡、摂関、清華だけど、清華成大名はその家臣も諸大夫成していて、やはり清華に準じた待遇だったんだと思う
並の公家がいくら大納言に昇進しても諸大夫を家司として従えることはできなかったはず
官位だけ見れば武家清華は公家の清華より低いが、それは政権が短命で終わったからで、長期化すれば武家清華の官位が引き上げられたか、公家の清華の方が武家並になったかもしれない
秀吉時代に公家の昇進が停滞していたのを見るとおそらく後者ではなかっただろうか

734日本@名無史さん2015/11/20(金) 15:15:51.26
>>732
家格形成があったかどうかは豊臣政権が短期間に終わったこともあって、
なかなかはっきりしないわけだね。

>>733
陪臣の官位が一つの試料になるわけか。

豊臣政権の公家武家一緒くたの解決が、徳川政権の武家官位だったけど独自策なのかな。
それとも豊臣政権の頃からそういう模索はあったんだろうか。

お二方ともありがとう、参考になったよ。

735日本@名無史さん2015/11/20(金) 21:13:50.92
徳川時代は豊臣政権下での武家官職インフレの是正に取り組んだ結果、国主≒四品としたことと三家+前田+(松平忠直・光長家)の陪臣叙任に整理した

736日本@名無史さん2015/11/20(金) 22:19:32.00
徳川政権において完全に公家の官位と分離させた武家官位だが、
豊臣政権においても公卿以外は実質分離していたと思われる
侍従は大幅な定員オーバーで、諸大夫なんて重複しまくりだったから

737日本@名無史さん2015/11/22(日) 00:57:24.97
豊臣政権下では武家に官位を与えすぎて、公家の官位がなくなって困ったと聞いたが

738日本@名無史さん2015/11/22(日) 10:43:33.13
豊臣政権では公卿以上の官位は分離していなかったんだろうね
聚楽行幸の行列でも公卿以上は武家と公家が混ざっているし

武家に官位を与えすぎたのもあるだろうけど、もしかしかたら意図的に公家の昇進を抑えていたのかもしれない

739日本@名無史さん2015/11/22(日) 14:09:41.73
>>738
摂関を豊臣で独占するために、公家の大臣新規叙任を押さえてたようだ。
右大臣菊亭晴季が秀次事件連座で解官され、現任大臣は太政大臣秀吉だけになり、その後家康が内大臣任官、秀吉死亡で大臣は、家康一人となり、その後晴季が右大臣復帰、さらに近衛信尹が左大臣復帰。
大臣任官は、大納言を経なければならないが、秀吉時代に公家の大納言の新規任官がどの程度あったのか?

740日本@名無史さん2015/11/22(日) 16:10:17.54
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

741日本@名無史さん2015/11/22(日) 16:10:44.74
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

742日本@名無史さん2015/11/29(日) 23:14:16.07
>>739
たしか広橋兼勝くらいかな?
でも名家だから大納言が極官

秀吉の関白就任から死去まで権大納言だったのが、西園寺実益と鷹司信房だが
本来なら内大臣に昇進してもおかしくなかった、特に摂関家の鷹司信房は
鷹司信房は権大納言のまま、従一位に進んでるけど、これは摂関家ではほとんど前例がない
大臣には昇進させない、上がりという意味での従一位なのだろうか?

このとき他の摂関家は配流か後継者なしか若年の九条忠栄しかいなくて、このあたりも大臣適任者不足の一因だよね

743日本@名無史さん2015/11/29(日) 23:19:56.60
徳川家康の内大臣昇進は秀吉晩年のもので、秀次事件などでだいぶ当初の政権構想が変更されたあとと思われる
今出川晴季は以前より右大臣で、秀吉の関白就任の功績者でもある

これ以外では大臣への昇進が秀次しかないのを見ると
もしかしたら摂関家、清華家も基本的には大納言を極官とするつもりだったのかもしれない
そうすると武家の清華と大差がない

744日本@名無史さん2015/11/30(月) 09:11:24.28
秀吉政権は、武家主導の公家一統だろう。
後醍醐天皇は、天皇独裁のために摂関、将軍を置こうとしなかったが、秀吉は、摂関を豊臣で独占するために五摂家を押さえこんだ。清華はそのあおりを食った形か。
摂関、太政大臣、左大臣は豊臣氏が独占し、これが完成したら摂関家、清華家は、極官がせいぜい右大臣か内大臣(ねぶり大臣)くらいの処遇を考えていたかもしれない。
そういう中での家康の内大臣任官は、秀吉死後のショートリリーフ指名なんだろうね。

745日本@名無史さん2015/12/08(火) 05:36:45.28
武家官位って家格を規定するぐらいしか意味はなかったの?
五位以上だと内裏昇殿が許されるが武家が内裏に昇殿することって江戸時代あったんだろうか?
あとは公家と婚姻関係を結ぶ時も官位が無いと不便なんだろうか?

746日本@名無史さん2015/12/08(火) 10:11:19.94
京都所司代、老中は侍従に任じられて昇殿していた。
高家も昇殿しないと仕事にならない。

747日本@名無史さん2015/12/08(火) 18:32:01.50
極官五位の大多数の大名と二位の最下級公家、官位だけじゃ全く比較にならんだろ

748日本@名無史さん2015/12/08(火) 18:43:34.44
>>747

両方とも子爵になったな。

749日本@名無史さん2015/12/09(水) 18:38:49.36
地下家でも従三位とか時々なれるからな
国持大名しかなれない四位は腐るほど地下や公家侍でもなってる
大名で従三位になれるのは御三家と前田だけ

官位だけで武家と公家は比較できないということ

750日本@名無史さん2015/12/09(水) 19:12:50.88
武家内も官位だけでは序列化できないのかな?
大身陪臣と下級旗本では現実には陪臣のほうが序列が上じゃないかな?
伊達の片倉家と1000石くらいの旗本じゃ無冠の片倉のほうが旗本より上に感じる。

751日本@名無史さん2015/12/09(水) 20:51:02.52
武家
国持大名>準国持大名>城主大名>城主格大名>陣屋大名>寄合旗本>旗本(小普請)

752日本@名無史さん2015/12/10(木) 00:34:14.60
>>749
従三位の地下人と五位の殿上人が出くわしたら、どっちが目上なの?

753日本@名無史さん2015/12/10(木) 08:17:16.69
>>750
陪臣で江戸に屋敷があったのは、
御三家付家老だけではないのかな

754日本@名無史さん2015/12/10(木) 09:24:40.13
>>751
武家の格付けは幾つかあるから、それだけで一律には決められないけどね。

>>752
おっぱいが大きい方だよ。

>>753
何の序列? 何をどう感じるの?

755日本@名無史さん2015/12/10(木) 09:45:57.11
>>752
殿上人のほうが絶対的に格上、この頃公家では家格>官位

>>753
陪臣で官位があるのは前田と御三家だけだな
まぁ御三家の附家老は純粋な意味での陪臣ではないが

756日本@名無史さん2015/12/10(木) 10:20:32.57
>>755
宮中で出くわしても三位が五位に譲るの?
武生本多は無位無官?

