武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ

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1日本@名無史さん2012/01/26(木) 18:43:06.66
鎌倉〜江戸時代と主に歴史は武家によって作られました。
歴史に疎い人間の中では朝廷は無い物として認識されていますが
厳然として存在した公家、朝廷について何でも語り合いましょう^^


2日本@名無史さん2012/01/26(木) 22:36:42.57
室町末期はさておき、安土桃山あたりから、公家はどうやって銭儲けてたんだろうか?

天皇とか、その辺はさておき、下級公家なんて、収入ないでしょ?

3日本@名無史さん2012/01/26(木) 22:47:03.97
>>2
書や和歌、管弦の家本としての教授や免状発行だね。対象は大名。

4日本@名無史さん2012/01/27(金) 01:57:54.08
>>3
暮らしていけるほどの銭をくれたんですかね?
受取証みたいのあったら、見てみたいんですが。

でもって、下っ端の公家って、そんなのを発行する権利あったのかもようわかりません。

5日本@名無史さん2012/01/27(金) 11:48:41.92
そりゃあ大内とかは一流しか相手にしないでしょうけど、
受け手側もピンキリだから、三流どころにも需要はあったのでは?
都ではまがい物として通用しないかもしれないけど、
田舎では都の公家ってだけで、それなりの権威では。

6日本@名無史さん2012/01/28(土) 01:47:42.41
>>5
あー、それはそうですね。なるほど、納得。
そういや、田舎豪族に嫁ぐ公家娘も多かったんですもんね。
戦国の混乱期に、なくなっちゃった公家なんかもあったんでしょうし。

にしても、徳川時代に入ってからの、下っ端公家の生活とか、大変だったのだろうなー。
岩倉具視の話を聞くだけで、「おおう、ヤクザの末端じゃん」という感じが……。

7日本@名無史さん2012/01/28(土) 08:44:43.34
中には偽公家とかに騙された田舎小名も居たんじゃないの。
事務とるくらいの公家の家臣なら主人のまねくらいできるでしょ。
下男の類ならともかく。
退職金代わりに主人の衣装とか一式盗み出して田舎に逃げれば、
立派な偽公家のできあがり。
たぶんそんなのが居たと思うんだよね。
で、地方の旧家の蔵の中にその連中が書いたような書き付けとか
まだ眠ってたりして。

8日本@名無史さん2012/02/04(土) 13:02:50.93
家業があった公家は上でも出てるような稼ぎはあったからまあ良かったね。
有名どころだと蹴鞠の飛鳥井家はいろんな大名のところに出張蹴鞠大会に赴いてがっつり稼いでる。

珍しいところでは久我家の按摩の免許とか五条家の横綱免許とか、
家業とは関係のない特権を持ってる家もあった。

応仁の乱以降は荘園を奪われて土地で生活はできなくなったから
それこそ公家だからこそ価値がある芸能や儀礼などで生きてたわけだ。

江戸時代に入ると下向して云々ということはなくなるから大名と姻戚関係を築いて上納金なんてのが一般的か。
禄高はたかが知れてるし、五摂家や一部の高級公卿以外はなかなか大変になってくる。
なもんで風俗店の呼び込みのバイトしたり、部屋貸ししたり、中には盗人になるような公卿もいた。一部だけど。

9日本@名無史さん2012/02/04(土) 18:45:45.94
蔵米取りの新家公家なんぞボロい長屋屋敷で下級武士並みの生活だったろうな。
五摂家の諸大夫・侍の方が地下だけどいい生活できていただろう・・・。

10日本@名無史さん2012/02/04(土) 19:10:17.28
切米取りの下層公家なんて100石にも満たないのいるからね。
しかもそういう新家は副収入得られるような家業がない場合も多いしそりゃ大変だったろう。

11日本@名無史さん2012/02/04(土) 19:41:57.55
堂上になると体面があるから、下手な副業もできないし。
その上に体面維持にかかる費用も大変。
と言うわけで、それなりに金になる本業の余録や副業がある地下は、
堂上になりたがらなかった家もあるとかどうとか。

12日本@名無史さん2012/02/04(土) 21:59:32.73
近衛家最強だね。縁戚の国持ち大大名や津軽家からの貢物、伊丹領からは
清酒でウハウハだろうし。そこらへんの貧乏旗本・大名よりよっぽど裕福。

13日本@名無史さん2012/02/04(土) 22:29:03.82
そりゃまあ貧乏旗本より貧乏な摂関家があってたまるかだろ

14日本@名無史さん2012/02/05(日) 03:35:11.42
内職をしていました。

15日本@名無史さん2012/02/05(日) 10:09:18.78
公家町絵図見ると九条や近衛などの御殿の広さに比べて30石平堂上のボロ屋敷の
狭さに笑ってしまう。
それにしても明治維新は日本を大きく前進させたけど、一方で旧来の城や寺や公家屋敷
など現代からみれば垂涎ものの建築物を破壊した。当時、後世に残る文化遺産として
保存しようという考えは皆無だったのかね?

16日本@名無史さん2012/02/05(日) 12:45:13.48
後世に残る文化遺産なんて考えが起きるのは時間が経たないと無理だろ
我々だってリアルタイムで生きている時はそのものの価値評価は難しい

明治時代ってのは旧時代の遺物=悪みたいな極端な考えもあったからね。
仰るとおり城郭や寺社でさえボコボコに破壊されたりただ当然で払い下げされたりしたわけだから
神社でさえ統廃合でかなり壊したからな

17日本@名無史さん2012/02/05(日) 12:47:18.76
ちなみに京都御苑に実際行くと分かるけど、地図上ではゴミクズみたいに見える公家屋敷も
実際はそこそこの敷地だったことが分かるよ。

もちろんかつての栄華やに比較したり、摂関家、市中の大店と比べたらそりゃ寂しいもんだけどさ。
摂関家は御所以外にも複数別邸持ってるしな。まあ別格だ。

18日本@名無史さん2012/02/05(日) 14:15:26.61
戦後復興期とか高度成長期とかバブルの頃に適当に作った手抜きビルでも、
何かの偶然で100年も残れば立派な文化遺産。
その時代に当たり前にあるものの価値は同時代人にはわからないよね。
って言うか時間が経過して当たり前でなくなって初めて価値が出る場合も多いか。

19日本@名無史さん2012/02/05(日) 14:18:37.12
姉歯マンションだって発覚せずに200年残ってたら、
その頃のドキュメントみたいなもので、
「見てください、実はこのように巧み設計されてるんですね」
「へー、さすが先人の知恵はすごいですねえ」
とか言われたりして。

20日本@名無史さん2012/02/05(日) 15:08:58.89
京都の三条通りは明治期のレンガ造りの建物が多いけど
あれこそ当時は文明開化の象徴として作ったものだから
当時は相当な違和感を感じた人も多かったと思うよ。

それが今やレトロな建築物群ってことで歴史的遺産になってるもんな。

ただ総じて言えるのは何でもかんでも時間が経てば価値が出るというより
その時代を反映していたり、その時代の技術の粋を活かしたものだったり
いずれにしても「良い物」じゃなきゃいくら古くてもさすがに価値は出んな。

千年くらい経てばうんこでも価値は出るが。

21日本@名無史さん2012/02/05(日) 23:49:40.69
しかしせめて宮家・摂家あたりの御殿をひとつでも残してくれてたらと思うと・・・。
冷泉家が残ったのが唯一の救いだが。
御苑内に九条家の茶室と庭園の一部は残っているね。

22日本@名無史さん2012/02/06(月) 05:17:02.01
江戸時代の公家って何やってたんだろう。禁裏御料や公家領の統治は幕府がやってたし、具体的な政務があったわけじゃなさそうだし。

組織だから総務とか会計とかの仕事はあったのかな。

23日本@名無史さん2012/02/06(月) 09:03:05.08
関白、武家伝奏、議奏など幕府と絡む役職はそれなりに忙しい

それ以外は交代で御所の勤番(夜勤あり)
あとは儀礼的な出勤

出勤がなければ家業に勤しむ。もしくは写本。
もちろん内職をする者もあり。

24日本@名無史さん2012/02/06(月) 10:29:31.73
>>22
毎日出仕してただろ
武家の世になったからと言って官位授与や年号取り決めは相変わらず
朝廷の仕事だった

あと、公家は和歌や琵琶などの「家元」になって副業で稼いでいた

25日本@名無史さん2012/02/06(月) 10:35:10.47
あと全国各地の寺社伝奏というお役目もありますな。勅祭はもとより祭事には
勅使その他の差配の役目があった。
また参内はしなくても主従関係(門流)を結んでいる摂家への出仕や
宗家・縁家の葬祭法神事への参座もある。


26日本@名無史さん2012/02/06(月) 10:52:06.47
>>21
閑院宮邸(京都御苑内)
有栖川宮邸(有栖館・平安女学院内)
桂宮邸(二条城本丸御殿)
有栖川宮邸と桂宮邸は移築されているけど
江戸時代の建物が残っている

27日本@名無史さん2012/02/06(月) 13:18:45.28
>>24
こういうシッタカっていなくならないな

28日本@名無史さん2012/02/06(月) 13:29:07.76
年号は武家が実質的に決めるようになっても、
年号決める儀式だけは朝廷でやっていた。
それでその儀式に伴い関係者にはなにがしかの対価があった。
ことに地下官人の場合は儀式の対価が収入のかなりの部分を占めたらしい。
役目によるから一概には言えないけど。

29日本@名無史さん2012/02/06(月) 13:55:08.55
>>24は恥ずかしい

30日本@名無史さん2012/02/06(月) 14:04:14.22
>>28
年号をいつ武家が決めた?
江戸時代を通じて年号を決めたのは朝廷。
織田信長が改元を求めたことはあったが、
それでもどのような年号にするか、いつから改元するかは
朝廷の権限だった。
>>29
そっちが恥ずかしい。

31日本@名無史さん2012/02/06(月) 14:33:55.40
>>30
毎日出仕とか知ったかしてるから恥ずかしいと言ったんだが。

しかし恥の上塗りをしてるようだね。
いつから改元するかは幕府の意向に相当左右されてるんだよ。
そもそも室町時代であっても義満なんかは改元に口挟んでるからな。
年号案は朝廷だけどね。
ちなみに江戸時代は誰が年号案を決めてたか知ってる?

32日本@名無史さん2012/02/06(月) 15:10:34.47
江戸時代にこのままじゃ朝廷・公家はダメだって
武士の真似事した天皇いたよな
俺は嫌いじゃないぜ

33日本@名無史さん2012/02/06(月) 15:15:04.69
あと後柏原天皇の和歌が好き

34日本@名無史さん2012/02/06(月) 15:27:25.37
>>31
>いつから改元するかは幕府の意向

えっ?
史料を提示してね
改元も朝廷側が学者に3つぐらい候補を出させて合議制で決めてたと思うけど
君は誰が元号を決めてたと思ってるの?

35日本@名無史さん2012/02/06(月) 16:31:26.74
その示した3つの案を考えた学者が誰がと聞いてるんだよ
それも答えられないくせに偉そうなこと言うな

36日本@名無史さん2012/02/06(月) 17:07:38.51
なんで日本史のスレは、ケンカになることが多いんだろう(´・ω・`)

知ったか って言葉はやめようよ

37日本@名無史さん2012/02/06(月) 18:04:14.03
その三つの案ってのは、ただの形式の場合もある。
決まってるけど、一応三つだして選んだことにする。
公家にとってもっとも大切なのは形式だから。
酷い時は同じ人物が、案を出して、自分で批評して、
これがよろしうございますと進上。
つまり一人二役なんてことになる。
衰亡期で人が居ないとそんな羽目になるけど、
それでも形式だけは外さない。
それしかすがるものがなかったんだな、その頃は。

38日本@名無史さん2012/02/06(月) 18:22:55.00
公家領って一村に複数の領主がいる入組だし、公家の家政機構が脆弱だから
年貢徴収や裁判権は京都町奉行や幕府代官に頼らざるを得なかった。
しかし軽微な事案は公家側で処理していたみたいだね。公家側の雑掌と庄屋間の
手紙などが古文書として多く残っている。

39日本@名無史さん2012/02/06(月) 21:15:50.99
>>32
後光明天皇のこと?
京都所司代の板倉重宗の「あなた様をお止めできなければこの重宗
切腹せねばなりません」の諫言に対して
「未だ武士の切腹を見たことがない、見ていてやるうえ切腹せい」
って言った人?

