【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】

1日本@名無史さん2012/03/08(木) 01:09:47.65
大河スレが、王家の話で持ちきりなので
この時期に関する話題を話すスレとして建てました。

2日本@名無史さん2012/03/09(金) 01:15:54.66
 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 (    ) パンツ脱いで待ってる 
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 /     ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄   ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .|   | | 藤原信頼
||\..∧_∧             (⌒\|__./ ./
||.  (    )             ~\_____ノ|  ∧_∧
  /    ヽ骨は拾ってやるよ  .     \|  (    ) 
  |     ヽ                   \/     ヽ. 負けたら絶交な
  |    |ヽ、二⌒)               / .|後鳥羽| |
  .|    ヽ \∧_∧           (⌒\|__. / /
  藤原隆家

3日本@名無史さん2012/03/10(土) 16:04:38.61
保元の乱もし崇徳上皇側が勝利していたらどうなっていたんだろうか?
少なくとも後白河法皇を四国に追い出すマネはしないと思うから
日本を今後数百年呪縛する呪いは発生しないと思うのだが

4日本@名無史さん2012/03/10(土) 16:59:17.97
藤原頼長が武士の台頭を許さないから貴族政治の時代がもっと続いた。

5日本@名無史さん2012/03/11(日) 20:22:06.08
もし佐藤義清が出家しなかったら崇徳側に加わったのだろうか?

6日本@名無史さん2012/03/12(月) 02:48:32.26
だろうな、としかいえないね。墓参りも後日しているしさ

7日本@名無史さん2012/03/12(月) 05:24:24.14
天皇は誰が即位したかな?
武士は脳筋しか残って無いから、頼長中心の政治かもね。
でも治安悪そう

8日本@名無史さん2012/03/12(月) 08:54:48.90
そりゃ重ちゃん即位で崇徳上皇の院政開始できまりでしょ。

9日本@名無史さん2012/03/12(月) 10:08:17.29
このスレは前スレより格段に頭の弱い奴があつまっているんだな 家系図や史実を検証していたみんなどこいったんだ

10日本@名無史さん2012/03/12(月) 23:22:30.28
前スレなんてあったのか?1には何も書いて無いけど。

11日本@名無史さん2012/03/13(火) 01:42:16.03
為朝さんが勝った場合戦後どう動くかだね。
頼長とは対立しそうな気はする。

美福門院得子は島流しだろうから、
宮中の女性関係も大幅に変わりそう、

12日本@名無史さん2012/03/13(火) 09:10:54.47
鎮西八郎がなにをするってんだ?

13日本@名無史さん2012/03/13(火) 14:18:52.23
都で大暴れ。西遊記の天上編みたいな感じ。

14日本@名無史さん2012/03/13(火) 20:16:14.52
後、美福門院が権勢を失うことはかなり重要かも

後白河法皇が鳥羽上皇ほど権勢を手にすることができなかった理由に
美福門院が鳥羽上皇から上皇の所領する王家荘園のかなりの部分を受け継いでいて
天皇の実子である後白河法皇がそれに手を付けることができなかったためだし

崇徳上皇側が勝てば彼女が持つ鳥羽院領と美福門院領を奪うことができたから
後の南北朝まで影響を与える王家荘園の分離が起きなかった事になる。

15日本@名無史さん2012/03/14(水) 06:05:29.15
頼長は生きてたらどうなってた?
処刑?

16日本@名無史さん2012/03/14(水) 08:49:01.12
王家荘園

17日本@名無史さん2012/03/17(土) 00:47:45.36
>>9
>前スレ…家系図や史実を検証
くわしく

保元・平治物語に出てる地方武士がうらやましい

18日本@名無史さん2012/03/20(火) 18:04:27.38
>>15
更に台記のホモ記述が充実してたろうなw

19日本@名無史さん2012/03/24(土) 22:11:33.82
ユリとバラの摂関家姉弟

まともなのは忠通様だけね。

20日本@名無史さん2012/03/30(金) 19:32:44.90
>>19
当時マトモな性癖な摂関家や皇族居たのかよw

21日本@名無史さん2012/03/30(金) 19:50:45.16
そもそも当時ああ言う性癖はまともの範囲だ。

22日本@名無史さん2012/03/30(金) 19:53:19.93
>>21
藤原頼長はハードゲイプレイもできるタイプだからなぁ
ノンケ掘ったりするし

23日本@名無史さん2012/04/04(水) 00:51:34.39
熱田大宮司季範は京都の貴族だっつーけどさ
季範の父親って三河四郎大夫で官歴なくない?
季範本人の額田冠者も京の貴族らしからぬ号でね?
なんか「陸奥話記」の藤原範季からゲロの臭いがぷんぷんすんだけど

24日本@名無史さん2012/04/09(月) 13:45:32.29
昨日、大河見て思ったけど家盛が生きていたらどうなっていたでしょうか?
平家も分裂ですよね。

25日本@名無史さん2012/04/10(火) 21:34:16.36
>>24
家盛、頼盛は崇徳上皇方だっただろうね。少なくとも頼盛という不平分子が
いなかった分、平家はさらに安定していただろう。

26日本@名無史さん2012/04/15(日) 19:04:57.46
堀河がもう少し生きていたらどうなっていたか?

27日本@名無史さん2012/04/16(月) 05:15:07.87
忠盛が生きていたらどうなっていたでしょうか?
忠盛も来週で最後やね。
忠盛がいたからこの大河も締まったけどこれからどうなるの?

28日本@名無史さん2012/04/16(月) 18:04:44.31
>>19
忠通がまともだったかもわからない
忠通は日記も残せない無能だったために変な性癖が後世に残らなかっただけかも・・・
(弟の頼長のほうが学才はあったしね)
藤原泰子(姉)・・・無類の潔癖症で男嫌い。夫鳥羽上皇とのセックス拒否。
藤原頼長(弟)・・・有名な両刀使い。男との枕シーンを日記に書き記す。

29日本@名無史さん2012/04/16(月) 18:22:17.91
>>27
前回は忠盛が常軌を逸していたがね。
前々回あたりから存在感がうすくなってるというか、今まで無理してきた分、感情が理性で抑えられなくなってきてる。
なかなかよい演出だと思うが。

30日本@名無史さん2012/04/16(月) 18:50:40.17
>>3
そもそも崇徳上皇が勝つという設定があり得ないのでは?
保元の乱は信西が頼長や崇徳上皇を計画的にハメた陰謀だから、崇徳上皇側は訳わからない間に敗者になってたわけで。

31日本@名無史さん2012/04/17(火) 00:25:02.45
為朝の夜討ちが成功していたら?

32日本@名無史さん2012/04/17(火) 17:58:15.01
>>30
崇徳天皇に政治への野望がなかったかどうかは分からないよ
重仁親王の立太子にあれほど賭けていたのだから父鳥羽上皇さえ死ねば
無能な弟後白河に代わって自分が治天の君に担がれたい期待は多少はあったろう
結果として後白河が勝ち崇徳が負けたという事実だけがある

33日本@名無史さん2012/04/17(火) 19:37:42.58
>>31
「夜討ちの成功」とはこの場合、後白河天皇の身柄確保か信西の逮捕又は殺害だが、多分それができる程の兵力がなかったのだろう。
上皇方は天皇方の夜討ちで警戒していたにもかかわらず防戦できなかったことから寡兵なのがわかる。
だからこそ頼長は南都からの僧兵の到着をまっていた。

為朝は小戦闘では勝利するだろうが戦略的な勝利はおさめられないだろうと頼長は踏んで夜討ち拒絶したのだろうし、
その判断は妥当だと思う。

34日本@名無史さん2012/04/17(火) 20:37:21.43
確かにあれは後白河が「はめ」たのだろうね。清盛も忠正、家弘など
反清盛派を上皇と共に葬ったが、頼盛も一緒に葬れなかったのは
痛恨だっただろう。家盛が生きていれば、間違いなく頼盛ごと葬れた
だろうが、家盛が死んでいたので頼盛にも選択肢があった。

35日本@名無史さん2012/04/17(火) 21:20:47.39
平安時代は(織田信長のちょっと前までそうだけど)主力は知行地に置いてあるから、
首都で戦闘する場合は準備のいい方が勝つ。
そういう意味で上皇側は乱を起こすには準備悪すぎるし、天皇側は逆に良すぎる。

36日本@名無史さん2012/04/17(火) 21:39:06.32
>>28
なんか頼長贔屓が増えたせいか忠通が無能扱いされるのをよく見かけるな

37日本@名無史さん2012/04/18(水) 00:33:18.20
あの異母弟にとりあえず勝ってるし
無能なわけがないと結構マジで思う

38日本@名無史さん2012/04/18(水) 07:15:04.01
つーか総合点では明らかに兄が上

39日本@名無史さん2012/04/18(水) 10:07:06.43
>>36
あのまま忠通に男子が生まれず頼長が摂関を継いでいたら
頼長もそれなりに功績が残せただろ
結果的に忠通の運が強く頼長死亡
忠通は念願かなって晩年に作った息子を摂関の座に据えることができた
忠通の子慈円は「愚管抄」で父賛美
これが一次史料とされているため忠通有能説が出る

40日本@名無史さん2012/04/19(木) 21:58:51.32
>>39
『保元物語』で相当ディスられている部類だろ?>忠通

41日本@名無史さん2012/04/21(土) 00:17:41.67
性格に問題があって〜とか書いているのも慈円だが
よく言われる日本一の大学生、とか書いてるのも慈円じゃなかったか
親父と対立はしたが一応叔父だし
褒めれる所は褒めとくか、みたいな

42日本@名無史さん2012/04/22(日) 17:22:42.05
>>41
>コノ頼長ノ公。日本第一大学生。和漢ノ才ニトミテ。ハラアシク
>ヨロヅニキハドキ人ナリケルガ。

慈円は頼長を、和漢の才能こそあったが、腹黒く、やることすべてが危うい人であった
(とても摂関の器ではなかった)と大批判してるよ。
忠通は「カレ(頼長)君ノ御ウシロミニナリ候テハ天下ノ損ジ候ヌベシ」と主張、
とにかく頼長が父忠通と対立する摂関候補であったことが許せなかった様子。

43日本@名無史さん2012/04/22(日) 22:49:15.57
>>42
なるほどね

人物評はどこまで信じていいのか難しい

44日本@名無史さん2012/04/23(月) 06:50:03.57
対立した兄貴の子が書いた文書で悪口部分が全面的には信用できないという話は理解できるが
日本一の大学生、の部分だけを抜きとって利用されているのはどうなんだろう
よくわかんね

45日本@名無史さん2012/04/23(月) 09:48:06.62
批判される部分は両者の立場やら何やらあるから慎重に考えるが、
肯定してあるところはだいたいそのまま受け取られることが多くないか?
褒めてるのが対立したりする方ならなおさら

46日本@名無史さん2012/04/23(月) 11:29:10.84
慈円は頼長と、直接話したことはないだろう。
ならば、
「日本一の大学生」てのは、慈円による頼長の評価ではなく、
「なんとなく、皆がそう言ってた」という程度のこと。

47日本@名無史さん2012/04/23(月) 12:11:13.97
慈円自身が対立したわけではないしなー
なんだかんだで身内だし
まあ人物の肯定的評価はよっぽど大袈裟なものでない限り受け入れる派だけど

48日本@名無史さん2012/04/23(月) 21:29:04.26
異母兄や甥をディスった時の酷さに比べれば、頼長はまだ好意的に書いているぞ>慈円

49日本@名無史さん2012/04/24(火) 02:34:26.26
甥って誰よ。近衛基通?