757日本@名無史さん2015/12/10(木) 10:40:32.48
よかったな

758日本@名無史さん2015/12/10(木) 18:40:24.88
前田と御三家だけというより大名が公卿としての官位を得てる家の諸太夫として家老が官位を得てた。

759日本@名無史さん2015/12/11(金) 18:44:09.65
>>758
前田は(従三位、参議)の公卿になるのに家督30年近くかかるし結構な数の藩主が公卿に到達する前に亡くなっているけど
長命な藩主の晩年までは家臣は無位無官ということ?

760日本@名無史さん2015/12/11(金) 19:35:38.91
>>759
加賀八家より本多、前田土佐は常時叙任
残りの2枠を他の6家より叙任

761日本@名無史さん2015/12/11(金) 19:42:03.82
>>759
いや、前田家は堂上に比するべき家柄としてということ。
ただ結果一代で終わった徳川家門の大名は従三位や参議になると家老が叙爵されるケースが多い。
そういう家も続いていれば堂上に准じて家老を諸大夫とする家になったのかもな。

762日本@名無史さん2015/12/11(金) 20:46:22.23
>>761
松平忠直・光長の付家老は叙任されてるよな

763日本@名無史さん2015/12/14(月) 01:14:55.76
御三卿の家老は陪臣としてじゃなくて旗本として叙任されてるのかな?

764日本@名無史さん2015/12/14(月) 07:24:29.32
御三卿の家老職は旗本の職だから旗本として任官するだと思う。
家老になったといっても旗本じゃなくなるわけじゃないし。

765名無しさん@そうだ選挙に行こう2015/12/14(月) 09:35:52.69
御三卿の家臣は幕臣が出向してるだけ
清水も田安も当主不在になれば幕府に戻った

766日本@名無史さん2015/12/28(月) 15:20:41.31
公家のなかで諸大夫がいたのは、大臣家以上と羽林の中山家だけだよね?
大臣家は実質清華と見なされることもあるから分かるけど、中山家にはどうして諸大夫がいたの?

767日本@名無史さん2015/12/28(月) 15:24:09.49
公家のなかで諸大夫がいたのは、大臣家以上と羽林の中山家だけだよね?
大臣家は実質清華と見なされることもあるから分かるけど、中山家にはどうして諸大夫がいたの?

768日本@名無史さん2015/12/29(火) 11:16:48.08
中山と松木は平公家の中では格別家格が高いと聞いたことはある
准大臣とかしょっちゅうなるし

769日本@名無史さん2015/12/29(火) 19:36:14.09
武家官位は雨林に準じているというが従五位下の大名って諸大夫扱い?
それとも公家扱い?

ちなみに地下の諸大夫でも4位とか普通にいるけど武家で4位っていったら最上級大名だよね?
従三位以上を公家というなら御三家と前田しか公家の家格はいなくなるね。

770日本@名無史さん2015/12/29(火) 19:45:30.30
前田さんて新羅系かい?
越前〜出雲〜新羅は新羅海賊と呼ばれた連中のルートだろ

771日本@名無史さん2015/12/29(火) 19:47:12.60
ま〜どっちにしろ海人族が味方につかなきゃ航海すらできないんだが

772日本@名無史さん2015/12/29(火) 23:01:36.41
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

773日本@名無史さん2015/12/29(火) 23:02:07.71
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

774日本@名無史さん2015/12/30(水) 00:13:44.16
前田さんは尾張

775日本@名無史さん2016/01/02(土) 23:20:36.23
>>767
中山家は三代続けて准大臣を出したので、諸大夫を置く格式
となったと、幕末の宮廷にあったと思う。

776日本@名無史さん2016/01/03(日) 01:20:32.38
園家はダメだったのかな?

777日本@名無史さん2016/01/03(日) 16:15:17.69
>>775
ありがとう
時期的にはどれくらい?
江戸時代かな

778日本@名無史さん2016/01/05(火) 22:24:16.12
武家の女性で生前に三位以上の位を授与された人って居るんだろうか?

779日本@名無史さん2016/01/06(水) 02:00:11.05
平政子は?

780日本@名無史さん2016/01/06(水) 09:28:47.13
平時子(二位尼)は従二位
高倉天皇の乳母だからな。

781日本@名無史さん2016/01/06(水) 09:38:23.26
家康の側室の阿茶局は従一位
徳川和子入内の世話役の功績

春日局が従二位(最初は従三位)

782日本@名無史さん2016/01/06(水) 13:28:04.77
北条政子(平政子)が従二位

ねね(豊臣吉子・豊臣秀吉正室)が従一位
後陽成天皇が聚楽第へ行幸した時の褒美

桂昌院(藤原光子・5代将軍徳川綱吉生母)も従一位

783日本@名無史さん2016/01/07(木) 09:16:02.12
将軍正室で生前に三位以上を下賜されてる人って意外と少ないんだな

784日本@名無史さん2016/01/07(木) 10:17:50.44
女王か摂家の姫だからな

785日本@名無史さん2016/01/09(土) 02:29:16.03
鎌倉・室町・江戸の将軍家の側室で生前に五位以上の位を下賜されてる人は
何人居るんだろ?

786日本@名無史さん2016/01/22(金) 00:33:40.48
武家・公家との間の婚姻は割と行われてて閨閥を形成してるけど、
将軍家→摂家はどの程度あったんだろ?

787日本@名無史さん2016/01/22(金) 02:27:10.78
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

788日本@名無史さん2016/01/22(金) 02:27:40.62
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

789日本@名無史さん2016/01/30(土) 18:18:10.85
そういえば東京の万世橋に昔あった交通科学博物館の学芸員に公家の末裔の方
が居たって聞いたんだがどの方だろう?

790日本@名無史さん2016/01/31(日) 09:11:45.20
>>789
交通科学博物館ではなく、交通博物館ね。
そんで、勤めてたのは鷹司平通氏。

791日本@名無史さん2016/02/01(月) 11:35:33.71
あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

792日本@名無史さん2016/02/08(月) 18:49:21.00
征夷大将軍は本来臨時職だから令外官でしょ。

793日本@名無史さん2016/02/09(火) 07:55:20.16
大宰府天満宮の宮司は菅家末裔の西高辻家が務めてんだな。
昨日の官邸訪問で初めて知った。ももクロとも仲良しなんだな。

794日本@名無史さん2016/02/09(火) 19:35:24.43
> ももクロとも仲良しなんだな。
これで有難味が完全に失せた。

795日本@名無史さん2016/03/29(火) 10:49:04.73
>>30
五摂家の長男(次の当主)もだよ

20代の若さで関白に就任した人達も
中には居るし、

796日本@名無史さん2016/03/29(火) 11:09:35.56
>>749
徳川御三家と前田家は清華家

公家と武家の極位極官の違いは
結局のところ、
国会議員と地方自治体トップの違い

官僚()と自治体の首長(大名)

797日本@名無史さん2016/03/30(水) 00:23:10.96
>>795
摂家は元服、叙爵で五位少将になるのが例だったはず。

798日本@名無史さん2016/03/30(水) 17:05:51.87
>>769
極位極官だけ見ればほとんど諸大夫

前田家と御三家、駿河、甲斐、館林、越前松平初期が清華相当、
国持大名が羽林家相当で、それ以外が諸大夫では?