40日本@名無史さん2012/02/06(月) 21:51:14.60
>>34は江戸時代の改元には幕府が介入していたものもあるというのを知って消えたか
ちなみに改元案自体を考える家は菅原氏だ

41日本@名無史さん2012/02/07(火) 02:32:03.25
改元が公家の専管事項だなんて都市伝説だよ。
室町期に足利義満が「洪徳」という年号を
ごり押ししてきて、「徳の字のついた年号が続き過ぎる」とか
「洪水になる」とか言って必死に公家衆が宥めたんだわ。

永徳-至徳 と来てその次に洪徳を希望した義満だった。

それで結局「嘉慶」になったのだが、義満は「洪徳」が
採用されなかったのを怒り、今度は改元をさせないという
サポタージュに出た。
南北朝合一後に定められた「応永」が35年の長きに渡るのはそのため。

42日本@名無史さん2012/02/07(火) 10:57:49.82
改元っていうと、江戸時代の改元の詔書を見たことがあるが、
改元に際して天下に大赦し・・とか老人には穀を給う・・とかおよそ朝廷の実権においては
なし得ない事柄が書いてあって、また同時に出される太政官符に至っては
名のみで実体のない官・省以下が記されていて、ちょっと感動ものだった。
大赦というと、これも形式的だが検非違使が罪人を赦すという儀式があるって
『幕末の宮廷』にあったな。

43日本@名無史さん2012/02/08(水) 04:01:05.54
>>42
それは全くの空文なの?
それとも幕府や藩がそれに合わせて減刑したり米を支給したりしたの?

44日本@名無史さん2012/02/08(水) 08:25:07.89
>>41
義満の死後も続いてるじゃないか>応永

45日本@名無史さん2012/02/08(水) 18:26:17.90
>>43
詔書はテンプレがあるからそれに沿って書かれているだけで
ほぼ空文かと。改元大赦は下橋敬長の述懐で検非違使が六角獄舎で
宣告のみ行うとある。
実際、改元を諸国に知らせるのは朝廷の詔書ではなくて幕府からだし。

46日本@名無史さん2012/02/09(木) 16:27:28.02
>>45
でも、獄は実際にあったんだ?
まさか牢屋まで空っぽだったのかな。それとも、幕府の牢屋で読んだのかな。

47日本@名無史さん2012/02/09(木) 17:34:11.48
昨日だか、一昨日だかの「さかのぼり日本史」で、武家政権樹立後の公家の
身の立て方みたいなのやってましたね。

48日本@名無史さん2012/02/09(木) 17:54:21.52
確か犯人役の人が決まっていて、その人許す儀式をするんだとかどうとか。
役人でなくて町民だったような。
あくまで幕末頃の話で、いつからそんなことをやっていたのかはまあ不明だろうけど。
戦国末とかはそんな形式すらできなかっただろうし。

49日本@名無史さん2012/02/09(木) 18:08:10.02
その犯人役は「こうべ」とか言うらしい。
「頭を垂れる」の頭?

50日本@名無史さん2012/02/09(木) 18:15:19.63
幕末、堤家(30石蔵米)の家臣団・使用人

雑掌・用人・番頭・近習(奥勤小侍)・中番・下部
年寄・側・乳人・黒歯・白歯・茶間・仲居 など男女約15名・・・。

けっこうな人数だな。

51日本@名無史さん2012/02/09(木) 18:20:05.41
>>48
有り難う。今で言うと神事みたいだね。
地鎮祭で鍬を入れるあれなんかも、今では実際の意味を完全に失ってるものね。

52日本@名無史さん2012/02/09(木) 18:22:25.58
>>48
有り難う。今で言うと神事みたいだね。
地鎮祭で鍬を入れるあれなんかも、今では実際の意味を完全に失ってるものね。

53日本@名無史さん2012/02/09(木) 18:43:57.31
>>50
30石で、そこまで!?

54日本@名無史さん2012/02/09(木) 18:54:21.60
江戸時代の朝廷って敢えて現代に準えれば「神社」というイメージで良いのかな。
職掌は儀式(改元含む)ばかり。でも組織だから、総務とか会計とか人事とかは存在してる、みたいな。

55日本@名無史さん2012/02/09(木) 19:18:33.74
学会だよ。

56日本@名無史さん2012/02/10(金) 13:25:17.38
せんせい∩(´・ω・`)

江戸時代……というても広過ぎか。江戸末期段階で、公家ってどのくらいの家が
あったんでしょうか? 曖昧な聞き方なんですが、単位がよくわからない……。
んー、なんとか家みたいなの、なんですが。

岩倉具視が騒動起こしたのって、五百家騒動でしたっけ?

57日本@名無史さん2012/02/10(金) 13:58:48.36
堂上は130〜140軒くらいだったかと。
地下は世襲じゃない下官人まで入れると1000人前後とかだったような。
家として固定してるのは300とかそのくらいだったかな。

58日本@名無史さん2012/02/10(金) 15:17:02.85
世襲の地下官人は士族になったんでしょ。

59日本@名無史さん2012/02/10(金) 19:35:45.63
世襲かどうかの定義は難しいみたいだね。
世襲ってことになってる家でも、実際は株化して養子の場合もあるし、
下官人でも本当の親子や兄弟の例もあるらしい。
なんか一応子が継ぐけどすぐに辞めて、他人が相続ってのが連続してる役目もある。
それで世襲かどうかの区切りがつけにくかったのか、
下橋翁の話では幕末の時にたまたま史生等で任官してた連中は
士族になれたとかどうとか書いてあったような。
記憶違いだったらすまん。
下官人にも入らないんじゃないかとも思われる看督長・使庁なんかは、
士族になれたんだろうか?

60日本@名無史さん2012/02/10(金) 19:40:04.47
幕末の宮廷は、たぶん19世紀の宮廷についてはほぼ正しいんだろうな。
もちろん多少の記憶違い勘違いはあるにしても。
伝聞にしてもある程度正確なのは祖父の頃までだろうから。
18世紀前半以前とかは地道に調べるしかないんだろう。
古代史と違ってまだ画期的新史料が出てくる可能性は有るしね。

61日本@名無史さん2012/02/13(月) 09:47:53.44
>50
それは、何に載っていたのですか?
その資料の名前を教えてください。

62日本@名無史さん2012/02/13(月) 10:11:27.58
>>50の例はたぶんなにか別途収入があったんだろうな。
それとも家臣の大半は無給、あるいは持ち出し有りとか、
じゃなきゃあどう考えても生活できないよ幕末頃だと。
江戸時代初期ならまだあり得たのかな?それでも非常にきつそう。
もしかして、なにかの行事の時の臨時雇いも含めた人数かな?

63日本@名無史さん2012/02/13(月) 11:18:17.42
>>61>>62
皇學館大學の上野秀治氏の論文から。皇學館大學史料編纂所報第72号
「幕末の堂上公家の家計に関する一史料」
史料は堤家所蔵の家計帳。
時代は文久の分賜米があった後なので実質石高は方領含めて215石らしい。

64日本@名無史さん2012/02/13(月) 12:58:25.57
女中は行儀見習いだから無給って場合もあったらしい。
逆に実家から付け届けとかもあったりとか。
有給でも男よりは安く上がるし、食い扶持も少ない。
だから江戸時代も進んでくるとどこの家でも男を減らして、
女を増やす傾向があったそうだ。
幕臣とか陪臣の話だけど、公家も傾向としては同じかな?
平和な時代なら、儀礼上どうしても必要な役目以外の、
単に家政で必要な人手は大概女で間に合うもんな。

65日本@名無史さん2012/02/14(火) 00:22:00.64
上野氏の論文によると家臣の給米だけで35石らしい。
分賜米のおかげで家臣を新規雇用したのか・・・というと
近習以下侍は譜代家臣もいるようだ。一代抱えもいてこれは新規かもしれんが
そこまで詳しくは書いていない。

66日本@名無史さん2012/02/17(金) 10:49:39.53
従五位程度の旗本(禁裏附)の部屋に呼び出されて罷り出る
従二位権大納言級の武家伝奏・・・。

67日本@名無史さん2012/02/19(日) 00:21:54.56
明治以降は立場逆転だな。旗本は威張っていても石高が高くても
士族。堂上は石高少なくても、30石でも子爵以上の華族さま。

68日本@名無史さん2012/02/19(日) 20:04:07.12
1851年の二条家諸大夫は筆頭が27両強・あとはほとんどが15両強、
子息で禄がないのは除き、なぜか一人だけ8両強。侍からの昇格組かも。
侍とか用人とかは、9両とか8両程度以下。
かならずしも家内の身分と禄の高低は連動してないようだ。
身分ごとに平均値はちゃんと身分順になってるようだけど。

69日本@名無史さん2012/02/19(日) 22:01:35.53
二條家の諸大夫ともなれば北小路とか松波とかさすがに譜代でそれなりに
由緒ある家臣だなー。

70日本@名無史さん2012/02/21(火) 20:03:45.43
武家との婚姻関係で見る家格

将軍家−内親王・摂家・親王家
御三家・御三卿−摂家・親王家
国主大名−親王家・清華家・平堂上家
一般大名・旗本・大藩家老−平堂上家

71日本@名無史さん2012/02/27(月) 20:14:06.52
公家の生活は「家の格」によって出世できる終点の身分も決まっていた。
武家の方が自身の才覚によって身分上昇が可能なので、「世の中を変革しよう」
など、公家の側からは出なかったのだろうな。

72日本@名無史さん2012/02/28(火) 22:50:51.99
逃げる公家、媚びる公家―戦国時代の貧しい貴族たち―』柏書房(2011)

73日本@名無史さん2012/02/29(水) 09:39:49.72
信長とか秀吉は公家を武装させて参陣させてたからなあ。
もちろん実戦力ではなくて御伽衆的な感じだけど。
これを本気にして渡海しようとした近衛信尹みたいな摂家も出てくる始末。

74日本@名無史さん2012/03/01(木) 18:22:11.62
公家はペットみたいなもの。数が少ないのが生き残る道。

75日本@名無史さん2012/03/02(金) 18:01:17.87
公家が一番困窮したのは戦国時代でしょ?
でも江戸時代見ても100石に満たない公家がぞろぞろいたよな・・・
戦国時代は天皇も飢えて餅屋からの献上品を食ってたというし
京都にいた有力武家は何をしていたのかと小一時間問い詰めたい


76日本@名無史さん2012/03/02(金) 20:59:42.79
別に扶養義務があるわけじゃないし。
正直どうでも良かったんじゃないの?
余裕がなかったのかも?

77日本@名無史さん2012/03/02(金) 21:48:30.44
>>75
>京都にいた有力武家

これって室町将軍のことでしょ?室町将軍も金欠で援助どころでは無かった。
大体将軍が京に不在なことが多くてね。追い出されちゃって。

78日本@名無史さん2012/03/03(土) 11:39:19.66
>>68
へえ、そうだったんですか。面白い。
何ていう本(論文?)に書いてありますかね?