50日本@名無史さん2012/04/24(火) 07:34:49.25
>>49
うん、近衛親子

51日本@名無史さん2012/04/24(火) 07:46:16.72
慈円が自分が12歳の時に死んだ異母兄(近衛基実)を「無能」呼ばわりするのは、良く考えてみればドン引きもの。

52日本@名無史さん2012/04/24(火) 15:26:54.03
>>48
会ったこともない叔父藤原頼長のことより、慈円が実際に対立した異母兄たちのほうが
書く際に熱が入るのは当たり前。
>>51
慈円には多くの異母兄たちがいたが、共に育った同母兄九条兼実と特に親しく、常に九条家に出入り。
兼実の子九条良経は慈円の和歌の弟子であり、九条家は大いに慈円の活動を援助していた。
良経早世後、慈円は道家や立子といった良経の遺児たちの後見を積極的にみている。
何が言いたいのかというと、慈円は同母兄の系統九条家の身内同然だったということ。
九条家が嫡流であることを世に知らしめたく、異母兄たちを貶めた。
承久の乱の際にも、九条家を外戚とする仲恭天皇の即位により天下はめでたく泰平になろうとしているので
乱を起こすべきではないと後鳥羽院に相対する内容のことを愚管抄で書いているのは有名。

53日本@名無史さん2012/04/24(火) 21:32:48.10
>>51
じゃあ何百年も前の歴史上の人物をにわか知識で無能無能と散々にけなす一部の歴オタたちは・・・・・もっとすごいな

54日本@名無史さん2012/04/24(火) 22:11:21.71
>>53
(俺も含めて)当然だ。

55日本@名無史さん2012/04/24(火) 23:18:33.92
熱狂的かつ偏執的なな芸能人やスポーツ選手のオタよりやってることえげつないかもな歴オタw

56日本@名無史さん2012/04/24(火) 23:34:18.74
死人に口なし
弁明もできないし
一方的に叩いてなぜか優越感を味わえる
正直祟られても文句言えねえ

57日本@名無史さん2012/04/25(水) 14:45:24.84
よくわからないことがあるから教えて下さい。

平時の乱って25日に二条天皇が六波羅行幸した段階で既に勝負は決まっていたのに
大儀も無くし、戦力に乏しく、敗色濃厚を悟った身内の裏切りにもあい、
勝算が限りなく無いに等しい義朝があえて六波羅に突撃したのは何か理由があるのでしょうか?

あの段階で東国に落ち延びていればあんな無様な最期も迎えず
いつの日にか再起を期す日も来ただろうに・・・と思うのですが。

58日本@名無史さん2012/04/25(水) 17:03:56.82
>>57
平治物語では、義平が、
天皇は六波羅へ上皇は仁和寺に逃げたと報告するのに対して、
義朝は、
「とはいえ源氏のならいとして、心変りはもってのほかだ。」
と答えてる。臨機応変の対応ができない人だったのだろうか?(w

59日本@名無史さん2012/04/25(水) 17:12:17.73
>>58
軍記物は所詮物語だから。
義朝は保元の乱で一族のめぼしいところを斬られてしまった。
中央政界に源氏は自分しかいないんだから、落ちて再起は
無理だと踏んだと思う。

60日本@名無史さん2012/04/25(水) 18:13:04.79
>>57
あの時点ですでに東国までは逃げ切れないと思ったんじゃないかな。
逃げるなら最後に派手に戦ってからにしようと思ったとか。
やっぱり逃げ切れずにつかまり晒し首になったが。

61日本@名無史さん2012/04/25(水) 21:42:04.39
>>57
義朝は戦略判断が決して優れていたとはいえない。

62日本@名無史さん2012/04/25(水) 23:23:25.15
義朝は保元で一族を失い過ぎたからね。保元で心ならず敵味方に分かれてしまった
からね。

一族の不平分子を悉く上皇方につくよう仕向け、にも関わらず頼盛の処分に失敗した
清盛とは逆の意味で対象的。

63日本@名無史さん2012/04/26(木) 14:34:04.14
>>57
六波羅奇襲して天皇を奪い返そうとして失敗したのでは?
普通、そう考えると思うが。

>>62
そこまで清盛と頼盛とは仲悪くないだろう?
清盛死後に平家は池殿と小松家と宗家とに分裂するが、そこまでは清盛のあづかり知らぬこと。

64日本@名無史さん2012/04/26(木) 21:06:32.78
>>63
頼盛の立場は重盛と同じく、院近臣としての立場を重視するものだったから、
清盛と後白河の対立が無ければ、このまま平穏に行ったんじゃないの?

65日本@名無史さん2012/04/27(金) 08:01:43.70
清盛と頼盛って極めつけに仲が悪いよ。理由だが、清盛が側室の長男
なのに対し、家盛、頼盛は正室の弟だからね(このパターンで御家騒動
が起きるのは黄金パターン)。家盛は既に死んでいたから、清盛の敵対
勢力は頼盛、忠正、家弘だった。清盛はこの3者を結びつけ、上皇とともに
葬ろうとしたが、頼盛が載らなかったので、結局不平分子として残った。

ちなみに、池禅尼の嘆願で頼朝を助けることも、絶対にあり得ない。不仲
の義母の言うことなど、聞く必要など欠片もない。単に義朝が大した役割
ではなく、頼朝が死罪に値しなかったという理由だろう。

66日本@名無史さん2012/04/27(金) 11:31:47.31
>>65
頼朝の流罪を決定したのは、朝廷

助命するだけでなく、よりよって亡父の勢力圏の近くにさりげなく置いておく(w

67日本@名無史さん2012/04/27(金) 14:23:23.00
確かに言える。何故よりによって東国に流した?

68日本@名無史さん2012/04/27(金) 15:28:51.73
朝廷が何かの時に役立つと踏んであえて力を温存させてたとか?
義朝が何かの時にお役にたつので子孫の息の根をとめないでくれと朝廷に頼んだとか・・・
以仁王の令旨など最たるもの。
源氏が瀕死の状態だったのならば令旨出しても誰も来てくれない。

69日本@名無史さん2012/04/27(金) 15:30:33.96
>>65
清盛は正室腹。
勿論、宗子(後室)の腹ではないが。
清盛の母かと思われる人物が清盛2歳の時に没しているが
「中右記」忠盛の「室」と書いてあって側室では無かった。
側室ならば妾と書く。

70日本@名無史さん2012/04/28(土) 14:01:05.06
明日からミキプルーンが出ない
大丈夫?

71日本@名無史さん2012/04/28(土) 23:06:38.41
むしろ陰気な貴一がいないほうがマシだろ
貴一の死ぬ貴一メインの回で視聴率11.3%だったわけで
初回はいつもいい大河が最初の回から視聴率が低かったのも貴一メインだったからだろ


72日本@名無史さん2012/04/28(土) 23:54:51.74
って言うか、保元の乱以前の時代って普通に関心が低いだろ?


73日本@名無史さん2012/04/29(日) 06:56:47.42
一般に前期院政と呼ばれる白河鳥羽院政だけど、
今回ドラマを見ただけでも、白河院と鳥羽院の
政治手腕の差が理解できた。政治手腕は圧倒的に
白河の方が上。個人的には前期院政で後白河か
後鳥羽を見てみたかった。

74日本@名無史さん2012/04/29(日) 15:40:05.51
ドラマは平家一族の団欒が糞つまらない
辛気臭いし。忠盛も宗子も暗い。

75日本@名無史さん2012/05/01(火) 17:58:17.52
為朝がどのように描かれるか楽しみ。義賢の頼長のホモ相手ってのが出てこんかった。

76日本@名無史さん2012/05/01(火) 22:39:59.13
藤原信頼の後白河のホモ相手ってのが出てくるかどうかが楽しみ。

77日本@名無史さん2012/05/02(水) 11:01:39.65
>67
伊豆は平時忠の知行国で、地勢的には国が小さくて海に囲まれた土地なので、そういう意味では監視しやすいと考えたのかも。
あと西国にはこの頃保元の乱の関係者が配流されていた(讃岐に崇徳院、土佐に藤原師長)のと、頼朝にとって叔父に当たる
源為朝が九州で合戦を繰り返してた過去があることを考慮したのかも。

78日本@名無史さん2012/05/02(水) 11:50:33.76
>>77
平時忠は監視者として信頼に足りる男だろうか?

頼朝は、義朝の嫡男であり、平治の乱にも実際に参戦していた。
決して、甘く扱うべき者ではなかったはずだ。

弟の希義が土佐なら、頼朝は佐渡とか隠岐あたりが適当ではなかっただろうか?
しかし、いずれにしても配流先を決めたのは、清盛じゃなくて朝廷でしょう。

79日本@名無史さん2012/05/02(水) 14:14:33.46
監視し易いにしては北条の娘に伊東の娘と好き放題してるじゃね。

80日本@名無史さん2012/05/02(水) 14:29:07.47
頼朝配流の地が「蛭ヶ小島」という名前だったから、
絶海の孤島+蛭の這う地のように見えて、清盛も油断したのだと思う。
実際は川の中州の地に過ぎなかったらしい。

81日本@名無史さん2012/05/03(木) 04:39:55.25
>>62
義朝と義賢は異母兄弟。
・父親の為義は「六条判官」とよばれ、義賢の母の六条の邸宅(里)を本拠地にしていた。
(義朝の母とは死別か?義朝と同腹の兄弟は居ない)
・義賢は義朝の庶長子、義平に討たれている。
・為義の子のうち、義朝に荷担したものはいない。
とすると、義朝は仕方なく、為義と対立したとは思えないのだが。
義朝が嫡子扱いだったのかも怪しい。

82日本@名無史さん2012/05/03(木) 14:46:45.61
>>81
勝てば官軍なんだろうね。
勝った奴の子孫が嫡流ってことになっちゃうのかな。

83日本@名無史さん2012/05/03(木) 14:53:19.63
為義が棟梁だったのかどうか自体疑われている。幕府を開いた頼朝が嫡流である事になるように、
遡って棟梁だった事にされていると。

『源義親の四男として生まれる。 『尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、
祖父・源義家は四男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。』
何故義忠の実子が継嗣じゃないのか?変な話である。

84日本@名無史さん2012/05/03(木) 16:53:39.83
>>83
>孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。

義家は、為義を引きとって育てていたらしい。溺愛で目がくらんでいたのでは?

また、義忠が暗殺されたとき、嫡男の経国がまだ幼かったからだとも考えられる。

85日本@名無史さん2012/05/03(木) 17:21:32.50
>>84
wikipediaによると義家が死んだのは1106年で義忠は1109年。
そもそも義忠を暗殺したのは義家の弟の義光で、義家亡き後の実権を握るのが目的だ。
尊卑分脈の記事を信じるならば義家が為義を継嗣と定めたのは義忠の暗殺より前で
経国の立場を考えない不自然な行為。
義忠暗殺の時点で経国が幼少故に為義が実力で奪ったならあり得る。

86日本@名無史さん2012/05/03(木) 20:22:03.01
為義の「為」って誰からもらったの?
偉い人?

87日本@名無史さん2012/05/03(木) 22:54:39.32
それも不思議。兄弟は義信、義俊、義泰、為義、義行、宗清で為義と宗清だけ仲間外れ。保元の乱/
平治の乱も他の兄弟は為義と行動を共にしていない。
『角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・
対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だった
のではないかと推測している』という話も有る。

88日本@名無史さん2012/05/03(木) 23:39:52.49
子供の頃は義光って官位を投げうって義家の元に駆けつけたり
笙の秘曲の話なんかのイメージだったけど
ネットで調べてビックリした。
まあ源氏は腕力で平家は財力で一族を束ねたって事やね。

89日本@名無史さん2012/05/04(金) 01:08:32.80
源義忠が源義光から暗殺されたのは、財産家の伊勢平氏の正盛の婿になって、頼義流の源氏のなかで、抜きん出るのを阻止するためだろう。
で、義光の弟の義綱一族は、特に朝廷での失点もせず、受領、警護役で栄達しており義光には邪魔だった。だから濡れ衣着せて為義に捕縛、処罰させて漁夫の利を得ようとしたのかなと想像。

90日本@名無史さん2012/05/04(金) 01:15:56.75
>>88
義光が後三年の役で義家のもとに駆けつけたのは、兄に恩賞が集中するのを嫌って、我も我もと駆けつけたとしか思えない。
史料によれば、義家生存中も、三兄弟は(特に義家と義綱)、家人同士の争いから、京中で合戦になりそうになるほど仲が悪かった。