799日本@名無史さん2016/03/30(水) 17:31:12.39
国持ち大名と清華家の結婚は結構あったな。
土佐藩と三条家とか。

800日本@名無史さん2016/03/30(水) 18:31:52.95
>>798
いや極位極官だけ見れば前田家と御三家、駿河、甲斐、館林、越前松平初期が平公家相当
御三卿も平公家だね。
必死で頑張っても准大臣が限界だし。
清華相当なのは徳川宗家のみ。

801日本@名無史さん2016/03/30(水) 20:12:55.22
>>800
ごめん
一行目と二行目は別

802日本@名無史さん2016/03/31(木) 00:20:36.70
>>799
公武のつりあいからいうと
内親王・女王・摂家姫と将軍家
女王・摂家姫と御三家御三卿
清華姫と国持大名
って感じか。平公家の姫なら一般大名とか
旗本とかもトツギーノしてるね。

803日本@名無史さん2016/03/31(木) 03:35:14.55
国持と羽林が同格?

804日本@名無史さん2016/04/01(金) 00:34:29.13
> 清華相当なのは徳川宗家のみ。
たまにこういう主張を見かけるけど、無意味な話だね。
このレベルでの極位極官の話を言い出したら、摂家も清華も同じく従一位太政大臣で同格ということになってしまう。
摂家と清華の決定的な差異は摂関になれるかどうかだし、将軍家を他家と隔絶させているのは摂関を従える権威を有する「将軍」になれるかどうかという点にある。
そこを無視して家格を語っても、全く無駄な話にしかならないよ。

805日本@名無史さん2016/04/01(金) 01:08:01.43
将軍家ってことでいいじゃん

806日本@名無史さん2016/04/01(金) 09:27:03.90
明治になって、御三家と清華が侯爵だから御三家が清華並みの家格でもいいだろう。

807日本@名無史さん2016/04/01(金) 11:57:26.91
幕末以外は武家官位が本気で気にされたことないしな。

808日本@名無史さん2016/04/01(金) 13:25:48.26
公家だらけで山口最盛期の
大内従ニ位兵部卿(貿易用の日本国王印持ち)もなかなか・・

明治以降は毛利大公爵(実質的な長州天下の君)も実現するやら、
さすが大防州・大長州

809日本@名無史さん2016/04/01(金) 13:42:45.51
毛利氏は、本姓大江で大名家では由緒有るほうだな。
桂太郎、木戸孝允も同族だから、明治になって大江氏は繁栄した。

810日本@名無史さん2016/04/01(金) 14:09:12.17
幕末の毛利父子の存在感の無さは異常。
信楽焼のタヌキ置いといても問題なさそう。

811日本@名無史さん2016/04/01(金) 23:32:48.16
>>811
家臣がキャラ濃すぎただけでは?
あれだけ色々やらかす家臣だらけで
ストレス多かったかも

812日本@名無史さん2016/04/02(土) 09:19:16.88
大日本帝国は
木戸孝允に始まり木戸幸一で終わるので
戦前臣下宮中序列一位の木戸内大臣が極人臣を極めた総帥

中臣鎌足の内臣から歴史ある官位の内大臣
なぜか令外官

現代日本の最高権力は財務事務次官なので
大蔵大輔だな

世が世なら五位摂政と呼ばれそうな権限

813日本@名無史さん2016/04/03(日) 01:36:32.62
豊臣公儀の時に定められていた徳川家は清華家相当というものを結局超えら
れていないということ。超えられていたら武家関白を目指しただろうから。
俗説で流れている秀吉は農民上がりだから将軍になれなかった、という風説
は江戸時代に豊臣公儀を下げるための方便ではないかと思う。
関白は天皇の代理人だし、征夷大将軍よりもずっと権威は上だったのに、征夷
大将軍になれない者が関白になれるはずもなく。
家康は本当は関白殿下と呼ばれたかったんだろうが、それでは露骨な簒奪に
なるので征夷大将軍を選んだのだろう。これならば武家の棟梁ではあっても
天皇の臣下の最高峰ではないので豊臣家を騙せたのだろう。

そして豊臣家を攻め潰したあとは徳川家の勢力でそれを無理やり権威付けし
たと。しかし元々は豊臣公儀の五大老筆頭から生じた政権なので結局、豊臣
本家の摂関家相当にはなれなかったのではないかな?

814日本@名無史さん2016/04/03(日) 11:07:53.68
さんざん既出だが、室町時代の摂関は将軍家に伺候して偏諱を拝領し、不興を買えばそのまま解官、追放という状態で、将軍家の家礼の筆頭という位置づけが定着している。
幕初に将軍が参内したようなときに摂関が下座についたのも、その伝統の流れ。

815日本@名無史さん2016/04/03(日) 13:47:52.28
>>814
そのことをどっかで書いたら罵倒されたよw
歴史知らん奴多いよね。

816日本@名無史さん2016/04/03(日) 13:50:12.98
将軍宣下の時も幕末以外は将軍が使者の上座なんだよな。
当時は武家の棟梁は天皇より下って意識はかなり希薄だったんだろうな。
まあ、武家の棟梁のお情けで領地もらって生活してるって状態だから無理もない。

817日本@名無史さん2016/04/03(日) 19:27:03.35
豊臣政権の立場で考えれば813の言うのも分かるが
実際は室町将軍と徳川将軍の権威はその当時の摂関を凌駕している

将軍家という家格は、公家や豊臣政権の家格制度では上手くあらわせないってことだよね
摂関家を上回るとも言えるし、清華家相当とも言える

818日本@名無史さん2016/04/03(日) 20:17:44.10
>>804
清華家の太政大臣と摂関家の左大臣、上席につくのはどっち?

819日本@名無史さん2016/04/03(日) 20:52:32.95
>>816
だがそれを言い出せば征夷大将軍を任命するのは天皇だから、任命する側が
下位になる事はどう考えても矛盾しているだろう

820日本@名無史さん2016/04/03(日) 22:08:06.87
>>819
そこを突かれて幕末には勅使上座、将軍平伏に変わったわけで。

821日本@名無史さん2016/04/03(日) 22:35:29.12
将軍の欠点は致命的
将軍と主従関係を結ぶ大名が将軍に謀反を起こせばそれは謀反であるが、朝敵とは限らず
だが関白は天皇の代理人である以上、関白に謀反を起こせばそれは朝敵になるということ
だからこそ幕府は公武合体を目指したんだろうが最初から武家関白になっておけばこんな
苦労はなかったろう

とはいっても、豊臣恩顧の大名も健在で秀頼もいるのに無理やり家康が関白になっていれば
どんな結果が待っていたかはわからんけどな
今の歴史は家康が将軍職を選んだからこそあるのだろうと信じる

822日本@名無史さん2016/04/03(日) 22:40:14.35
鎌倉〜江戸期に武家出身の典侍/掌侍は居たんでしょうか?