79日本@名無史さん2012/03/03(土) 12:09:25.23
>>78
「近世の身分的周縁」とかってシリーズの「朝廷を取り巻く人々」とか言う題名の本に、
収録されていてた摂家家臣について書かれたもの。
題名はうろ覚えなので間違ってるかもしれない。

80日本@名無史さん2012/03/03(土) 21:16:02.15
>>79
78です。ありがとう御座います。
来週学校に行って図書館にあるか調べてみます。

81日本@名無史さん2012/03/03(土) 22:49:17.03
>>79 >>80

正しくは吉川弘文館 『身分的周縁と近世社会8 朝廷をとりまく人びと』

近世朝廷研究の第一人者、高埜利彦氏と高埜氏の門下生による共著の本。
地下官人や堂上家の部屋住みなどにも触れていてなかなか読み応えあるよ。

82日本@名無史さん2012/03/06(火) 01:52:08.19
宣伝乙

83日本@名無史さん2012/03/08(木) 13:42:47.72
そもそも江戸時代に公家って必要だったのか?
皆無でいいとは思わないが、大臣家未満は無嗣絶家でも問題ないでしょ。
大名の改易みたいに浪人が増えるわけでもない。

84日本@名無史さん2012/03/08(木) 20:42:55.41
朝廷の組織運営に最低限必要な人数を確保するために、幕府主導で新家を設けて公家の数を増やしたのだが>江戸時代

85日本@名無史さん2012/03/08(木) 20:53:43.77
>>84
中断していた儀式とかを中断させたままにするのならば、
新家を設ける必要がなかったけれどね。
もちろんそうさせないのが朝廷の要望と幕府の方針だったから、
公家がごちゃごちゃ増えたのだが。

86日本@名無史さん2012/03/09(金) 08:32:18.91
>>83

あなたはレンホーさんですか?

87日本@名無史さん2012/03/10(土) 10:50:25.00
 
評論家が「江戸時代の体制を維持せよ」と、
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0202/8/188_2.html
ようやく、日本政府の一角が、現体制が「徳川幕府体制」そのものであることを認め始めた。
そもそも、徳川時代権勢を誇った「公家」「侍」集団が、やすやすと貧しい農民集団に権力を明け渡すはずがない。
明治時代、金持ちから優先して税金を徴収したというのは、真っ赤な「ウソ」。
平民階級の成り上がり者に高率税金を課し、絶対に金持ちに紛れ込んでこないようにした。
もちろん、天皇一族、公家、侍階級が税金を払うはずがない。
このような天国の生活を放棄するわけがないことは、子どもでもわかることだ。

88日本@名無史さん2012/03/11(日) 15:28:29.32
摂家の当主ですら、征夷大将軍ごときから偏諱を受けていたって、情けない
存在価値が希薄すぎ

89日本@名無史さん2012/03/11(日) 19:22:39.65
>>88
二條家のことかーーーーっ!!!

90日本@名無史さん2012/03/11(日) 20:32:12.92
室町時代は二条家以外の摂関家ももらってるよ

91日本@名無史さん2012/03/12(月) 11:03:50.17
あの時期は実質的に君主だもんな。
普通はあそこまで行けば簒奪しちゃう。
あるいは、名目君主の次の臣下最上位の地位を作ってそれになるか、
既存の臣下最上位の地位に就任しちゃう。
征夷大将軍は名目上は明確に摂関より上位に位置づけられてもいない、
不思議な地位。

92日本@名無史さん2012/03/17(土) 13:59:24.11
室町時代後半
スポンサーがいない → 即位するカネがない → 天皇在位が長い
感じいるものがある

93日本@名無史さん2012/03/24(土) 22:06:04.07
>>92
死ななければ100年でも在位していそうな雰囲気。
後柏原や後奈良、後土御門あたりが貧困天皇の極致。

94日本@名無史さん2012/04/01(日) 11:46:22.32
>>92
他の国なら、とっくに公家・天皇家なんて消滅してたんだろうね。
>>83氏の言ってるように、「なんで必要だったの?」っていうのは、
天皇家・公家っていうシステムの不思議さを改めて感じさせます。

95日本@名無史さん2012/04/01(日) 17:12:48.33
>>94
長く続きすぎて、誰もが「無くす」ことが怖くなってしまった。

96日本@名無史さん2012/04/02(月) 12:47:14.17
>>94
武家は権威付けに朝廷から官位貰わないといけないのに
天皇家、公卿を粛清とかする必要あるのか?
織田信長は生きていたら自分が天皇として即位しそうな感じだけど
明智光秀に殺されてるし。

97日本@名無史さん2012/04/02(月) 13:37:52.55
今から見ると、皇室は日本史上存続するのが当たり前だったように見えるけど、
実際には、偶然が続いてここまで存続した、と見るのが正しいと思う。

特に、室町中期までは、皇室にもまだ
財政的基盤も政治的基盤も、それなりにあったわけだが、
戦国時代にそれが、ほぼなくなった。
その後江戸時代には、家康の貴種マニア的な性格もあり、
朝廷は箱庭的に生き残ったわけだが、あくまでも箱庭であって
財政的にも、政治的にも従来のものとは全く異なったものになっていた。

もし戦国時代があと数十年続いていたら、皇室が滅亡していてもおかしくなかった、
と自分は思うが。最後まで京都を離れなかったのが幸いした。
もし本当に生活できなくなって、地方に亡命したりしたら、きっと滅んでいたと思う。

98日本@名無史さん2012/04/02(月) 15:12:32.72
>>97
運がいいだけで生き延びられないよw

99日本@名無史さん2012/04/02(月) 16:04:31.43
>>96
信長が天皇として即位しそうな感じってのの根拠は?
それ言ってる人見るとどうも素人っぽくて。
根拠を明示してくれればまだ話になるけど。

100日本@名無史さん2012/04/02(月) 16:09:05.90
>>97
皇室の権威を利用したのは紛れも無く戦国大名だろ?
大内や毛利がどれだけ献金したと思ってるんだ。

ただそれでも経済的には安定しなかったが信長、秀吉の登場で
天皇権威は復活しただけでなく、以前にもましてその存在意義が増した。

もちろんそれは信長、秀吉の栄光のお陰であることは間違いないが
戦国時代を終わらせたのはある意味この両名であって、
あたかも家康が皇室の存続に大きく寄与したというのは
あまりにも飛躍した話である。


1011002012/04/02(月) 16:13:55.97
とは言え>>97氏の言うように、もし天皇が地方に亡命することがあったらそりゃ滅んでいた可能性は高い
ただ多くの公家が地方に疎開したのと決定的に違ったのは、玉座という地位を軽んじないという
天皇自らの天皇の歴史に対する敬意だ。つまり地方に亡命するなんていう仮定がありえない。

そもそも戦国時代にあって地方亡命なんてのはある勢力に取り込まれた時なわけで
それを他の大名が許すわけもない。つまり戦国のような時代だからこそ京都に固定されるし
大名勢力もそれを望むわけだ。そこら辺の仮定を公家レベルや京都内での里内裏レベルと同じに考えてるのはおかしい。

102日本@名無史さん2012/04/02(月) 16:26:55.78
>>100
いやだから書き方が悪かったかも知れんが、
勿論家康だけじゃなくて、信長秀吉が現れずに、
あのまま足利将軍家の権威低下だけが続いて、あと数十年〜100年程度
戦国時代が続いたら、やっぱり金欠で生活できず、
「どこかの勢力に取り込まれてしまう」ことになったのでは?
ってのが自分の想像。
あくまでも想像だから、それ以上議論はできないけどね。

とにかく、戦国時代の朝廷は、(一般的に思われていることに反して)
「存続の危機」の状態にあった、ってことは確かだと俺は思う。

103日本@名無史さん2012/04/02(月) 16:30:16.76
>>102
武士が全員悪党になった上に荘園の解体が進んだんじゃしょうがないね。
危機は危機だけどやっぱり官位を与えるということで生き残ってる。

104日本@名無史さん2012/04/02(月) 16:33:33.89
その「あと100年間戦国時代が続いたら〜」っていう想定自体がナンセンスだからな。
戦国時代があと100年続くってのはどういう状態か想像もつかないし、
逆に言えば戦国時代が終了するその100年後というのはどういう終了の仕方なのか。

つまり設定自体に(歴史を考える上では)無理があるので、その設定に基づいて天皇がどうだというのは無理だし無意味。
なのでそれをもって「存在の危機」にあったとも判断はできない。

むしろ戦国時代でさえもその存在が失われなかったことを考えれば
「存続の危機」は戦国よりも道鏡の登場や、足利義満のような公家社会も取り込んだ独裁者の登場時の方がよっぽど切迫していたと思う。

105日本@名無史さん2012/04/03(火) 22:54:40.85
権威ってなあ、なんなのでしょうなあ……(´・ω・`)

天皇というシステムが残った理由の一つが「長さ」だとしたら、「漢」はなじぇに
無くなってしもたのだろうかなー、とか。献帝まで約400年でしょ?

支那の場合は、禅譲っていうシステムが構築されたせいかしら?

106日本@名無史さん2012/04/03(火) 23:49:40.89
世界史的に見れば、永続しないほうがずっと多いからな。
普通は続かないし、変わったときにその理由を考えるほうが普通だったから。
権威は跡付けだよ。

107日本@名無史さん2012/04/04(水) 09:28:20.30
天壌無窮の神勅がわが国体を保証してるんだよ。

108日本@名無史さん2012/04/04(水) 10:04:43.60
>>105
儒教が根付くのが遅かったからじゃないか?

109日本@名無史さん2012/04/04(水) 10:49:41.57
>>108
「孟子」の易姓革命概念が嫌われて、
「孟子」を載せた船は沈むという俗説があったぐらいだからな。

110日本@名無史さん2012/04/04(水) 11:51:15.30
>>104
天皇家の持つ広大な荘園が武家に横領されつくしたから、天皇に価値がなくなった。

111日本@名無史さん2012/04/04(水) 12:24:30.99
隣の新羅はなんで滅んだ?

112日本@名無史さん2012/04/04(水) 16:30:06.04
>>110
天皇は荘園を所有してたから価値があったわけじゃなかろうに。
てか日本語で頼むわ。

113日本@名無史さん2012/04/05(木) 00:52:52.90
>>104
戦国時代が続いてたら天皇制が滅んだか?ってのは議論あり得ると思うが、
「戦国時代があと100年続くってのはどういう状態か想像もつかない」ってのは、すまんがよくわからん。
想像くらいは、容易につくだろ。
信長秀吉以前から、戦国の覇者はいて、しかしそいつらは強い権力を持ちながら
維持できずに滅び去っていっていたわけで。そういう状態が続いて、
100年後になってようやく秀吉みたいな傑物が現れて統一する、なんてことくらい、想像するのは容易。

むしろ、歴史に「もし」なんてそもそもありえんだろ、って言うのならまだ話はわかるが、
それは全く別の問題な。

114日本@名無史さん2012/04/05(木) 01:45:23.06
根拠地から京都までの土地を連続して支配下に治めて安定していられた勢力が織田家が現れるまで無かったようなものだもんね。
細川とか六角とか三好とかは一応そういえるかも知れないけど、圧倒的な力で維持できるまでには及ばなかった。
大内とか根拠である山口に帰らなくちゃいけなかったし。

115日本@名無史さん2012/04/05(木) 12:46:49.47
>>113
現実に起こってないことを想像するのは容易とはなw
そもそも覇者がひたすら滅び去って行くことが繰り返される状態がただ延長されるだけと考えてるようだが
それは想像以下のものだろ。

ここは日本史板なんだから想像するにしても学問としての科学性を多少なりとも根拠とし給え。
それを踏まえた上で想像するのは困難だ、というわけだ。
戦国の覇者が攻防を繰り返すことが200年続くという状況は日本史の歴史性を考えた時にそれはどういう状況か
もう少しその想像とやらではなくて丁寧に説明してくれないかな?

116日本@名無史さん2012/04/05(木) 20:45:32.04
文化と教養が戦国時代の天皇や公家の存在意義だったのでは?
大名が公家文化を消化するか、新しい文化を創造できたら
大名は天皇達のスポンサーをする気は失せるだろう。

117日本@名無史さん2012/04/05(木) 21:09:51.18
>>116
もし室町幕府が鎌倉にあったら、天皇家は立ち枯れていたかもしれない。
武士が京都ではなく鎌倉を向くから。

118日本@名無史さん2012/04/06(金) 03:22:30.92
>>115
だからさ、あなたの言っているのは、戦国時代が100年続いたらどうこう言う話じゃなくて、
「そもそも現実に起こっていないIFは想像しても意味ない」っていうだけだろ?
もしそうじゃない、って言うのなら、
何でもいいから、何か現実に起こっていない事柄について、
日本史の歴史性を考えた時にそれはどういう状況か、自分で納得の行くくらい寧に説明してくれないかな?