義綱が義忠暗殺の首謀者と見られた下地は、それ以前からあったようだし。

91日本@名無史さん2012/05/04(金) 11:46:49.50
>>85>>87を総合すると、こういうことじゃないかな?
経国が成人後に義忠が死んだのなら、嫡男の経国が家督を継げたはずだ。
しかし義忠死亡時に、幼かった(たぶん10歳未満?)のではずされた。
それで、もとの義家の嫡男の義親の子に戻すとすると誰が適当か?
義親の嫡男の義信は、(為義が14だとすると)明らかに20を越えていてどこから見ても後継にふさわしい。
なぜ彼が家督を継げなかったのか?
そのとき、京都にいなかったのかもしれないが、それよりも、義光にとって都合が悪かったと考えられる。
一人前の大人の義信だと、源氏の実権を奪えない。
そこで、ちょっと頭の悪そうな為義を立て、義綱を討伐させる。
朝廷から為義に官位が与えられて、源氏の後継として確定したあたりで、
義光は、義忠暗殺野の犯行がばれて東国へ逃亡。
その後、義家の遺言の話が後付ででっちあげられた。

92日本@名無史さん2012/05/07(月) 00:24:03.47
1084年 義忠生まれる(母は藤原有綱女)
1091年 義国生まれる(母は藤原有綱女)
1096年 為義生まれる(母は藤原有綱女?)
1102年 義親配流される
1106年 義家没す
1108年 義親討たれる(子に対馬太郎義信・対馬次郎義俊・対馬三郎義泰・陸奥四郎為義・宗清・対馬四郎義行)
1109年 義忠討たれる(子に河内源太経国・義高・飯富源太忠宗・義清・義雄)
1109年 義明ら為義に討たれる
1114年 為義・義国が相論

93日本@名無史さん2012/05/07(月) 00:39:35.18
26歳で没した義忠は右兵衛権佐で前?河内守ということになるが
遅くとも22,3で受領に任ぜられているというのは中々だよねえ
また、同母の義国の極官が加賀介だと、義忠・義国の兄弟順は尊卑分脈の没年齢で正しそうだ

94日本@名無史さん2012/05/07(月) 01:42:39.59
対馬四郎義行が義親の四男だと思うのだけど
為義はちょっと違和感ある

95日本@名無史さん2012/05/07(月) 01:43:16.21
>>92
その3人が同じ母親ってことは、
義親、まさか父親の女に手を出して、為義を種付けしたのか?www

>1114年 為義・義国が相論
何を論じ合ったのかな?

96日本@名無史さん2012/05/08(火) 00:24:06.50
>>95
上野で国司に濫妨を訴えられた家綱という武士について
為義・義国双方が自分の郎党じゃないと責任逃れした

頼朝って義朝の嫡男なの?
義朝って為義の嫡男なの?
為義って義親の男子なの?
義国って義家の三男なの?っていう

97日本@名無史さん2012/05/08(火) 15:13:28.58
この間の為朝は個人的には好感が持てた。
短い期間だけど楽しみにしている。
義平も同じく。
二人とも保元平治の主人公なのに今までみたいに
ちょい役じゃあ寂しい
短い間だけど楽しみにしている。

98日本@名無史さん2012/05/08(火) 19:17:33.28
さすがに主人公じゃないと思う

99日本@名無史さん2012/05/08(火) 22:26:38.14
スターではあるけど、話を動かす役ではないな

100日本@名無史さん2012/05/08(火) 22:54:07.10
ただの鉄砲玉かと

101日本@名無史さん2012/05/09(水) 11:48:37.48
97です書き方が悪かったです。二人とも脳筋ですから
ただ合戦では目立ってましたから格好よく演出して欲しい

102日本@名無史さん2012/05/09(水) 13:23:07.71
>>101
その二人は、15〜18歳くらいの若さで活躍し、
花が散るように滅亡していったことが、人気の秘訣だと思う。

ドラマでは、無名でもいいフレッシュな若手の起用を期待していたが、45歳と聞いてがっくりしている。

103日本@名無史さん2012/05/09(水) 14:28:08.01
>>102
源為朝は保元の乱後も生き残っているがな

104日本@名無史さん2012/05/09(水) 14:47:17.76
>>103
他は斬首なのに一番危ないのが島流しってのもどうなのか。

>>102
迫力は感じたけど10代か、せめて二十歳前後くらいにして欲しかった。

105日本@名無史さん2012/05/09(水) 15:17:21.30
>>104
あの時代は10代って殺されてないな
元服も済み合戦に出て行ってるというのに
今でいう「少年法」みたいなもので守られてたのか?

106日本@名無史さん2012/05/09(水) 16:45:43.13
>>105
一の谷では10代がガンガン死ぬのが見どころというか泣かせどころになってるじゃないか

107日本@名無史さん2012/05/09(水) 16:50:07.55
為朝の弟の為仲は殺されてるね当時15歳かな

108日本@名無史さん2012/05/09(水) 16:50:25.08
>>106
戦闘中に殺すのは正当防衛だろ。
六代が斬られたあたりから武家の男子は幼くても
助命されないようになったが。

109日本@名無史さん2012/05/09(水) 17:00:35.45
>>108
全ては九郎義経のせいです。あいつさえ大人しくしていれば、
後の世の結城の遺児も助かったはず。

110日本@名無史さん2012/05/09(水) 17:31:53.04
>>104
為朝は戦闘にも参加し、大勢殺傷しているのに、島流し

為義の末子4兄弟、鶴若、亀若らは10歳になるかならずで、戦闘にも参加してないのに死罪

保元の戦後処理は不条理が目立つ

111日本@名無史さん2012/05/09(水) 17:39:40.83
>>110
義朝が自分が嫡子になるために兄弟甥たちを残らず処分しようとしたが
為朝だけは評判が高かったために院が許さなかったんだろ
源氏内部の闘争に近い

112日本@名無史さん2012/05/09(水) 21:01:36.72
>>111
それはぜんぜん違う。
為義は、保元の戦いの前に、義朝を嫡男に戻し、源家重代の鎧や太刀を送っている。
義朝は、実際に父や弟たちの助命嘆願に奔走したと記録にも残ってる。
天皇家、摂関家は兄弟間の権力争奪の争いだったが、
源氏は、たまたま双方の陣営の主と主従関係を結んでいて、浮世のしがらみで分かれて戦っただけ。

113日本@名無史さん2012/05/10(木) 01:42:35.52
源氏の内紛は事実だろうが、
皇室や摂関家まで巻き込んだ戦いでしかも穢を気にする京都市中の戦いだけに、武士の処分も流罪くらいまでだと思っていたんじゃないか?>義朝

114日本@名無史さん2012/05/10(木) 14:36:31.36
>>112
保元物語は平清盛悪、源義朝善で書かれてるからなあ。
身内をさっさと殺して為義も斬ってしまおうとする清盛に対して、
たとえ敵とはいえ父弟を助けようとする義朝。
平家悪の精神は平家物語にも受け継がれているが。

一次史料では確認できない。

115日本@名無史さん2012/05/12(土) 00:23:42.64
『吾妻鏡』は朝長の母を波多野義経叔母としているけど
『尊卑分脈』が朝長の外祖父としている修理大夫範兼、又は大膳大夫則兼って誰?

116日本@名無史さん2012/05/12(土) 08:07:43.34
>>114
平氏の場合は清盛が保元の乱で最初から不平分子(池禅尼、頼盛、忠正、
家弘)を除く気でいた。清盛が後白河方についたのも、不仲な池禅尼が重仁
親王の乳母で、頼盛が上皇方につかざるを得ない点まで計算してのこと。
ところが池禅尼が上皇方の敗北を予想し、その意向で頼盛が後白河方に
つくというあり得ないサプライズをやらかし、頼盛を除く機会をフイにした。

義朝は敵味方こそ分かれたが、清盛のように、明確に池禅尼、頼盛、忠正、
家弘の系譜を根絶やしにしようとした意思はなかった。

117日本@名無史さん2012/05/12(土) 08:12:05.50
清盛と義朝は、弟たちに気を使っていたかどうかも違う。清盛は池禅尼、
家盛、頼盛を孤立させるために、他の弟に気を使って、弟たちは全部計算
通り後白河方についた。頼盛まで後白河方についたのは計算外だったが。

義朝は、弟に気を使わなかったので、全部敵方にしてしまったのも興味深い。

118日本@名無史さん2012/05/12(土) 08:43:25.76
>>117
義朝は正直言ってあんまり頭が良くなかったんだと思う
平治の乱まで一貫して後手後手で軍事的優位を全部ふいにした。
失敗したとはいえ戦略的には為義の方がまだ上だった。

119日本@名無史さん2012/05/12(土) 11:32:21.23
>>118
義朝は、坂東武士団を服属させるだけでなく、
足利、新田、佐竹などの独立系源氏と同盟を結び自己の傘下に入れている。
その手腕はなかなかのものだと思う。
たしかに、平治の乱では、信頼との繋がりを最後まで断ち切ることが出来なかった点に弱みが露呈している。

けど、軍事的優位は常に清盛が握っていたと思うが?
それと、為義が戦略的に優れてるって、どんな点が?

120日本@名無史さん2012/05/12(土) 17:25:33.44
>>116 >>117
だから、それが一次史料で確認できないんだよ。
清盛が池禅尼と異母弟たちを排除しようとしていたのならば、
なぜ平氏全盛期池禅尼を清盛たちが住む六波羅の平氏政権中心部に住まわせて影響力を温存し、
池禅尼の意見で頼朝助命までする?
それこそ政権を取った暁には異母弟たちを流罪にして池禅尼を洛中追放することも可能だったのに。
保元物語は平家を悪にするために家族を切り殺す残酷な清盛、
家族重いな義朝を際立たせて描いたと思っている。
実際に内部抗争が酷かったのは源氏。

121日本@名無史さん2012/05/12(土) 17:33:50.63
>>116
池禅尼は重仁親王の乳母だから頼盛は崇徳側につくというのも違うだろう。
そもそも、池禅尼は藤原家成のいとこ。
家成は美福門院のいとこでその側近として活躍していたため、
池禅尼も鳥羽院亡き後の政に深くかかわった美福門院と意思疎通をすることは可能であった。
美福門院が推していたのは後白河の皇子である後の二条天皇だったのだから。
ちなみに平清盛・時子もまた二条天皇の乳父・乳母であったにもかかわらず必ずしも二条天皇に味方してない。
ちなみに家盛は保元の乱の前に死んでいる。

122日本@名無史さん2012/05/12(土) 18:36:37.27
>>119
戦略云々って言うのは、対中央政治に関する話なのだが。
保元の乱では最大の目的だった崇徳院と藤原頼長の捕縛に結局絡めなかったためにマイナス評価。

123日本@名無史さん2012/05/13(日) 10:53:02.12
>>122
為義の対中央政治に関する戦略って、
藤原摂関家の犬として、
盗賊の真似事をすることですか?(www

124日本@名無史さん2012/05/13(日) 21:33:24.79
40年近く前の(新平家)に比べると役者が随分落ちるし配役がおかしい。
ただ時代が変わったのか
教科書みたいじゃなくなって自分としては好感が持てる。
義経絡みじゃないと視聴率は上がらんでしょうね。
個人的には為朝をやって欲しいなぁ〜

125日本@名無史さん2012/05/13(日) 21:38:19.36
為朝といえば、先週の兜姿がなんだかローマ帝国の兵士みたいな感じだったなw

為朝百人長って感じだった^^;

126日本@名無史さん2012/05/13(日) 22:49:08.87
>>124
全体的にもっとベテランの役者を使ってたよな。

127日本@名無史さん2012/05/13(日) 22:54:54.50
為朝に比べたら義平の配役は未だ納得出来たような気がする。
為朝の兜、あれは無いなぁ。

128日本@名無史さん2012/05/14(月) 00:37:59.20
>>119
義朝と佐竹って相馬御厨をめぐって対立していない?

129日本@名無史さん2012/05/14(月) 20:45:59.15
義朝と清盛、役者入れ替えれば良さそうな感じがしてきました。
個人的には以前の新平家に比べて内容も良いと思う。
義平や為朝もわりと長く出そうだし。

130日本@名無史さん2012/05/14(月) 21:23:17.39
為朝はテポドン

131日本@名無史さん2012/05/14(月) 21:56:45.21
清盛はルーピー
重森は管チョクト
胸森は泥鰌

132日本@名無史さん2012/05/15(火) 07:07:13.96
>>124
新平家は主役が40代
ゴッドファーザー的な仕上がりになっている
今回のは清盛の若いころに焦点を当てると言って主役は20代
しかし20代の清盛は特別な功績がないために
王家のごたごたばかりに時間を割いた
保元の乱時点で清盛は39歳だからな

133日本@名無史さん2012/05/15(火) 12:35:33.81
王家って言い方減ったね。

134日本@名無史さん2012/05/15(火) 22:03:34.13
後白河の即位の式典で崇徳が「あなにくし」の和歌を贈ったというのは史実なの?