823日本@名無史さん2016/04/03(日) 22:45:08.63
>>819
勅使はあくまでも使者であって天皇ではないからね。
まあ、江戸時代に限らず平安時代でも勅使が公卿に嘲笑されて追い返されたとか、南北朝〜室町期に宣旨が乱闘の中で泥まみれになったとかといったエピソードには事欠かない。

824日本@名無史さん2016/04/03(日) 22:46:18.45
>>818
太政大臣だね。単に摂家というだけでなく摂関であれば別だけど。

825日本@名無史さん2016/04/03(日) 22:50:53.98
>>824
有り難う。身分より官職優先なんだね。

ノンキャリ課長とキャリア課長補佐なら課長のほうが上席になるけど、当時も同じか。

826日本@名無史さん2016/04/03(日) 22:53:34.59
>>823
でも上使が使いの内容を述べてる間は、たとえ軽輩でも上座に座るよ?

827日本@名無史さん2016/04/04(月) 08:42:26.48
>>826
だから室町や徳川時代の武家全盛期は、それほど天皇が上位という意識がなかったってことでしょ。
実力で天下を握った連中だから、そう考えるのは自然だわな。
そして、幕末はその実力が低下したので、勅使に平伏する将軍家という図式になってしまった。

828日本@名無史さん2016/04/04(月) 09:03:16.17
>>824
摂関でも一座宣旨を受けてるかどうかだな。
摂関でも位階が二位の間は一座になれなかったそうだし、豊臣秀次は一座をもらえず秀吉が上席。

829日本@名無史さん2016/04/04(月) 12:59:33.13
九条道家 摂関
九条頼経 将軍

官職だけならこの親子が完全優勝
どっちも持ってる

830日本@名無史さん2016/04/04(月) 13:48:39.36
この親子、一瞬天下の覇権を握りかけたんだよな。
北条得宗家の恐るべき反撃で撃沈したけど。

831日本@名無史さん2016/04/05(火) 16:15:13.42
御三家清華説頻繁に出ているけど近代の家族制度で

公爵 徳川宗家 五摂家
侯爵 御三家 大藩主 清華

でいえば御三家は清華並と言える。

官位は御三家が大納言で平公家並、清華は大臣。

結婚相手は御三家は摂家や女王が多いから清華以上。

結局どちらが上とか関係なくないか?

832日本@名無史さん2016/04/05(火) 20:39:31.46
>>830
井伊直弼が徳川斉昭を恐れたのは、それと似たような状況が実現しかねなかったことも一因だと何かで聞いた。
当時の関白、鷹司政通の妻清子は斉昭の実姉。二人の間には鷹司輔煕と九条幸経という息子が居た。

つまりうまくすれば斉昭は息子を将軍、甥を関白にして天下を牛耳ることが出来かねなかったというわけ。

833日本@名無史さん2016/04/05(火) 21:12:17.45
日経平均株価:15732.82 円(-390.45 円)
http://syoukenshinpou.blog13.fc2.com/

834日本@名無史さん2016/04/05(火) 21:17:43.06
上杉景勝って豊臣時代に三位中納言だったけど、これって徳川政権になっても死ぬまで 官位官職そのままだったのかな?

伊達政宗は60位なってから 三位中納言なってるけど 特別扱いだったんだろうか。

 

835日本@名無史さん2016/04/05(火) 22:50:03.92
>>831
江戸時代には、将軍家から摂家、宮家、三家に出す書状はともに「殿」付、天皇宛は「公方様から禁裏へ」で同等の礼。
(時代による差はあるが、この時期には「様」が「殿」より上で、自称は「殿」、相手の尊称が「様」(
明治になってから格を引き下げたというのが実態でしょう。

836日本@名無史さん2016/04/05(火) 22:58:14.20
同等だったら禁裏様にすべきだよな。
これじゃ殿より下じゃねえか。

837日本@名無史さん2016/04/05(火) 23:20:33.13
将軍という位を天皇からもらう立場の分際で「同等」とか普通に考えたら
もらう本人も違和感なかったのかね・・・

838日本@名無史さん2016/04/05(火) 23:40:10.95
天皇も摂家以下の公家も、将軍の扶持なしでは権威どころか生活すら保てない状態だからね。
それも所定の収入だけでは成り立たないという事で、毎年赤字補填のための経費を幕府の公金や将軍の手元金から支出していた状態。
「もらう立場の分際」なんていう発想そのものがあり得ない話だよ。

839日本@名無史さん2016/04/05(火) 23:49:23.96
将軍の扶持を生み出すのは将軍の実力だが、その実力の根源はなんだ?
となると天皇の権威だから結局鶏が先かたまごが先か、という話になるよな

840日本@名無史さん2016/04/05(火) 23:53:55.38
実力の根源は武力だよ。
綸旨が暴徒に足で踏みつけられて泥まみれになるような時期、天皇の権威が文字通り地に落ち切っていた時期でも、将軍家の下知には公家も含め皆従っていたということを考えれば、一目瞭然だろ。

841日本@名無史さん2016/04/05(火) 23:58:23.87
>>840
ならば将軍は皇室を倒しちゃえばいいのに
将軍と名乗って下知するなら天皇の権威を利用する事だからどうも腑におちないよな

842日本@名無史さん2016/04/06(水) 00:04:28.84
> 同等だったら禁裏様にすべきだよな。
「禁裏」という表現自体が高い敬意を含んでいるから、それにさらに「様」をつけるのはそれこそ御御御付けのようなもんで、かえっておかしいだろ。

843日本@名無史さん2016/04/06(水) 00:18:18.78
それだったら公方も同じじゃね?
公方とは禁裏のこと也、なんてケースもあるし
禁裏様の用例も多い

844日本@名無史さん2016/04/06(水) 08:44:06.32
>>839
そう

力を権威づけるもんが朝廷の制度以外ついに産まれなかったんよね。

戦国末期だと田舎武士が守とか名乗るしw

朝廷が滅びきらなかったのはそのへんかな。

845日本@名無史さん2016/04/06(水) 12:46:50.65
江戸時代なら
武士の名乗りで東百官(相馬百官)も流行ったので

頂点が百官名ではないが
日本国大君を頂点とする
新しい力といえるかもしれない





高家のみなさんは擬似磨呂で

846日本@名無史さん2016/04/06(水) 12:47:28.69
江戸時代なら
武士の名乗りで東百官(相馬百官)も流行ったので

頂点が百官名ではないが
日本国大君を頂点とする
新しい力といえるかもしれない





高家のみなさんは擬似磨呂で

847日本@名無史さん2016/04/06(水) 13:14:06.25
統治の実権喪失後の朝廷はバチカン見たいなもんだ。
西洋だって、法皇や枢機卿に戴冠式やってもらってるわけだし。