つまりね、あなたはただ単に「歴史にIFは無意味」って言ってるだけなんだから、
もしそうなら、初めから>>104みたいに回りくどいこと言わずに、単に一言「歴史にIFは無意味」とだけ言ってくれよ、
って言っているのだが。

例えば>>104
「つまり設定自体に(歴史を考える上では)無理があるので、」云々とかいってるけど、
別に「設定に無理がある」わけじゃなくて、どんな設定だって史実じゃない以上ダメなわけでしょ?
もしそうではない、と言うのなら、どこにどう無理があるのか、明確に説明してくれよ。

119日本@名無史さん2012/04/06(金) 18:13:01.89
質問に質問で返さなくていいから、その戦国時代が200年も延長されてる状況、
あんたが想像できる状況ってのを詳しく描写してくれよ。;

ただ戦国の覇者が攻防を繰り返すのが100年から200年に伸びただけ、なんて説明じゃなくてさ。
歴史ってのは連続性と同時に空間的な広がりもあるわけなんだよ。

ただ「戦国時代が200年続くのは想像できる!」じゃ小学生と一緒だろ?
戦国時代と一口に言ってもそれぞれがそれぞれ独立して勝手にやってたわけじゃないわけで
いろいろな力学の元に歴史が展開されていたわけだ。

それは対大名、対家臣、対在地勢力、対朝廷、対幕府、そして対キリスト教、対南蛮貿易国、対支那、対朝鮮・・・
そういった要素を絡めた上で(なぜなら日本の歴史がどうなってようが平行した世界の歴史は否応無しに展開するからだ)
実際の年代、史実と想像のボーダーの政治的、経済的、宗教的状況、外国との関係などなどを時代に沿って丁寧に想像して
はじめて100年後も「戦国の覇者が〜」って言えるわけだよ。

ただ「その時の状況が100年後も温存されてるだけ」ってのを想像って言うんなら「縄文時代が続いてる現実も想像できる」って言ってるのと同じ。
少なくともこのトピックは「戦国時代があと100年続いてたら天皇は云々〜」というのが嚆矢なわけだから、前提となるその想像とやらが
「ただ前時代がそのまま温存されただけ」なんていう屁にもならない想像とやらだったら、その後の結果に対する検証にも関わってくるわけだ。
「天皇がなくなっていたか否か」なんていう検証抜きにして勝手に西暦1700年ごろも戦国の世が続いていたと想像するのはどうぞご自由に。
それでも、18世紀に戦国の世が温存されてるのはどういう状況か、なんてのは簡単に想像できんがね。先述の種々の要素があるから。



120日本@名無史さん2012/04/07(土) 02:15:48.30
>>119
前代の権威が大きく低下した中国の戦国時代みたいなのを
想像してるんじゃないの?
各国の君主が「王」を名乗ったみたいな。

121日本@名無史さん2012/04/07(土) 02:24:34.70
>>117
どっかの本で読んだが、鎌倉育ちの尊氏が京都に幕府を置くことを考えたのは
足利氏の権威や勢力の弱さのためらしい。
尊氏が戦の大天才だったり、北条氏の財力をそっくりそのまま継承出来れば
足利氏の権威や権力も上がって鎌倉幕府2ndもありだったんだろうが。
結局東国が西国と同等な文化を持つことは無かったな。
江戸時代も首都は江戸でも他は圧倒的に
西>>>東 だし。

122日本@名無史さん2012/04/07(土) 02:34:52.33
武家政権時代の朝廷公家は、覇道の世界によらない、学問、文藝の世界に身を置くことで保身を全うしてきたわけだが、
関ヶ原の戦いの丹後田辺城攻城戦のさい、不意に朝廷は、自らの意思を表明する
「幽斎を喪うのは、朝家の嘆きである」

なぜ、この時だけ、朝廷が、いにしえの国家権力のような毅然とした姿勢をとったのかね

123日本@名無史さん2012/04/07(土) 11:35:55.58
>>118-119
君ら賢いんだから、スレ違いなことに気付いてくれないかな。

124日本@名無史さん2012/04/07(土) 15:14:08.77
>>121
1450年くらいから上洛を志向する武将が出てくるけど、
天皇と将軍のどっちがより強く武将の上洛意欲をそそったのだろうね。
落ちぶれた天皇家にとって、将軍と同じ場所に居たことがプラスに
働いたことは間違いないと思っている。

125日本@名無史さん2012/04/07(土) 20:53:44.67
それは足利氏にも言える。
独自の権威を持つのに失敗したから
天皇の庇護者になろうとした。
もし、足利氏がかつての頼朝のような権威と北条氏のような権力があれば、
鎌倉を拠点に三河から陸奥までを支配したろう。

126日本@名無史さん2012/04/07(土) 21:09:57.46
>>123
申し訳ない。気をつける。

>>122
八条宮智仁親王の個人的な拘泥が大きかったのだろうか。
最終的な決定者たる後陽成天皇が秀吉政権の下で(文化的価値も含む)権威を上昇させていたことも
要因のひとつとも思うが。

127日本@名無史さん2012/04/08(日) 19:30:29.24
従二位兵部卿を得た大内っていくら献金したんだろう?
元々の大内の家格ってどうせ従4位下あたりでしょ?

128日本@名無史さん2012/04/08(日) 19:36:06.07
文献にあったはずなんだがどこに行ったかな?

129日本@名無史さん2012/04/08(日) 22:09:23.66
>>127
後奈良天皇の即位費用に2140貫、その他禁裏修理に100貫など。
後の正親町天皇の即位費用に毛利元就が2000貫献金している。
西国は太っ腹だね。

1301282012/04/08(日) 22:23:51.58
>>129
いやそれ以外にもしてるんだよ確か1000貫くらい。
正確な数字と、名目は失念してしまったが。
文献あさってみるわ。

131日本@名無史さん2012/04/08(日) 23:34:24.64
貿易は儲かるってことだね。しかし従二位で兵部卿にしか任じられないとは、朝廷も底意地が悪い。
中納言もしくは権大納言でも充分お釣りがくる。

132日本@名無史さん2012/04/09(月) 01:06:28.50
逆だろ。金で官位は買えないということを示してるわけだ。
ただ買えるかもしれないということも示しているわけでもある。

133日本@名無史さん2012/04/09(月) 09:02:39.13
従二位非参議なんて珍しくもないんだが

134日本@名無史さん2012/04/10(火) 08:55:43.45
このころは官職に対する位階の相場が落ちてるからね。
官位相当よりかなり高い位階の場合が多い。

135日本@名無史さん2012/04/10(火) 15:42:06.41
平公家の癖に1000石前後と清華よりも貰っている家が結構あるけどどういった由緒なんだろ?

136日本@名無史さん2012/04/10(火) 15:47:56.55
例を出すと花山院を本家とする系統では
花山院家(侯爵)715石
花山分家の難波家(子爵)300石
更に難波の分家の飛鳥井家(伯爵)が928石

137日本@名無史さん2012/04/11(水) 10:28:54.42
飛鳥井は難波の分家だが難波が絶家して飛鳥井の系統から再興したため
勅定で飛鳥井が本家、難波が分家と決められた

ちなみに難波飛鳥井は花山院の分家でなくて「同祖」という位置づけだったはず

138日本@名無史さん2012/04/12(木) 21:24:10.15
>>135
江戸時代だと、徳川家(特に家康あたり)との親密さが影響している。


139日本@名無史さん2012/04/13(金) 08:48:25.03
日野流の旧家が多めなのは、やっぱり実務を握っていたからか?
吉田家なんかは、神道のたまものなのかねえ。

140日本@名無史さん2012/04/13(金) 14:36:15.22
日野の所領が多いのは足利家との関係が深かったからだと思ってた

141日本@名無史さん2012/04/13(金) 20:46:40.33
日野は戦国時代に一回断絶しているからな
その後に養子に入った日野輝資は禁中並公家諸法度の立案に参画したと言われている。

142日本@名無史さん2012/04/13(金) 20:48:49.25
おお。全然知らなかった。
なかなか面白い経歴の公卿だね。

143日本@名無史さん2012/04/14(土) 04:15:03.47
やあ、なんか、すごく基本的な質問させてください。

戦国期以後の「公家/公卿」の地位ってのは、何をもって尊いとされたんでしょうか。
家柄ということですか?

144日本@名無史さん2012/04/14(土) 10:54:02.06
>>116
中国の周が勢力を失ってしばらく経ってから権威も失ったのは、
他の大国が段々と周が独占していた文化財を作る技術を獲得していったからでは?

145日本@名無史さん2012/04/14(土) 11:03:50.91
>>144
スレ違いな話題の上に
レスアンカーまでおかしい
あっちへ行け

146日本@名無史さん2012/04/14(土) 11:07:43.58
>>143
「貴種」というのは何時の時代でも尊いものよ。

武家が「貧乏公家め」と腹の中で小馬鹿にしていても
結局かなわないのがあなたの指摘する家柄とそれに基づく歴史伝統文化、
そして武家政権の裏付けとなっている天皇の直臣という権威的位置なんだろう。

幕府や大名にとって自分たちを権威付けるためにはどうしても必要な存在だったわな。

147日本@名無史さん2012/04/14(土) 13:41:49.43
>>145
大名側が朝廷に匹敵する文化財を生み出して
初めて朝廷の価値は完全に消える、ってことだよ。

148日本@名無史さん2012/04/14(土) 15:11:13.93
足利ってどうして日野みたいな平公家から代々嫁を貰っていたんだろう?
どうせなら摂家や宮家から迎えれば良いのに何故か勢力や家格の低下した応仁以降に正妻を
摂家から迎えているし訳わからないよね。
逆に考えると将軍権力が落ちたからこそ、箔をつけるために摂家から迎えたという事もできるが・・・・

149日本@名無史さん2012/04/14(土) 18:23:25.49
家格が低下というのはどうなんだろうね。
得宗も足利将軍家も、官位でかざる必要が少なくなったから
昇進に拘らなくなったんだろう、という論もあるようなし、むしろ
そっちの方が説得力がある気がするが。
実際、室町後期であれば、摂家の権威なんて将軍家よりはる
かに下なわけで、箔付になどなりようもないし。

150日本@名無史さん2012/04/14(土) 23:49:13.69
>>149
応仁の乱以降、足利将軍が飾り物になって将軍の官位も在任期間が短く、昇進の機会が少ないことを考慮しても
大臣どころか三位にもならない事が多々あったけど?
執事に過ぎない北条得宗が官位に頼らなかったというのとは違うと思うが。

151日本@名無史さん2012/04/15(日) 00:15:34.31
>>150
得宗も、早い時期には四位まで上がっていたのが、後期になると五位という
例が多いという。で、庶家の方が四位で官位は高かったりする場合もあると
いうが、それをもって「北条庶家の方が得宗より家格が上だった」とするの
はおかしいだろ?
足利将軍家にしても、昇進の儀式にかける金がおしいからというのが理由
であり、「将軍家」という官位を超越した家格が確立した後では敢えて箔付
の必要がなかったというのが実態でしょう?
実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、
将軍に伺候していたわけだし。

152日本@名無史さん2012/04/15(日) 02:48:52.41
>実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、将軍に伺候していたわけだし。

は認めるが足利将軍の家格低下?は得宗のそれと比較できるものと同類と言えるだけの問題かな?
将軍家の勢力低下と摂家の低下と同列に談じる事が出来るか否かというとは少し違うと思う。
少し違うけど徳川将軍と摂家は分相応の婚姻と言うのと比べて足利と日野が分相応というのは違う気がする。
教養深い人だと思ったので問いかけを含めてレスさせてもらった。

153日本@名無史さん2012/04/15(日) 05:47:03.44
単純に日野家から嫁を迎えた最初の将軍は義満だから、それが吉例扱いされたんじゃないか?
義詮が渋川・紀氏の嫁を貰っているのに比べたら価格は上がっているし。

154日本@名無史さん2012/04/15(日) 17:02:49.74
下橋敬長さんの「幕末の宮廷」はかなり面白いね。
知らない人は是非読んで欲しい。文調もどこか軽妙な感じで飽きない。

155日本@名無史さん2012/04/17(火) 23:46:35.96
義満の例にならってということも大きいんだろうけど、義持以降の場合には
日野家からの「母(准母含め)」が、子の嫁として自分の縁者を推したという
事が大きいんではないでしょうか?