135日本@名無史さん2012/05/15(火) 23:21:54.67
>>134
史実じゃない
和歌も含めて脚本家の捏造

136日本@名無史さん2012/05/15(火) 23:30:09.29
だが、よく出来てた。

137日本@名無史さん2012/05/15(火) 23:34:37.46
イロハ歌と同じやね。

138日本@名無史さん2012/05/16(水) 01:57:47.44
平家を描くなら絶頂期〜壇ノ浦までに焦点を当てれば
華やかさも泣き所も出せるんだが、大河として主役にできる人物がなかなかいないんだよな
時子なら高齢の女性になるし
宗盛はさすがにイメージが悪すぎるし
徳子は何もしないし

139日本@名無史さん2012/05/16(水) 02:08:52.60
あのいろは唄は創作のなかでもよく出来ていたと珍しく感心した。
あの手の創作って兼続の時だかもそうだったけど大概非常に萎える。
けど専用スレあるからスレタイの話題に繋がらないような
大河の話題は今期の大河専用スレでやろうな

140日本@名無史さん2012/05/16(水) 02:30:00.35
吉田兼好かなんかでこんなのもあった

上5文字 よねたもれ
下5文字 ぜにもほし


返歌
上5文字 よねはなし
下5文字 ぜにすこし

141日本@名無史さん2012/05/16(水) 07:40:36.14
>>138
「義経」をやったときは松坂慶子が時子で壇ノ浦まで
結構長いことやってたな。
20代の松ケンが清盛64歳までやるんだから
別に時子役は高齢じゃなくてもいいんじゃないか。
壇ノ浦時点で時子は60歳。

142日本@名無史さん2012/05/16(水) 08:48:09.32
清盛の子、甥、孫世代は結構一人一人面白いんだが
義経の人気に対抗できるような特に一人こいつ!ってのがいない
重盛が長生きしていたら、維盛に根性があったら、
知盛が戦乱期以前からもっと目立てていたら、重衡が一の谷でとっ捕まらなければ…
色々惜しい人ばかり

143日本@名無史さん2012/05/16(水) 08:56:10.18
重盛の存命中から嫡子は宗盛だったし
重盛ってもう転落してただろ

144日本@名無史さん2012/05/16(水) 09:11:08.75
壇ノ浦での宗盛がもう少し格好良ければ
他の様々な残念エピソードはごまかせても最期が駄目だと主役には難しい
周囲が潔すぎるのもあるが

145日本@名無史さん2012/05/16(水) 09:41:32.79
壇ノ浦での宗盛、むっちゃかっこよかったやん。
水を得たかのごとくにスイスイ泳ぎまくって天下無双の河童ぶり。
流石は平氏の武士。

146日本@名無史さん2012/05/16(水) 10:09:15.50
割と本気で不思議なんだけど、宗盛はいつ水練を習得したんだ
創作かと思えば愚管抄にも書いてあるし
鎧のまま着衣泳ってかなりのレベルだろ

147日本@名無史さん2012/05/16(水) 10:25:28.48
へー、そうなんだ。意外な特技だな。

148日本@名無史さん2012/05/16(水) 11:05:08.23
生け捕ったやつが捏造して吹聴してまわったんじゃない?
おぼれてるやつ捕まえるより、泳ぎまわってるやつ捕まえた方が
格好いいし

149日本@名無史さん2012/05/16(水) 11:50:37.06
源氏といえば馬
平家といえば船
船といえば子供の頃から水練は必須だろうjk

150日本@名無史さん2012/05/16(水) 12:27:01.78
>>149
それシナの「南船北馬」のパクリな。
基本京都住まいの平家の連中がそんな船乗るわけないだろjk

151日本@名無史さん2012/05/16(水) 12:52:17.03
船遊びのお船しか乗ったことがない方々だったでしょうな

そんな平家坊ちゃんの中で唯一強かったという能登殿無双も創作だし
後に平家物語中でそういう役割を与えられるような何かが実際にあったのかもしれないけど
ただ壇ノ浦まで生きてて都合の良いポジションがこの人だけだったとしか思えない

152日本@名無史さん2012/05/16(水) 13:16:07.71
清盛は10年間も安芸国司を勤めて
栄華を極めた後も何度も一門引き連れて厳島神社参拝してるんだから
瀬戸内海を渡る船には乗ったことあるだろ

153日本@名無史さん2012/05/16(水) 13:23:29.18
しかし宗盛がせっせと泳ぎの練習してる姿は想像できない
他の一門も指揮官としての訓練や実践で使える武芸はちゃんと磨いてたんだろうか

154日本@名無史さん2012/05/16(水) 14:20:32.43
皆よく宗盛に付いていったね。
分裂しなかったし暗殺って事もなかったし
ただ人に取り入るのは上手かったみたいだけど。
知盛が一門を率いていたら?

155日本@名無史さん2012/05/17(木) 01:45:02.40
>>143
実質はね
だが、清盛も小松系を完全に切り捨てる腹積もりは出来ていなかったんじゃないかな。多分、死ぬまで。

156日本@名無史さん2012/05/17(木) 08:35:58.69
>>155
清盛が生きている間は子に違いはない重盛を完全に見捨てるつもりはなかっただろうが
あのまま安徳天皇の治世が続いて居ればどのみち小松系失脚は仕方なかったんじゃね?
建礼門院平徳子は従二位平時子の娘で同母兄弟が勢いを増してくるし
たとえ鹿ケ谷の陰謀で義兄をかばって重盛失脚ということがなくても

157日本@名無史さん2012/05/17(木) 09:11:32.53
重盛がアホみたいに成親を庇いまくったのは
もう嫡流が時子腹の宗盛の方に移って来てることを察して
妻の一族の方に寄ろうと考えていたってことでいいの?

158日本@名無史さん2012/05/17(木) 10:48:13.77
宗盛に比べれば重盛の方が優秀じゃあないですか?
清盛も一目置いていた感じがするけど

159日本@名無史さん2012/05/17(木) 10:53:39.28
>>158
嫡庶と個人の能力は関係がない
宗盛は平家滅亡時の平家棟梁だったから叩かれまくってるけど
清盛存命中は目立った失策もなかったんでは?
重盛のことは鹿ケ谷のあたりからは清盛も持て余していた

160日本@名無史さん2012/05/17(木) 11:05:40.27
たしかに、名前は宗盛のほうが嫡子っぽいと思う。

161日本@名無史さん2012/05/17(木) 19:29:11.06
源氏だったらどうなっていた?
跡目争いで義平が大暴れ。

162日本@名無史さん2012/05/17(木) 20:13:01.80
>>157
成親は重盛の描く次の平氏政権像では重要な役割を果たす筈だったんだろう。

163日本@名無史さん2012/05/17(木) 23:18:54.70
吉屋信子の「女人平家」では宗盛は優れた人物として描かれ、重盛は悪辣な人物として描かれている。
当時、宗盛のほうを高く評価する見方はあったのだろうか?

また、平家が窮地に立つことなく、平穏に権力を維持することができていたなら、
宗盛は公卿として高い評価を得て天寿をまっとうしたのだろうか。

164日本@名無史さん2012/05/18(金) 08:14:09.41
>>162
鹿ケ谷があってもなくても重盛は次の平家棟梁になれたかどうか怪しいぞ?
重盛の正室は成親の妹だが、重盛が跡取りとしていた維盛はこの正室の子ではないなど
矛盾も多い。

165日本@名無史さん2012/05/18(金) 08:43:51.03
>>162
反平氏の成親が平氏政権に加わる可能性はなかったと思うが。
それでも重盛が説得すれば平家打倒の志を捨てて、平家を主君として仕えるとでも?
むしろ、157が言うように重盛が藤原氏化していた(成親の一族のようにふるまっていた)
可能性のほうが高いと思うが。

166日本@名無史さん2012/05/18(金) 08:55:49.26
成経を教盛の娘婿にしたのは成親としては何の目的だったんだろう
重盛が失脚した時の保険?

167日本@名無史さん2012/05/18(金) 15:04:34.43
建春門院死亡までは後白河と清盛の仲は順調だったので、
むしろ成親のほうでも平氏政権との癒着を望んでいたのだろう
建春門院死の翌年が鹿ヶ谷なので、ここで成親は平氏ではなく後白河を取った
重盛室が自分の甥の結婚を支援したことも考えられる
維盛の正室も成親の娘だ

168日本@名無史さん2012/05/19(土) 01:11:45.90
>>163
九条兼実いわく「天性大食の人」だそうだけど、平家物語以外でも
宗盛の評価や逸話は、家族関係の話を除けばろくなものがない感がある。
当時の人たちの評価も高いということはないだろうなあ。
武家の棟梁のくせに馬にもまともに乗れないというのはあんまりだよなあ。

>>164
当初は清経(重盛と成親妹の子)が嫡子扱いだったようだけどね。
小松家の場合、家全体で見ると確実に平家一門の主流から外れて行ってるけど、
その中でも嫡子の地位は維盛、資盛、清経の間で移り変わっていたみたいだな。
小松家の場合は成親と近い以上に後白河院とのつながりが深いので、清盛と院が
対立する以上は、どっちにせよ苦しい立場に追い込まれるのは間違いないけれど。

そういえば、とかく成親と重盛の近さがクローズアップされるけど、冷泉隆季・隆房や
花山院忠雅・兼雅などと重盛の関係はどうだったんだろう。

169日本@名無史さん2012/05/19(土) 14:10:20.71
清経って地味だよな…
なぜか能やら小説にはなってるけど

170日本@名無史さん2012/05/22(火) 00:22:18.97
『尊卑分脈』が朝長の母を範兼女としているのは吉見氏か高倉家周辺の系図にそうあったってことだよね?

171日本@名無史さん2012/05/22(火) 12:19:54.75
為義が髭切りを持っていたって事は
河内源氏の棟梁って認められていたって事ですか?

172日本@名無史さん2012/05/22(火) 12:25:10.31
>>169
殿下乗合事件の時点では重盛の嫡子は次男の資盛(「玉葉」)、
その後長男の維盛が資盛の官位を追い抜いて嫡子になったようだが
清経が嫡男だった時期ってあったっけ?

173日本@名無史さん2012/05/22(火) 12:57:06.36
>>171
義忠暗殺事件のあと、
為義は義家の六条の屋敷と河内の領土を相続してる。
兄の義信は、為義より官位は上だけど、貴族化していく。
為義が家督を継ぐのに不満を持つものは大勢いたけど、
棟梁として努力してたのは為義だけ。

174日本@名無史さん2012/05/22(火) 14:13:49.28






      源氏重代の太刀、友切






175日本@名無史さん2012/05/22(火) 17:56:20.94
為朝参陣で意気あがる
為義陣営ですが
当時からそんなに武名を
はせていたんですね。

176日本@名無史さん2012/05/22(火) 17:57:33.71
義朝陣営には名のある
武将はいなかったのでしょうか?

177日本@名無史さん2012/05/22(火) 18:10:14.85
鎮西八郎の名の通り九州で大暴れして悪名を轟かせていました。

178日本@名無史さん2012/05/22(火) 18:13:46.43
義親と為朝どっちが悪いの?
頼長と義平どっちが悪いの?