848日本@名無史さん2016/04/06(水) 14:03:36.72
>>840
鎌倉時代かな。
室町時代だと朝廷も幕府も衰退の時期だし。

849日本@名無史さん2016/04/06(水) 14:06:50.57
>>847
ローマ教皇と神聖ローマ皇帝はどちらが上位か、という争いはヨーロッパにもあった。
今谷明によれば江戸初期に来日した宣教師は天皇を「教皇」、将軍を「皇帝」と呼んだらしいから、その比喩は正鵠を射てるんじゃないかな。

850日本@名無史さん2016/04/06(水) 16:09:57.39
>>831
御三家が清華クラスというのは納得できるが
前田家以外の大名まで侯爵というのはおかしい
国持クラスで羽林家と同じ伯爵
それ以下の大名が子爵、男爵でよかったんじゃないのかな

851日本@名無史さん2016/04/06(水) 17:00:01.41
>>850
公家偏重になる。
公家の半家までが子爵なら1万石の大名も子爵が妥当。

852日本@名無史さん2016/04/06(水) 18:03:49.79
>>850
叙爵内規では普通の大名は現米15万石以上が侯爵、現米5万石以上が伯爵、それ未満の諸侯が子爵、
維新後に新規立藩した家が男爵。
維新勲功で爵位が上がった家はあったけど下がった家はない。
基本的には藩の収入規模だけで決まり、江戸時代の表高や家格は諸侯は全く考慮されない。
ただし将軍家が公爵、御三家が侯爵、御三卿が伯爵とは決まってた。

853日本@名無史さん2016/04/06(水) 18:25:42.58
仙台伊達家は戊辰賊軍で減封されて伯爵。
宇和島伊達家は維新の功績で伯爵、更に侯爵と明暗を分けたな。

854日本@名無史さん2016/04/06(水) 19:15:16.20
>>852
公家偏重になるからこそ受爵内規でそうしたんだろうね

武家の家格を細かく考慮しはじめると複雑でどこからも批判が出るだろうし
どこかで明確に線引きする必要はあった

855日本@名無史さん2016/04/07(木) 00:06:58.48
>>850
虚官のみでその日暮らししていただけの貧乏公家が領主と同等の爵位を受ける方が不自然だろ。

856日本@名無史さん2016/04/07(木) 00:43:29.73
公家諸法度で、天皇と公家の権限が武家に制限されたんだから、
どう考えても将軍家が上でしょう。

ただ、なんで廃止させなかったのは、不明だけど。

857日本@名無史さん2016/04/08(金) 00:02:48.42
もし朝廷が徳川家の将軍職を召し上げる、と宣言したら攻め潰すんだろうか?

858日本@名無史さん2016/04/08(金) 00:04:31.83
>>857
後鳥羽上皇の二の舞。主上御謀反。

859日本@名無史さん2016/04/08(金) 00:28:16.48
強引に東宮に譲位させるだけ。
普通関白を抱きこんであるからそれで終わり。
ありえないけど朝廷全てが幕府の敵に回るなら輪王寺宮を擁して京に上る。

860日本@名無史さん2016/04/08(金) 00:30:08.03
もっとも爵位で損したのは幕府高家だな

江戸王朝の公家生活イメージで
けっこう名門多いのに・・・

861日本@名無史さん2016/04/08(金) 12:22:33.89
高家筆頭の大沢家は一時的に華族になれたけどな。
公家は名門度で爵位貰えたけど武家は徳川一門以外は純粋に石高しか考慮されてないしね

862日本@名無史さん2016/04/08(金) 21:18:18.78
木寺宮系の大沢氏。
家格は良いのでオマケで当選できればなぁ。

863日本@名無史さん2016/04/08(金) 21:43:13.93
家格が良くても品性に欠けるよw
浜名湖は田んぼじゃないからな。

864日本@名無史さん2016/04/08(金) 23:33:47.11
現代なら養鰻の収入だけでも十分だろうけどね。

865日本@名無史さん2016/04/12(火) 15:50:14.29
高家もピンきりじゃね?
2000石以上の奥高家なりまくりな家と500石でほぼ表高家なところじゃかなり差がある。
吉良や大沢クラスの高家は男爵でも良いと思うけど 下級高家は爵位いらんべw

866日本@名無史さん2016/04/12(火) 16:24:38.32
交代寄合新田は南朝ボーナスで男爵だっけ?
平野も加増扱いで大名扱いで男爵でラッキー。
南北朝期の古豪氏族が男爵貰って没落武門の意地見せた感じだな。

867日本@名無史さん2016/04/12(火) 16:29:24.82
神職系は貰えても男爵で抑えられてるとこ多いが

本願寺当主は伯爵
すごいすごすぎる実力
さすが武家より強い一向一揆軍

868日本@名無史さん2016/04/12(火) 16:37:04.11
東西両方が伯爵もらってたのか

869日本@名無史さん2016/04/12(火) 18:15:39.31
>>867
本願寺は日野家の子孫で公家との婚姻も多く堂上家扱い。

870日本@名無史さん2016/04/12(火) 19:59:30.04
授爵では神職系って皇室に匹敵するほどの名門氏族なのに武家公家はおろか本願寺よりも軽く見られているよね。

871日本@名無史さん2016/04/12(火) 20:48:44.26
神職系は伝説上は神につながったり、古代豪族につながるのにな。
でも華族制度廃止後は、神職やっぱり勝ち組な気がする。
堂々と公家衣装着られるからなw

872日本@名無史さん2016/04/12(火) 20:51:40.83
伊勢祭主の藤波家は神祇大副で堂上家だから子爵になれたけど、出雲大社の千家家でさえ男爵止まり。

873日本@名無史さん2016/04/12(火) 22:16:34.98
本願寺は財政的に官軍を支援したとかなかったっけ?

874日本@名無史さん2016/04/12(火) 23:01:34.92
本願寺は世襲だったことと、代々大僧正に上がったのを大納言に准ずるということで伯爵が与えられたということらしいね。

875日本@名無史さん2016/04/15(金) 23:44:46.34
中大夫と出納平田家、万石以上の陪臣は男爵で良かったと思う。

876日本@名無史さん2016/04/16(土) 20:30:41.55
万国陪臣は概ね男爵じゃない?

877日本@名無史さん2016/04/16(土) 20:55:29.08
そういや広島新田藩は維新直後に自主的に廃藩して爵位もらってないな。
早まったことをして大損したな。

878日本@名無史さん2016/04/16(土) 21:01:41.28
爵位は小身だと体面を整えるのに金がかかって苦労が多かったみたいだし損とは限らない

879日本@名無史さん2016/04/16(土) 22:24:51.23
千家氏や諏訪氏は爵位以上に名門感

880日本@名無史さん2016/04/17(日) 13:05:16.15
>>874
女王を嫁にしてたからじゃないの?