156日本@名無史さん2012/04/26(木) 01:28:38.04
秀吉に関白を売った割には近衛は潤わなかったなw
上級旗本並みの石高しか貰ってないし多少の金貰った以外、摂関家に何かメリットあったの?

157日本@名無史さん2012/04/26(木) 08:49:35.41
近衛前久は天皇の外祖父になれたけどな。
摂家出身の母を持つ天皇は久しぶりだった。

158日本@名無史さん2012/04/26(木) 18:42:42.15
まあでも近衛家に限って言えば領地で大もうけして実高1万石って言われてたから。
軍役義務(城普請・参勤交代)の無い公家だからそのまま余計な出費ないし。

159日本@名無史さん2012/04/27(金) 08:44:52.14
しかも大名に比べて家臣も少なく、人件費が浮く分更に。

160日本@名無史さん2012/04/27(金) 18:13:38.64
さらに縁戚の将軍家・御三家・国持大大名からのお手伝い金などもあり・・・。

161日本@名無史さん2012/04/27(金) 18:24:27.31
>>156
摂関家の収入が表石高だけだと思ってるのか?

162日本@名無史さん2012/04/28(土) 10:53:04.57
家礼の家は、やっぱり摂家に付け届けとかするの?
官位昇進の口添えのお礼とかで。

163日本@名無史さん2012/04/28(土) 12:43:21.14
公家から将軍の家来に転身を図った鷹司信平

164日本@名無史さん2012/04/28(土) 17:11:49.99
渋川氏って、娘を義詮室にしただけじゃなく、直義室にもしていて、
更に高師直の娘を嫁にもらってるんだね。

そんな渋川人脈もありながらも観応の擾乱がおきてるんだよな。
足利・渋川の二重の血縁関係があっても、内輪揉めを防げないってよっぽどだよな。

165日本@名無史さん2012/04/29(日) 16:04:04.54
摂家から土着大名になった一条教房が、
ある意味で最強だ

166日本@名無史さん2012/04/29(日) 23:43:35.15
うん。奉公衆が瓦解した室町末期の将軍と一条教房を比べれば
教房の方がたくましい。

167日本@名無史さん2012/04/30(月) 12:12:55.55
そのまま京都にいれば関白にもなれたのにね

168日本@名無史さん2012/04/30(月) 17:45:11.51
京都にいたころに関白になってるだろw

169日本@名無史さん2012/04/30(月) 23:46:38.28
子孫も関白になっているね。

170日本@名無史さん2012/05/01(火) 00:11:43.00
親父が奈良に来たら土佐に移ったわけだけど、親子仲が悪かったのかな?

171日本@名無史さん2012/05/02(水) 08:25:56.76
その当時はどうだろ?
後に土佐に移ってからはけっこう兼良に援助してるみたいだけど。

教房はさきの関白だから貴族中の貴族だけど、土佐二代目三代目・・・になってくると
在国だからやはり気性も武将のそれになって甲冑を着て出陣もあったんだろうな。

172日本@名無史さん2012/05/02(水) 09:52:42.26
土佐日記なんてのがあったから土佐へ下向してみようかなんて考えたんだろうね。
そうじゃなかったら流石に南海の果てまで行こうとは思わんかったんジャマイカ。

173日本@名無史さん2012/05/02(水) 15:40:09.73
土佐一条と北畠の官位は羽林並ってところか?
一条教房の系統が土佐と京都に別れた感じじゃね?

174日本@名無史さん2012/05/02(水) 20:49:35.98
実際に不知行になっていないところが土佐にしかなかったとか

175日本@名無史さん2012/05/03(木) 09:23:21.61
鎌倉四代将軍の兄は、九条家を継いだ者、二条家の初代、一条家の初代。
一門で繁栄しそうなものだが、そうでもないところがいいね。

176日本@名無史さん2012/05/04(金) 10:45:50.22
義昭を追いやったあとの織田本陣には公家も数十人の家人を引き連れて鎧甲冑を
身に着けて参陣してたらしいね。室町将軍家も将軍親征には公家を参陣させていたから
それを踏襲したんだろう。もちろん実戦隊ではなくて御伽衆みたいなものだろうけど。

177日本@名無史さん2012/05/04(金) 18:49:21.72
近衛前久も武田攻めに従軍してるよね

178日本@名無史さん2012/05/04(金) 19:05:31.87
前久と信尹はマジで武家になろうとしてそうな・・・。

179日本@名無史さん2012/05/05(土) 13:14:09.74
大坂の陣では持明院基久という公家が出陣・籠城して戦死してるね

180日本@名無史さん2012/05/06(日) 14:43:07.87
公家が武家のまねごとをしても家臣団の構成からして無理だし、
技術もノウハウもなにもないの戦闘行為なんかできやしない。

181日本@名無史さん2012/05/06(日) 19:34:19.01
>>180
一体、いつの時代の公家観だよ?

公家は身辺警護や所領の運営維持のために最低限の武力は中世を通じて保持していたし、
反対に武家だって常時安定した武力を行使できるだけの兵力を揃えられるようになったのは兵農分離後。

だから、河内の日根荘で守護の軍隊が九条家の青侍に率いられた荘民に返り討ちに遭ってしまうという事態が起こり得るのだが。

1821812012/05/06(日) 19:35:01.50
河内×→和泉○

183日本@名無史さん2012/05/06(日) 19:57:02.04
>>181
まあそれもそうだけど、土地に根ざしてる武士の家臣団と公家の組織じゃあ全然質が違うだろうよ
言いたいことわ分かるし、ある部分正しいのだろうけどたった1つの事件を取り出してきてそれを
自分の説の補強に使われてもね。単なる1つの事象にしかすぎんよ。

184日本@名無史さん2012/05/07(月) 09:02:55.64
鷹司信平だったか、江戸時代に公家から武家になったのもいたな

185日本@名無史さん2012/05/07(月) 09:22:08.48
忠幸王は尾張の姫に婿入りして尾張家一門になったあとに再び京都に戻って
公家に復して広幡家を興したな。

186日本@名無史さん2012/05/07(月) 19:45:58.31
参陣公家って加増を期待して参陣したんだろうけど、公家の所領は多くて2〜3千石くらいだから手柄なんかあげなかったのかな
それとも信長も、秀吉も、家康も公家には渋かったのかな



187日本@名無史さん2012/05/07(月) 20:05:51.45
下級公家の食事は庶民と
同じ様な内容だったの?
玄米とか雑穀の雑炊とか?

188日本@名無史さん2012/05/07(月) 23:18:08.36
>>183
その論理だと、守護大名だの守護代上がりの大名なんてのは
存在し得ないな。

189日本@名無史さん2012/05/10(木) 12:52:27.62
格の上下と貧富は直接には関係しないし、
庶民以下の生活もいれば、大名並みの生活もあるでしょ。
利権化した家業持ってるとか、宗教がらみはかなり裕福。

190日本@名無史さん2012/05/10(木) 13:55:34.19
>>187
徳川家光の時代に出された慶安の御触書で農民は酒や茶を買って飲むな、
雑穀を食べるようにし米を食べないことなどいう定書を公布したが
裏を返せば白米を食べ、酒や茶を買って飲む農民が結構いたということだろう

191日本@名無史さん2012/05/10(木) 16:03:44.57
その慶安の御触書が偽書であるという昨今定説化している論説の根拠の一つが
>>190のような時代にそぐわない内容に触れている点というのがある。

192日本@名無史さん2012/05/10(木) 18:12:05.30
>>191
慶安に出されたものではないらしい、という説があるだけで
江戸時代にそういう御触書があったことは事実

193日本@名無史さん2012/05/10(木) 21:00:53.81
>>162
官位昇進の推薦権は将軍とバッカクだから、お礼はバッカクに払うんやろ

194日本@名無史さん2012/05/10(木) 22:15:38.74
>>192
まず徳川家光の時代に、というところに対しての偽書というレスだったわけで
江戸時代(という長い間を通じて)農村法令が出されたことは当たり前のこと。

あなたがいう「慶安のお触書」に相当する法令が「江戸時代」に出されたというのは
「いつ」「どこで」というのを年頭に置いているのかな?
類似法令ならなんぼでもあるということ前提で、そういうアバウトな話ではなくて
>>191の時代にそぐわないというレスを踏まえて17世紀前半に存在する法令を提示してくれるかい?

195日本@名無史さん2012/05/11(金) 09:28:59.74
>>194
191が「徳川家光の時代に出されたのでは時代にそぐわない(別の時代なら適合する)」
という意味のレスなら、いつの時代なら適合すんの?
むしろ、そっちが答えるべきでは?

196日本@名無史さん2012/05/11(金) 09:46:38.64
いい加減、スレ違いな話題はやめろよ

197日本@名無史さん2012/05/16(水) 06:53:58.81
これが最後の警告だ
いい加減、スレ違いな話題はやめろよ

198日本@名無史さん2012/05/24(木) 07:46:22.19
江戸時代における一般の公家のイメージは鉄漿・白塗り・猫なで声・陰湿・・・で
統一されてしまったな、時代劇のせいで。おまけに大河なんぞも同様だし。
質実剛健な武士に対しての悪のイメージか。

199日本@名無史さん2012/05/24(木) 08:51:32.24
江戸時代の公家は、基本的になにもしないひとたちだからね。
社会に対してなんの貢献もしてない。

200日本@名無史さん2012/05/24(木) 18:22:45.01
無役の武士たちも同様。

201日本@名無史さん2012/05/26(土) 12:34:10.01
質問いいですか
同じ家名の公家が複数あったら、必ずどれかが改名しないといけない?

202日本@名無史さん2012/05/26(土) 18:41:27.97
歴史上、同じ名前の公家が並立した例は意外と多い。

203日本@名無史さん2012/05/26(土) 19:39:57.98
>>202
ありがとう
家系によって○○流の○○家、みたいに呼ばれてたのかな

204日本@名無史さん2012/05/26(土) 20:41:43.33
質問も解答も漠然とし過ぎて、意味がわかんね

205日本@名無史さん2012/05/27(日) 09:02:14.33
>>203
最終的にはどっちかの家が断絶するか、被ると不便だから改名するなどしているけれど、
堂上と官務家の「壬生」は重複したまんま維新を迎えたしね。

あと、家名については余りにも空気の読めないものを使う(源氏なのに「日野」とか「勧修寺」使ったり、某「悪魔ちゃん」的な文字を使ったり)以外は規制はなかったと聞いたことがある。
勧修寺系や閑院系の一条家とか御子左系の二条家、勧修寺系の九条家も存在していた訳だし。

206日本@名無史さん2012/05/27(日) 22:08:59.84
中御門や冷泉など家名が被ってた例はある。どちらも別称はあったが。

207日本@名無史さん2012/05/30(水) 23:36:09.59
北小路家も重複したまま続いてるみたいだ

208日本@名無史さん2012/06/02(土) 00:40:22.32
『公家侍秘録』・・・これに限る!!