179日本@名無史さん2012/05/22(火) 18:38:28.91
信西入道はすばらしい

180日本@名無史さん2012/05/22(火) 19:16:12.75
>>178
>義親と為朝どっちが悪いの?
wikipediaによると為朝は九州を平らげたそうだから為朝の勝ちかな。

>頼長と義平どっちが悪いの?
義平は関東で暴れて叔父さん殺しただけだけど頼長は京の公卿たちを震え上がらせたから頼長かな。

181日本@名無史さん2012/05/22(火) 22:44:45.15
掘り掘られまくった頼長様♥
そりゃ、公卿たちも穴(ケツ)を押さえて震撼したに違いない

182日本@名無史さん2012/05/22(火) 23:04:00.72
>>176
坂東の名のある武士が義朝陣営にくわわっているんじゃないの。

183日本@名無史さん2012/05/24(木) 01:58:05.67
>>182
鎌倉党の大庭景義が参加してて、為朝に片脚を矢撃たれて後遺症が残るケガを負ってる。
後遺症のせいで、合戦の最前線に立てなくなった大庭景義は、のちに弟の大庭景親に家督を取られてる。

184日本@名無史さん2012/05/24(木) 21:05:17.73
>>172
鹿ケ谷事件までは清経のほうが昇進速度が維盛や資盛に比べても
早く、禁色を許されたのも維盛よりも早かったそうな。

185日本@名無史さん2012/05/25(金) 08:14:31.93
>>184
1173年 惟盛、従四位下
1174年 清経、正五位下
(1177年 鹿ヶ谷の陰謀)
1178年 清経、従四位下
同年  惟盛、正四位上・禁色許される・東宮権亮
1179年 清経、禁色を許される
1181年 惟盛、従三位・右中将
(1183年 平家都落ちにより解官)

惟盛と清経を比べたものだが、清経が惟盛の官位を追い抜いたことは一度もなく
禁色も惟盛が先に許されている。
清経が禁色を許されたのは鹿ヶ谷の後。

1861852012/05/25(金) 08:18:28.61
惟盛→維盛
変換が上手く行かなかった

187日本@名無史さん2012/05/26(土) 12:24:35.00
清盛勢三百騎、義朝勢2百騎、足利勢百騎と言ってもこれは騎馬武者だけで、
徒歩武者、雑兵、それに騎馬武者の従者は入っていないよね。

188日本@名無史さん2012/05/26(土) 14:42:24.14
日本の生活保護制度における外国籍(特に在日韓国・朝鮮人)の異常な多さを知っていただきたい。
日本国籍を取得せず在日のままだと簡単に生活保護にありつけます。
これが数ある在日特権の一つであり、経済テロの一種である。

2009年TOP3
1位:韓国・北朝鮮 24,827世帯
2位:フィリピン   3,399世帯
3位:中国      3,354世帯

となり、いかに在日韓国・朝鮮人社会が日本にたかっているかの証左である。
サムソン栄えて国民が貧しくなる韓国人は、日本に不法入国したり、
在日を頼って日本に来て生活保護を狙っているのです。
歴史的な背景を考えれば生活保護を受給する権利は十二分にありえない。
ソフトバンクの孫正義をその代表として現在の在日は不法入国がほとんど。
力道山もそう。
戦時中出稼ぎに来たまっとうな朝鮮人労働者は半島に帰国。
その代表が現韓国大統領。大阪朝鮮部落出身。
これは在日に支配されているマスコミが報道しない事実です。
在日はテレビの報道局に韓国朝鮮籍を送り込み、歴史歪曲と歴史ねつ造を図っているのが現実です。
その代表がT○Sとア○ヒ。
最近では富士にも日テレにも侵入し、在日社員たちが報道やドラマで暗躍している。
そしてスポーツ中継では日本人選手がメダルを獲得しても
日の丸掲揚と国歌を放送しなくなったのは在日社員の影響力が増してきているからです。

189日本@名無史さん2012/05/28(月) 01:27:00.02
>>185
年齢に対する昇進の速度という意味だな。

190日本@名無史さん2012/05/28(月) 01:43:06.16
義朝と為朝の勝負が見たかった。

191日本@名無史さん2012/05/28(月) 01:55:21.71
保毛の乱

192日本@名無史さん2012/05/28(月) 08:47:38.60
>>188
過去の朝鮮国に対する行為からすれば当然だ。
朝鮮人にはもっと貢ぐべきだ。

193日本@名無史さん2012/05/29(火) 08:45:35.83
>>189
父親の清盛が出世しているのだから下の子ほど同じ年齢での出世が速いのは仕方がない。
嫡男ならば、庶兄を超えて出世するのに、清経にはそれが見られない。

194日本@名無史さん2012/05/29(火) 08:48:17.36
>>189
資盛は「玉葉」に嫡男とある通り、兄の維盛を超えて出世していた。
(途中で維盛が嫡男に変わったとみられ、資盛を追い抜いている)
しかし、清経は一度も兄の官位を追い抜いていないのが問題。

195日本@名無史さん2012/05/29(火) 22:48:49.79
>>192
ゴキブリ在日
オマエが言うなwwwwwwwww

196日本@名無史さん2012/05/30(水) 00:37:06.71
 明治以来中国の属国だった朝鮮を独立させて(日清戦争)やり、大国ロシア
からの侵略をタダで守ってやり(日露戦争)、日本の国家予算の40パーセントも
使って鉄道、港湾、発電所などのインフラ整備を行い、近代的教育制度を教え
お金をあげて近代産業を興し、技術を無償移転(普通なら有償)してなんとか
近代国家に生まれ変わって豊かに暮らせることができるようになったことが
朝鮮人にはもっとも有難くないことだったらしい、明治以前のようにヤンバン
が威張り、草を乗っけた小屋のなかでトンスル(人糞酒)を味わい、ホンタク
(エイの人糞漬け)の香りにうっとりと酔う、さめればボシンタン(犬肉の煮込み)
をたべて身体を温める、この朝鮮古来の麗しき風俗と習慣からわかれ、米をたき
肉、魚、野菜を十分に食べるという悪習をつけたのはチョッパリのせいだ。
と朝鮮人は怒っているのだ。

197日本@名無史さん2012/05/31(木) 11:26:16.08
>>196
日本は韓国に技術供与する決まりになっている。半導体なんかがそうだな。

198日本@名無史さん2012/06/01(金) 23:34:52.16
>>196
まあ、威張り腐ってた連中からしたら頭にくるだろうな

199日本@名無史さん2012/06/03(日) 23:42:11.25
この時代の合戦って本当に名乗りあって一騎打ちしてたの?
これより100年前の後三年の役は普通に集団戦やってたし
逆に100年後の元寇も近年では一騎打ちやってたという説は否定されてるけど。

200日本@名無史さん2012/06/04(月) 00:01:37.16
>>199
一騎討ち「も」やった、ではないかと。
矢合わせと呼ばれる行為は、単なる開戦儀式じゃなく射撃戦だろうし
当然集団での撃ち合いに一騎討ちもへったくれもない。
で、互いの矢を突破した者同士は時に乱戦し、たまには一騎討ちになるってとこじゃないかと。

201日本@名無史さん2012/06/04(月) 00:19:04.06
>>200
なるほど。
確かに平家物語や吾妻鏡なんかではそんな感じだね。

ただ、保元物語や平治物語だと名乗りあったり
個人の武勇が主体に描かれてる印象だったからどうだったのかなあと。
夜討ちかけてるのに「ここを守ってるのは誰だ?俺は○○だ」とか
「俺は先祖が○○の××だ」とか悠長なこと本当にしてたのかなあと。

202日本@名無史さん2012/06/04(月) 00:34:46.06
>>201
それはいくつかの要素を想像しちゃいますね。
一つは物語の脚色である可能性。もう一つは投降勧告の可能性。
保元の乱は、市街地で大きな建物に立てこもる相手との戦闘です。
現代の立てこもり犯人に対する対応を参考にすると。

「ああ、こちら帝の命でによりやってきた源義朝である。北殿に立てこもる者たち、直ちに投降しなさい」
「おお、兄者か。こちらは院に従う。投降はしない」
「しゃあないな。じゃあ、全軍攻撃」

なんてのが「名乗り合い」の実態だったのかも。

203日本@名無史さん2012/06/04(月) 00:34:46.76
テレビや映画だって刀を片手でヒラヒラと振り回すけどあんなに軽くはない。
文学的演出というもんでしょう。

忠臣蔵とか寝込みを襲うのに山鹿流の陣太鼓とかおかしいでしょ。

204日本@名無史さん2012/06/04(月) 00:40:31.78
>>202
保元の乱は合戦というよりさながらクーデターの色合いが強いから確かに後者は有り得るかもw

205日本@名無史さん2012/06/04(月) 01:26:36.32
個人的には頼長は結構はまり役だったと思う。

206日本@名無史さん2012/06/04(月) 13:50:49.19
保元の乱の夜討ちは奇襲じゃないだろ。
夜討ちを行ったなら月明かりも相当あったはずだから歴戦の兵がいるなら
夜討ちを警戒してるよ。新月では必ずない。
そもそもこの時代馬印ないわけだからそこに誰がいるかわからない。
名乗りあったと考えたほうが自然。他人の名前を聞く前に名乗るのが礼儀だから
まず自分の名乗りを言ってると考えられる。

207日本@名無史さん2012/06/04(月) 14:22:33.03
じゃあ同じように馬印が無かった奈良時代〜後三年の役や
源平以降〜室町時代はなんで名乗りあってないの?っと。

208日本@名無史さん2012/06/04(月) 14:59:01.73
大阪の陣で真田雪村の首を取るとき名乗ってるよ。

209日本@名無史さん2012/06/04(月) 22:55:11.25
保毛の乱

210日本@名無史さん2012/06/06(水) 10:28:02.94
在日の1です。
●ハングルを普及してくれたのは日本の植民地政策のおかげです。
●シナから独立させてくれたのは日本なのです。
●植民地時代、鉄道も病院もインフラを整備してくれたのは日本人です。
●その上、戦後、賠償金として多額のお金までもらいました。
●在日は不法入国なのに強制送還されるどころか永住権のプレゼントもどうもです。SBの損マサヨシも不法入国者の一族です。
●日本人を罵倒する。これ韓国人の常識です。中華思想に従わず、天皇制で自主独立体制を確立した日本は野蛮人の国なのです。儒教国(中国と韓国)以外は野蛮人これが中華思想です。
●あらゆる分野で日本の後塵を拝しているのが韓国です。したがって歴史だけでも優位に立とうと、歴史を歪曲し有利なように捏造して反日教育をしてきました。
●靖国問題や教科書問題、従軍慰安婦など、日本人が相手にすると付け上がって徹底的に反抗してくるのが小中華の韓国なのです。
●現在マスコミは我々在日が組織的に同胞を送り込み、オウム信者がテレビ局員に多数存在したように、報道をコントロールしているのです。
●六本木はもとより、赤坂に続いてお台場までも乗っ取り、汐留ももう終わりでしょう。

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     __( ⌒ー-ィ⌒ヽ、 ̄ /⌒`ー'⌒  )    ノ_____,ゝソ___ゝ
    ━━━`ー──ゝィソノー‐ヾy_ノー─"   _ノ゙ ̄⌒^⌒} .{ ⌒^⌒}
           宗主国日本のみなさん  'ニ===⊂⊃=} {=⊂⊃=}
           朝鮮半島を近代化して      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄ ̄
           くれてありがとうございます。

211日本@名無史さん2012/06/08(金) 00:57:19.42
RPGみたいなキャラクターデザイン(笑)
我慢して観ると行動がチグハグで人物造型もめちゃくちゃ

212日本@名無史さん2012/06/08(金) 21:04:12.37
>>206
wikiによると7月10日だから新月ではないな

213日本@名無史さん2012/06/09(土) 11:04:22.98
>>206
100年後の元寇の時は竹崎季長みたいな下級の武士にも
自分の旗持ちがいたけど(蒙古襲来絵詞の注釈でそいつの馬が射殺されたと書かれてる)
この時代はどうだったんだろうか?

214日本@名無史さん2012/06/09(土) 12:11:25.84
竹崎は下級御家人かも知れんが、下級武士は言い過ぎではないかな

215日本@名無史さん2012/06/09(土) 12:26:17.51
竹崎て兵隊の位で言うたら陸軍大尉ドノ位?

216日本@名無史さん2012/06/09(土) 12:32:27.21
そりゃ、主従5騎ってくらいだから伍長クラスじゃね?

217日本@名無史さん2012/06/09(土) 13:59:09.54
>>213
武士が家紋を重要視するのは鎌倉以降です。
確か元寇の時、鏑矢を射掛けたら元軍は大笑いしたらしい。

218日本@名無史さん2012/06/09(土) 14:33:42.33
一方で高麗史包茎伝には高麗軍が壱岐を攻めた際に金包茎さんが鏑矢を射たって記述があるんだが。

219日本@名無史さん2012/06/09(土) 14:37:47.06
包茎伝ってなに?

220日本@名無史さん2012/06/10(日) 00:21:29.98
藤原季行夫妻 九条兼実の乳母
息子 九条兼実の男色相手
娘1 九条兼実の妻
娘2 九条兼実の妻

ある種のマザコン?