881日本@名無史さん2016/04/17(日) 13:45:26.74
>>880
爵位に関しては叙爵内規から外れた爵位は与えないという方針が徹底されており、原則から外れているようにみえるものも、内規にあう理由がこじつけられている。
明治天皇の外祖父中山忠能の侯爵も「維新の勲功」、外曾祖母の実家松浦家の伯爵も税収の一部を支藩と二重計上して無理やり「中藩」にするという細工をしている。
こじつけだったとしてもこじつけられるだけの根拠は最低限必要になるわけで、両大谷家の場合はそれが「大僧正」だろうということ。

882日本@名無史さん2016/04/19(火) 11:22:07.43
対馬の宗はなにゆえ伯爵?

883日本@名無史さん2016/04/19(火) 11:57:45.47
>>876
たとえば水戸の山野辺家は爵位貰ってない。
助川海防城の城主で公爵家の重臣なのに。

884日本@名無史さん2016/04/19(火) 13:22:13.68
宗氏は侵攻への最前線の防人や貿易担当で
特殊な大名の感じはする

ヨーロッパ貴族での辺境伯みたいなものか

885日本@名無史さん2016/04/19(火) 13:33:51.24
宗氏はいつでも特別扱い

886日本@名無史さん2016/04/19(火) 16:49:42.90
>>879
ロシアでも名門中の名門貴族は爵位を持ってなかったりする。
爵位なんて制度が出来る以前からの名門だからというのが理由。

887日本@名無史さん2016/04/19(火) 17:05:53.88
九州では少弐氏潰れたが対馬に渡って宗氏継いだんじゃなかった?

888日本@名無史さん2016/04/19(火) 17:12:49.00
神仏習合を推し進めたのは鎌倉幕府の連中だからな

向こうの寺なんかに神仏習合のあとがあるならそりゃ少弐氏が持ちこんだもんだ

まあいってみりゃ鎌倉御家人時代に始まったもんだからな

889日本@名無史さん2016/04/20(水) 13:37:49.53
神仏習合は、
廃仏毀釈の薩長よりマシだ。

アレは文化財の破壊政策。

890日本@名無史さん2016/04/20(水) 17:28:12.04
神仏習合は奈良時代には始まってるんですが

891日本@名無史さん2016/04/20(水) 18:40:16.38
百済王氏とか直系いたら少なくとも侯爵以上だろうな

892日本@名無史さん2016/04/20(水) 19:04:06.37
せいぜい半家の子爵だろ

893日本@名無史さん2016/04/20(水) 19:14:29.37
朝鮮貴族の公爵w

894日本@名無史さん2016/04/20(水) 19:54:26.33
李氏朝鮮王族は大日本帝国に合併後は王位・公位の扱いだったので、それに準ずる感じか。
明治維新で琉球王が侯爵だったので、
百済王が貰えるとしたら、侯爵から王位の間だなw

なんか数年前の韓国ニュースで、
李朝の人を親日罪で日帝公爵となじって財産没収してた気がするが、
韓国は酷すぎるなw

895日本@名無史さん2016/04/20(水) 20:17:29.34
え? 百済王(コニキシ)氏の話でしょ?
侯爵なんてムリムリ。
諸蕃氏族が清華と同格以上なんてどうかしてる

896日本@名無史さん2016/04/20(水) 20:57:18.11
>>894
準ずるというか朝鮮貴族って実在してる。
公爵だけいなくてそれ以下はみんな叙爵されてるよ。
日本の華族より金銭面で優遇されたけどそれ以外は庶民に近いな。

897日本@名無史さん2016/04/20(水) 21:18:52.45
併合のときに譲歩しすぎただけだろ
当初は朝鮮王には大公を与えるつもりだったらしいが、朝鮮側が王号に拘ったとか
穏便に併合できなければ列強の介入を招くので、
それを恐れて朝鮮側の要求をのんだらしいね


古代に亡命した百済王族はそれほど優遇されなかったし
その後も没落していったというのが全てだろ

898日本@名無史さん2016/04/20(水) 23:05:00.22
>>897
仮にも一国の君主だった人物をあんまり粗末に扱えないだろう。
そういう意味で琉球国王が侯爵というのは格下げし過ぎじゃないかと感じる。

899日本@名無史さん2016/04/20(水) 23:38:26.25
12万石の諸侯と考えればむしろ伯爵が妥当
朝鮮とは違って独立国家とは認めてないしな

朝鮮の方は日本には存在しなかった公爵の上の大公(grand duke)を提示したが
朝鮮側がどうしても王でということで王になったらしいが
皇族の王と紛らわしい
公爵より上で皇族ではないとなると大公が妥当だったとは思う

900日本@名無史さん2016/04/21(木) 00:24:11.81
旧朝鮮王が「たいこうでんか」はマズいだろう

901日本@名無史さん2016/04/21(木) 00:39:48.96
>>899
江戸幕府の公式見解は「琉球国は外国」だったらしいけどね。

902日本@名無史さん2016/04/21(木) 00:40:45.60
>>900
案外そのあたりかもね。

903日本@名無史さん2016/04/21(木) 01:14:04.34
主な伯爵位の授与は1884/7/7に行われていて
翌日の8日に伯爵になったのは宗家と肥前平戸61700石の松浦家の二家のみで特別扱い
あと中川久成も実高的に扱いが怪しいな

904日本@名無史さん2016/04/21(木) 01:41:35.14
宗家の伯爵は説明がつかないらしいね。
外戚の松浦家を意図的な二重計上で無理やり伯爵にしたんで、文句を言うに決まっている宗家も一緒に押し込んだんじゃないかとも言われているようだけど。

905日本@名無史さん2016/04/21(木) 02:02:42.32
朝鮮との外交やってた絡みじゃないの

906日本@名無史さん2016/04/21(木) 09:41:29.18
ひょっとして朝鮮との交易分も石高に水増し?
それだと松前も20万石相当になるが・・

907日本@名無史さん2016/04/21(木) 10:47:25.73
宗家は、侯爵を求めてたらしい。分不相応な。

908日本@名無史さん2016/04/21(木) 22:38:25.86
>>907
幕末に何かしてましたっけ?
功績もないのに侯爵?

909日本@名無史さん2016/04/22(金) 09:18:38.38
叙爵内規は公表されてないから色々間違った憶測が多かった。
江戸時代の宗家の家格は国持で大広間大名の中でも上位。
蜂須賀とか佐竹、宇和島伊達みたいな宗家以下の連中が侯爵なら
朝鮮外交の重要性を考えて侯爵くれよってことだろう。

井伊が伯爵だったのも井伊直弼の恨みでワンランク下げられたと思ってたみたいだし
松江松平も分家の福井が侯爵なのにうちが伯爵なのは納得いかんと言ってたようだ。

910日本@名無史さん2016/04/25(月) 10:26:47.88
>>909
福井も当初は伯爵だよ
春嶽の効能で後日侯爵になったけどね

911日本@名無史さん2016/04/25(月) 19:38:42.99
佐竹、藤堂、井伊、福井松平、仙台伊達このあたりが収納高で侯爵なれるかどうかのボーダーだったな。
20万石の佐竹だけが侯爵で面高30万石余裕で超えてる後者は伯爵。
30万石クラスの大名で伯爵止まりだった家と平公家と同じくくりにされた大臣家が割を食った感じか?