209日本@名無史さん2012/06/20(水) 18:53:36.35
>>199
江戸時代の将軍家や御三家の正室の多くは摂関家をはじめとする公家の出身
となれば武家の上流社会に正室を送り込むという役割があっただろ>公家の役目
武家上流社会が公家の姫をほしがったのは血筋の良さもさることながら
諸芸や作法を身に着けた才媛であったことも大きい

江戸時代の公家が何もしてなかったというのも誤り
室町時代以降、公家は生活の足しにするためさまざまな「家芸」を身につけ
それを教えて副業とし生活していたからだ
西園寺家の琵琶、蹴鞠の飛鳥井家などなど文化貢献をしていた

210日本@名無史さん2012/07/06(金) 21:58:23.58
家業が琵琶とか蹴鞠なら、農業従事者の方がえらいね

211日本@名無史さん2012/07/06(金) 22:26:29.13
>>210
偉いとか偉くないとかいう問題じゃない気が。
戦のない時代の江戸時代の武士より米作ってる百姓のほうが偉いかもしれんし。
政務もとれない自閉症の将軍よりも百姓のほうが偉いかもしれん。

212日本@名無史さん2012/07/07(土) 08:52:56.49
こんなとこで腐った左翼思想なんか語るなよ

213日本@名無史さん2012/07/07(土) 08:57:54.18
>>212
右翼思想なら公家は天皇の次に立派な職業だよね

214日本@名無史さん2012/07/07(土) 14:30:54.40
>>213
天皇、公家、武士どれも俺の前では平等に価値がない!
そびえ立つ糞のようだ

215日本@名無史さん2012/07/07(土) 14:45:05.07
下賤な者がなにか叫んでますw

216日本@名無史さん2012/07/07(土) 15:24:51.34
>>215
口で糞垂れる前にサーと言え!

217日本@名無史さん2012/07/07(土) 19:36:05.45
福原愛「サー」

218日本@名無史さん2012/07/07(土) 21:24:07.47
まろは〜でおじゃりまする。
おーほほほほ!

219日本@名無史さん2012/07/11(水) 06:55:12.33
>>181
ちなみに兵農分離はあくまで江戸期に入ってからの現象。戦国期の兵農分離というのは単なる勘違いだわ

220日本@名無史さん2012/07/12(木) 10:55:38.42
>>181は戦国期に兵農分離されたなんて一言も言ってないと思うが

勝手に相手を自分の仮想敵と勘違いして叩くなよ
恥ずかしい奴だな

221日本@名無史さん2012/07/22(日) 16:33:15.27
一度断絶した鷹司家が復活したのも、
足利将軍か織田信長あたりの意向なんですか?

222日本@名無史さん2012/07/23(月) 09:10:04.80
>>221
鷹司家の所領はそのまま残っていたので
養子を迎えて復活させただけのことでしょう
鷹司忠冬が没し断絶した後所領が没収されるという
ことは起こりませんでしたから

223日本@名無史さん2012/08/01(水) 10:19:01.46
残り四摂家としては
鷹司家が断絶してくれたままなら
ライバルが減ってよさそうだわん

224日本@名無史さん2012/08/01(水) 12:30:05.82
>>223
むしろ残り四摂家は自分のところの子息を鷹司家の養子にしようと必死だよ
家督を継げない男子は出家させるしかなかったから
五摂家のどこかが断絶すれば自分の血筋でほかの摂家を独占しようとした

225日本@名無史さん2012/08/01(水) 13:28:18.30
皇子の出番ですよ
後の近衛も一条も

226日本@名無史さん2012/08/01(水) 15:22:30.06
九条の子弟が取り立てられることで清華として両度にわたり再興した松殿家もすぐに断絶→1000石の所領は九条の物に…
ってどんな裏技だよって話だが何故九条だけが松殿再興に熱心だったのか

両家の初代は同母兄弟でもないのだから近衛にも機会はあったはずなのに…

また九条は維新後も分家として(明らかに松殿の名を意識した)松園家などを立てている

それに再興そのものが二度も許されたのも謎

227日本@名無史さん2012/08/01(水) 15:54:10.78
>>226
江戸時代に松殿家が再興された時の将軍は徳川家光
松殿道房の母は家光の異父姉豊臣完子(関白九条幸家北政所)だったから
将軍の御身内として特別に認められたものなんじゃないのか

明治維新後は家督を継げない男子が未婚出家する慣習がなくなったため
他の家でも分家を起こしているよね

228日本@名無史さん2012/08/01(水) 21:44:49.19
松殿は政治的にはアレだったけど、
基房が摂関家の故実を完成させたという事実は近衛・九条家でも認められていた事実。

229日本@名無史さん2012/08/03(金) 20:58:24.23
長崎円喜
「恐れながら、それを申さば都の公家衆は如何でございます。
我ら武家よりもさらに広大な土地を有し、官の長を一手に独り占めしております。
その公家ばらが北条を出過ぎた者よと逆恨み致し悪党共を唆してのこの騒ぎにございます。
高資をお責めになる前に悪党・楠木をその楠木を操る公家や先帝をお責めになるべきかと存じまする」

230日本@名無史さん2012/08/12(日) 07:09:29.78
 

231日本@名無史さん2012/08/21(火) 08:56:56.09
福原遷都のとき、公家のみなさんも引っ越そうとしたの?

232日本@名無史さん2012/08/21(火) 14:29:28.43
ググれ低能

233日本@名無史さん2012/08/31(金) 00:31:59.10
 

234日本@名無史さん2012/08/31(金) 16:02:09.41
日本の男には自我が無いんだよな
女からATMにされるだけの単なるロボット
それで良いと甘んじているし、状況を認識するだけの自我も無い

情けないと叩かれてもヘラヘラ
繁華街の九割が女向けの店でもヘラヘラ
金が使えなくてもヘラヘラ
自殺に追い込まれてもヘラヘラ

んで女の子大好きフェミニズム最高!過労死最高!
自殺最高!女性専用車最高!とヘラヘラヘラヘラ

もうええわ

235日本@名無史さん2012/10/02(火) 16:40:34.96
.

236日本@名無史さん2012/10/09(火) 21:46:48.47
 

237日本@名無史さん2012/10/13(土) 13:15:31.10
源頼朝が政権樹立して以降、建武の新政期以外はずっと武家政権なんだよな
公家、やること無し

238日本@名無史さん2012/10/14(日) 08:20:04.85
いつの歴史観だよ

239日本@名無史さん2012/10/14(日) 14:53:06.77
わいろをもらって任官の斡旋とか、貧乏なだけに忙しいよな

240taka2012/11/02(金) 11:59:47.25
>>209
同感。ただ所謂蹴鞠とかそういうものだけでなく、色々な特権というものがあったみたいだね。もっとも
そんな特権を有する公家自体ごく一部なんだが。

摂家筆頭近衛家では、領地からの収入二千石他領地伊丹の酒造組合からの運上金が毎年2,000両あっ
たそうだし、その他油等も献上されていて、将軍家や島津家等大藩からのお手伝いで潤っていた。

公家社会の中で一番金持ちだった清華家の村上源氏久我家。当道座、つまり盲人による実質金貸集団の
官位の任命や寺社奉行の手前の採決権等管領権による支配による財産、そしてそれに基づく武家や商家
への金貸しで莫大な財産を保有している。

それ以外にも、暦道や全国の陰陽祈祷の免許を交付する権利を有する土御門家や、神社の支配権を有し
ている吉田家等はかなり裕福だったみたいだよ。

241日本@名無史さん2012/11/09(金) 09:26:31.41
世襲親王家の当主は、なにか仕事があったのかい?

242日本@名無史さん2012/11/09(金) 10:15:34.88
>>241
御三家、御三卿と同じ。血統のプールだろう。
頑張って子孫を残すのが最大の仕事かな。

243日本@名無史さん2012/11/09(金) 10:37:20.86
親王家とは言っても、宮中席次は関白>准三宮>太政大臣>左大臣>右大臣
そして、やっと親王だ。清華の右大臣より下なんだから、
光格天皇の嘆きも分かろうと言うものだ。

244日本@名無史さん2012/11/09(金) 15:09:22.30
御三家は独立した大名だよ。
席次と仕事も違うし。

245日本@名無史さん2012/11/09(金) 17:09:34.77
>>244
だから家康は秀忠の血統が絶えるのを心配して御三家を創設させたんだろう。
つまり、将軍予備としての血統を絶やさない事が御三家の仕事。
御三卿は吉宗が、自分の子孫で将軍職を独占しょうとして、
独立させずに身内と言う存在で、御三家に対抗しただけ。
御三家は独立した大名とは言っても、大老や老中になって仕事をする訳でもなし、
譜代大名や、中世以降からの地生えの外様大名とは存在意義が違うんだよ。
親王家も家禄を貰って独立しているからね。理解できた?

246日本@名無史さん2012/11/09(金) 18:49:26.88
>>245
御三家は水戸・紀伊・尾張と国を与えられて藩主としての仕事があったよ。
将軍の御身内として時には将軍に直接意見することもあった。
大老や老中は純粋な家臣である譜代大名の仕事だろ。
御三卿こそ江戸城内に屋敷を貰って住み、藩主としての仕事すらなく、
将軍家が絶えた時に御三家より優先して将軍を出すだけの家だった。

247日本@名無史さん2012/11/09(金) 21:02:54.58
>>246
大名なんだから領国を経営してゆくという仕事は当たり前でしょう。
じゃなくて、そもそもの立藩のき経緯を言っている訳。
大名に付随した諸々の立場があるのは当然だが、
一番重要なのは将軍職を継ぐ資格を有している事、つまりは血統のプールだ。
だからこそ尾紀両家は将軍世子と同じ従二位権大納言の官位を持っている。

248日本@名無史さん2012/11/09(金) 22:03:54.43
>>245
譜代はともかくとして、外様は「大老や老中になって仕事を云々」
そのものだろ?

249日本@名無史さん2012/11/09(金) 22:31:29.54
>>248
外様大名の老中も何にかいるし、若年寄や寺社奉行クラスにも外様大名はいる。
一番有名なのは真田幸貫だろう。まあ幸貫の場合は楽翁の息子と言う事で、
水野忠邦が改革の権威付けに抜擢したようだが。

250日本@名無史さん2012/11/09(金) 22:34:47.70
何にか=何人かの間違い。失礼した。
それに、ここは公家・朝廷を語るスレだよね。

251taka2012/11/10(土) 10:04:37.73
>>241
どうでしょうね〜 天皇や朝廷と違い、>>242さんの言うとおり血統のプールだけですから特に
仕事というものがなかったのでは無いでしょうか? 私が例に上げた摂家筆頭の近衛家も、結局
の所領地運営の収入ですからね。もちろん酒造商家の運上金も含めて。

ただ婚姻関係におけるお手伝収入は多かったのでは無いでしょうか? 近衛家のお手伝では、
『看聞秘鈔』によると基熈公は宝永二年に江戸を下向する時、天英院から二千両の支度金が送ら
れているそうですし、天英院の弟家熈公が太政大臣に就任して以降は内々で毎年三百両送られてい
るそうです。

その他、島津家からも毎年二百石・五百両が送られている他、津軽家からも千石クラスが送られて
いるそうです。

それを考えると婚姻関係があればそこそこの収入があったのかも知れません。

以下のページが詳しいです。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=29579

>>246さん

私も>>245さん・>>247さんの意見と同意見です。ようは家康と吉宗の方法の違い、つまり血統の
プールをおこなう方法が藩主として各地に配置して仕事をさせるか? それとも御三卿として捨扶持
を与えて江戸に置いておくか? ただそれだけの違いだと思います。

252日本@名無史さん2012/11/10(土) 20:45:39.02
>中世以降からの地生えの外様大名
大藩だと島津以外にだれがいるんだよ?

253日本@名無史さん2012/12/02(日) 02:26:01.07
 

254日本@名無史さん2012/12/05(水) 13:39:35.60
>>247
徳川将軍はたまたま頻繁に絶えて(徳川将軍15人中4人は子無し)
御三家や御三卿に出番が回ってきたものの普通は滅多なことでは廻ってこない。
家康一人で男子10人作ったんだから、家光あたりが男子10人作れば御三家が将軍になる可能性ほとんどなし。
御三家に求められたのは親藩大名としての領国経営(江戸への守り)であって
血筋は本家が守っていれば問題なし。
ただし領国すら与えられなかった御三卿になると、明らかに
これからも将軍が頻繁に絶える可能性があるとみられて作られたんだと思うけどね。

255日本@名無史さん2012/12/05(水) 13:51:56.43
家光がホモになるとは、さすがの東照大権現でも予測不可能だった。
御三卿成立のころは、尾張家では成人する方が圧倒的に珍しいという惨状。
家斉・家慶の子息もバタバタ死んでる。

256日本@名無史さん2012/12/12(水) 13:14:07.18
>>254
論旨が変だし、矛盾しているぞ。日本語の勉強の必要ありだな。

「血筋は本家が守っていれば問題なし」と言いながら、
「徳川将軍はたまたま頻繁(この言い方もおかしい)に絶えて」とはどう?