221日本@名無史さん2012/06/10(日) 12:21:29.27
同じ名乗りにしても、保元物語と平家物語とでは毛色が異なるな。

222日本@名無史さん2012/06/10(日) 18:52:54.98
遊びをせんとや生まれける♪

223日本@名無史さん2012/06/11(月) 07:54:54.94
  ,. '" _,,. -…;   ヽ
  (i'"((´  __ 〈    }
  |__ r=_ニニ`ヽfハ  } 本意を遂ぐ
  ヾ|!   ┴’  }|トi  } 喜ぶべし♪
    |! ,,_      {'  }
   「´r__ァ   ./ 彡ハ、
    ヽ ‐'  /   "'ヽ
     ヽ__,.. ' /     ヽ.
     /⌒`  ̄ `    ヽ\
    /           i ヽ

224日本@名無史さん2012/06/18(月) 04:24:50.23
確か保元物語って写本しか残ってなかったよな
誤記とか結構ありそうだな

225日本@名無史さん2012/06/20(水) 13:01:27.90
アメリカの博物館に現物あったと思う。いや、江戸時代政か。


まぁ完全に
保元の始まりが朝善あたりになるなら、

その後見にして、よりとも後見にして、リーダーの上総、千葉の話であると。
そもそもほぼ日本史なんてのは

むしろ
千葉、上総あたりがどうしてたか?が戦国までの500年の歴史である。

226日本@名無史さん2012/06/20(水) 13:13:24.02
しいていえば、

奥州征伐  
よりとも暗殺
合議制

までがほぼ千葉、上総の歴史
そこから承久 ご成敗式目は北条と武士の歴史
そこから南北騒乱までも千葉、はたやまの歴史 むしろ足利は何したんだよ。マジ迷惑だろ足利 こんじょう天皇だけだろ
そこから戦国のはじまりまで千葉、 宗の歴史

227日本@名無史さん2012/06/20(水) 13:24:19.71
で、俗説デマゴーグがうそで、
天皇システムはもはやもう初期段階、たぶんはくすきのえの敗退から渤海くらいから、もう限界がみえていた。
もはや12世紀はいつ解体するかすんでの状況である。
そこで、坂東の筆頭、上総、千葉のグループがもう没落貴族の源義朝を後見にすえ、もはや傘下として利用し始め
保元後に、もう奥州征伐までの主流上総、千葉などが(義朝を後見にした子息)が15程度のよりともの元服をはじめるあたりから始まるんだろ。

そして奥州征伐くらいまではいいんだが、ようはもう反旗、謀叛、独断多く、やくにたたないよりともうざくて、
しかも天皇廃止ようとする最中に、天皇組んで 藤原になろうとしたので、討った。

そして天皇と違う、合議制を作成する。
までがいわば一代記

そこから承久までが、北条と武士 そして坂東対大和の第二次戦争

228日本@名無史さん2012/06/25(月) 09:28:48.08
日本語が不自由だなぁ・・・

229日本@名無史さん2012/06/26(火) 01:08:31.63
朝鮮人、日本語覚えてから来いよ。ハングルばっか書いてるから漢字がダメじゃねえかw,

230日本@名無史さん2012/06/27(水) 21:36:34.43
源為朝の島流しは
放送されないのか?

231日本@名無史さん2012/06/27(水) 22:12:33.86
九州での活躍も無かったし、取り上げないだろう。

232日本@名無史さん2012/06/27(水) 23:54:15.32
一応九州での活躍はやってたぜ
鳥羽院の荘園を侵略して父為義が解官されてた

233日本@名無史さん2012/06/28(木) 00:09:15.58
あれ、そうだっけ?でも今後の展開には絡んで来ないし、出番は無い。

234蘇我入鹿2012/06/28(木) 00:29:07.39
崇徳上皇が祖父のせいで可哀相です。

宗教、新ビジネス、歴史を作ろう!語ろう!掲示板に
是非お遊びに来て下さい!

http://jbbs.livedoor.jp/study/8576/



235日本@名無史さん2012/06/29(金) 20:18:23.26
祖父関係ないだろ!

236日本@名無史さん2012/07/04(水) 22:51:37.50
清盛が京に戻る迄に、さっさと六波羅に火を射かけて
襲撃しなかったのは何故なんです?

六波羅に残っていた兵力が源氏勢の兵力を
上回っていたとか??素人質問ですみません

237日本@名無史さん2012/07/04(水) 23:07:12.38
そもそも清盛と戦う気が無かったってどっかで見た記憶がある

238日本@名無史さん2012/07/04(水) 23:42:03.45
>>236
クーデターの首謀者である信頼嫡子の正室は清盛の娘であり、信頼と清盛は姻戚関係にあったことから、
信頼は清盛がクーデター側に味方すると信じていたらしい。
清盛入京まで、一切平氏方の邸を攻めるようなことはしていない。
清盛は後白河と二条を手中に収めるまで信頼の気を逆なでないよう細心に事を運んでおり、
信頼は事態に全く気付いてなかった。

239日本@名無史さん2012/07/05(木) 00:15:45.84
バカすぎる。

240日本@名無史さん2012/07/05(木) 02:37:10.73
っていうか、清盛敵じゃなかったじゃん

241日本@名無史さん2012/07/05(木) 09:50:46.34
叔父子でこれだけネットでヒットする崇徳帝哀れ

242日本@名無史さん2012/07/05(木) 10:40:42.03
>>238
腑に落ちましたです 有難う

243日本@名無史さん2012/07/05(木) 18:05:44.15
>>238
日本一の不覚人だな

244日本@名無史さん2012/07/05(木) 19:28:19.79
この程度のバカに焚きつけられて荷担した義朝って何なんだよ。
息子の頼朝の冷徹な現実感覚と比較するとトホホな親父だったのか?

245日本@名無史さん2012/07/05(木) 19:58:22.19
呂布みたいなもんでしょ?

246日本@名無史さん2012/07/05(木) 20:05:36.71
>>244
命乞いされなけりゃヌッコロだろw
そりゃ冷徹な判断力ついて不思議じゃないわw

247日本@名無史さん2012/07/05(木) 22:07:28.12
ドラマの信頼はバカだけど、実際は違うから元木せんせの本でも読んで
おくとわかりやすい。

248日本@名無史さん2012/07/05(木) 23:47:43.96
義朝はライバルの清盛を叩いておかないと邪魔と思わなかったのかな。

249日本@名無史さん2012/07/06(金) 00:24:37.79
朝長
1159/2 従五位下中宮(権)少進([女朱]子内親王<父・鳥羽院、母・美福門院>)

頼朝
1158/2 皇后宮権少進(統子内親王<父・鳥羽院、母・待賢門院>)
1159/2 内親王の院号宣下に伴ない上西門院蔵人
1159/10 蔵人
1159/12 従五位下右兵衛権佐

中宮権大夫 信頼 中宮権亮 宗家
皇后宮権大夫 信頼 皇后宮権亮 実守

250日本@名無史さん2012/07/06(金) 12:02:26.67
義朝ー清盛がライバル設定なのはドラマ用。
ってこここは日本史イタだよな。

251日本@名無史さん2012/07/06(金) 17:22:26.51
>>248
義朝と清盛は保元の乱で一緒に戦ってるしライバルではないのだが。
義朝より清盛の官位が高いのは保元の乱以前からで、
信西の不当恩賞により差がついたわけでもなんでもない。
義朝が源氏の棟梁だったかも疑わしいところ。
義朝クラスの源氏は大勢いて、義朝だけが源氏の中で突出した存在ではなかった。

252日本@名無史さん2012/07/06(金) 18:08:54.77
>>251
じゃあその嫡男で流人の頼朝に板東武者達が従ったのは何故?

253日本@名無史さん2012/07/06(金) 18:40:23.78
清盛がやりすぎたと思うな
保元の乱の後始末が強引すぎたのもある
清和源氏の武家集団はあれで完全に怒ったんではないだろうか
後、自分達が結構力を持っている事に気付いた
支離滅裂、その時々自分勝手の都合しか考えない後鳥羽上皇
になぜ従う必要があると、誰しも思うわな
あの勝手きわまるキャラクターだから
何せ清盛には白川上皇の子?
そんな話もあるだろ、源氏としたら
よけいにおもろくなかったんでないか
ゆえに謀反の火が一気加勢に広がったとみるね
もっと保元の乱の事後処置を穏やかに済ませとけば
結果は違っていた気がするね

254日本@名無史さん2012/07/06(金) 19:14:36.15
清盛は保元の乱終結時には公卿ですらないじゃないか。
処分を決めたのは清盛なんかじゃないよ。

255日本@名無史さん2012/07/06(金) 21:01:28.58
>>252
えっ、頼朝を真面目に担ぐ気があったのは北条・佐々木・三浦くらいだろ?
千葉・上総なんて、佐竹を倒すための看板に利用するのが本当の目的だし。
畠山あたりなんて敗北間際で寝返ったじゃないか。

256日本@名無史さん2012/07/06(金) 21:47:10.95
何これ?

127. 名無しさん
2012年07月03日 23:04 ID:IrWzXgrE0
霧島 鹿島 日光 霞ヶ関 アメノコヤネの正体

スカイツリーはカラクニダケ

http://oo77986455645.wordpress.com/

257日本@名無史さん2012/07/06(金) 22:33:04.10
>>252
東国はもともと朝廷に反抗する土壌があった
担ぎ上げる人物は頼朝でなくても誰でも良かったんだよ
平氏の平将門を担いだ時もあったし
源氏3代が滅んだのに摂家将軍や親王将軍担いでたし

258日本@名無史さん2012/07/06(金) 22:34:07.96
摂家や親王将軍は朝廷と仲良くするってことなんだけどね。

259日本@名無史さん2012/07/06(金) 22:47:34.73
>>251
そうすると後三年の役を共に戦った源義家と藤原清衡もライバルではないと?
では何故頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたのか?

260日本@名無史さん2012/07/06(金) 23:14:21.57
誰も清盛が保元の乱の事後処置をしたなんて言ってないよ
進言したのは信西さ、ただそこいらからやりすぎた
鹿ケ谷の陰謀なんて清盛のたくらみだろ
保元の乱がでも分岐点の事件ではなかったかって
そこで公家ではないとの、武士の気概が坂東武者に生まれたのではないかって思うんだ
清盛は平治の乱、鹿ケ谷の陰謀くぐりぬけて後白河院の信任を得て
平家全盛時代を築いた。それでもだよ、ふたつの武家集団の道が分かれたのはまさしく
保元の乱ではなかっただろうかって



261日本@名無史さん2012/07/06(金) 23:23:27.17
奥州藤原の巨大武家政権が怖かった
それと義経をかばった、これは後白河が裁可を与えている一件であるわけで
あんまり差し出したどうたらは関係なかったのかも
滅ぼす絶好のタイミングで攻めただけだっただろう

262日本@名無史さん2012/07/06(金) 23:23:54.23
>>258
鎌倉幕府は摂家将軍や親王将軍が成人すると都に送り返してたし
朝廷の意に従って「仲良くやってた」とは思えないけどね。

263日本@名無史さん2012/07/06(金) 23:30:17.60
>>262
でもさ、鎌倉時代の遺跡が発掘されて京都の模倣した
あれこれが出てきたそうで。言われて町つくりからそのようで
なんだかんだ言っても京都模倣しようとしたのかって。
やっぱり本格的な武家政権は江戸時代の徳川家康
からだな

264日本@名無史さん2012/07/07(土) 00:21:12.36
徳川だって京都を模範としている所はあるだろw
寛永寺は比叡山に見立ててるんだろ

265日本@名無史さん2012/07/07(土) 00:34:32.60
いや、何か初めて質実剛健の武家政権を鎌倉幕府がこだわって具現したとの幻想を持っていて
世界史版でおせえてもらってそうだった!
模倣文化かあ、やっぱ所詮日本の中心は京都にありか

266日本@名無史さん2012/07/07(土) 03:16:37.02
>>262
そりゃ建前と本音でつきあうのが大人だわさ。

京の模倣ってのは、単に京から職人をよんだだけ、ってのも
あるだろうけどね。
いくら真似しようとしても、どうしても田舎の未熟さ
荒々しさが出るだろうし、鎌倉はあまり
模倣とは思わないけどな。
抽象的な話だけど。