912日本@名無史さん2016/04/26(火) 03:25:09.48
佐竹は官軍だからな。
上杉も上手く立ち回ってたら侯爵なれてたな。
伊達なんか公爵も可能だったろうに。
時勢に疎い東北勢の中で佐竹の立ち回りの上手さは光ってるな。

913日本@名無史さん2016/04/26(火) 09:21:46.91
源平合戦 織田の甲州攻め 関ヶ原 戊辰戦争

佐竹の変わり身の遅さと
陣替え遅い割にはうまく家を保ってきたテクニックを舐めてはいけない 

914日本@名無史さん2016/04/26(火) 12:56:51.23
>>913 鎌倉期は振るわなかったけど。

915日本@名無史さん2016/04/26(火) 14:51:24.48
佐竹はずっと負け続けてるなぁ。戦闘では。
でも、身のふるまい方?なのか何なのかで滅びなかったw

頼朝に攻められたり、伊達に負けたり、戊辰戦争では庄内藩に秒殺されたり・・・

916日本@名無史さん2016/04/26(火) 15:13:36.76
いや、現在も出羽守の佐竹は強者。
細川元首相より家の歴史長いと豪語したり、
強い強すぎる武家w

917日本@名無史さん2016/04/26(火) 15:43:49.63
細川が足利から分家した時期からすると、佐竹の方が古いのかもしらんがな。

918日本@名無史さん2016/04/26(火) 15:47:05.34
>>916
>>916
そりゃ細川より長いだろ・・・
佐竹は新羅三郎義光の長男から続く血筋だし。
細川は八幡太郎義家の流れだが、ずっと下って源義国の次男(長男は新田氏)から出てる足利一門の一つだし・・・

昔、出羽守は源義家(河内源氏)だったこともあるけど、個人的には摂津源氏になってもらいたいは・・・

919日本@名無史さん2016/04/26(火) 15:55:56.38
あ、あれがいたなぁ、最上義光が。
最上義光は出羽守になったことあるかも・・・

「清和天皇末葉 出羽守義光」って銅像のとこに書いてあった気がした・・・

920日本@名無史さん2016/04/26(火) 16:05:47.90
佐竹氏と南部氏が戦ったらどっちが勝つんだろう?

源義光(森羅三郎)の長男の佐竹氏と次男の武田氏、その武田氏から分派した南部氏と・・・

921日本@名無史さん2016/04/26(火) 16:59:36.70
細川と佐竹じゃ格が違うだろ。
細川は足利の庶家で執事筋の家じゃないか。

922日本@名無史さん2016/04/26(火) 17:06:23.13
三日月の丸くなるまで南部領
平成南部藩1000万石パワーを持つ南部最強
ついに満月となった

923日本@名無史さん2016/04/26(火) 17:09:49.94
>>921
執事なのは細川本宗家だよ。
細川首相(元熊本藩主)は奥州細川家の流れ。

924日本@名無史さん2016/04/26(火) 17:18:33.37
細川は総理も摂関も手に入れたので
すでに佐竹を超えている磨呂

925日本@名無史さん2016/04/26(火) 17:25:03.18
>>924
足利一門(細川)+藤原摂家(近衛)=日本新党(笑)党首

今、小泉とタッグ組んで反原発してるあいつだろ?w

926日本@名無史さん2016/04/26(火) 17:32:33.79
あーくだらねえー、
何が格だよカスが、我々、清和天皇末葉はどれも同じだ。

927日本@名無史さん2016/04/26(火) 18:28:14.07
なるほど日本新党とは公武合体だったのかwww

928日本@名無史さん2016/04/26(火) 21:11:05.78
甲斐源氏自体、義家流の足利系氏族より家格的に下じゃね?
清和源氏には二種類ある。
義家の子孫とその他と俺は思ってるが。

929日本@名無史さん2016/04/26(火) 21:37:39.37
頼朝との親疎で家格判断だろうね。

930日本@名無史さん2016/04/26(火) 22:15:04.41
>>928
>清和源氏には二種類ある。

清和源氏は摂津源氏、大和源氏、河内源氏の3つ。

河内源氏の中でも源頼義(2代目)から源義家(長男)、源義綱(次男)、源義光(三男)に分れた。
義家の流れが源氏棟梁を継承した。

931日本@名無史さん2016/04/27(水) 11:34:33.47
武家出身の女官や典侍、掌侍って居たんだろうか?

932日本@名無史さん2016/04/27(水) 12:14:31.44
摂津源氏、大和源氏なんか源氏という範疇で見たら藤原北家以外の雑魚じゃん。
北家を河内源氏に例えると明確に劣る。

933日本@名無史さん2016/04/27(水) 13:40:42.54
頼朝は自分への忠誠の具合で、源氏一門でも差別化していた。
必ずしも血統の近さを優先させてたわけではない。
その中で、なぜか源義光の後胤たちが
結果的に多く門葉に選ばれていた。

934日本@名無史さん2016/04/27(水) 15:07:45.64
>>932
てめぇ、源頼光と源頼政ディスってんのか?
いかにお前の家系が源氏と関係ないかが判るはw

935日本@名無史さん2016/04/27(水) 21:38:24.19
スレチだけど、

大江匡房が平安中期の一条天皇の時代の代表的な武士として、
源満仲、源満正、源頼光、平致頼、平維衡の名を「天下之一物」としてとり挙げている。

他に、藤原実資や藤原行成などを有能な人材と称え、有為な政治体制が確立に貢献したと書いてある。

936日本@名無史さん2016/04/28(木) 15:54:02.34
うちは摂津源氏の家系だよー

937日本@名無史さん2016/04/28(木) 17:33:32.63
うちは平将門の直系だよ

938日本@名無史さん2016/04/28(木) 17:47:34.32
うちは池田輝政直系の岡山藩主が開いた新田に住み着いた水呑百姓の家系だよ

939日本@名無史さん2016/04/28(木) 19:20:49.42
家系を書けいとは誰も言ってないぞ。やめろこの流れ。

940日本@名無史さん2016/04/29(金) 00:28:51.72
>>939
笑った
ありがとう
あなたはなに家の末裔?