頻繁に絶えて本家が守れないから問題があるんだろう。

「普通は滅多なことでは廻ってこない」と言うが、頻繁に絶えたから
頻繁に廻って来たんだろう。違うのか?

家康が男子を10人(正確には11人)作ったと言うが、まともに育ったのは5人。
しかも秀康系に継承権が無いとすれば4人だ。人生50年と言われていた当時、
生存率は現代とは比べものにはならない。
その上、秀忠は正妻に頭が上がらず、男子はたった2人(正之は論外)なのに
竹千代派と国松派に分かれての家督争いだ。家康ならずとも行く末は心配になる。
だから家康は血統のプールの必要性を人一倍感じていたはずだ。
幸い、義直・頼宣・頼房の3人は秀忠と年齢も離れており、継承権を争う可能性も低く、
安心して血統予備軍としての地位を与えたのだろう。
ただ、江戸や将軍家への藩屏としての領国経営も重要だつた事は言うまでもない。

257日本@名無史さん2012/12/12(水) 14:43:54.01
>>256
家康が、秀忠系は間違いなく絶える、だから弟たちから将軍出せ
と遺言した記述もないのにえらい長文頭爆発だなw

ちなみに水戸家が徳川を名乗ることを許されたのは家康も秀忠も没した
随分後の話だしw
全然知らないみたいだけど、頭大丈夫?

258日本@名無史さん2012/12/12(水) 14:48:00.36
だれか松平忠輝のことも思い出して上げてください。
将軍綱吉の時代まで生きてたんだよ。

259日本@名無史さん2012/12/12(水) 16:11:35.78
>>257
どこに秀忠系は間違いなく絶えるからなんて書いてある?
結局忠長は兄に誅され、家光一人になった時点で秀忠系が絶える可能性はあった。
二人の幼少期に家督争いの萌芽を見た家康はだから行く末を心配したと書いたんだ。
それと誰が水戸家が徳川を名乗った時期を言った?
称号は松平であったとしても、頼房も慶長年間には20数万石で水戸に封じられて、
血統予備軍としての地位は与えられている。
お前こそ頭大丈夫か?バカはバカらしくおとなしくしていろよ。

>>258
まともに育ったと言うのは長生きした事じゃない。
領国経営の出きる将軍や大名として子孫を残し、生涯を全う出来た者と言う意味だよ。

260日本@名無史さん2012/12/12(水) 17:20:21.27
ご高説はごもっとも。ただ、スレタイ良く読め。

261日本@名無史さん2012/12/13(木) 07:25:18.58
>>259
松平はたくさんいるよ、家康は異父弟や娘の孫にまで松平を与えてたしね。
松平を名乗って水戸に封じられれば将軍になる権利を与えられたって馬鹿かw
忠長が自害させられたのも家康没後だろう、時系列が無茶苦茶だ。
家康は忠長が殺されるのを見越していたというお馬鹿な回答だが、
それならさっさと忠長を祖父の手で壊滅させればいいわけで、生かしている時点で
忠長を家光に男子ができなかった場合の有力な血のスペアとみていたことで間違いない。

スレチの駄文を長々長文投稿する頭のおかしさだから仕方ないが。
他人を巻き添えにするのもいい加減にしろ。

262日本@名無史さん2012/12/13(木) 12:10:58.95
松平といっても、久松系や娘の孫や歴代分家の十八(だったかな?)松平と実子の
頼房では立場が全然違うと思いますよ。
家康に確立した御三家構想があったかどうかは分かりませんが、子供達のうち、
出来のよさそうな末の3人に、東西の外様大名への押さえとして大封を与えて
藩屏とすると同時に、>>259さんがいうように血統のプールの役目も担なわせた
んじゃないでしょうか。
忠長の事も、殺されるのを見越してと言っておられますが、そんな風には書いてないと思いますよ。
出来の悪い(と言われていた)兄と出来の良い(同)弟をそれぞれ応援する重臣がいて、
しかも両親は弟を気に入っている(同)となると、将軍職を末代まで続く事をあれだけ
執念深く願った家康とすれば、限りなく不安ではなかったでしょうか。
勿論忠長も有力な血のスペアであると思いますが、あのような立場の兄弟の関係は、
お互い他人以上に憎みあう立場になる可能性が大で、家康もそこを心配したのではないでしょうか。

263日本@名無史さん2012/12/13(木) 13:15:31.57
半端な知識でスレ違いな話題を必死に語るスレですか?
あっちへ逝ってください

264日本@名無史さん2012/12/13(木) 13:18:25.92

265日本@名無史さん2012/12/13(木) 13:26:26.95
>>262
結城秀康(晩年に松平に戻っている)は尾張・紀伊・水戸より大封を得ていた
ということでお前さんの話だと松平を許されただけの水戸家より将軍に近かったと言える
簡単に論破されたな

どっちにしろスレチな

266日本@名無史さん2012/12/13(木) 13:41:41.35
>>265
秀康は出生時の問題もあり、秀吉の養子に、また結城家の養子となり、
将軍レースから早くに脱落。未来の跡継ぎなら、信康亡き後二男の秀康を
他家に養子になんか出さない。松平に復しても越前系は問題外。
簡単に論破されたな。

267日本@名無史さん2012/12/13(木) 14:00:32.47
>>266
お前、邪魔だよ

268日本@名無史さん2012/12/13(木) 16:49:41.66
>>266
・松平を名乗っている(秀康・家康の異父弟・家康の女孫も名乗ってるが?)
・大封を得ている(秀康のほうが多い)

お前が家康が水戸を将軍スペアと決めていた
根拠として挙げた内容は完全に論破されているのにこっちは無視かw
所詮wikiレベルの頭だからな。
論破された内容についてはスルーを決め込み。

それにスレチだと言っているのに書き続ける無能w

269日本@名無史さん2012/12/13(木) 21:51:44.79
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270日本@名無史さん2012/12/13(木) 21:52:19.23
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271日本@名無史さん2012/12/13(木) 21:53:06.78
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                               糞スレ終了^^
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272日本@名無史さん2012/12/15(土) 12:30:46.52
戦国時代までは座の管理や関所収入といった商業からの収入があったけど
武士層が楽市楽座、関所の撤廃を推し進め、商業すらも武士に押さえられてしまった

273日本@名無史さん2012/12/28(金) 23:01:30.86
江戸時代の天皇が短命すぎた。
若くして上皇になってすぐ崩御の繰り返し。

274日本@名無史さん2013/01/01(火) 20:26:53.97
後水尾天皇とか霊元天皇とか長命なのもいるけどな

275日本@名無史さん2013/01/06(日) 14:05:47.16
平安時代の天皇も10代〜30代で死んでるのが多いし
もともと昔の人の寿命ってそんなもんじゃね?
ちなみに歴代天皇で長寿なのは(軒並み100歳以上の13代成務以前を除く)
1番は昭和天皇だが、2番目は江戸時代の後水尾天皇。

276日本@名無史さん2013/01/06(日) 14:14:15.37
法皇か上皇がだれか残っているか、
摂関家などの強力な後ろ盾があればいいけど、
江戸時代中期以降の天皇は、それらがいないね。

277日本@名無史さん2013/01/06(日) 18:43:07.13
>>276
どの天皇のことを言ってるのか知らんが
摂家は五つに分かれていたお蔭で結構長老がいるぞ
江戸時代末期に30年間も関白やってた鷹司政通(享年80歳)とか
幕末に姻戚である薩摩藩に便宜を図ってた関白近衛忠煕(享年91歳)とか

278日本@名無史さん2013/01/09(水) 09:43:42.36
鷹司政通は天皇の意思を無視してるじゃん
尊号事件とか

279日本@名無史さん2013/01/09(水) 10:25:38.02
>>278
尊号事件の時の鷹司家当主は政通の祖父だろ
政通は尊号事件のときわずか2歳だぞ

光格天皇は傍系相続の異端者だったんだよ
後桃園天皇を実父と公称する約束で帝位についたのに
血縁上の父である閑院宮典仁親王を天皇の父として敬えと要求したり
朝廷を守るということは天皇の言いつけを必ず守るということではない
朝廷の立場を危うくするなら天皇をいさめなければならないことも多いから

280日本@名無史さん2013/01/29(火) 10:58:22.23
>>237
こんな小学生レベルの武家中心史観の馬鹿がこの板に居たのが嗤う

281日本@名無史さん2013/01/29(火) 23:01:26.63
3カ月以上前のレスにアンカー付けてるやつも相当なレベルだろw

282日本@名無史さん2013/02/13(水) 09:33:51.65
そりゃこんなとこ、滅多に来るもんじゃねぇーだろw

283日本@名無史さん2013/04/29(月) 22:41:45.49
今出川家って清華家の西園寺家の分家なのに五摂家の鷹司家より家禄が上だけど
力関係はどっちが上?

284日本@名無史さん2013/04/30(火) 01:12:44.86
>>283
もちろん摂家である鷹司家の方が上。
家禄は関係ない。

285日本@名無史さん2013/04/30(火) 09:46:44.79
>>281
過疎板の過疎スレで何言ってんだこの馬鹿

286日本@名無史さん2013/05/01(水) 23:57:03.33
秀吉に関白の座を明け渡した時も無念だったろうが
仮冒源氏の徳川家から偏諱を受ける二条家の当主は
どんな気持ちだったんだろうな

287日本@名無史さん2013/05/02(木) 10:07:38.81
長いものに巻かれろ以外の意味合いはなかっただろ

288日本@名無史さん2013/05/12(日) 20:38:51.86
平安時代以来の摂関職を廃止した
明治政府への恨みが一番大きいのではないかな

289日本@名無史さん2013/05/16(木) 19:40:07.50
>>288
明治政府は公家も華族として厚遇した
摂家は公爵になって収入も安定したから文句なかったんじゃないか

戦後平民に落とされたのが一番答えただろう

290日本@名無史さん2013/05/16(木) 21:23:20.27
家の創立から代々、日本社会において一定の階層にいた公家が
1947年5月に全家がいきなり下層の平民になって何とも言えない気分……と思う

291日本@名無史さん2013/05/21(火) 11:51:26.33
仮に、関ヶ原で西軍が皇族のお墨付きを得て官軍になってたら、東軍は負けたのだろうか?

292日本@名無史さん2013/05/22(水) 07:39:33.28
朝廷と言ったって、当時の家康は菊亭に次ぐ序列第二位なのだが(前官除く)

293日本@名無史さん2013/05/26(日) 15:19:12.87
関ヶ原で西軍が官軍になるという発想がわからん
秀頼に弓を引いたわけでもないし、家康が内大臣だし、なんだかなあ

294日本@名無史さん2013/05/31(金) 23:35:24.30
>289
公家華族はあまり財産がなかったので
金持ちの大名華族や財閥家族と姻戚関係を結んで体裁を保っていたのでは

295日本@名無史さん2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
 

296日本@名無史さん2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
今からでも遅くないから、堂上家については相応の官位を与えて、
外交使節の接遇や儀典の進行を司る政府職員を世襲させたほうがいいと思う。
諸外国の使節も、大納言や参議のような公卿から接遇を受けたほうが、
有難味を感じるだろう。

297日本@名無史さん2013/09/09(月) 11:03:06.69
>>294
公家華族と大名華族で収入が違ったわけではない(爵位による違いはある)
大名と言えども辞官納地で江戸時代の蓄えは明治時代に引き継がれなかったのだから
江戸時代の公家と大名の収入格差が明治時代にもそのまま持ち越されたというのは間違い
財閥系とは旧公家も旧大名も姻戚関係持ってるだろ
財閥系は華族に取り立てられていったし基本的に華族は華族同士で結婚するし

298日本@名無史さん2013/09/09(月) 21:23:17.38
でも、明治初期に徳大寺家から住友に養子が行ったというのはある意味ミステリーだな。

299日本@名無史さん2013/09/12(木) 15:11:12.07
>>297
前田や蜂須賀、紀州が大富豪華族だったと聞いたことはあるけど公家華族が富豪だとは
聞いたことは無いな。
大藩大名華族の場合、藩の財政とは別に相当な家産があったんじゃないのか?