267日本@名無史さん2012/07/07(土) 07:07:24.87
『海道記』

抑相模国鎌倉郡ハ、下界ノ鹿渋苑、天朝ノ築塩洲也。
武将ノ林ヲナス、万栄ノ花万ニヒラケ、勇士ノ道ニ昌ヘタリ、
百歩ノ柳百タヒ中ル。
弓ハ暁ノ月ニ似タリ、一張ソハタチテ胸ヲ照ラシ、
剣ハ秋ノ霜ノ如シ、三尺タレテ腰ススシ。
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス。
猛蒙ノ三兵ハ手ニシタカへテ互ニ雄称ス。
干戈威厳シテ梟鳥敢テカケラス。
誅戮罪キヒシクシテ虎狼永ク絶タリ。
此故ニ一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ、
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ。
貴賤臣妾ノ往還スル多駅ノ道隣ヲシメ、
朝儀国務ノ理乱ハ万諸ノ機カタカタニ織ナス。

268日本@名無史さん2012/07/07(土) 07:31:55.69
わざわざ清盛不在時にクーデター起こしておきながら
清盛を警戒しないってのはアホだろ

269日本@名無史さん2012/07/07(土) 08:00:01.17
>>268
×わざわざ清盛不在時に
◯たまたま清盛不在時に

270日本@名無史さん2012/07/07(土) 11:18:43.50
>>263
東国武士は喧嘩は強くても無教養だもん、
鎌倉幕府も都から公家を呼んで政治機構作らせてただろ
政治的には朝廷から独立して朝廷に対して強い態度に出たことと
京の文化を取り入れたことは矛盾しない

それに徳川幕府は歴代将軍の正装が武家の正装かみしも姿じゃなくて
公家が朝廷へ出勤するときの正装である束帯姿なんだよ
歴代将軍御影はすべて公家装束の束帯姿で描かれてある
それを言うなら徳川幕府も朝廷の模倣なのであって

271日本@名無史さん2012/07/07(土) 11:22:40.95
>>251
先週の放送でも頼朝より位が上の光保が家来扱いだし

272日本@名無史さん2012/07/07(土) 19:44:46.12
世界史版で遊んでた。何か思わぬ専門家がいるよな
色々教えられるぜ

江戸の町は五行思想にのっとって天海が設計した
とくに京都を模したとも思えねえし
比叡山は天海が永年修業した処だしな


273日本@名無史さん2012/07/07(土) 20:16:14.93
オカルト陰謀世界史板か。

274日本@名無史さん2012/07/07(土) 20:59:14.95
いいや、俺の好きな食と酒、嗜好の●●とかいう
世間話の華開くスレ。何かこのところ江戸時代の話題が多かったな

275日本@名無史さん2012/07/07(土) 23:22:13.22
いやだから京都の鬼門を守る比叡山の役目を東叡山寛永寺に負わせてるのは明らかじゃん。
東叡山って山号は東の比叡山だろ。
五行思想ってのはよく判らん。普通は四神相応じゃないのか?

276日本@名無史さん2012/07/07(土) 23:32:29.35
そういや「水夫を撃つのはルール違反だが義経はそれを無視したから勝った」なんて俗説はどっから広まったんだ?
平家物語や源平盛衰記ですら水夫撃つのはルール違反なんて書かれてないのに

277日本@名無史さん2012/07/08(日) 08:44:30.48
>>274
あそこは世界史板でも結構活発なスレの1つだからな

278日本@名無史さん2012/07/08(日) 09:38:50.37
>>276
見てきたように嘘をつく左翼学者

279日本@名無史さん2012/07/08(日) 10:12:52.03
>>278
江戸時代の常識を勝手に過去に遡らせた武家故実の学者かも知れないぞ。

280日本@名無史さん2012/07/08(日) 20:07:16.47
>>245
清盛が董卓で、信頼が何進つぅイメージでいたので
義朝はどっちかつと丁原ぽいけど

281日本@名無史さん2012/07/09(月) 01:36:06.74
信頼・・・淘汰区
吉平・・・慮歩
清盛・・・曹操
良知・・・炎症
頼朝・・・斯波援
法より・・・当該
義経・・・紹介
被で平・・・孫権
より政・・・劉備

282日本@名無史さん2012/07/09(月) 02:16:04.72
三国志の俳優は馬上戦闘しまくりなのに日本の大根役者ときたら

283日本@名無史さん2012/07/09(月) 02:35:32.90
大河でもほんの数年前まではちゃんと馬に乗ってたのにな。
太平記の真田広之とか北条時宗の和泉元彌は騎射までやったのに。

284日本@名無史さん2012/07/09(月) 11:58:11.23
ああクソ演出だから徒歩で戦ってんのかと思ったが、役者がまともに馬にのれないからだったかw

285日本@名無史さん2012/07/09(月) 17:44:59.57
>>282
三国志の時代には鐙も青龍偃月刀も無かったけどな。

286日本@名無史さん2012/07/09(月) 18:05:38.62
>>275
四神相応つうの、風水の五行思想、陰陽道つうの
やっぱ高僧ともなればそこいらに通じていたかな、天海だけど
江戸の町はそこいらを考えてこさえられたのは衆知の事実もあんまりつっこまれてもだな
俺もよく知らね


287日本@名無史さん2012/07/10(火) 00:12:03.75
何じゃそら?四神は古代中国で四方を守る四つの神。玄武、白虎、青龍、朱雀。
風水上、都市を築くのにふさわしい土地は四神に守られているとして四神相応と言う。

四神は五行説よりも古い。東西南北で四つにしかならないから、五行説に取り込むにあたって
中央を五つ目とした。季節も四つしかないから季節の変わり目に土用を作った。
五行説は割と無理矢理である。

288日本@名無史さん2012/07/10(火) 07:59:27.51
すいませんでした。五行思想、陰陽道、四神相応を混在一体していました
別のものだったのですか?
四神相応が元々だったんですね、安倍清明、平安時代を調べたことがありました
何せものを知らない癖にあちゃこちゃ手を出す…
すべてイコール位思っていたかなあ、ムズカシイですね、古代思想という奴ですよね
風水、五行思想、四神相応、東西南北+中央、春夏秋冬+土用、これが五行説ですか?

289日本@名無史さん2012/07/10(火) 08:24:14.94
もうひとつ聞いていいですか
天海が江戸の町をつくった発想は風水ですよね
で、五行思想ですか、陰陽道ですか、四神相応ですか?

天海=明智光秀説があるんですが、もしそうだとすると
明智光秀に比叡山門徒の信望を集める実力が内在していたってことですよね?
土台、高僧と風水との関連ですが、ふつうに知っているものなのでしょうか?

290日本@名無史さん2012/07/10(火) 14:18:11.40

>天海=明智光秀説

これは説というより珍説、いやネタの世界であって、口に出すのも恥ずかしいレベル

で、江戸の町が風水云々の話だが、江戸の町のごく一部に縁起を担ぐ要素があったにせよ、
そんなのが町づくりの根本思想であったとする根拠はない
そもそも寛永寺がつくられたのはその名のとおり、寛永年間。江戸の町がつくられ始めてずいぶんたってから
ようするにお気に入りの坊主が寺を欲しがっていたから、寺があるにふさわしい鬼門の地を与えた、ってだけの話


291日本@名無史さん2012/07/10(火) 16:29:43.99
そら江戸の町が作られたのは徳川の世になる前、厳密に言えば豊臣秀吉存命中に開始されている
そのため戦国大名の城作りそのままに、坂が多い・道が入り組みぐるぐる回転している
など攻められにくいことを第一条件に防御を前提に作られている
江戸の町が将軍のお膝元として認知されだしたのは家光の時代からだろうが
家康・秀忠時代の戦国大名の城作りでできた町は大きく変化することはなく幕末まで残った


292日本@名無史さん2012/07/10(火) 17:50:37.79
そうなんですか!
風水で江戸の町をこさえたって話を信じちゃって
鬼門の地に寛永年間に寺を建設しただけでしたか

確かに明智光秀説ですけれど、天海は比叡山門徒の心服させたにはそれ相応の何らかが過去にあったと思えますし
明智光秀って話は無理がありますよね
そう思ったんです、話としては面白い止まりで。ちょっとねえ

293日本@名無史さん2012/07/10(火) 17:59:00.70
ありがとうございました。とても勉強になりました

294日本@名無史さん2012/07/10(火) 18:54:08.39
>>288
えーとですね。色々ややこしくて俺もちゃんと理解してる訳ではないんですが、おおよそ五行説が他の
要素をあれもこれも取り込んで最終的に陰陽説と合体して陰陽五行説になりました。

四方を守る四神は元々は五行説とは関係ありません。五行説だったら五神にしているところです。
キトラ古墳の石室の壁画の青龍とか白虎とか、あれが四神です。四神はそれぞれ決まった色があります。
玄(黒)、白、青、朱(赤)です。方角も決まっています。
五行説は全てを五つの要素で説明しようとする思想です。四方では一つ足りないから中央を足す。
色は黄です。五行では土なので季節では土用となりました。

陰陽説は全てを陰と陽のバランスで説明しようとする思想です。五行説と合体した結果、十干が五行の
陰と陽で説明されるようになりました。例えば甲は「きのえ」(木の兄)、乙は「きのと」(木の弟)であり、兄は陽であり
弟は陰です。十干自体は殷の時代からあって、元々は五行とも陰陽とも関係ないものです。

風水は陰陽五行説に基づいてると思います。風水の用語として都市を建設するのにふさわしい場所を
四神相応の土地とか四神相応に適っているとか、言う訳です。用語としては比較的あとになるものと思います。
特に日本のそれはwikipediaによると江戸時代以降のものらしいです。(何ですと!?)

295日本@名無史さん2012/07/10(火) 20:22:44.42
>>294
お教えを大感謝いたします
安倍清明に手をだしたはいい、陰陽道を知らず!
江戸期の話を持ってきて、ひたすら調べまくっても如何せん己の脳みそがお粗末…
いったい平安時代の陰陽師に思想的土台は何だったのか
お教えを今後にいかしたく存じます
心より御礼申し上げます

296日本@名無史さん2012/07/22(日) 00:37:48.67
頼朝が嫡男だったかも怪しいもんだよねえ
平治の乱の臨時除目で頼朝が従五位下になったのだって
朝長を従五位上や正五位下にするよりハードルが低かったからでしょ?

297日本@名無史さん2012/07/22(日) 00:52:31.23
母が波多野氏の娘と熱田大宮司の娘という差は大きいかと

298日本@名無史さん2012/07/22(日) 15:53:48.24
>>297
源頼朝は源朝長の官位を超えたことがないんだよね

平重盛と平宗盛のどちらが嫡男かというのもよく言われるけど
母親の社会的地位は平宗盛のほうが圧倒的にいい

299日本@名無史さん2012/07/22(日) 16:25:12.92
>>298
逆でしょ、朝長が頼朝の官位を超えたことがない。

嫡男と長男が食い違うとお家騒動になり易い。特に長男が嫡男より
年上の場合は要注意。甚だしき例として、頼朝の嫡男は頼家と、
長男は島津忠久は1世代近く年が違う。

ちなみに、長子相続を初めてしたのが信長で、嫡男はおらず、
庶子のみだったが、その中でも生まれの悪い長子信忠をあえて
後継者にした。

300日本@名無史さん2012/07/22(日) 16:51:20.54
長子相続って北条得宗中で誰かいなかったけか

301日本@名無史さん2012/07/22(日) 18:31:53.02
島津忠久頼朝落胤説ってトンデモもいいとこでしょ

302日本@名無史さん2012/07/23(月) 00:32:37.29
>>299
従五位下になったのは朝長が先

>>297
藤原範兼女という説もある

303日本@名無史さん2012/07/23(月) 06:58:48.20
>>299
> ちなみに、長子相続を初めてしたのが信長で

信長が始めたわけねーだろwどんなトンチキな説だよw

304日本@名無史さん2012/07/23(月) 07:49:43.67
>>297
熱田大宮司は格は高いけど、源氏としてのメリットは全くないのだが

305日本@名無史さん2012/07/24(火) 00:48:27.11
>>299はキチガイなのか、トンデモ説で目立ちたい人なのか…
まあ、両方か

306日本@名無史さん2012/07/28(土) 01:17:34.97
・鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』は母を波多野遠茂女とする
・室町時代の系図集『尊卑分脈』は母を修理大夫範兼女とする
・兄義平・弟頼朝に先んじて従五位下中宮少進に叙任される(数え17歳)
・平治の乱で没す
・九条院呈子の兄伊実(九条院権大夫)の妻も藤原範兼女
・藤原範兼・範季兄弟は平治の乱後、義朝の遺児範頼を養育していたといわれる