941日本@名無史さん2016/04/30(土) 22:57:34.10
別に、細川姓には何の恨みもないのに、
あの細川○煕のせいで・・・もう近○に苗字を変えろよ・・・

942日本@名無史さん2016/05/01(日) 00:16:36.57
は?
細川殿様一門の系統は養子戦略も含め、

首相 摂関家筆頭 公爵 喜連川御所 半将軍管領 

まさに天下人。

公武の頂点となった家柄。



 

943日本@名無史さん2016/05/01(日) 00:19:02.99
古今伝授伝承者も含めて細川家の歴史はタイトル六冠だ。

文武両道+公武頂点の家柄だ。

944日本@名無史さん2016/05/01(日) 10:52:26.82
平島公方家「ぐぬぬ・・・」

945日本@名無史さん2016/05/01(日) 14:14:42.08
平島公方さんのほうが足利将軍直系に近いのに
ずいぶんと差がついてしまったなw
ほそかわ恐るべしww


それぞれ管領(幕府No2)と関東管領(鎌倉府No2)の直系じゃないけど
江戸時代の大名で細川と上杉は勝ち組

豊臣政権No2で生き残った加賀前田に通じる美しさがある

946日本@名無史さん2016/05/01(日) 14:17:18.89

上杉は家格としては生き残ったが所領は2回減封くらってたか
室町大名系では有馬もなかなか・・

947日本@名無史さん2016/05/01(日) 14:59:38.95
上杉は関が原と維新で両方負け組になった珍しい藩だよ。
加賀前田とは通じないw

948日本@名無史さん2016/05/01(日) 15:01:58.97
ほんとああいうのが出てくと我が日本国は危機になる。
しかも、政権投げ出しで、その後の村山内閣の誕生まで繋がる・・・
清和○氏の恥さらし!

949日本@名無史さん2016/05/01(日) 15:13:52.74
細川謝ろう。
投げ出しは、母方祖父の血。

950日本@名無史さん2016/05/01(日) 17:47:35.03
現代に藤氏長者と源氏長者あるとすれば細川?
 こうなれば、 へ、平氏長者に期待か;

951日本@名無史さん2016/05/03(火) 08:23:21.20
>>>515
>519
TK君は突然変異種
神大Hrで括らないであげてね
ひかな、か940
>>939
>笑った
>ありがとう
>あなたはなに家の末裔?カラオケ
らわか、、しかさかな>515らをかや
>519かや
TK君は突然変異種
神大Hrで括らないであげてねか(やら)やわたはわかはなや()な

952日本@名無史さん2016/07/09(土) 15:51:29.90
>>950
平氏のうち西洞院の流れは血統では藤原北家になってたような・・・
相馬・伊勢&北条って今も平氏男系?

953日本@名無史さん2016/07/09(土) 19:07:24.38
>>950
細川なんて家格から言ったら論外だろ。
久我家の誰かだろ。

954日本@名無史さん2016/07/09(土) 20:36:51.57
藤氏長者が実質的に細川だが

955日本@名無史さん2016/07/10(日) 02:36:28.90
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

956日本@名無史さん2016/08/27(土) 16:20:17.02
室町時代の吉良家はいがいと官位が高くないな。
御一家で武者頭にもなってたらしいのにな。

957日本@名無史さん2016/08/27(土) 19:18:14.04
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

958日本@名無史さん2016/10/26(水) 00:06:21.24
低能ばかり

959日本@名無史さん2016/10/28(金) 20:19:37.65
江戸時代が舞台の時代劇で公家は狩衣を日常的に着てるけど、
公家の日常着は武家の羽織袴とはちがったの?

960日本@名無史さん2016/10/29(土) 00:27:52.05
>>959
日記や絵巻などをみる限り、ハレの日以外の日常は白小袖に指貫で烏帽子なしとか
普通に羽織袴とか肩衣とかだね。

961日本@名無史さん2016/11/22(火) 15:49:07.93
先生方
中世以前の公家の家格について勉強するための文献があったら教えて下さい!

962日本@名無史さん2016/11/22(火) 21:51:58.62
明治維新頃の写真だと皇族や公家でも烏帽子なしの羽織袴が普段着っぽいな。

963日本@名無史さん2017/02/04(土) 16:35:00.12
!id:ignore

黒田家は将軍家と兄弟

964日本@名無史さん2018/01/03(水) 23:43:48.88
>>775
中山家が准大臣に三代続けてなってたかな?

965日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:16:18.85
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

TD2Z4

966日本@名無史さん2018/03/01(木) 13:11:14.51
>>250
正親町の家格が分家の三条西より下か同程度か

967日本@名無史さん2018/03/13(火) 22:53:54.32
正親町三條と正親町を混同する低能

968日本@名無史さん2018/05/30(水) 19:46:06.10
旗本高家の家格は?

969日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:26:34.18
>>33
ブサヨw

970日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:26:58.62
>>34
お前らを売国ブサヨ呼ばわりに賛成ですw

971日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:29:44.11
>>73
お前がな

972日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:30:12.58
>>74
お前がな

973日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:31:28.16
>>94
バーカ

974日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:32:52.15
>>107
てめーも馬鹿???

975日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:33:18.80
>>112
お前は血筋が卑しいね

976日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:33:59.61
>>115
あらら、シナチョン血混じりの低劣種の中卒工作員がどうした?

977日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:34:22.68
>>117
お前を筆頭にな

978日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:35:11.36
>>121
あぁお前のことか

979日本@名無史さん2018/05/31(木) 10:35:41.91
>>125
卑しいのはお前だろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

980日本@名無史さん2018/07/07(土) 18:01:31.68
46 日本@名無史さん[sage] 2018/07/06(金) 13:32:49.85 ID:
江戸時代中期の古書にうちの苗字の公家がいたことが判明したんだが
だからって俺の中に公家の遺伝子が流れてることにはならんよな?

47 日本@名無史さん[sage] 2018/07/07(土) 01:36:07.67 ID:
>>46
あまり見ない苗字なら血統の可能性が高い
よく見る苗字なら血統でない場合のが多い

981日本@名無史さん2018/07/12(木) 13:50:05.88
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

28K

982日本@名無史さん2018/07/21(土) 21:30:12.59
>>980
50 日本@名無史さん[sage] 2018/07/21(土) 21:29:43.83 ID:
>>46
南朝に仕えてた公家なら記録は抹消されてるよ、たぶん

983日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:10:33.88
>>2

あー、そうなのか

984日本@名無史さん2019/04/01(月) 12:07:57.75
人生最後の年号・昭和に生き令和に死す男たちのスレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/cafe50/1554087748/

985日本@名無史さん2019/04/14(日) 17:00:45.70
69 日本@名無史さん[sage] 2019/04/13(土) 13:26:02.61 ID:
先祖に公家がいるかもしれん
当時の公家は悪い事してたんかな
うちの家系は途絶えるんだが
なんかの呪いかな

986日本@名無史さん2019/05/15(水) 20:08:26.54
旗本最高位は榊原じゃね

987日本@名無史さん2019/05/16(木) 12:07:47.43
南朝の公家なんぞ百済来た朝鮮人だろ
北朝のことは知らんけど

新着レスの表示
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
レスを投稿する