300日本@名無史さん2013/09/15(日) 09:49:36.55
今の世の中でも、堂上家はそれぞれの家格に応じて、皇室の藩屏としての
役割をしっかり果たしてほしい。
堂上家に限って、摂関・参議などの官位を認めてもよいのではないか。

301日本@名無史さん2013/09/15(日) 13:02:55.47
見てはいけないものを見た気がする

302日本@名無史さん2013/09/15(日) 14:18:48.07
見てはいけないものを見たのだよ

303日本@名無史さん2013/09/15(日) 15:48:29.56
>>299
土地や建物、コレクションなんか多かったもんね。
大大名の末裔がそういう土地で不動産、ディベロッパー、ゴルフ場経営などなどやってるな
伊達家のようにコレクションにかかる相続税が払えずに売り払って散逸させたケースもあるけど

その点公家華族は家に伝わるものしか財産と呼べるようなものは持ってなかったからな。

304日本@名無史さん2013/09/20(金) 16:42:26.69
>297
明治期に領地の返上と引き換えに債権が支給されたので
江戸期に大きな大名だったところは多額の債権を手にしたから
裕福だったのだろう。旧公家は江戸時代の禄が少なかったので
あまり財産はなかった。

3053042013/09/20(金) 17:18:08.22
訂正
明治初期に旧大名や旧公家は家禄におうじて金禄公債という債権を受けとったが
家禄の大きかった大きな旧大名は多額の債権を受け取ったけれど
家禄の少ない公家は受け取った債権の額が小さかったので
それほど資産はなかったということだな

3063042013/09/20(金) 20:03:13.04
連投スマン
その明治初期の家禄は江戸時代の石高で決まった。
だから江戸時代の石高と明治以降の保有資産の額には連続性があるということ

307日本@名無史さん2013/10/19(土) 06:49:07.10
皇大神宮の遷御で旧皇族とともに五摂家当主と徳川宗家当主が参列していて
ちょっと感動した。

308日本@名無史さん2013/10/20(日) 12:59:43.56
>>307
そんな映像あった?
見たかったなあ。

309日本@名無史さん2013/10/20(日) 20:35:20.86
>>308
映像ではわからんけど、神宮の遷御配信で解説者が言ってる。

310日本@名無史さん2013/10/20(日) 21:33:09.95
ありがとう。
今見てみました。

旧宮家の紹介の中で「島津家」と言ってるのはなんだろうか?

311日本@名無史さん2013/10/20(日) 21:46:47.86
島津家には昭和天皇の皇女が嫁しているから、その方のことじゃないのかな。

312日本@名無史さん2013/10/20(日) 21:51:19.50
おそらく貴子内親王(島津貴子様)の降嫁先ということで親族代表として
参列していると思われますな。

313日本@名無史さん2013/10/21(月) 22:28:24.29
なるほど。そうでしたね。
ありがとうございました。

314日本@名無史さん2014/01/23(木) 09:56:02.06
あげ

315日本@名無史さん2014/01/29(水) 13:07:03.33
宗教から歴史・皇室問題・社会問題まであらゆる情報の宝庫!

本日の講義は「天皇を否定する鬼塚英昭を破す」です。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

316日本@名無史さん2014/02/14(金) 00:57:34.74
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317日本@名無史さん2014/02/14(金) 00:58:08.90
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318日本@名無史さん2014/02/14(金) 01:10:27.97
北畠親房
観修寺晴豊
近衛前久

319 【だん吉】 2014/03/01(土) 22:38:09.84
やはり猪熊少将教利最強だな。

320日本@名無史さん2014/07/05(土) 13:29:12.53
たまに上げ

321日本@名無史さん2014/07/05(土) 18:12:21.91
今度の大河ドラマは幕末の女官若江薫子でいこう

322日本@名無史さん2014/07/21(月) 01:22:47.74
鎌倉時代や室町時代は朝廷も結構力もっていただろ
戦国時代でほとんど無力化したが

323日本@名無史さん2014/07/23(水) 18:53:08.30
江戸時代も徳川将軍家や各大名家の姻戚として
そこそこ影響力持ってたぞ

324日本@名無史さん2014/07/24(木) 00:40:20.68
今谷明は義満時代が朝廷権力の下限だったと論じてたな
その後は足利が混乱低迷している間に徐々に権力を取り戻しつつあった

325日本@名無史さん2014/07/24(木) 21:59:07.20
随分懐かしい名だなぁ
九十年代には2chがなかったから問題ないが
今だと小和田並みに、専門書を一冊も読んだ事の無い厨坊からフルボッコされるだろうね、この人
本を一冊だすごとに必ず数箇所事実誤認を書き込まないと気がすまない人だからw

326日本@名無史さん2014/12/01(月) 19:58:44.45
 

327日本@名無史さん2015/01/11(日) 03:15:53.40
後白河と頼朝に突然に地頭が置かれて、荘園とか国衛の役人は怒らなかったのかな

328日本@名無史さん2015/01/12(月) 09:39:23.14
大河では「葵三代」で江戸初期の朝幕関係についてよく描かれてたね。
二条昭実卒倒の場面とかはありえんけど。

329日本@名無史さん2015/01/24(土) 22:56:28.87
秀吉のころの摂関家って

近衛家→追放
鷹司家→大納言
九条家→前関白、中将
一条家→前関白
二条家→前関白

家康が関白復帰をさせず、豊臣政権が続いてたら鷹司家と九条家だけが残って、清華家に格落ちとかあったのかなあ

330日本@名無史さん2015/02/01(日) 00:04:26.11
平安・鎌倉・室町では一次史料といえば公家日記だが、江戸時代でもそうなん?

331 【大吉】 【813円】 2016/01/01(金) 14:25:59.32
テレ東の信長の時代劇は近衛前久視点なんだな。
初めてだな。公家視点の戦国時代劇は。

332日本@名無史さん2016/01/03(日) 17:10:24.58
>>331
見た

近衛前久が近衛太閤と呼ばれていたけど、太閤と呼ばれるのは秀吉が関白になってからじゃないのかな?
あと武田征伐前の評定に北条氏政がいたんだが、上洛してたっけ?
それと誰か忘れたけど大臣以上の公家を〜卿と呼んでなかったか?

333日本@名無史さん2016/01/07(木) 15:54:56.47
日野家用人・垣見五郎兵衛だが、おてまえは?

334日本@名無史さん2016/01/07(木) 21:27:59.33
>>329
その場合は豊臣家で摂関独占だから、実質清華家と同じになるかもね。

335日本@名無史さん2016/01/07(木) 21:53:30.38
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

336日本@名無史さん2016/01/07(木) 21:53:58.82
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

337日本@名無史さん2016/02/01(月) 08:13:41.81
あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

338日本@名無史さん2016/05/02(月) 02:16:58.50
江戸時代には京都の町人が下官人になりたがったし、希望者は大概任官して貰えたそうだけど。

下官人になると給料貰えたの?
それとも現代のロータリークラブやライオンズクラブみたいに、得にはならないけど名誉だからと任官を希望したの?

339日本@名無史さん2016/05/02(月) 13:03:30.37
九条ロータリクラブ

340日本@名無史さん2016/05/02(月) 13:50:55.13
各地の神職や、名刀造る鍛冶職人とか国主級の官職貰ってたりするけど、
「おれは正式に拝領した◯◯守だ、ガハハ」
ものすごい名誉だったろうな。

341日本@名無史さん2016/05/03(火) 02:54:43.24
>>340
大名とタメ口利けたのかな。

342日本@名無史さん2016/05/03(火) 03:09:27.60
偉く立派な農家もいたんだよ

調べてみたの?このような偉い農家や百姓?のこと

343日本@名無史さん2016/05/03(火) 03:28:35.03
ここは農民のスレじゃねんだよ。

344日本@名無史さん2016/05/03(火) 09:40:56.92
農家にも、ヘタな大名よりも名門に繋がる庄屋も居たからな。

一応、それぞれの藩で生活に一定の配慮されているな。

345日本@名無史さん2016/05/03(火) 09:46:33.70
なぜ大名より、農家の方が上なんだ?
と聞いているんだけど

346日本@名無史さん2016/05/04(水) 13:28:15.53
新興大名より歴史が古いからじゃないか?
維新後の薩長勲功爵位よりもそれ以前の家のほうが名門に見えるのと同じ
究極は天皇家だからな歴史の古さでは
歴史の長さで比類しそうな家柄は諏訪氏や出雲国造家や海部氏あたりか

347日本@名無史さん2016/05/04(水) 13:46:40.88
能登の時国家なんてのがあるしな。

348日本@名無史さん2016/05/04(水) 13:56:33.16
ま〜妖怪だもんな

349日本@名無史さん2016/05/04(水) 15:48:37.72
時国家(平関白時忠流)
那古屋家(名超北条流)

天下人の一族を領内で保護していた
前田中納言家こそ最強武家w

350日本@名無史さん2016/07/18(月) 15:46:39.41
ここの板面白いね。
御公卿さんの御家って跡取りがいないと絶家になるけど、
宮家の場合は、当主不在の場合があるみたいだね。
領地、宮邸及び家臣団は温存されて、新しい宮様のお出でを待つみたいだね。
桂離宮を拝観する際に、ちょっとだけ調べていたらそんなことに気が付いた。

門跡寺院や比丘尼御所も無住の場合があったそうだけど、
僧籍にある見であれば、子どもが相続するわけじゃないから
門跡がいないのはなんとなくわかるんだけど、宮家の場合は何故なのかな?

351日本@名無史さん2016/07/18(月) 15:47:41.16
見→身

352日本@名無史さん2016/07/18(月) 19:20:40.80
門跡尼門跡はむしろ御無住状態の方が多い時期もあるね。
親王、摂家子女に該当人物がいないと入室できないから。
四親王家が絶家とならないのは御三家御三卿が絶家とならないのと
無関係ではないと思う。絶家にしない代わりに新家も建てない。

353日本@名無史さん2016/07/18(月) 19:31:15.11
徳川御三家は当主不在はなかったが、御三卿は明屋敷が普通にあったな。
あくまで本家を支えるためだけの存在だからか。

354日本@名無史さん2016/07/19(火) 01:07:14.30
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

355日本@名無史さん2017/04/02(日) 12:59:27.16
江戸時代の准尼門跡寺院って、伊勢の慶光院のほかはどこどこ?

356日本@名無史さん2017/04/04(火) 22:46:06.12
記憶で書くけど
熱田の誓願寺、長野の善光寺大本願かな?

357日本@名無史さん2017/04/04(火) 22:48:33.89
確か三尼上人で門跡ではないかも。

358日本@名無史さん2017/04/07(金) 18:16:34.52
>>350
江戸時代の宮家で当主不在が多いのは当主の夭折が続いたからだよね
そのたびに天皇家から養子を貰ってくるんだけどその幼主がまた夭折して
次の養子が来るまでに時間がかかる
尼門跡寺院も幼主が夭折して次の皇女が来るまでに時間がかかる
門跡寺院は無住職は少なかったんでは
夭折もいるがなぜか異常に長生きな門跡がいたりする

359日本@名無史さん2017/07/20(木) 18:46:02.69
江戸時代の人口比率


公家・神官・僧侶:1.5%

武士:7%

百姓:84%

町人:6%

穢多・非人:1.5%

360日本@名無史さん2018/01/30(火) 16:53:03.18
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361日本@名無史さん2018/07/12(木) 17:16:39.54
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