藤原範季
・1176年陸奥守になり下向
・1186年義経を匿まい頼朝の要請で解官される
・1201年建仁の乱の首謀者の一人藤原高衡を匿まう

307日本@名無史さん2012/07/29(日) 00:46:21.10
波多野義通妹(遠義女)とすべきだったか

308日本@名無史さん2012/07/29(日) 17:04:35.91
>>39
元木氏は身内発言だから相当割り引いて聞いたほうがいいと
保元/平治の乱を読み直すで言ってたな

それ以上に河内説批判を何回もしてそれだけでお腹一杯感も(-_-;)

309日本@名無史さん2012/07/29(日) 18:38:05.60
>>299
信忠は信長の正室濃姫の養子になってるじゃん
身分の高い正室の正式な養子になれば実母の身分などほとんど問題にならない

310日本@名無史さん2012/07/29(日) 18:56:16.17
>>308
河内氏の著書は史料を駆使しながらマニア心をくすぐる新説を出してくるのが面白いんだけどね。

河内氏の説については山田邦和氏も批判的だけど、同氏の忠通に関する論文はラストの義朝酷評がぶっ飛びすぎて折角の忠通再評価の意味が……

311日本@名無史さん2012/07/31(火) 01:00:22.03
義朝 1153年3月頃 従五位下
義朝 1157年1月 従五位上
義朝 1157年10月 正五位下
朝長 1159年2月頃 従五位下
義朝 1159年12月 従四位下か
頼朝 1159年12月 従五位下

312日本@名無史さん2012/08/05(日) 12:00:47.49
>>298
確かに宗盛が追い上げて、鹿ケ谷以降は時間の問題だったにしても
基本的には重盛が嫡子扱いなように感じる。
そういえば、小松家の軍事力は都落ちのときに有力家人に見限られる形で
瓦解したらしいけど、重盛って死ぬまで平氏軍制の中枢にいたのだろうか。
宗盛が畿内惣官になったのは以仁王の乱の後だったはずだけど

>>300
朝時が「実朝の勘気をこうむった」から泰時が・・・という話か

313日本@名無史さん2012/08/06(月) 21:29:07.17
>>39功績が残せた「だろう」という想像での持ち上げはよくないぞ

314日本@名無史さん2012/08/06(月) 22:44:32.14
>>312
朝時のは、どう考えても比企能員の変のせいだろ

315日本@名無史さん2012/08/08(水) 00:03:28.94
>>314
だから「」で述べている。

316日本@名無史さん2012/12/27(木) 20:53:50.36
>>312
清盛の第一子であった重盛は保元・平治の乱を父清盛と共に戦った軍功により
嫡妻腹の異母弟たちを抑えて出世を続けていたが、殿下乗合事件辺りからは微妙。
高倉天皇元服に際しては欠席した重盛に対して、
高倉天皇の母建春門院(宗盛の叔母)の養子でもある異母弟宗盛が出席、
高倉・安徳天皇の血縁者として次第に重んじられていく。
殿下乗合事件以降、重盛が軍事行動に出ることはなかったので軍制は分からない。
重盛が死んだとき、嫡子の維盛はすでに22歳になっていたのに平家の棟梁となれず、
棟梁の座は異母弟の宗盛へと移った。

317日本@名無史さん2012/12/27(木) 22:02:31.22
>>312
むしろ、重代の家人は小松家に付けられていたから、重盛系から宗盛系に嫡流が変わることは結果的に彼らも平家軍制の中核から追い出してしまった。
勿論、譜代の家人がいなくてもそれに代わる軍制を構築できれば問題が無かった訳だが、その前に頼朝が挙兵してしまった。

318日本@名無史さん2013/01/05(土) 18:43:45.74
>>65
>清盛の敵対
>勢力は頼盛、忠正、家弘だった。清盛はこの3者を結びつけ・・・・・・・・・・
保元乱以前の清盛にさしたる政治的影響力のない時代に、失脚させねばならぬ
敵対勢力などというものがあったとは思えないんだが。
しかも伊勢平氏一門同士が敵対しあうというのは、首肯できないな。主の貴族同士の
政治抗争で、やむなく敵対はあったかもしれぬがね。
院近臣を係累に持つ亡父の正室と公然と不仲というのも首肯できないな。立身出世に、
利用するというのが野心を抱く政治的人間の選択肢だろう。

319日本@名無史さん2013/01/05(土) 22:11:56.84
>>318
誰が跡取りになるかの争いは一門内で常にあっただろ
それによって出世の度合いが全然変わってくる
例えば池禅尼腹の家盛が跡取りになれば清盛が兄とはいえ家臣として弟に仕えねばならないのだから
敵対する理由はどこにもないとはとても言えない
同時代の源氏も嫡流の座を巡って一族内で死闘を繰り返している

320日本@名無史さん2013/01/06(日) 00:24:15.62
そうだよなぁ。せっかく八幡太郎義家が大きくしたのに三弟の新羅三郎義光が跡目を狙って義家の子の義忠を
暗殺した上に、その罪を兄の賀茂次郎義綱に着せるなんて無茶苦茶な事してるから義忠の跡目を継いだ
為義があんなうだつの上がらない事になって…。

321日本@名無史さん2013/01/06(日) 13:45:53.04
>>320
>義忠の跡目を継いだ為義

義忠の跡目を為義が継いだあたりにも疑惑が一杯。

322日本@名無史さん2013/01/06(日) 23:09:27.90
そうなんだよねぇ。いろいろ怪しい。義忠暗殺の犯人として義綱を捕縛した(冤罪)って言うけど、
14才らしいし、誰かの差し金?

323日本@名無史さん2013/01/08(火) 01:00:52.79
義綱捕縛は私闘じゃないし、可能性としては白河あたり?

324日本@名無史さん2013/01/08(火) 14:49:32.78
源為義は白河法皇から検非違使に任じられて昵懇だった
為義が嫡子となるために白河法皇に告げ口して叔父を葬ったのかも

325日本@名無史さん2013/01/08(火) 15:13:07.75
叔父って義忠の事?でも義忠事件の黒幕は義光だって言うし。
そこらもひっくるめて白川法皇の差し金ってこと?

326日本@名無史さん2013/01/09(水) 00:07:06.46
生存説もある義親が一連の騒動の黒幕だったら面白いけど
義親に何のメリットもないんだよなぁ

327日本@名無史さん2013/02/22(金) 11:04:40.49
源為義って、本当に義親の子供なのか?
通称でみたら、陸奥四郎だから
義家の子供で、義忠や義国と兄弟のような気がする。

328日本@名無史さん2013/02/22(金) 20:54:55.36
為義は義家の養子として元服しているのだから、社会的には義忠や義国の弟だろ?

329日本@名無史さん2013/02/22(金) 23:14:59.60
為義は義家の長男義宗の実子で、義宗早世の後義家の養子に
なった気がする。証拠は無いけど。

330日本@名無史さん2013/03/02(土) 10:25:53.14
高橋昌明氏の新刊「平家と六波羅幕府」(東京大学出版会)
清盛研究の集大成.永久保存版として購読すべきですかね.

331日本@名無史さん2013/03/03(日) 21:59:13.86
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品

@『監査法人 (2008)』反体制・反社会

A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会

B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会

332日本@名無史さん2013/03/03(日) 22:21:20.63
老害高橋w

333日本@名無史さん2013/03/07(木) 15:41:48.84
源為義が、源義親の実子だとしても、従兄弟にあたる
河内忠国、新田義重、足利義康よりも大分、年上だよね。
叔父にあたる源義国とは5歳違いだし、叔父で宗家を継いだ源義忠とも13歳違い。

でも、為義って、源義親の四男なんだよな?
ということは、異母兄の源義信とか、もっと年上だよね?

そういう風に考えたら、源義家の子供って
義宗、義親と、義忠、義国の間で、だいぶん、年が離れているのか?
義忠は義家が44歳、義国は義家が52歳の時の子供らしい。

334日本@名無史さん2013/05/23(木) 02:08:04.57

335日本@名無史さん2013/05/23(木) 07:36:17.60

336日本@名無史さん2013/05/23(木) 10:01:19.53
|

337日本@名無史さん2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN

338日本@名無史さん2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN

339日本@名無史さん2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN

340日本@名無史さん2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN

341日本@名無史さん2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN

342日本@名無史さん2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN
ホゲー

343日本@名無史さん2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN
間違った
ホゲェー だ

344日本@名無史さん2014/05/21(水) 01:31:43.05
正解がようわからん

345日本@名無史さん2014/06/25(水) 19:47:31.61
>>320
義綱捕縛から追討まで20年以上あるのがきな臭い
いかにも適当に理由をつけただけって感じだ

346日本@名無史さん2014/06/25(水) 19:52:30.87
東京電機大学中学校評判万引少年S君
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稲城サッカースポーツ少年団評判稲城SSS評判
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稲城市立向陽台小学校評判Y子(稲城市百村)
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347日本@名無史さん2014/09/30(火) 00:37:14.54
川合ディスられてる(笑)

【刀】鈴木眞哉史観を疑う 五太刀目【騎馬武者】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/673-676

348日本@名無史さん2014/12/23(火) 11:48:08.94
ぬるぽ

349日本@名無史さん2015/01/03(土) 03:43:44.45
>>348
■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノ

350日本@名無史さん2015/05/16(土) 18:56:47.22
>>296
頼朝は天皇蔵人だったから昇殿は許されていたし、出世コースとしては朝長よりおいしい

その後、右兵衛権佐を頼朝に与えたことで二人の立場はハッキリしたはず

351日本@名無史さん2015/05/21(木) 23:38:14.75

352日本@名無史さん2016/08/26(金) 00:34:27.10
あの俺は清和源氏の貴族出身なんだけどな……!

353日本@名無史さん2016/08/29(月) 21:34:58.99
頼朝は母ちゃんの実家が凄かったからね。マジモンのサラブレッド

354日本@名無史さん2017/06/22(木) 17:18:15.60
由良の実家って従四位程度だし
中流公家ってだけだけどね

355日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:07:21.29
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

4SMSA

356日本@名無史さん2018/02/09(金) 20:52:05.49
あげ

357日本@名無史さん2018/03/11(日) 00:17:05.14
>>15
頼長の妻子は皆殺しになっているから、頼長は確実に処刑だろう。
それも、ただの処刑では済まない。車裂き、鋸引きクラスの酷刑が
待っていただろう。

358日本@名無史さん2018/03/11(日) 00:19:21.24
(参考:頼長を自殺に追い込んで自分だけ助かろうとした藤原忠実は
鋸引きの刑で処刑されている。)

359日本@名無史さん2018/03/11(日) 00:55:23.60
>>357
>頼長の妻子は皆殺しになっている
頼長の死後、長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名は
それぞれの配所にて死去した[注釈 9]。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に太政大臣に
まで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。

皆殺しどころか太政大臣になってる。

>>358
>藤原忠実は鋸引きの刑で処刑されている。)
忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。

処刑されてないし、公家に鋸引きはない。武家の源為義とかでも斬首なのに。

360日本@名無史さん2018/03/11(日) 01:06:27.20
武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、
28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も
上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる
者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡
していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』に
よれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたという。

死刑自体が300年ぶりの復活で反対する声も多かった。武士は死刑でも貴族は流罪にとどまった。
死刑を強く主張した信西は平治の乱で晒し首になった。自業自得である。

361日本@名無史さん2018/07/12(木) 16:20:22.03
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

SY7

362日本@名無史さん2018/09/11(火) 19:30:45.23
皆様詳しいですね
そこで質問ですが
平家について知る上でいい書籍などがありましたら教えて頂けますでしょうヵ

363日本@名無史さん2019/06/02(日) 22:04:59.17
平安末期の保元の乱、平治の乱の勉強をしたが、日本の内乱、政争のパターンは全部同じ

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